「あーっ! 一ノ瀬さんだぁ!」
目の前から歩いてきた山積みの本を見て、佳乃ちゃんが大きな声を出して言った。
「……?」
佳乃ちゃんの声が聞こえたのか、山積みの本が立ち止まって、ゆっくりと方向を変えてこちらを振り向く。山積みの本に隠れていた本の持ち主の顔が、僕の目にもはっきり見えた。
「……霧島くん?」
それは、青い髪の女の子だった。佳乃ちゃんの明るい青とはまた違う、少し暗くて深い青色の髪。赤いリボンで結われた髪から覗くその表情は、年不相応に幼く見えた。佳乃ちゃんの態度からして恐らく同級生の子だとは思うけれども、僕にはとてもそうは見えない。
「こんにちはだよぉ。今日も本を買いに行って来たのかなぁ?」
「……えっと」
一ノ瀬さん、と呼ばれた女の子が少し間を置いて、佳乃ちゃんにこう答えた。
「うん。お買い物」
「そうなんだぁ。ずいぶんたくさん買ったんだねぇ」
「うん。たくさん買うと、お店の人も喜ぶから」
佳乃ちゃんに答えを返すと、一ノ瀬さんが「よいしょ」と言って、持っていた本の山を持ち直した。本は一ノ瀬さんの身長に並ぶくらいうず高く積まれていて、ちょっとしたことでも崩れてしまいそうな、不安定な印象を僕に与えた。
……と、僕が一ノ瀬さんの本に気を取られていると。
「……?」
「どうしたのぉ?」
「……えっと」
「……俺のことか?」
一ノ瀬さんが山積みになった本の影から、佳乃ちゃんの傍らにいる往人さんのことを見つめていた。往人さんを見つめる一ノ瀬さんの視線は、どことなく不安げで、けれどもその奥に抑えがたい好奇心を秘めているかのような、子供っぽい視線だった。
「えっとねぇ、この人は往人さんっていうんだぁ」
「往人さん?」
「そうだよぉ。今日からねぇ、診療所で住み込みで働いてくれることになったんだよぉ」
佳乃ちゃんの説明を聞いて、一ノ瀬さんが改めて往人さんをまじまじと見つめる。往人さんは特に何も感じていないのか、ジーパンのポケットに手を突っ込んで、一ノ瀬さんとは軽く目を合わせる程度にしている。
「……えっと」
「どうした?」
「……いじめっ子?」
「お前に何かした覚えはないぞ」
一ノ瀬さんのいきなりの「いじめっ子?」発言に、問われた往人さんが苦笑いを浮かべて返す。なんとなく、一ノ瀬さんがどんな人なのか、僕にも分かったような気がした。
「いじめない?」
「そういう陰湿なのは嫌いなんだ」
「……よかった」
往人さんの答えに、一ノ瀬さんが安心したように息をつく。本当に微かな変化だったけれど、その表情は確かに安堵のものへと変わっていた。よく見ていないと見逃してしまいかねない、小さな変化だ。
「誰かにいじめられてるのか?」
「……?」
「いや、お前だお前」
「……えっと」
「……………………」
「ううん。大丈夫」
「そうか」
短い言葉同士のやり取り。往人さんは、一ノ瀬さんのペースに上手く合わせてあげているみたいだ。やっぱり長い間旅とかをしてると、会話術みたいなのにも長けてきたりするのかなぁ。佳乃ちゃんと出会った時も、ごく普通にお話してたし。
「名前、なんていうんだ?」
「……?」
「いや、だからお前だお前」
「……えっと」
「……………………」
「ことみ。ひらがなみっつで、ことみちゃん」
「……えーっと。あれだ。佳乃も呼んでることだし、一ノ瀬でいいか?」
「ことみちゃん、って呼んで」
「……………………」
一ノ瀬さんの意外な押しの強さに、一歩身を引いて言葉をつぐむ往人さん。案外、こういうのには弱いのかも知れない。
「よいしょ」
往人さんと話している間にも、一ノ瀬さんはまた本を持ち直した。それを見ていた佳乃ちゃんがひょっこり顔を出して、本の山をじーっと見つめてから、おもむろに切り出した。
「大変そうだねぇ。ぼくが半分持ってあげるよぉ」
「……いいの?」
「いいよぉ。持ってる途中に崩れちゃったら、拾うのが大変だからねぇ」
佳乃ちゃんは一ノ瀬さんが持っていた本の山を崩さないよう慎重に、山積みになっていた本を半分くらい自分の手に取った。佳乃ちゃんの方がちょっとだけ山が高いのは、佳乃ちゃんなりの配慮なのだろう。
「これで半分こだねぇ」
「うん。半分こ」
二人はにっこり笑って頷き合うと、ゆっくりと歩き始めた。
……と、その時。
「……佳乃。診療所はこっちじゃなかったか?」
「うぬぬ~。えっとねぇ、一ノ瀬さんの家はこっちなんだよぉ」
佳乃ちゃんと一ノ瀬さんが歩いていこうとしたのは、診療所とはちょうど逆方向に向かってだった。一ノ瀬さんは僕たちの前から歩いてきたんだから、それは当然のことだった。
「往人君はどうするのかなぁ? 先にお帰りしちゃう?」
「……いや。俺も行く。この辺りの地理には疎いんでな」
往人さんも踵を返して、佳乃ちゃんに付いていくことにしたみたいだ。その後ろについて、僕も一緒に歩く。
「ぴこぴこ」
二つの本の山から差し込む夕日が、一際眩しく見えた気がした。
「今日は何の本を買ったのかなぁ?」
一ノ瀬さんの家に向かって歩いていく途中で、佳乃ちゃんが本を抱えながら聞いた。
「えっと……」
