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第五十一話「Memories of Once」

「……あの人だねぇ」

「……あの人ですね」

「……ヘンな人です」

「……ぴこぴこ」

僕らは保育所の前辺りまで来ると、それとなく、周囲をぐるりと歩いて回った。あえてどこかに隠れてこそこそしたりはせず、ごく自然を装って近くを歩く。先頭に佳乃ちゃん、その隣に古河さん、二人に隠れるようにして、僕と風子ちゃん。この陣形を保って、ゆっくりめを意識して歩く。

 

「……………………」

 

僕らの視線の先に、その人は立っていた。

「男の人だねぇ」

「はい。スーツを手にかけてます」

「そこはかとなく、メガネもかけてます」

「ぴこぴこ」

風子ちゃんが小さく指差した先に立っていたのは、眼鏡をかけた若い男の人だった。その右腕には、茶色いスーツがかかっている。その見た目から察するに、ごく普通の会社員といったところだろう。

「……………………」

男の人は僕らの視線にまったく気付くことなく、ただ、フェンス越しに保育所の中を見つめている。歩き回るでもなく、食い入るように見つめるでもなく、一所に立ち止まって、静かに視線を中へと向けている。あいにく、眼鏡に光が反射して、どんな表情をしているかを見て取ることはできなかった。

「ふぅちゃん、間違いありませんか?」

「はい。間違いなくあの人です。さっきからずっと、この場所に立って中を見つめています」

「うぬぬ~。どうしてかなぁ?」

佳乃ちゃんたちは歩く速度をいっそう落として、保育所に視線を向け続けている男の人に注目し続けた。佳乃ちゃんは不思議そうな視線を、古河さんは不安そうな視線を、風子ちゃんは明らかに怪しんでいる視線をそれぞれ向けている。これだけの視線を受けても、男の人が僕らに気付くことはなかった。

「こんな時間に保育所の中をじーっと見つめているなんて、きっとヘンな人に決まっています。ぷち最悪ですっ」

「でも、もしかしたら何か事情があるのかもしれません……」

「事情ぉ?」

「はい。例えば……別れた奥さんの子供が保育所に来ていて、その顔を一目見ようとしてあんな風に……ああっ、かわいそうなお話ですっ。すみませんっ。このお話はなかったことにしてくださいっ」

古河さんって真面目な人だとばかり思ってたんだけど、ひょっとしたらちょっと天然の入った面白い人なのかもしれない、と僕は思った。

「どうしてだろうねぇ……」

「えと……やっぱり、何か事情が……」

佳乃ちゃんの呟きに古河さんが答えようとしたとき、佳乃ちゃんがぷるぷると首を横に振って、こう続けた。

「ちょっとねぇ、ヘンな感じなんだよぉ」

「変な感じ? どういうことですか?」

「うぬぬ~。口で言うのは難しいんだけどねぇ……ちょっと、場違いな感じがするんだぁ」

「当然です。保育所は風子のような大人の女性が通う場所ではなく、小さなお子様たちが通う場所です。あんなヘンな人がそばにいたら、間違いなく場違いです」

「うーん……そういうのとはまたちょっと違うんだけどぉ……」

佳乃ちゃんは困り果てたように首を横にかしげて、尚も男の人に視線を向け続けた。僕は佳乃ちゃんが口にした「場違い」という言葉が気になって、もう一度男の人に目線を向けなおすことにした。

「……………………」

男の人はまるでそこにたたずむようにして、静かに保育所の中を見つめている。何か物欲しそうな面持ちをしているわけでもなく、笑みを浮かべているわけでもなく、ただ、そこに立って園内に目を向けているばかりだ。

「……………………」

僕はその男の人の姿に、邪な心を見出すことがどうしてもできなかった。その背中はどこか悲しさすら感じさせて、僕に不穏な気持ちを抱かせることを許さないようにすら見えた。

その姿は……佳乃ちゃんの言うとおり、どことなく場違いで、本来ここにいるべきではない、もっと他にいるべき場所があるものに見えて仕方なかった。それは単に「若い男が保育所の前に立っている」というのがおかしいというレベルを超えて、もっともっと強い違和感を感じさせる、そんな姿だった。

