「……あの人だねぇ」
「……あの人ですね」
「……ヘンな人です」
「……ぴこぴこ」
僕らは保育所の前辺りまで来ると、それとなく、周囲をぐるりと歩いて回った。あえてどこかに隠れてこそこそしたりはせず、ごく自然を装って近くを歩く。先頭に佳乃ちゃん、その隣に古河さん、二人に隠れるようにして、僕と風子ちゃん。この陣形を保って、ゆっくりめを意識して歩く。
「……………………」
僕らの視線の先に、その人は立っていた。
「男の人だねぇ」
「はい。スーツを手にかけてます」
「そこはかとなく、メガネもかけてます」
「ぴこぴこ」
風子ちゃんが小さく指差した先に立っていたのは、眼鏡をかけた若い男の人だった。その右腕には、茶色いスーツがかかっている。その見た目から察するに、ごく普通の会社員といったところだろう。
「……………………」
男の人は僕らの視線にまったく気付くことなく、ただ、フェンス越しに保育所の中を見つめている。歩き回るでもなく、食い入るように見つめるでもなく、一所に立ち止まって、静かに視線を中へと向けている。あいにく、眼鏡に光が反射して、どんな表情をしているかを見て取ることはできなかった。
「ふぅちゃん、間違いありませんか?」
「はい。間違いなくあの人です。さっきからずっと、この場所に立って中を見つめています」
「うぬぬ~。どうしてかなぁ?」
佳乃ちゃんたちは歩く速度をいっそう落として、保育所に視線を向け続けている男の人に注目し続けた。佳乃ちゃんは不思議そうな視線を、古河さんは不安そうな視線を、風子ちゃんは明らかに怪しんでいる視線をそれぞれ向けている。これだけの視線を受けても、男の人が僕らに気付くことはなかった。
「こんな時間に保育所の中をじーっと見つめているなんて、きっとヘンな人に決まっています。ぷち最悪ですっ」
「でも、もしかしたら何か事情があるのかもしれません……」
「事情ぉ?」
「はい。例えば……別れた奥さんの子供が保育所に来ていて、その顔を一目見ようとしてあんな風に……ああっ、かわいそうなお話ですっ。すみませんっ。このお話はなかったことにしてくださいっ」
古河さんって真面目な人だとばかり思ってたんだけど、ひょっとしたらちょっと天然の入った面白い人なのかもしれない、と僕は思った。
「どうしてだろうねぇ……」
「えと……やっぱり、何か事情が……」
佳乃ちゃんの呟きに古河さんが答えようとしたとき、佳乃ちゃんがぷるぷると首を横に振って、こう続けた。
「ちょっとねぇ、ヘンな感じなんだよぉ」
「変な感じ? どういうことですか?」
「うぬぬ~。口で言うのは難しいんだけどねぇ……ちょっと、場違いな感じがするんだぁ」
「当然です。保育所は風子のような大人の女性が通う場所ではなく、小さなお子様たちが通う場所です。あんなヘンな人がそばにいたら、間違いなく場違いです」
「うーん……そういうのとはまたちょっと違うんだけどぉ……」
佳乃ちゃんは困り果てたように首を横にかしげて、尚も男の人に視線を向け続けた。僕は佳乃ちゃんが口にした「場違い」という言葉が気になって、もう一度男の人に目線を向けなおすことにした。
「……………………」
男の人はまるでそこにたたずむようにして、静かに保育所の中を見つめている。何か物欲しそうな面持ちをしているわけでもなく、笑みを浮かべているわけでもなく、ただ、そこに立って園内に目を向けているばかりだ。
「……………………」
僕はその男の人の姿に、邪な心を見出すことがどうしてもできなかった。その背中はどこか悲しさすら感じさせて、僕に不穏な気持ちを抱かせることを許さないようにすら見えた。
その姿は……佳乃ちゃんの言うとおり、どことなく場違いで、本来ここにいるべきではない、もっと他にいるべき場所があるものに見えて仕方なかった。それは単に「若い男が保育所の前に立っている」というのがおかしいというレベルを超えて、もっともっと強い違和感を感じさせる、そんな姿だった。
