「わわわっ、離してくださいっ」
芽衣ちゃんが慌てて女の子の手をつかむと、女の子は芽衣ちゃんの髪の毛からぱっと手を離した。芽衣ちゃんは髪の毛の付け根をさすりながら、涙目で女の子を見つめた。
「う~……髪は女の子の命ですよぉ……あいたたた……」
「芽衣ちゃぁん、大丈夫ぅ?」
「はい、なんとか……」
「それより、この子は誰だ?」
岡崎君の言葉に合わせて、僕は突然芽衣ちゃんの髪を引っ張って現れた女の子の姿を見てみた。
「うさぎさんじゃない……」
「うんうん。芽衣ちゃんはうさぎさんじゃないよぉ」
女の子は名残惜しそうに芽衣ちゃんの髪の毛を「じーっ」と見つめながら、口に指をくわえている。見たところ、芽衣ちゃんの半分ぐらいの歳の子に見えた。つまり、まだ幼稚園の年長さんか小学一年生ぐらいの子だ。
「うさぎさん、どこにいったの?」
「うさぎさん……ですか?」
「うさぎさん」
女の子は「うさぎさん」と繰り返すばかりで、具体的に何をどうしたいのかがまったくはっきりしない。岡崎君と芽衣ちゃんは困ったように顔を見合わせて、突然現れたこの小さな訪問者をどう扱うか考えかねていた。
「芽衣ちゃん、この子誰か知らない?」
「えっと……ごめんなさい。ちょっと、知らない子です」
「霧島、お前はどうだ?」
「むむむ~。ごめんねぇ。ぼくも知らない子だよぉ」
「そうか……」
表情を曇らせながら、岡崎君が腕組みをして顎に手を当てた。
「ねぇねぇ、お名前、教えてくれないかなぁ?」
「六さい」
「うんうん。六さいちゃんだねぇ」
「いや……それ普通に年齢だろ」
チョップつき突っ込みを入れる岡崎君に、佳乃ちゃんが首をふるふると横に振って答えた。
「分かんないよぉ。だって最近、おっかなびっくりさんな名前が増えてきてるんだよぉ」
「確かに俺も子供に漫画とかのキャラの名前を付けるセンスは理解しがたいが、それでも『六さい』はないだろ」
「むー。岡崎君、強情だよぉ」
「どっちがだっ!」
突っ込みを入れっぱなしの岡崎君と、ひたすら天然ボケをかまし続ける佳乃ちゃんを傍目に、一人芽衣ちゃんが女の子に話しかけていた。
「えっと……お名前、なんていうんですかっ」
「六さい」
「お名前は? お歳の前にいうものですよ?」
「さいか、六さい」
「さいかちゃん、ですねっ。苗字はどうですか? 上の名前は分かりませんか?」
「しの」
「しのさいか。合ってますか?」
「うん」
あっさりフルネームを聞きだすことに成功していた。すごいなあ。きっと、子供の扱いに慣れているんだろう。
「なーんだ。六さいちゃんじゃなかったんだねぇ」
「さすがにそれはない」
「さいかちゃん、お家がどこか分かるかなぁ?」
「うさぎさん」
「うーん……家のあるところまでは、ちょっと分からないみたいですね……」
「ぴこぴこ……」
とりあえずここまでの状況を整理してみると……女の子は「しのさいか」ちゃん・六歳。さいかちゃんを知っている人は三人の中に誰もおらず、当然、住所なんかも分からない。そしてさいかちゃん本人も、自分がどこに住んでいるかを言うことができない。つまり、この子は……
「……つまりだ。この子は、迷子になってる……ってわけか?」
「そういうことになっちゃうよねぇ」
「どの辺りを歩いてきたのかなぁ?」
「あっち」
僕たちはさいかちゃんのおぼろげな記憶を頼りに、さいかちゃんの住んでいる場所を探し始めた。
「岡崎君、廃品回収はどうしよぉ?」
「どうせ行くところもないし、この子の家か親を探すついでに回るから構わない」
「それがいいですねっ」
岡崎君に代わって佳乃ちゃんががたがたとリヤカーを引っ張りながら、ぞろぞろと四人がかりで街を練り歩く。僕は遅れないようにちまちまと歩きながら、四人の会話に耳を傾けていた。