「うぬぬ~……なんだかむずむずさんだよぉ。言いたいことをうまく言えないのって、こんなにもつらいんだねぇ」

「……………………」

どうやら、佳乃ちゃんも僕と同じ気持ちのようだった。古河さんも隣に立って、佳乃ちゃんと同じように目線を向けている。

「……違和感……」

「……………………」

古河さんが一言呟くと、佳乃ちゃんが隣で静かに頷いた。そのまま、男の人へと真っ直ぐに視線を向け続ける。僕は古河さんの傍らに立って、どちかが口を開くのを待っていた。

……そして。

「えと……霧島さんの言おうとしたことが、ちょっとだけ分かったかもしれません……」

真っ先に口を開いたのは、古河さんだった。

「風子にはよく分かりませんでした。やっぱり、あの人はヘンな人だと思います」

「うんうん。ぼくもヘンだとは思うよぉ。でもねぇ、それは普通の『ヘン』とはまた違う、ちょっとヘンな『ヘン』な人だと思うんだぁ」

「さっぱりですっ。ヘンはヘンで、ヘンに普通もヘンもないと思いますっ」

うーん。佳乃ちゃんの言い方は、僕から見てもちょっと紛らわしかったと思う。風子ちゃんには、どうも佳乃ちゃんの言おうとしたことが伝わらなかったみたいだ。

……と、僕らがそんな風に言い合っている間に。

「あっ、行っちゃいますっ」

「見終わったのかなぁ」

男の人がぐるりと体を動かして、保育所から視線を外した。そしてそのまま、こちらへと一瞬視線を向ける。

……その時だった。

「……………………?!」

僕の隣にいる人の表情が、ほんの少しだけ変わった。

男の人と目が合ったその瞬間、微かに僅かに、けれども確かに、その表情に疑問の色が浮かんだのを、僕は見逃さなかった。

僕はそれを見て咄嗟に「何かある」と感じた。僕の知らない何かが、男の人と僕の隣にいる人の間にあると、僕の中の何かが告げているような気がした。

「……………………」

ほんの少しだけ僕らを見やると、男の人は表情一つ変えることなく、すたすたと歩いてその場を立ち去った。僕が目で追っかけようとした時には、もう僕の視界からは完全に消えてしまっていた。まるで消えてしまうかのように、跡形も無く。

「行っちゃったねぇ」

「どうやら風子の視線に恐れおののいたようです。これで改心してくれることでしょう」

二人は男の人がいなくなったことで、口々に感想を述べ合っていた。僕は二人の会話を聞きながらも、同時に、僕の隣の人にも注意を傾けておいた。

「……………………」

彼女はしばらくの間、そのまま押し黙っていたけれども。

 

「あの人……確か、小さな女の子を連れて、私と一緒に……」

 

不意に、二人には到底聞こえないような小さな声で呟いた。最後の方はあまりにも声が小さすぎて聞き取れなかったけれども、古河さんが男の人の表情を見て何か呟いたことは間違いなく、僕の意識の中にしっかりとした形で残った。

「でも、あれはもう……」

古河さんが二の句を継ごうとした、ちょうどその時だった。

 

「なんやなんや、こんなところに皆集まって、なんかあったんか?」

 

