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第六十五話「A Fatal Typographical Error」

「遠野さぁん! おはようございますだよぉ!」

「……ちっす」

ゆらり、と路地裏に姿を見せたのは、いつもの服装の遠野さんだった。ゆらゆらと踊るように歩きながら、さりげなく佳乃ちゃんの側へと近づいていく。髪に巻かれた青いリボンが風になびいて、ゆらゆらと揺れていた。

「遠野さん、おはようございますだよっ」

「……はい。おはようございます」

遠野さんの姿を見つけたあゆちゃんが、前に出て元気よく挨拶をした。それを見た遠野さんはにっこりと微笑んで、あゆちゃんに返事をして見せた。何気ない、よくある朝の光景だ。

……と、僕が考えていたときだった。

「……ぷひー……」

「あっ! その子、神社にいた子だよねっ」

「……はい。少し、散歩に連れて行こうと思いまして……」

ふと上を見上げてみると、遠野さんの腕の中に、神社で見かけたあのミニ猪が収まっていた。目を閉じて気持ちよさそうに眠るその姿は、なんとなく愛嬌があって可愛らしいものに見えた。そう言えば、神社で見つけたときも眠っていたような気がする。きっと、すごくよく眠る動物なんだろう。

「そうなんだぁ。でも、今は居眠りさんだねぇ」

「……はい。これでは、私とみちるばかり散歩してしまいます」

「あははっ。遠野さん、面白いこと言うんだねぇ」

「……ぽ」

佳乃ちゃんが口に手を当てて笑うのを見た遠野さんが、ほんの少しだけ顔をうつむけて、それを赤らめて見せた。佳乃ちゃんはそれに気づいているのかいないのか、屈託の無い笑みを遠野さんに向け続けていた。

「んに……みなぎー、今度のこと、かのりんに言わなきゃ」

「……そうですね」

蚊帳の外に出されていたみちるちゃんがちょっと不満げな声を上げて、遠野さんに何か言うように催促した。遠野さんはみちるちゃんに頷いて返して、改めて佳乃ちゃんの方を見やる。

「……霧島さん。この間の天体観測会は、楽しかったですか?」

「もっちろぉん! もしかして、またやってくれるのかなぁ?」

「はい。そのつもりで、今準備を進めています」

佳乃ちゃんの言葉に、遠野さんが顔を綻ばせながら頷く。佳乃ちゃんが天体観測会を迷うことなく「楽しい」と言ってくれたことに、少なからず喜んでいるみたいだ。僕も楽しかったけど、あいにく、遠野さんにその気持ちを伝える術を持っていない。僕も人間の言葉を話せたらよかったんだけどなぁ。

「そうなんだぁ……日程とか決まったら、また教えてくれるぅ?」

「……はい。その時はまた、皆さんで一緒に星を観察しましょう」

「うんっ! きっと楽しいよぉ」

「にゃはは。ちゃんと予定を空けとくんだぞー」

「言われなくても分かってるよぉ」

佳乃ちゃんたちがそうしておしゃべりをしていると、横からずずいと伸びてくる影。僕は顔を上げて、その影の根元にある人の姿を見つめた。

「なんだか楽しそうだねっ」

「うんうん。実はねぇ、遠野さんが今度、天体観測会を開くんだよぉ」

あゆちゃんは興味ありげな表情で、佳乃ちゃんの話を聞いている。

「天体観測会? 星を見たりするのかな?」

「……はい。学校の屋上を借り切って、皆さんで星を見る予定です」

「わぁ……楽しそうだねっ。ボクも参加していい?」

「もろ……いえ、もちろんです。もちのろんで、もちろんです」

「え、えっと……今、何か言いかけたけど、な、何だったのかな……?」

「遠野さんもぎりぎりのネタが好きなんだねぇ」

「にゃ、にゃはは……み、みなぎー。そ、それはちょっとまずいと思うぞー……」

引きつった笑みを浮かべるみちるちゃんと、困惑しきった面持ちのあゆちゃんの表情が、この場の雰囲気をすべて語りつくしているような気がした。というか、そろそろこのネタは打ち止めにした方がいいんじゃないかって、僕は思う。

「……ぽ」

 

それからみんなで表へ出て、そこで改めておしゃべりを始めた。

「……霧島さんは、最近お変わりはありませんか……?」

「ぼく? ぼくはいつでも元気満点百点満点だよぉ。遠野さんは元気にしてるぅ?」

「……はい。おかげで、いつでも元気です……ぽ」

「うんうん。よかったよかったぁ。誰かがげんなりさんだったら、周りの人もげんなりさんになっちゃうからねぇ」

遠野さんはあれからずっと、佳乃ちゃんとおしゃべりをしている。

「今日もあっついねぇ。遠野さん、暑いときは無理しちゃだめだよぉ」

「……ありがとうございます。霧島さんも、無理はなさらず……」

「あははっ。ぼくは平気だよぉ。暑いのには慣れっこさんだからねぇ」

「……慣れっこさん……ぽ」

佳乃ちゃんとおしゃべりをしてる遠野さんの表情は、普段よりも心なしか楽しそうに見えた……いや、本当に楽しいんだろう。佳乃ちゃんから片時も目を離さずに、じっとその顔を見つめている。それは、あたかも……

「……………………」

……佳乃ちゃんのことが気になって気になって仕方が無いと、雄弁に物語っているかのようだった。頬に差した赤みが、一段と強くなったように思えた。

「……………………」

そして、そんな二人の姿を見つめる視線が一つ。遠野さんと佳乃ちゃんを交互に見やりながら、その表情を逐一読み取っている。何か言い出す機会を、ただじっと待ち続けているように見えた。

