「たっだいまーっ!」
元気な声を上げて、佳乃ちゃんが診療所のドアを開けた。診療所の奥にいた影が動いて、こちらに歩いてくるのが見える。
「お帰り佳乃。ずいぶん遅かったな」
「ごめんねぇ。心配したかなぁ?」
「心配したとも。誰かに襲われたりしていないかと、気が気じゃなかったぞ」
「そんなことないよぉ。お姉ちゃんは心配性さんだねぇ」
佳乃ちゃんはにこにこ笑いながら聖さんの横をすり抜けて、自分の部屋のある二階へと続く階段を昇っていった。聖さんはその様子を見つめながら、どことなく、うれしそうな表情を浮かべていた。
「ふふっ。あんなに可愛いいも……弟がいれば、心配性にもなるというものだ」
「お前、今思いっきり妹って言いかけたよな」
隣にいた往人さんが、聖さんにさりげなく突っ込みを入れる。聖さんはまるでそれで往人さんの存在を思い出したように、ゆっくりと往人さんに顔を向ける。
「何、ちょっとした冗談だ。君とて冗談が分からぬほど、堅苦しい人間ではあるまい?」
「あんたが言うと、どうも冗談に聞こえないんだけどな」
口元に笑みを浮かべて、聖さんが往人さんを見やる。往人さんはそれに臆することなく、何気ない目つきで聖さんを見返す。一ノ瀬さんの時にも思ったけど、往人さんは他人に自分を見つめられても、ちっとも動じていない。その様子を見ていると、なんだかとても頼もしい人に見えてくるから不思議だ。
「……さて」
しばらくすると、聖さんの口元から笑みが消えて、往人さんを見つめる視線が真剣なものへと変わった。そしておもむろに口を開いて、往人さんへ話を切り出した。
「ところで国崎君。私の言いつけは守ってくれたか?」
「佳乃の側にいてくれ、っていうやつか?」
「その通りだ。何も変わったことはなかったな?」
「ああ。俺が見た限りでは、特に変わったことは無かったが」
僕もずっと佳乃ちゃんの側にいたけれど、「いつもと違う」と感じるようなことは一つも無かった。聖さんが何をもって「変わったこと」とするのかはちょっと分からなかったけど、少なくとも僕が見た限りでは、佳乃ちゃんは佳乃ちゃんで、佳乃ちゃん以外の何者でもなかった。
「そうか……うむ。それなら構わない」
「何か気にかかることでもあるのか?」
「……いや。ただ一人の姉として、可愛い弟に何かあっては困るというだけの事だ」
「……………………」
自分の問いに対して聖さんが返した答えを聞いて、往人さんはどことなくすっきりしない表情を浮かべながらも、それ以上何かを口にすることは無かった。
「何もなかったのなら、それで構わない」
「……………………」
「このまま何もなければ、それが一番いい」
まるで自分に言い聞かせるように、聖さんが呟く。その呟きに、往人さんはただ黙って耳を傾けていた。
「……もうこんな時間か。夕飯の準備にかかるとしよう」
そう言って往人さんから目線を外すと、聖さんは台所へと引っ込んだ。
「……………………」
往人さんは聖さんの背中を黙ったまま見つめながら、その場でしばらくの間立ち続けていた。
「ほほう。ものみの丘で神尾さんと川口さんに会ったのか」
「そうだよぉ。フィールドワークなんだってぇ」
夕食の席で、佳乃ちゃんが聖さんに今日あったことを話していた。僕は台所の隅に陣取って、お水を飲みながら二人の話に耳を傾けていた。
「ふむ。どうやら二人とも、定期テストで血の雨が降ったようだな」
「ずいぶんと恐ろしげな表現をするな……」
「よーく考えよぉ~。テストは大事だよぉ~」
佳乃ちゃんはどこかで聴いたような歌を口ずさみながら、テーブルの真ん中においてあるナスの炒め物に箸を伸ばす。何気に今日の献立は、ものみの丘で佳乃ちゃんが往人さんに咄嗟に言った「ナスの炒め物とかぼちゃの煮つけ」だった。あれ、口からでまかせだと思ってたんだけどなぁ。
「元気に歌ってるのはいいが、お前は大丈夫なのか」
「ふぇ? ぼくぅ?」
不意に話題を振られて、佳乃ちゃんがナスの先っぽをくわえながら聞き返す。きょとんとした表情が、なんだか可愛らしい。
「ふっ、国崎君。それは愚問というものだぞ」
「そうっ! 愚問というものだぁ!」
きょとんとした表情から一転、聖さんがバックについたことで、踏ん反り返って往人さんを見返す佳乃ちゃん。どうやら、佳乃ちゃんに定期テストのことを聞くのは愚問というものらしい。
「何せこの私が直々に教えているのだからな。赤点を取る要素など最初から無いのだ」
「無いのだぁ!」
「……お前ら、仲いいよな。本当に……」
半分呆れて半分笑うように、往人さんが言った。まだ少し、佳乃ちゃんと聖さんのペースにはついていけない部分があるみたいだと、僕は思った。
