「ふぇ……ふぇぇっ……?!」
「ぜぇっ、ぜぇっ……一体、なんてことしてくれんのよ、あんたはっ……!」
往人さんの発した言葉に驚いて呆けたような表情を浮かべる佳乃ちゃんと、未だに顔の紅潮が収まらない往人さんとが、堤防の上で向かい合っている。僕はその間に立って、二人の様子を交互に見ることしかできなかった。僕自身、あの瞬間に一体何が起きたのか、よく理解しかねていたからだ。
それからしばらく、二人は見詰め合ったままだった。佳乃ちゃんは呆けたような表情のまま、往人さんは両腕で自分の体を抱きしめるようにしたまま、ただ、お互いに向かい合っている。
「ふぇ……?!」
「…………!!」
そんな危うい均衡が、しばらく続いた後のこと。
「ゆ、往人さんって……っ!」
佳乃ちゃんの言葉に、往人さんがより一層強い視線を向ける。
「お……」
「女の人……だったのぉ?!」
「……そうよ。あたしはれっきとした……女よ」
佳乃ちゃんのこの言葉に、あの瞬間起きた出来事のすべてが詰め込まれている気がした。
あの時佳乃ちゃんが繰り出した右腕は、往人さんの……その、「大切な部分」にちょうど当たっていたのだ。それは男の人にはない、女の人特有の部分。佳乃ちゃんは往人さんのことを男の人だと思い込んでいたから、その「あるはずのないもの」に触れて、何事かと思い動きが止まったのだ。
「はぁ……びっくりして心臓が止まるかと思ったわ。こんなの、初めてだし……」
当然、往人さんにしてみればそんな場所をいきなり触られるなんて思ってもみなかったわけだし、この様子だと、今まで誰かに触れられたことも無かったらしい。びっくりして顔を真っ赤にして、それに触れていた佳乃ちゃんを思い切り払い飛ばしたのも、無理もない反応だ。
「ふ、ふぇぇぇ……驚き桃の木三十世紀だよぉ……」
「でしょうね。あたし、あんたの前じゃ男のふりしてたわけだし」
往人さんは頭をぶんぶんと振って、ようやく立ち上がった。そしてそのまま、佳乃ちゃんの傍へ歩いていく。
「あのねぇ……ノったあたしもあたしだけどさ、何でいきなり相撲なんか仕掛けてきたわけよ?」
「えっと……それはっ、スポーツバンザイの時間だったからっ」
「何よその取ってつけたようなネーミングは。嘘付くんならもうちょっと捻りなさいって」
「ううう~……あっさりバレちゃったよぉ」
往人さんの顔を見てみると、そんなに怒っているわけでも無さそうだ。どちらかと言うと呆れたような表情で、佳乃ちゃんのことをじーっと見下ろしている。佳乃ちゃんはまだ驚いたままの表情で、往人さんを見上げている。
「……まー、男だって思い込ませてたこっちにも責任あるかしらね……」
「ずっと男の人だと思ってたよぉ」
「あの鋭そうなあんたのお姉さんが気付かなかったぐらいだもの。あんたが気付かなくてもおかしくないって」
往人さんはひらひらと手を振りながら、佳乃ちゃんから一旦視線を外した。
「でも……ぼく、まだちょっと信じられないよぉ」
「はぁ?! あたしのあれに直接触っといてまだ言うの?!」
「だってぇ……」
渋る佳乃ちゃんに、往人さんははぁっ、と大きなため息を一つついてから、おもむろに手を頭の方へ回した。
「これでも信じられないって言うんなら、あたし知らないから――」
そして、往人さんが見せたのは――
(バサァッ)
「……うそぉ……」
「本当よ」
……背中を覆うのではないかと見まごうほどに長い……長い、長い、とにかく長い、美しい銀色の髪だった。長さで言えば、坂上さんや聖さんのそれよりもさらに長い。色は坂上さんのものによく似ていて、光を跳ね返してきらきらと輝いて見えた。さらさらとした髪は潮風に乗り、小さくゆらゆらと揺れている。
「はぁ……久しぶりね。髪を風にさらすのは……」
髪を下ろした往人さんは、紛れもなく、一人の女性だった。風を全身に浴びて、うっとりとした気持ち良さそうな表情を浮かべている。
「普段は帽子の中に隠してるんだけど……もう性別がバレちゃったしね。これで納得いったでしょ?」
「うん……こんな髪の男の人がいたら、ぼくびっくりしてひっくり返っちゃうよぉ」
佳乃ちゃんも納得がいったようで、ようやく表情に落ち着きが戻ってきた。往人さんはそれを確認すると、地面に置いた野球帽を手に取った。
「やれやれ……この街じゃ、最後まで男でいるつもりだったんだけどね」
髪を手に絡めて巻き取り、そのまま頭の上までくるくると髪を巻きつけながら手の平を持って行く。頭の上に手の平を載せて、その上から被っていた野球帽を被ると、野球帽を持っていた手に「ぐっ」と力を込めてから、髪を巻きつけていたはずの手を帽子から引き抜いた。
「どうやら、そうはいかなくなったみたい」
再び「男の人」の姿へ戻った往人さんが、佳乃ちゃんを静かに見据えた。
「……んー。ま、でも、相手が男の子じゃなくて良かったわ」
「ほへっ?」
「男の子に胸を触られたんじゃ、本気でお嫁にいけなくなっちゃうところだったもん。あー、危ない危ない」
「……………………」
僕は往人さんの言葉を聞きながら、佳乃ちゃんの表情が次第次第に曇っていくのを見ていた。
「むむむー……!」
……いや、曇っているというよりも、どちらかというと……それは、怒っているように見えた。
「んー。でも、女の子にも触られたいもんじゃないわよねー……」
「往人さぁん……」
「……どしたの? なんか、ものすごい表情して……」