「……………………」
一ノ瀬さんはまたちょっと間を置いてから、よいしょと本を持ち直して答えた。
「今日は、演劇の本」
「そうなんだぁ。勉強熱心さんだねぇ」
「うん。何事も基本が大事」
「うんうん。基本は大切だよぉ。頑張ってねぇ」
一ノ瀬さんは演劇に関する本を買い込んだようだ。あいにく、僕は背が低くて一ノ瀬さんがどんな本を買ったのかまでは分からなかったけれども、分厚い本が多いことだけは分かった。
「でも、ずいぶんたくさん買ったねぇ」
佳乃ちゃんのいう通り、一ノ瀬さんが買った本の数はちょっと半端じゃない。佳乃ちゃんの腕の中には……少なくとも、七冊の本が収まっている。それが二つあるのだから、どう考えても十冊はくだらない。いくらなんでも、買いすぎじゃないだろうか。
「うん。覚えないといけないこと、たくさんあるから」
「うぬぬ~。これはぼくも負けてられないねぇ。また練習しなきゃぁ」
「練習は大切」
「……………………」
往人さんは二人の後ろについて、佳乃ちゃんと一ノ瀬さんに互い違いに目線を向けながら、どことなく、すっきりしない表情を浮かべていた。
「……………………」
僕から見て、それはだんだんだんだん、曇りの度合いが増しているような気がした。
「……えっと」
「どうしたのかなぁ?」
二人で並んで歩いていると、不意に一ノ瀬さんが口を開いた。
「この前、怖い人を見たの」
「怖い人ぉ?」
「うん。なんだか、怖い人」
不安げな表情になって、一ノ瀬さんが俯き加減で呟いた。隣の佳乃ちゃんも真顔になって、一ノ瀬さんの顔を覗きこむ。
「それはどんな人だったのかなぁ?」
「……えっと」
「うんうん」
一ノ瀬さんはちょっとだけ間を空けてから、こう、佳乃ちゃんに言った。
「……刃物を持って、この辺りをうろついてる人がいたの」
そう呟く一ノ瀬さんの姿が、低くて静かな口調も相まって、僕には妙に恐ろしげなものに見えた。夕日の中にある一ノ瀬さんの表情に、微かに影が差したようにも見えた。
「刃物ぉ?! それは怖いよぉ……男の人だったのかなぁ?」
「……えっと」
「……………………」
「ちょっと分からなかったけど、背の高い人」
背が高く、刃物を持ってこの辺りをうろついている人。それは一ノ瀬さんの言うとおり、間違いなく「怖い人」だったに違いない。少なくともそれらの言葉から想像できる姿に、僕が親しみを感じることはないだろう。
「そうなんだぁ。何もされなかったよねぇ?」
「うん。でも……」
「……でも?」
「……じろり、って……」
「じろり?」
「……えっと」
「……………………」
「……じろり、って、こっちを睨みつけてきたの」
一ノ瀬さんは不安げな色を濃くして、佳乃ちゃんに訴えかけるような口調で呟いた。確かに、そんな「怖い人」にじろりと睨みつけられるようなことがあったら、不安に駆られない方がどうかしている。一ノ瀬さんの訴えは、僕にはもっともなものに見えた。
「うぬぬ~。怖い人がいるみたいだねぇ」
「……もしかすると、そいつが犯人じゃないのか?」
「何のぉ?」
「言ってただろ。掲示板のポスターが切り刻まれてたとか」
「……うん。言われてみると、なんだかぼくもそんな気がしてきたよぉ」
刃物を持ってうろつく、背の高い怪しい人物。ここ最近頻発しているという掲示板のポスター切り刻み事件の犯人像に、がっちり当てはまる。その手にした刃物で、掲示板に貼られたポスターを切り刻んで回っているに違いないと、僕は思った。
「……ポスター?」
佳乃ちゃんと往人さんが話していると、横から一ノ瀬さんが口を挟んだ。佳乃ちゃんは首をくるりと隣へ向けて、一ノ瀬さんの方へと顔を向ける。
「そうだよぉ。最近ねぇ、掲示板に貼ってある夏祭りのポスターをずったずたのぼっろぼろにしていく、悪い人がいるみたいなんだぁ」
「……いじめっ子?」
「う~ん……いじめっ子かどうかは、ちょっと分からないねぇ」
そう言う佳乃ちゃんの隣で、一ノ瀬さんは俯いたままだった。
「……………………」
ずっとずっと、俯いたままだった。
「それじゃあ、ここでお別れさんだねぇ」
「うん。持ってくれて、ありがとう」
「気にしないでよぉ。またたくさんあったら、ぼくが持っていくからねぇ」
一ノ瀬さんは住宅街の辺りまでやってくると、佳乃ちゃんが持っていた分の本を受け取って、お別れの挨拶をした。
「明後日だよぉ。必ず来てねぇ」
「うん。約束」
「約束だよぉ」
最後にそう言葉を交わしあうと、一ノ瀬さんはそのまま住宅街の中へ入っていった。
「それじゃあ往人君、ぼく達も帰ろっかぁ」
「ああ。聖も心配してるだろうしな」
一ノ瀬さんを見送ってから、佳乃ちゃんと往人さんも歩き出す。
「……ぴこ」
僕は最後にもう一度、住宅街の中へと消えていこうとする一ノ瀬さんの背中を見つめた。
「……………………」
眩しいばかりの夕日に照らし出されて、山積みになった本で長く伸びた影を背にして……
……一ノ瀬さんは、静かに歩いていった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。