「ところで佳乃。ものみの丘では、神尾さんと会ったと言っていたな」
聖さんがいつもの調子に戻って、佳乃ちゃんに聞いた。観鈴ちゃんのことで、何か気になることがあるみたいだ。
「そうだよぉ。お姉ちゃん、観鈴ちゃんに何かあったのかなぁ?」
「そうではないが……神尾さんから、何か言われなかったか?」
「観鈴ちゃんからぁ? えっとぉ……」
「……………………」
佳乃ちゃんは口元に指を当ててしばらく何かを思い返すような仕草をして見せてから、おもむろに返事を返した。
「えっとねぇ、『どんな人が好き?』って聞かれたぐらいかなぁ」
「……『どんな人が好き?』」
「そうだよぉ。ぼくがねぇ、どんな人を好きになるのかって聞かれたんだぁ」
「……………………」
この答えを聞いて、聖さんは黙り込んで難しい顔を浮かべた。往人さんはそれを不思議そうな表情で見つめながら、さりげなく、テーブルの真ん中より少し佳乃ちゃん寄りに置いてある蒸し鶏に箸をつけていた。
「……そうか。神尾さんも、いろいろと気になる年頃のようだからな」
「うんうん。明日のこととか、明後日のこととか、明々後日のこととかねぇ」
「そういう意味で言ってるんじゃ無いと思うぞ」
佳乃ちゃんのなんとなくハズした発言にも、聖さんの表情が緩むことはなかった。
「それじゃぼく、二階で宿題してくるねぇ」
「ああ。寝るときはちゃんと歯を磨くんだぞ」
「分かってるよぉ」
夕食が済んだ後、佳乃ちゃんは夏休みの宿題をするために自分の部屋へと上がっていった。聖さんは食器を片付けながら、佳乃ちゃんの背中を見送った。
「宿題はちゃんと自分でやるんだな」
「もちろんだ。無論、分からないところがあれば私が手伝うがな」
水道の栓をきゅっと締めて、聖さんが掛けていたタオルで水を拭いながら、往人さんのほうを見つめた。
「……さて」
そのまま椅子を引いて、再び食卓に着く。佳乃ちゃんはこれから勉強をするみたいだから、僕が行って邪魔をしちゃいけないし、なんとなく、二人がこれから何をするのかも気になる。僕は二人に意識されないようにさりげなく物陰に入って、体を丸くして聞き耳を立てることにした。
「今日はもう来客は無いか?」
「ん? ああ。この時間の来客は皆無だ。閉院時間はとっくに過ぎているしな」
「そうか。それなら……」
往人さんが深く息を吸い込んで、右手を喉へと持って行く。そのまま右手を喉に静かに絡ませると、ほんの少しだけ力を込めて、吸い込んでいた息をゆっくりと口から吐き出した。
……すると。
「……はぁ。やっぱりずーっと男のふりしてるってのも、結構疲れるわね……」
「ふむ。やはりずっと声色や口調を変えているのは、なかなかの負担のようだな」
往人さんが女の人の声色と口調に戻って、二度三度と大きく息を吐いた。聖さんも納得したように頷いて、往人さんのことを静かに見つめている。
「場に私や佳乃しかいないときは、いつでも戻ってもらって構わないぞ」
「そうさせてもらうわ。やっぱりこの方がさ、自分の思ってることとかがそのまま出るわけだし」
とんとんと肩を叩きながら、往人さんがちょっと疲れたように言う。
「で、思うんだけど」
「?」
「なんかさ、あたしが男の時と女の時で、先生の態度微妙に変わってなくない?」
「ほほう。具体的にどの辺りがそう思う?」
「んー。一番おいおいって思ったのは、お昼の身代わりになれとかその辺りかな」
そう言えば、そんなやり取りもあったかな。往人さんの言うとおり、聖さんは往人さんが男の人になってるか女の人になってるかで、微妙に態度が違う気がする。
「君はやはり鋭いな。私自身、君が男の時と女の時とで微妙に印象が違うのを感じているぞ」
「やっぱりねぇ。そりゃ、キャラが全然違うのはあたしだって理解してるけどさ」
「うむ。正直、男口調の君を見ていると、いろいろと言いたいことが出てきてしまうんだ」
「言いたい放題言い過ぎっしょ、先生は……」
帽子の影から優しい瞳を覗かせて、往人さんが言う。こんな仕草を見てると、ああ、往人さんはやっぱり女の人なんだって、僕は改めて思う。
「ふふっ……君は本当に面白いな。君のような人間がこの街を訪れるとは、今年の夏はなかなかに面白いものになりそうだぞ」
「……まー、こっちとしては、もうちょっと人の多い街だと嬉しかったんだけどね。本音として」
「仕方の無い事だ。この街は名産になるようなものも特に無い。少々悲しい事だが、人は減る一方だ」
「んー……景気悪いわねぇ。なんか」
聖さんがコップに冷たい麦茶を注いで、往人さんに手渡す。往人さんは一言お礼を言ってそれを受け取ると、半分の半分くらい中身を飲んで、そのままテーブルにコップを置いた。
