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第五十話「Up-to-date Torment」

「あの声は……」

「うんうん。古河さんに間違いないよぉ」

佳乃ちゃんはそう言うと、前に向かってすたすたと歩き始めた。川名さんは特に急ぐこともなく、その後をゆるゆると歩いて一緒についてくる。僕はどちらにペースを合わせようか迷って少しの間立ち止まったままだったけれど、川名さんのことがちょっと気になったから、川名さんに合わせてゆっくりと歩いていくことにした。

「ぴこぴこっ」

「あれ? ポテト、佳乃ちゃんと一緒に行かなくてもいいのかな?」

「ぴっこり」

「みたいだね。それじゃ、佳乃ちゃんのところまで連れて行ってもらおうかな」

「ぴこー」

僕は川名さんの隣にぴったりと寄り添って、同じペースで歩き始める。

「ポテトが隣にいてくれると、なんだか気分が落ち着くよ」

「ぴこ?」

「うーん……どうしてかは分からないんだけどね」

「ぴこっ」

すたすたと歩いていく佳乃ちゃんをゆっくりと追いかけながら、僕は川名さんとちょっとしたおしゃべりをしていた。といっても、僕は川名さんの言葉を聞いて、簡単な相槌を返すことしか出来なかったけれども。

「でも、さっきの言葉、気になるね」

「ぴこ?」

「怪しい人がいたって言葉だよ。これでまた一つ、気味の悪いことが増えたような気がするんだ」

「……………………」

川名さんが言っているのは、さっき僕の耳にも届いてきた「怪しい人がいる」という言葉に違いなかった。気味の悪いことが「増えた」というのは、聖さんたちと話した「切り刻まれたポスター」「掲示板に突き立てられたはさみ」「何かを掘り返したような跡」といった、ちゃんとした説明のできない不可思議なものたちの中に「怪しい人がいる」という情報が増えたことを意味しているんだろう。

「なんだか不吉だね。今の今までこんなにたくさん説明できないことが重なったことなんか、一度もなかったよ」

「……………………」

「聖さんも言ってたけど……これは、何かが起こる前触れなのかな」

「……………………」

何かが起こる前触れ。僕は川名さんが言ったその言葉に、背中にゆっくりと冷水をかけられたような、言い知れぬ不安な気持ちになった。安心して寄りかかっているものが、少しずつ壊されていくような、例えようもない焦燥感を感じた。

「……………………」

今まで何もなかったこの海沿いの街に、何かが起ころうとしている……そう感じている人は、まだごく一部の人に過ぎない。それはその人たちの思い過ごしかも知れないし、過剰反応を起こしているだけなのかも知れない。現に多くの人は何も変わらず今まで通り過ごしているし、確実に何かが起きる、という確証もない。時間は今までどおり、変わることなく流れている。

「……………………」

けれどもそれは、今までどおりの波風のたたない穏やかな毎日を確実に保証してくれるものだと、誰が取り決めたというのだろう。ただ、何かが起きようとしている前触れを、みんな揃って見逃しているだけなんじゃないか。川名さんや聖さんのようなごく少数の人が、おぼろげながらおかしなことに気付き始めている……そういうことなんじゃないだろうか。

「……ううん。もしかしたら、そうじゃないのかも知れない」

「……ぴこ?」

突然の川名さんの言葉に、僕は立ち止まって顔を上げた。僕が立ち止まったことに気付いたのか、川名さんも一緒に立ち止まる。そして、おもむろに空を見上げた後。

「もしかしたら……何かが起こる前触れなんかじゃなくて」

「……………………」

 

「もう、その『何か』が起きちゃった後なんじゃないかな」

 

そう言う川名さんの表情はどこまでも落ち着いていて、隣にいてただ話を聞いていることしかできない僕よりもずっと、ずっと先を見つめているような気がした。

「……ぴこぴこ」

「ごめんね。ちょっと不安にさせちゃったかな」

僕が無意識のうちに声を出してしまうと、川名さんが心配そうに僕を見つめてしゃがみこんだ。そしてそのまま、前に手を伸ばす。

「えっと……こっちにいるのかな?」

「ぴこっ」

僕は一声鳴いて、川名さんの腕の中に入った。それに気付いた川名さんがさっと僕を抱き上げて、僕は川名さんの腕の中へ抱き込まれる恰好になった。

「うーん。やっぱり、ふわふわしてて気持ちいいよ」

「ぴこー」

「うん。かわいいかわいい」

頬と頬とこすり合わせるようにして、川名さんは僕を抱きしめてくれた。

 