「うさぎさんといっしょにあるいてきたの」
「……うさぎさんと……ですか?」
「うさぎさん。てをつないでいっしょにあるいてきたの」
「この辺りでウサギを放し飼いにしてる家なんか無かったと思うが……」
「うさぎさん」
さいかちゃんは頑なに「うさぎさん」と繰り返すばかりで、それ以外の言葉はほとんど口にしなかった。さいかちゃんの口調は真剣そのもので、それが嘘とはとても思えなかった。さりとて、「ウサギと一緒に歩いてきた」なんて言葉をそのまま信じるのは、いくらなんでもちょっと難しい。
「うー……うさぎさん、いなくなった……」
そうしているうちに、だんだんとさいかちゃんの表情が曇り始めた。その「うさぎさん」がいなくなったのが、よっぽど悲しかったらしい。
「うさぎさん……」
瞳が潤み始めたかと思うと、泣き出すまでにそう時間はかからなかった。涙をぽたぽたと零して、さいかちゃんは泣き始めた。
「さいかちゃん、大丈夫だよぉ。きっと、すぐに見つかるからねぇ」
「うさぎさん、いない……」
「むむむー……それなら、うさぎさんが見つかるまで、ポテトを抱いてるといいよぉ」
「ぴこ?」
僕は佳乃ちゃんにひょいと持ち上げられて、そのまま、さいかちゃんの手に渡された。
「ふわふわ」
「うんうん。ふわふわさんだよぉ」
「もこもこ」
「うんうん。もこもこくんだよぉ」
僕を抱きしめると、さいかちゃんの涙はぴたりと収まった。さわり心地がいいのか、あちこちをぺたぺたと触って抱き続けている。僕はちょっとくすぐったかったけれど、気に入って抱いてもらえるのなら、悪い気はしなかった。
「さすがはポテトですねっ」
「ポテトはすごいんだよぉ。こう見えて四十八人の騎士を葬ってきた勇者さんなんだよぉ」
「それはまたバイオレンスな過去を持っているな」
もちろん、僕にそんな過去は無い。
「ぼくの大切な友達なんだよぉ」
「ぴっこり」
「お友達、ですかっ」
「うん」
さいかちゃんと一緒に僕の頭を撫でながら、佳乃ちゃんが笑顔を浮かべた。
そのまま僕らは歩き続けたけれど、さいかちゃんの家も親も一向に見つかる気配は無かった。
「どこにいるんだろうねぇ?」
「こりゃまずいな……日が傾きかけてきてる」
岡崎君の言うとおり、あんなに強かった日差しがだんだんと弱くなり始めて、少しずつ空の色が変わり始めていた。もうすぐ夕暮れ時だ。このまま手をこまねいていると、いろいろと厄介なことになる。
「警察に届けた方がいいか?」
「うーん……もし遅くなっちゃったら、そうした方がいいかもねぇ」
「そうですねっ。この間もちょっと怪しい人を見かけましたし、小さい子が一人で出歩くのは危険です」
「怪しい人?」
「はい。保育所の辺りで見かけたんですが……」
芽衣ちゃんは険しい顔つきをして、こう続けた。
「若い男の人が保育所のフェンスの近くにいて、中の様子をじーっと見てたんです」
「むむむ~。それは怪しいねぇ。変質者さんだよぉ」
「いや、ただ単に預けてる子供の様子を見に来た父親とかじゃないのか?」
「そうとも考えたんですが、どうも、あの感じはそうではない気がしました」
「……………………」
もし芽衣ちゃんのいうとおりその男の人が変質者なのならば、狙われるのは間違いなくさいかちゃんのような小さい子だ。増してや一人で出歩いていることを知れば、手を下すまでにかかる時間は一瞬にも満たないだろう。よく考えてみると、とても怖いことなのだ。
「……あーっ! 岡崎君っ、芽衣ちゃんっ、ちょっとこっちに来てよぉ!」
「どうした?」
「どうしましたか?」
その時、佳乃ちゃんがだっと駆け出した。それに続けて、岡崎君と芽衣ちゃんも走り出す。芽衣ちゃんはさいかちゃんの手を引っ張って、二人を見失わない程度にゆっくり走る。