僕の後ろから、誰かが声をかけてきた。前を向いていた三人が一斉に振り返って、視線を一箇所に集める。

「あーっ! 晴子さぁん! こんにちはぁ!」

「神尾さんのお母さんですね。こんにちは」

「こんにちはや。二人ともちゃんと挨拶できるみたいやなぁ。ええこっちゃ」

そこに立っていたのは、エプロン姿の晴子さんだった。胸には「晴子」と書かれた名札が付いている。名札が付いていて、しかもエプロン姿、ということは……

「ひょっとして、あの保育所で働いてらっしゃるんですか?」

「せや。ちょっと外見てみたら、なんや見慣れた顔が二つ三つあったからな、しばらく真琴に任して出て来たんや」

「そうなんだぁ。大変なんだねぇ」

「まぁ言うても慣れたもんや。今ちょっと人手が足りひんで、ひーこら言うてるとこはあるけどな」

晴子さんは腕組みをして笑顔を見せながら、佳乃ちゃんと古河さんに気さくに声をかけていた。

「で、こないなとこでどないしたんや? なんか見せもんでも出とったんか?」

「それがねぇ、ちょっと気になることがあったんだよぉ」

「気になること? なんや、聞かしてくれへんか?」

「はい。実は……」

古河さんが一歩前に出て、事の一部始終を話した。風子ちゃんがこの辺りで怪しい人を見かけたといって、佳乃ちゃんと古河さんが一緒にその人の姿を確認しに来て、実際のその姿を三人で見て、そして気が付いたら男の人はいなくなっていた……そんなところだ。

話を聞くや否や、晴子さんは怪訝な顔つきになって、そこから一歩引いて口を開いた。

「ホンマかいな? けったいな話やなぁ、それも」

「はい。それで気になって、様子を見に来たんです」

「さよか……それで、この辺りにおったっちゅうけったいな男の見た目とかそんなん、なんか分かるか?」

「えっとねぇ、遠くから見ただけだからはっきりとは分かんないんだけど、見た目は若くて、それで、眼鏡をかけてたんだよぉ」

「……眼鏡?」

晴子さんは佳乃ちゃんの発した「眼鏡」という言葉に、よりいっそう表情を曇らせた。それは怪訝な顔つきというよりもむしろ、驚きと不安の丁度中間点を取ったような、どこかおぼつかないものだった。

「なんや……その、眼鏡をかけた若い男がおったっちゅうんか?」

「そうだよぉ。ずーっと保育所の中を見つめててねぇ、なんだかヘンな感じだったんだよぉ」

「……………………」

表情を曇らせたまま、晴子さんが黙り込む。佳乃ちゃんや古河さんの言う「眼鏡をかけた若い男」に、何か思い当たる節でもあるんだろうか。残念だけど、表情からはそこまで読み取ることはできそうにない。

「晴子さん、どうしたのぉ? ひょっとして、何か思い当たることでもあるのかなぁ?」

「……いや……何でもないわ。気にせんとって」

晴子さんは手をひらひらと振ると、「気にするな」というジェスチャーを佳乃ちゃんに送った。佳乃ちゃんもそれ以上深く突っ込もうとはせずに、そのまま体を後ろへと引いた。

「……さて、そろそろ戻らなな。もしまたなんかあったら、うちか真琴に言うたってなー」

「はい。何もないことを願っていますが……」

「うんうん。やっぱり、何もない平々凡々な毎日が一番だよぉ」

からからと笑って、佳乃ちゃんが上手く締めくくった。

「はっ! そう言えば風子、大事な用事を思い出しました」

「用事ぃ? どうしたのかなぁ?」

「はい。これからふぅちゃんと一緒に、海へ遊びに行くんです」

「そうなんだぁ。海は気持ちいいよねぇ。楽しんで来てよぉ」

晴子さんが保育所に戻ったのにあわせて、古河さんと風子ちゃんもその場を立ち去った。佳乃ちゃんは付いて行くのかなと思ったけど、どうやら今日は一緒には行かないみたいだ。

「それじゃポテト、ぼくたちも行こうねぇ」

「ぴこっ」

ここにいても仕方なかったから、僕は佳乃ちゃんと一緒に行くことにした。

「今日もお日さまさんさんだねぇ」

「ぴこぴこ」

「きっと、今年の夏は長くなるよぉ」

僕は佳乃ちゃんの言葉を聞いて、思わず空を見上げた。

 

夏の空は青く澄み渡り、何処までも高く、広く……それは、あたかも永遠とも思えるほどに続いている。

そこから「終わり」を感じることは、到底出来そうに無い。

……「今年の夏は長くなる」……佳乃ちゃんの言葉が、僕の頭の中で何度もリフレインする。

そう。僕もそうだと思う。

 

夏はまだ、始まったばかりなのだから。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。