「うぬぬ~……なんだかむずむずさんだよぉ。言いたいことをうまく言えないのって、こんなにもつらいんだねぇ」
「……………………」
どうやら、佳乃ちゃんも僕と同じ気持ちのようだった。古河さんも隣に立って、佳乃ちゃんと同じように目線を向けている。
「……違和感……」
「……………………」
古河さんが一言呟くと、佳乃ちゃんが隣で静かに頷いた。そのまま、男の人へと真っ直ぐに視線を向け続ける。僕は古河さんの傍らに立って、どちかが口を開くのを待っていた。
……そして。
「えと……霧島さんの言おうとしたことが、ちょっとだけ分かったかもしれません……」
真っ先に口を開いたのは、古河さんだった。
「風子にはよく分かりませんでした。やっぱり、あの人はヘンな人だと思います」
「うんうん。ぼくもヘンだとは思うよぉ。でもねぇ、それは普通の『ヘン』とはまた違う、ちょっとヘンな『ヘン』な人だと思うんだぁ」
「さっぱりですっ。ヘンはヘンで、ヘンに普通もヘンもないと思いますっ」
うーん。佳乃ちゃんの言い方は、僕から見てもちょっと紛らわしかったと思う。風子ちゃんには、どうも佳乃ちゃんの言おうとしたことが伝わらなかったみたいだ。
……と、僕らがそんな風に言い合っている間に。
「あっ、行っちゃいますっ」
「見終わったのかなぁ」
男の人がぐるりと体を動かして、保育所から視線を外した。そしてそのまま、こちらへと一瞬視線を向ける。
……その時だった。
「……………………?!」
僕の隣にいる人の表情が、ほんの少しだけ変わった。
男の人と目が合ったその瞬間、微かに僅かに、けれども確かに、その表情に疑問の色が浮かんだのを、僕は見逃さなかった。
僕はそれを見て咄嗟に「何かある」と感じた。僕の知らない何かが、男の人と僕の隣にいる人の間にあると、僕の中の何かが告げているような気がした。
「……………………」
ほんの少しだけ僕らを見やると、男の人は表情一つ変えることなく、すたすたと歩いてその場を立ち去った。僕が目で追っかけようとした時には、もう僕の視界からは完全に消えてしまっていた。まるで消えてしまうかのように、跡形も無く。
「行っちゃったねぇ」
「どうやら風子の視線に恐れおののいたようです。これで改心してくれることでしょう」
二人は男の人がいなくなったことで、口々に感想を述べ合っていた。僕は二人の会話を聞きながらも、同時に、僕の隣の人にも注意を傾けておいた。
「……………………」
彼女はしばらくの間、そのまま押し黙っていたけれども。
「あの人……確か、小さな女の子を連れて、私と一緒に……」
不意に、二人には到底聞こえないような小さな声で呟いた。最後の方はあまりにも声が小さすぎて聞き取れなかったけれども、古河さんが男の人の表情を見て何か呟いたことは間違いなく、僕の意識の中にしっかりとした形で残った。
「でも、あれはもう……」
古河さんが二の句を継ごうとした、ちょうどその時だった。
「なんやなんや、こんなところに皆集まって、なんかあったんか?」
僕の後ろから、誰かが声をかけてきた。前を向いていた三人が一斉に振り返って、視線を一箇所に集める。
「あーっ! 晴子さぁん! こんにちはぁ!」
「神尾さんのお母さんですね。こんにちは」
「こんにちはや。二人ともちゃんと挨拶できるみたいやなぁ。ええこっちゃ」
そこに立っていたのは、エプロン姿の晴子さんだった。胸には「晴子」と書かれた名札が付いている。名札が付いていて、しかもエプロン姿、ということは……
「ひょっとして、あの保育所で働いてらっしゃるんですか?」
「せや。ちょっと外見てみたら、なんや見慣れた顔が二つ三つあったからな、しばらく真琴に任して出て来たんや」