「これ見てよぉ」
駆けていた佳乃ちゃんが立ち止まった先にあったのは、古ぼけてサビが見え隠れする、大きな地図のような掲示板だった。
「町内区分図……なるほど。これで探せば一撃だな」
「しのしのしの……あっ! 見つけましたっ! この辺りですねっ」
芽衣ちゃんはすぐに「志野」という文字を見つけると、現在の位置からその場所へ行くための道筋を導き出して見せた。
「ここから二つ目の角を曲がって、最初の突き当たりで曲がれば、志野さんの家に行けますねっ」
「まさかのどんでん返しだったねぇ」
「ああ。こんなことがあるとは思ってなかった」
「岡崎さん、良かったですねっ」
「ぴこぴこぴこっ」
さいかちゃんを志野さんの家へ連れて行くと、そこには心配した母親が待っていた。方々に電話をかけていたらしい。母親は受話器を持ったまま玄関口へと現れて、そこに立っていたさいかちゃんを見て仰天していた。
「いずれにせよ、無事に解決してよかったな」
「うんうん。一件落着案件終了天上天下唯我独尊だよぉ」
志野さんはさいかちゃんが無事に帰ってきたことにとても喜んで、僕たちにお礼を言ってくれた。その時の安心したような表情といったら、見ているこっちも安心してしまうような、心の底からの表情だった。
「どれもこれも、まだそのまま使えそうなぐらいですねっ」
「大切に使ってもらってたみたいだねぇ」
そして、ほんのお礼代わりにと、もう使わなくなって捨てるつもりだったという不用品――タンスと食器棚、そして、食器や調度品など細々としたものがダンボール二箱分――を引き取って、リヤカーへと載せてくれた。
「これで、店の人にも顔向けができそうだ」
岡崎君は顔を少し綻ばせながら、重みの増したリヤカーを軽快に引いていく。重くはなっていたけれど、その重みはきっとうれしい重みなのだろう。なんとなく、そんな気がする。
「でもぼく、一つだけ気になることがあるんだよぉ」
そんな時、佳乃ちゃんが不意にそんなことを口にした。
「気になること?」
「さいかちゃん、『うさぎさんと一緒に歩いてた』って言ってたよねぇ」
「ああ。うさぎさんうさぎさんって、そればっかり言ってたぞ」
「結局、うさぎさんって何のことだったんだろうねぇ? ホンモノのうさぎさんなのかなぁ?」
「でも……そうなると、『手をつないで一緒に歩いてた』っていうのはおかしくないか? 一緒にいただけならわざわざ『手をつないだ』なんて言わないだろうし」
「不思議だねぇ」
口々に「不思議だ」「なんだったんだ」などと言いながら、僕たちは歩き続けた。
「それじゃ、俺はここで」
「またねぇ」
「岡崎さん、さようなら」
商店街までやってくると、岡崎君はリサイクルショップのある方へと歩いていった。ここでお別れだ。
「霧島さんはこれからどうするんですか?」
「えっとねぇ、お姉ちゃんからちょっとお使いを頼まれてるから、スーパーに行って買い物してくるよぉ」
「そうなんですかっ。わたしもお夕飯の材料を買いに行かないといけないので、一緒に行ってくれませんか?」
「了承ぉ!」
佳乃ちゃんはにっこり笑って元気に返事をすると、芽衣ちゃんと一緒に歩き始めた。
「今日は何を作ってもらおうかなぁ」
「具体的には決めていないんですか?」
「うん。ぼくの好きなものを買って来ていいって言われたからねぇ」
僕は佳乃ちゃんの足元についてとことこ歩いていたけど、その時、不意に佳乃ちゃんの足が止まったのが見えた。
「あれれぇ?」
「どうしたんですかっ?」
立ち止まった佳乃ちゃんの、その視線の先にあったのは……
「祐一君っ! そんなところで何してるのぉ?」
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。