「くにさき……ゆきと……」
「……………………」
佳乃ちゃんは川べりに座って、服の端っこを持って水を絞っている。さっき川へとまっさかさまに落ちちゃって、びしょびしょになってしまったからだ。青い髪からも水が滴り落ちて、小さな水たまりがあちこちにできている。
「往人さん、っていう名前なんだぁ……」
「……………………」
けれど佳乃ちゃんの意識は、びしょびしょになった服にも、滴り落ち続ける川の水にもなく、ただ、颯爽と現れて颯爽と消えた、「黒い人」……もとい、人形遣いの往人さんへと向けられていた。ぽけーっと口を半開きにしたまま、往人さんの去った方角にある空を見つめている。
往人さんは歩き出した後、あっという間にその姿を消した。後で僕が商店街を見てみても、そこにもう彼の姿はなかった。
「ぼく……また、会えたんだねぇ……」
「ぴこ」
「そっかぁ……ポテトが連れてきてくれたんだねぇ。ありがとうだよぉ」
佳乃ちゃんはうれしそうな表情を浮かべて、濡れたままの手で僕の頭を撫でてくれた。その手からひんやりとした冷たさと湿った感触が伝わってきて、いつもとは違う気持ちよさがあった。
「でも、ハンカチって何のことかなぁ?」
「ぴこっ、ぴこぴこぴこぴこ」
「えぇっ? そんなことがあったのぉ」
「ぴっこり」
「そうなんだぁ。ポテトは賢いねぇ。ぼく、ハンカチが落ちてたなんて気付かなかったよぉ」
僕と佳乃ちゃんは、何故かこんな風にしてちゃんと会話が成立する。僕は「ぴこぴこ」と言っているだけだけど、佳乃ちゃんはそれを正確に聞き取って、ちゃんと返事をしてくれる。どうしてかは分からないけれど、とりあえず、僕と佳乃ちゃんの心がつながっているということにしておいた。
「う~ん……でも、びしょびしょになっちゃったよぉ……」
「ぴこ……」
「とりあえずお姉ちゃんには、間違って川にどっぼーんしちゃったって言おうかなぁ」
「ぴっこり」
「うんうん。それがいいよねぇ。お姉ちゃんもきっと、それで納得してくれるよねぇ」
にこにこ笑顔で頷いて、佳乃ちゃんはまだずぶ濡れのまま立ち上がった。
「そろそろ帰らないと、心配するからねぇ」
「ぴっこり」
僕にそう声をかけて、佳乃ちゃんは歩き出した。
「う~……服がとっても重いよぉ……」
いつもよりも、歩くのがちょっとつらそうだった。
「でもぼく、どうしてあんなところにいたのかなぁ?」
「ぴこ?」
帰り道、佳乃ちゃんが突然そんなことを口にした。僕は佳乃ちゃんが何を言い出すのかと思って、近くで足を止めた。
「確かねぇ、水瀬さんの家で二人と一緒に勉強して、それから家に帰るはずだったんだけど……」
「……………………」
「気が付いたら、橋の上にいて……どうしてだろうねぇ」
「……………………」
「ただねぇ、一つだけ覚えてることがあるんだよぉ」
「ぴこ?」
佳乃ちゃんはそう言うと、右腕に巻き付けられた黄色いバンダナに再び目をやった。
「それはねぇ」
「ぼくがねぇ、空に向かってこっちの手を伸ばして」
「ふわふわ浮いてる、鳥の羽を掴もうとしてたこと」
バンダナを見つめる佳乃ちゃんの目は、どこか遠くを……空の向こうの、ずっとずっと遠くを見つめているようだった。身体はここにあっても、心はまったく別の場所にある。確信を持って、そう言いきることのできる表情だった。
「どうして鳥の羽だったのかなぁ?」
「ぴこぴこー」
「むむむ~……謎が謎を呼ぶ、まさかのびっくりどっきりミステリーだよぉ」
佳乃ちゃんは腕組みをして、難しい顔つきになって考え始めた。自分の身に何が起きたのか分からず、ちょっと悩んでいるみたいだった。
「……………………」
そう言えば、昨日の朝も「どうしてこんなところにいるのか分からない」なんて言ってたっけ……ひょっとすると、昨日のこととも何か関係があるのだろうか。夢遊病とか、そういう類の病気かも知れない。
「誰かさんがぼくにひょっこり乗り移ってたりしてねぇ」
「ぴこぴこ……」
さすがに、それは無いような……
僕と佳乃ちゃんが商店街のど真ん中で立ち止まって、そんなことを話していたときだった。
「そこでずぶ濡れになって立っているのは……霧島君か?」
多分に咎めの色を帯びた、低い男の声。
「……?」
佳乃ちゃんと僕が振り向いてみると、そこに一人の男の子が立っていた。佳乃ちゃんと同い年か、あるいは、一つ年上ぐらい。背格好や立ち振る舞いから見て、恐らくは上級生の子だろう。全身からどこか近づきがたい雰囲気が出ていて、そこはかとなく、僕は不快な気分になった。
「やはり霧島君だったか……まったく、嫌な予想ほどよく当たるものだ」
「えっと……そこにいるのは、誰かなぁ?」
戸惑ったように佳乃ちゃんが聞き返すと、男の子は「やれやれ」と言わんばかりに首を横へ振って、こう答えた。
「君が通う学校の生徒会長、とでも言えば、御理解いただけるかな?」
「えーっと……もしかして、久瀬会長さん……かなぁ?」
「ご名答。もっとも、それくらいのことは当たり前のこととして知っておいてもらいたいものだが」
男の子……久瀬会長はまったく笑わずに、佳乃ちゃんのことをただ攻撃的な目線で見つめている。僕はそこに、明確な敵意を感じ取った。
「……………………」
学校の生徒会長が、一人の生徒に過ぎない佳乃ちゃんに一体何の用だろう。僕には分からないことだけれども、少なくとも、いいことを言ってくれそうには見えなかった。