「しかし、君はずっと独り旅をしていたのだろう? その割には、ずいぶんと会話術や交渉術に長けていると感じたが」
「交渉って言うと……朝の人形劇の辺りのこととか?」
「それもあるが、天野さんに持ちかけた話のこともある。保育園で子供らに劇を見せるなどというのは、簡単なようでいてなかなか切り出しづらいことだろう?」
「そう? 今までとか結構そーいうので噂を広めといて、本番でかっつりおひねり回収っていう手順を踏んできたからさ、そんなに特別なこととは思えないんけどなー」
往人さんの言葉を聞いて、聖さんが興味深げに頷く。
「……ふむ。どうやら君は、ただ黙って道端に座り込んで客が来るのを待ち、それで人形劇を見せて場当たり的に利益を回収するようなスタイルは取っていないというわけだな」
「そーなるわねぇ。だってさ、夏場にずーっと道端に座り込んでたら、暑さと疲労で行き倒れて棒か何かで突っつかれたりしかねないし」
「ああ。行き倒れたまま犬か死体か何かと勘違いされて、持っていた骨のかけらを施されたりすることだってあり得るぞ。ああ見えて、犬というのは存外風情を理解する生き物だからな」
「分かる分かる。でもって、マジで死に掛ける段になって漁協のおばちゃんが通りがかって、お昼とお弁当をもらって九死に一生を得たりとか……」
二人が互いに言葉を交し合っていると、だんだんとその表情が曇ってきた。
「……気のせいか? 何か、妙なデジャヴを感じたような気がしたんだが」
「……あれ? 先生も? なんかさ、あたしも同じような感覚が一瞬……」
微妙な表情を浮かべあって、二人がお互いの顔を見合う。僕は何となく、これ以上は突っ込まない方がいいような気がしていた。
「……よし、国崎君。この事は忘れよう。この世には忘れた方が良いこともあるものだぞ」
「同感」
頷きあう二人を見ながら、僕も同じ気持ちになった。
「……さて。そろそろ時間だ。私は少々片付けが残っているから、君は先に横になっていてくれ」
「分かったわ。待合室、使ってもいいのよね?」
「ああ。少々手狭だが、君一人なら十分だろう」
二人はもう寝るみたいだ。僕も少し眠くなってきた事だし、佳乃ちゃんの部屋に行くことにしよう。
「……………………」
僕は静かに台所を抜けて、佳乃ちゃんの部屋へと続く階段を昇った。
「ぴこ」
階段を昇りきると、佳乃ちゃんの部屋につながるドアは開いていた。中から光は漏れていない。佳乃ちゃんはもう先にベッドに入っちゃったみたいだ。
僕は前足でちょっとだけドアを開けて、佳乃ちゃんの部屋の中に入った。
「……すー」
「……ぴこぴこ」
僕の予想通り、佳乃ちゃんはもうベッドに入って、気持ち良さそうな寝息を立てていた。今日一日いろいろあったし、眠くなるのも当然のことだろう。なんだか僕も疲れちゃったから、もう寝ることにしよう。
「……………………」
僕は佳乃ちゃんのベッドに飛び乗ると、佳乃ちゃんの腕に寄り添って丸くなった。そのまま静かに目を閉じて、意識を闇へと沈み込ませていく。
「……………………」
体中をまどろみが包み込んで、だんだんと瞼が重くなっていって、そのまま……
………………
…………
……
「……ぴこ?」
僕が目を開けたとき、外はまだ暗闇に包まれていた。
音一つない静寂が、辺りを包み込んでいるような気がした。
眠気に包まれていたはずの僕の体が、不思議と自然に起きだして、眠気はすっかり消えてしまっていた。
「……………………」
ふと隣へ目をやってみると、廊下へと続く部屋のドアが大きく開け放たれていた。
「……………………」
また隣へ目をやってみると、ベッドの上に佳乃ちゃんの姿はなかった。こんな時間に起き出したのは、きっとトイレに行ったからだろう。僕はそう思って、佳乃ちゃんが戻ってくるのを待つことにした。
………………
…………
……
「……………………」
どれだけ待ってみても、佳乃ちゃんが戻ってくる気配はなかった。僕が夜中に目を覚まして二十分は待ってみたけど、物音一つ聞こえてこないのは、さすがにちょっと妙な気がした。
僕はなんだか胸騒ぎがして、このままただじーっとしたままベッドの上にいるのがだんだん辛くなってきた。
僕の目の前には、大きく開け放たれたドアが見える。佳乃ちゃんに開けてもらわなくても、自分だけで外に出られる。
「……………………」
そうと決まれば、話は早い。
「……ぴこっ」
僕は立ち上がって佳乃ちゃんのベッドから降り、まるで吸い込まれていくかのようにして、外へとつながるドアをくぐっていった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。