「ええっ?! それ、本当なのかなぁ?」

「私は直接見たわけじゃありませんけど……でも、ふぅちゃんが言っているので、本当だと思います」

それからちょっと歩くと、佳乃ちゃんと古河さん、それに……

「風子がこの風子アイでしかと確認したのです。間違いないでしょう」

天体観測会のときに一緒にいた一年生の女の子・風子ちゃんの姿もあった。三人は一所により固まって、何かお話をしている。一体、何のお話だろう?

「到着到着、っと」

「あーっ! みさき先輩、ごめんねぇ。ぼく、先に行っちゃってたよぉ」

「ううん。気にしない気にしない」

「あっ、川名先輩。こんにちは」

古河さんが川名さんが来た事に気付いて、こちらに顔を向けて朗らかな声で挨拶をした。手は古河さんの胸の辺りで組まれていて、そう言えば前に出会ったときも同じように手を組んでいたっけ、なんてことを考えた。

「渚ちゃんだね。こんにちは。誰かと一緒なのかな?」

「はい。一年生の伊吹さんです」

「こんにちは。伊吹風子です。先輩の方ですね」

風子ちゃんはずずいと前に出て、川名さんに臆せず話しかけた。一年生の子なんだろうけど、どこか堂々としている。

「うん。私は川名みさき。風子ちゃん、って呼んでいいかな?」

「はい。風子はどちらかと言うと呼称にこだわらない性格なので、どう呼んでくださっても構いません」

「うーん。なんだか面白い子だね。ちょっとこっちまで来てもらえるかな」

「はい」

川名さんに呼ばれて、風子ちゃんが歩いて行く。川名さんは風子ちゃんを迎えるように両手を伸ばして、風子ちゃんが来るのを今や遅しと待ちわびている。

「風子ちゃん」

「はい」

「うーん。かわいいかわいい」

川名さんは風子ちゃんを僕にやったのと同じように抱き込むと、そのまま頬を頭に当てた。

「かわいいかわいい」

「……………………」

「かわいいかわいい」

かいぐりかいぐり。

「……………………」

「かわいいかわいい」

「……………………」

かいぐりかいぐり。

「かわいいかわいい」

「……………………」

「かわいいかわいい」

かいぐりかいぐり。

「かわいいかわいい」

「え、えっとっ」

「ふぅちゃん、どうかしましたか?」

「すいませんっ。これ、新手の新人イジメか何かでしょうかっ」

開幕から川名さんにいきなりかいぐりかいぐりされまくられたことに危機感とか違和感を感じたのか、たまらず風子ちゃんが声を上げた。古河さんは胸の辺りで組んだ手にぐっと力を込めて、風子ちゃんに優しく言った。

「大丈夫です。私も一年生の時、同じようなことをされましたから」

「そ、そうなんですかっ」

「かわいいかわいい」

慰めになっているのかどうか極めて微妙な線の古河さんの言葉に、風子ちゃんはただひるみながら返事を返すしかないみたいだった。

「かわいいかわいい」

「こ、これはいつまで続くんですかっ」

「ふぅちゃん、ふぁいとですっ」

答えになってない。

「うぬぬ~。ぼくもあんな風にされてみたいよぉ」

「……………………」

普通、男の子がこんなことを言ったらそれだけでヒンシュクものだと思うけど、佳乃ちゃんの場合だとそういう下心とかが欠片もなくて、単に風子ちゃんが楽しそうにしているから自分もされてみたいだけなんだろう。実際、古河さんも川名さんもちっとも気に掛けていないみたいだし。

「かわいいかわいい」

「あ、あのっ、そのっ」

「ぐぬぬ~」

「……………………」

そんなことをしていた、まさにその時だった。

 

「みさきっ。そんなところで何してるの?」

 