「……ふむ。どうやら、まだ解決してはいないようだな」
「えっ? 何がかなぁ?」
「言われなければ分からないか? 君のその右腕に巻かれたものの事だ」
「……これ?」
佳乃ちゃんが腕を上げて、久瀬会長に返事をした。
「夏休みに入る直前にも警告したはずだ。そのバンダナを巻いたまま学校へ来るなら、君は校則違反になるとね」
「えっと……これは、ちょっと外せないんだよぉ」
「それは困った事だな。誰か一人が勝手な理由でルールを壊すと、皆がそれに続く。水は低い方へ流れるものなんだよ」
久瀬会長は腕組みをして佳乃ちゃんを高みから見下ろすような口調で、辛辣な言葉を吐き続けた。
「低きへ流れた水は寄り集まり、薄汚れた水たまりを作り出す……ルールは、そうなるのを未然に防ぐためにある。分かるか?」
「それは……ぼくも分かるよぉ。でも……」
「そこに例外があっては意味を為さない。一つ例外を認めれば、すべてが例外になる。君は今、その例外になっているんだよ」
黄色いバンダナを指さして、久瀬会長は言い切った。
「我々生徒会は、今まで君の行動をある程度黙認してきた」
「……………………」
「君が曲がりなりにも我々の学校の生徒ならば、君自身が自浄作用を発揮してくれる」
「……………………」
「我々は君に、ある程度の期待を寄せていたわけだ」
「……………………」
「だが、君は君自身の間違いを正そうとはしなかった」
「……………………」
「我々が甘い顔をしていることをいいことに、君はのうのうと法を破り続けた。問題を自ら解決しようとはしなかったわけだ」
あくまでも冷たく辛辣な口調で、佳乃ちゃんへと強い言葉を投げつけ続ける。佳乃ちゃんは俯いたまま、何も言い返そうとしない。否。言い返せないのだ。相手が「校則」という完全な「正論」を盾にしている以上、そこへ返す反論はすべて「異論」になってしまうからだ。
「君がバンダナを巻き続ければ、それを真似る者も出る」
「……………………」
「あるいは君のバンダナという事実を盾にして、悪意を持って校則を解釈する者も、遅かれ早かれ現れるだろう」
「……………………」
「どんな強固な要塞も、アリの這い出る僅かな隙間から崩壊する……えてしてそんなものだ」
「……………………」
「君のバンダナは、いわばその隙間なんだ」
「……………………」
「そこから学校を崩壊させうる、危うい隙間になっているんだ」
畳み掛けるように、佳乃ちゃんに強い調子で言葉を浴びせていく。佳乃ちゃんは俯いたまま……けれど、悲しげな表情を浮かべて、拳を小さく震わせている。こみ上げてくる感情を、無理矢理押し込めているみたいだ。
「我々とて、生徒に直接関わりたいわけではない。我々はあくまで、生徒の自主性を重んじるつもりだ」
「……………………」
「穏便に済ませられるなら、それが良策な事は言うまでも無い。我々の学校の生徒なら、君も理解しているはずだ」
「……………………」
「これは、最後通牒として受け取ってもらおう」
「……………………」
「君が『問題を解決する』意志を見せないならば、我々はそれ相応の措置をとる」
「……………………」
「今から、覚悟を決めておくことだ」
そう言うと、久瀬会長は商店街を歩いて立ち去っていった。
「……………………」
佳乃ちゃんはその場に立ち尽くして、拳を小さく振るわせ続けていた。俯いた顔には、やりきれない表情が、浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返していた。
「ぴこ……」
いたたまれなくなって、僕が声をかけると、佳乃ちゃんは僕に寂しげな笑顔を向けて、
「ポテト……ぼくは大丈夫だよぉ」
「ぴこー……」
「こんなのには……もう、慣れっこさんだからねぇ……」
まだ濡れたままの手で、僕の頭を撫でてくれた。
「ふむ……それで、間違って川へ落ちてしまったのか」
「ごめんねぇ。ぼく、おっちょこちょいさんだねぇ」
「それは構わないが、怪我はしなかったか?」
「うん。それは大丈夫だよぉ」
佳乃ちゃんはバスタオルで頭を拭きながら、聖さんに事情を説明していた。シャワーを浴びた佳乃ちゃんはところどころまだ濡れたままで、やっぱり、女の子っぽかった。
「しっかり身体を拭いて、風邪を引かないようにするんだぞ。朝も美坂さんが来て、夏風邪を引いたと言っていたからな」
「へぇー。栞ちゃん、また風邪引いちゃったんだぁ」
「いや。今回はお姉さんの方だったぞ」
「ええっ?! 美坂さんの方だったのぉ?! ぼく、びっくりさんだよぉ」
「私も驚いたぞ。お姉さんの方は風邪一つ引いたことが無かったはずだからな」
聖さんは佳乃ちゃんのために麦茶を用意しながら、朝に訪れた美坂さんの話をしていた。
「だから佳乃。お前も気をつけるんだぞ。今日みたいなことがあっては、私も心配だ」
「うん。ぼく、きっちりきりきり気をつけるねぇ」
「ああ。何かあったら、必ず私に相談するんだぞ。私はいつでも、佳乃の味方だからな」
「うん……お姉ちゃん、ありがとぉ」
佳乃ちゃんははにかんだような笑顔を浮かべて、聖さんの顔を見た。
とっても仲の良い、羨ましい姉弟だと思った。
佳乃ちゃんの黄色いバンダナが、ゆらゆらと穏やかに揺れていた。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。