「ぼくは……」
「……え?」
「ぼくはっ……!」
「……いや、まさか、いくらなんでも、それは……それはないっしょ?!」
佳乃ちゃんは大きく息を吸い込んだかと思うと、やにわに体を大きくのけぞらせて、
「ぼくはちゃんとした男の子なんだよぉっ!」
……腹の底から響き渡るような大音量ボイスで、往人さんの勘違いを粉々に打ち砕いた。
「……うそ……嘘に決まってるわっ……だって……だってもしそれが本当なら……!」
「ぼくは男の子だよぉっ! 女の子じゃないんだからねぇっ!」
往人さんは佳乃ちゃんを指さしてがたがたと震えながら、「信じられない」気持ちで一杯の面持ちで佳乃ちゃんを見つめた。
「う……嘘よっ! あたし……男の子にあんなことされたって言うわけなの!? そういうことになるの?!」
「そういうことになるねぇ」
「あ……あんたっ……! おめおめとそんなことを……っ!」
別の意味でがたがたと震えながら、往人さんが怒りのあまり握りこぶしを作った。佳乃ちゃんはそれを見てようやく、自分の言ったことは半分正解で、そして半分間違っていたことに気付いた。
「一発思いっきり蹴らせろーっ!」
「はぇぇぇぇぇっ?!」
「それが嫌なら海に放り投げてやるーっ!」
「ふぇぇぇぇぇっ?!」
佳乃ちゃんは怒りの化身と化した往人さんに肩をつかまれてゆっさゆっさと前後に揺さぶられながら、情けない声を上げ続けた。往人さんの眼は今度こそマジだった。さっきの出来事が思い出されるみたいで、眼だけじゃなくて顔全体が真っ赤に染まっている。とにかく、恥ずかしさのあまり沸騰せんばかりの赤さだった。
「なんで男の子なのよぉぉぉぉぉっ!」
「ひぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ?!」
「あんた……どー見たって女の子じゃないのよぉぉぉぉぉっ!」
「ひゃあぁぁぁぁぁぁぁぁっ?!」
「この髪の毛……その声……全体的な雰囲気……やっぱり女の子そのものじゃないのよぉぉぉぉぉっ!」
「ほえぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ?!」
そのまましばらく、佳乃ちゃんと往人さんの絶叫が、海辺の街に木霊した。
「はぁ……はぁ……ぜぇ……ぜぇ……」
「ふ……ふぇぇぇぇ~ん……」
叫びすぎで息切れを起こした往人さんと、揺さぶられすぎで気が遠くなった佳乃ちゃんがお互いに大の字になって倒れて、なんともいえない空間を作り出していた。
「……こ、今回はこれで勘弁したげるわ……」
「ううぅぅ……食べたものが全部出てきちゃいそうだよぉ……」
佳乃ちゃんは顔を青くしながら、えづいているのを必死にこらえているようだ。どうやら真剣に、三半規管にキてしまったらしい。
「口の中が酸っぱいよぉ……うぇっ……」
「……ごめん。ちょっとやりすぎた……」
「胸がむかむかして……ひっくり返っちゃいそう……」
ふらつきながら、佳乃ちゃんが俯く。その顔は青い。さすがに往人さんもやりすぎたと思ったのか、起き上がって佳乃ちゃんへと近づく。
「……苦しい?」
「……うん……ちょっと……」
「……少しだけ、じっとしてて」
往人さんは佳乃ちゃんの胸に手を当てると、静かに目を閉じた。そうして……そのまま、手にゆっくりと力を込めた。佳乃ちゃんは不安げな面持ちで、往人さんがこれから何をしようとするのかを見守っている。
「……行くわよ」
「えっ?」
そう言うと、往人さんが手に一際強い力を込めた。
「わぁっ?!」
「……んっ!」
すると、佳乃ちゃんの体が少し後ろへと飛ばされて、佳乃ちゃんが驚いたような表情を浮かべた。往人さんは佳乃ちゃんの胸に当てていた腕をゆっくりと戻して、はぁっ、っと一つ大きなため息をつくと、再び佳乃ちゃんを見やった。
「気持ちはどう?」
「……はわわぁ……気持ち悪いのが……なくなっちゃった?!」
「上手く行ったようね」
往人さんはにやりと笑って立ち上がると、お尻の砂を払った。
「あたしが人形を動かしてる『力』に少し手を加えてあんたに流したんだけど……割合、効いたみたいね」
「……すごいよぉ……往人さん……ぼくに、魔法を使ったんだぁ……」
佳乃ちゃんはキラキラと輝く瞳で、往人さんを見つめた。佳乃ちゃんの「魔法」という言葉を聞いた往人さんが面はゆい表情を浮かべて、潮鳴りを轟かせる海へと目をやった。
「……魔法、ね。いい言葉だわ」
そうしてふっと笑みを浮かべると、再び佳乃ちゃんのほうへと視線を戻す。
「……さて。ごたごたも片付いたみたいだし、あたしはこれで」
その言葉を最後に、往人さんが堤防を降りようとした……
……のだけれど。
「あっ、待ってっ!」
「……?」
去っていこうとする往人さんを呼び止める声。もちろん――佳乃ちゃんの声だ。
「えっと……」
「……………………」
それから、ややあって。
「……ふーん。悪くない話ね」
「ほへっ?」
往人さんは佳乃ちゃんの手を取って立ち上がらせると、小さく笑って言った。佳乃ちゃんはきょとんとした表情で、往人さんのことをただじっと見つめている。
「そうね……あんたのお姉さんにも、『自己紹介』が必要だし。連れてってもらいましょうか。あんたの家に、ね」
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。