僕の後ろから、不意に声が聞こえた。振り返って見てみると、背の高い女の子が一人、僕のすぐ側に立っていた。

「あーっ! 部長さんだーっ! こんにちはぁ」

「あっ、深山部長っ。こんにちは」

「こんにちは渚、それに霧島くん」

「ゆきちゃん?」

川名さんは風子ちゃんを手放して、背の高い女の子――深山さん――の方を向いた。深山さんは腰に手を当てて、どこか呆れたような表情で川名さんを見やっている。

「診療所からなかなか帰ってこないと思ってたら、道の真ん中で幼女に手を出してたから、思わず声をかけちゃったじゃない」

「言い方が悪すぎるよ。それにゆきちゃん、風子ちゃんは高校生だよ」

「知ってるよ。渚から聞いたからね」

「はい。部長にお話したとおりです」

古河さんがこくりと頷いて、深山さんにしっかりとした口調で言った。

「それはそれとして……ねえみさき、どうしてこんな面子になってるの?」

「話してもそんなに長くないから話すと、定期健診の帰りに佳乃ちゃんの家でお昼を御馳走になって、一緒に帰ってる途中だったんだよ。渚ちゃんと風子ちゃんには、さっき出会ったばかりなんだ」

「そう……うん。なんとなく理解できたわ」

簡潔にまとめられた川名さんの言葉を聞いて、大体何が起きたかを理解したみたいだ。

「ゆきちゃんこそ、どうしてこんなところに?」

「何となく散歩してただけよ。ひょっとしたら何か閃くかも、って思ってね。あと、みさきを探してたってのもあるわね」

「うんうん。お散歩はいいよぉ。エキサイティングでハラハラドキドキのスリリングな遊びだよねぇ」

とりあえず、佳乃ちゃんの言っていることは何があっても絶対に違うと思った。

「それじゃ、ここから先は私が送ってくよ。霧島くん、ここまでありがとうね」

「うんうん。後は部長さんにお願いするよぉ」

ひらひらと手を振る佳乃ちゃんに、深山さんは笑って答えながら、川名さんの隣に寄り添って歩き始めた。

「それで、お昼はなに食べたの?」

「うーん。流しそうめんだよ」

「どれくらい?」

「そうだね……多分、軽く五袋は食べちゃったかな」

「またそんなに食べちゃったの? そんなに食べてばっかりだと、太るわよ……って、それくらいで太るわけないわよね、みさきは」

川名さんの「五袋」という言葉にも、深山さんの返事は驚きを感じさせないものだった。会話の中に「それくらい」なんていう恐ろしい言葉が混じっていたような気がするけど、気のせいだろう、きっと。うん。そうに違いない。そう思い込もうとしている僕がいる。

「あ、危ないところでしたっ。風子、もうあと少しでお嫁にいけなくなるところでしたっ」

そう言えば、風子ちゃんがいたことをすっかり忘れていた僕もいる。

 

「それにしても、さっきの話が気になるよぉ」

川名さんと深山さんがいなくなってから、佳乃ちゃんが呟いた。今この場にいるのは、佳乃ちゃんと古河さんと風子ちゃんの三人だ。僕は佳乃ちゃんの側に寄り添って、三人の顔を代わる代わる見つめている。

「はい。私も気になります。なんといっても、場所が場所ですから……」

「風子も気になります。あのヘンな人がいつ風子に牙をむくかと思うと、夜もおちおち眠れません」

「うぬぬ~。保育所だからねぇ。ぼく、なんだか不安だよぉ」

佳乃ちゃんと風子ちゃんの話を取りまとめて僕なりに推察してみると、保育所にヘンな人がいて、それを風子ちゃんが目撃したらしい。それが本当の話なら、確かにちょっと穏やかな話じゃない。

「もしかしたら、保育所にいる子供たちを……ああっ、考えただけで不安になっちゃいますっ」

「最悪ですっ。ヘンタイゆうかいまと言う他ありませんっ」

「風子ちゃん、それはみちるちゃんのセリフだよぉ」

こんな風にしてしばらくの間、危機感があるのかないのかよく分からない、独特の空気の中で話していたのだけれども。

「霧島さん」

「……うん。やっぱり、気になるよねぇ」

「はい。風子も気になります」

全員が頷き合ってから、最後に、古河さんが言った。

 

「保育所の様子を……見に行きましょう」

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。