「そうなんだぁ。大変なんだねぇ」
「まぁ言うても慣れたもんや。今ちょっと人手が足りひんで、ひーこら言うてるとこはあるけどな」
晴子さんは腕組みをして笑顔を見せながら、佳乃ちゃんと古河さんに気さくに声をかけていた。
「で、こないなとこでどないしたんや? なんか見せもんでも出とったんか?」
「それがねぇ、ちょっと気になることがあったんだよぉ」
「気になること? なんや、聞かしてくれへんか?」
「はい。実は……」
古河さんが一歩前に出て、事の一部始終を話した。風子ちゃんがこの辺りで怪しい人を見かけたといって、佳乃ちゃんと古河さんが一緒にその人の姿を確認しに来て、実際のその姿を三人で見て、そして気が付いたら男の人はいなくなっていた……そんなところだ。
話を聞くや否や、晴子さんは怪訝な顔つきになって、そこから一歩引いて口を開いた。
「ホンマかいな? けったいな話やなぁ、それも」
「はい。それで気になって、様子を見に来たんです」
「さよか……それで、この辺りにおったっちゅうけったいな男の見た目とかそんなん、なんか分かるか?」
「えっとねぇ、遠くから見ただけだからはっきりとは分かんないんだけど、見た目は若くて、それで、眼鏡をかけてたんだよぉ」
「……眼鏡?」
晴子さんは佳乃ちゃんの発した「眼鏡」という言葉に、よりいっそう表情を曇らせた。それは怪訝な顔つきというよりもむしろ、驚きと不安の丁度中間点を取ったような、どこかおぼつかないものだった。
「なんや……その、眼鏡をかけた若い男がおったっちゅうんか?」
「そうだよぉ。ずーっと保育所の中を見つめててねぇ、なんだかヘンな感じだったんだよぉ」
「……………………」
表情を曇らせたまま、晴子さんが黙り込む。佳乃ちゃんや古河さんの言う「眼鏡をかけた若い男」に、何か思い当たる節でもあるんだろうか。残念だけど、表情からはそこまで読み取ることはできそうにない。
「晴子さん、どうしたのぉ? ひょっとして、何か思い当たることでもあるのかなぁ?」
「……いや……何でもないわ。気にせんとって」
晴子さんは手をひらひらと振ると、「気にするな」というジェスチャーを佳乃ちゃんに送った。佳乃ちゃんもそれ以上深く突っ込もうとはせずに、そのまま体を後ろへと引いた。
「……さて、そろそろ戻らなな。もしまたなんかあったら、うちか真琴に言うたってなー」
「はい。何もないことを願っていますが……」
「うんうん。やっぱり、何もない平々凡々な毎日が一番だよぉ」
からからと笑って、佳乃ちゃんが上手く締めくくった。
「はっ! そう言えば風子、大事な用事を思い出しました」
「用事ぃ? どうしたのかなぁ?」
「はい。これからふぅちゃんと一緒に、海へ遊びに行くんです」
「そうなんだぁ。海は気持ちいいよねぇ。楽しんで来てよぉ」
晴子さんが保育所に戻ったのにあわせて、古河さんと風子ちゃんもその場を立ち去った。佳乃ちゃんは付いて行くのかなと思ったけど、どうやら今日は一緒には行かないみたいだ。
「それじゃポテト、ぼくたちも行こうねぇ」
「ぴこっ」
ここにいても仕方なかったから、僕は佳乃ちゃんと一緒に行くことにした。
「今日もお日さまさんさんだねぇ」
「ぴこぴこ」
「きっと、今年の夏は長くなるよぉ」
僕は佳乃ちゃんの言葉を聞いて、思わず空を見上げた。
夏の空は青く澄み渡り、何処までも高く、広く……それは、あたかも永遠とも思えるほどに続いている。
そこから「終わり」を感じることは、到底出来そうに無い。
……「今年の夏は長くなる」……佳乃ちゃんの言葉が、僕の頭の中で何度もリフレインする。
そう。僕もそうだと思う。
夏はまだ、始まったばかりなのだから。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。