佳乃ちゃんは交錯しあうみんなの視線の中にあっても、いつもと同じペースで遠野さんとおしゃべりを続けていた。

「遠野さんはこれからどこかに行くつもりかなぁ?」

「……はい。みちると一緒に、少し散歩にでも……と」

「そうなんだぁ。それじゃあ、そろそろ……」

そう言って、佳乃ちゃんが話を切り出そうとした、ちょうどそのときだった。

「そうだっ! みちるちゃんっ、ボクと一緒に、川までお散歩に行かない?」

「んに? みちる?」

不意にあゆちゃんが声を上げて、みちるちゃんをお散歩に誘った。みちるちゃんは目を真ん丸くして、あゆちゃんから急に誘われたことに、純粋に驚いているみたいだった。ぱちぱちと目を開けたり閉じたりして、あゆちゃんのことをきょとんとした表情で見つめている。

「そうだよっ。ね? どうかな? ね?」

「……………………」

僕はみちるちゃんを誘うあゆちゃんの目線が、ちらちらと佳乃ちゃんと遠野さんの二人に向けられていることに気づいた。ああ、なるほど。これはあゆちゃんなりの気の利かせ方なんだ。僕はそれに気づいて、みちるちゃんがそれを読んでくれるように願った。

……そして。

「んに。みなぎー、行ってきてもいい?」

あゆちゃんの思いは、みちるちゃんにもちゃんと伝わったみたいだ。あゆちゃんとみちるちゃんはアイコンタクトでそれとなく意思を交わして、二人で一緒にこの場を離れることを確認しあった。少なくとも、僕にはそう見えた。

「……ええ。行ってらっしゃい」

「にゃはは。それじゃあ、げんじゅーろーはみちるが持って行くぞー」

「げんじゅーろー? みちるちゃん、それ、何のことぉ?」

不意の「げんじゅーろー」なる謎の固有名詞の登場に、佳乃ちゃんがくりくりとした瞳を覗かせて、みちるちゃんに問いかける。

「にゃはは。げんじゅーろーっていうのは……」

「……あっ。もしかして、遠野さんが抱いてる……」

「……はい。この子のことです」

「にょわ! みちるが説明する前に全部言われたっ?!」

みちるちゃんの言った「げんじゅーろー」というのは、何のことは無い。遠野さんが腕の中に抱いている、あのミニ猪のことみたいだ。確かに何か名前があった方が、呼んだりするときに都合がいいだろう。僕にも「ポテト」って名前がついてるしね。

「『幻』に『十』に『郎』と書いて、『げんじゅうろう』と読みます」

「そうなんだ……なんだか、かっこいい名前だねっ」

「うんうん。苗字が『牙神』とかだったら完璧だねぇ」

「……ぷひー……」

遠野さんの腕の中で気持ちよさそうに眠っているミニ猪は、「幻十郎」という名前が与えられたらしい。それはいいんだけども、なんとなく、名前と見た目がちょっと釣り合ってないような気もしないではない。

「それでは……みちる、幻十郎をお願いしますね」

「にゃはは。任しとけって……みなぎも、頑張ってね」

「……………………はい」

みちるちゃんと遠野さんは二人にしか聞こえないくらいの小さな声で、そんな会話を交し合った。

「みちるちゃんっ、そろそろ行くよっ」

「にょわ! あゆあゆっ、走るのが早すぎるぞー」

あゆちゃんに呼ばれて、みちるちゃんが走っていく。僕は走り去っていく二人をしばし見送っていたけれども、二人ともすごく足が速くて、しばらくもしないうちに、僕の視界から完全に消えてしまった。

「行っちゃったねぇ」

「……はい。二人は、仲良しさん……」

「うんうん。みちるちゃんとあゆちゃんなら、きっといいお友達になれるよぉ」

「……ええ」

走り去っていった二人を、佳乃ちゃんと遠野さんは微笑みながら見送った。

……そして。

「……あの……」

「どうしたのぉ?」

完全に二人きりになってから、おもむろに遠野さんが口を開く。佳乃ちゃんは遠野さんのほうを向き直って、その顔をまじまじと見つめた。

「……その……」

「……………………」

佳乃ちゃんは遠野さんが話を切り出すのを、黙ったままただじっと待ち続けている。遠野さんは何か言いたげな様子で、ちらちらと佳乃ちゃんの表情を伺っている。佳乃ちゃんはそれを理解しているのかいないのか、表情一つ変えることなく、ただ遠野さんの次の言葉を待っている。

「……………………」

言いたいことを言いあぐねている様子の遠野さんだったけれども、

「……あの……」

やがてゆっくりと面を上げ、佳乃ちゃんを真正面から見やる。

「……もし、よろしければ……」

「うんうん。何かなぁ?」

その口から少しずつ丁寧に、けれども確実に着実に、言葉をつむいでいく。

「これから……」

「これから?」

 

「少し、お付き合いいただけますでしょうか……」

 

「遠野さんと二人でお散歩するなんて、ぼく初めてだよぉ」

「はい。私も、同じです……」

二人は海沿いの道をゆっくりと歩きながら、お互いに言葉を交わしていく。僕はそんな二人の側に付かず離れず距離をとって、静かにその様子を見つめる。

(ざざーん)

二人はあの後、海を臨むこの道までやってきて、そこから改めて散歩を始めたのだ。遠野さんの「お付き合いいただけますか」というのは、何のことは無い。こうやって二人で一緒にお散歩をすることだった。当然、佳乃ちゃんがそれを断ることなんかありえなくて、今こうして二人で海沿いの道を散歩している……というわけだ。

「気持ちいいねぇ」

「……ええ」

いつもと同じペースを保ったまま、佳乃ちゃんが口を開く。遠野さんはその隣で顔をうつむき加減にさせながら、ただ言葉を言い出す機会を伺っていた。

「……………………」

僕は遠野さんのことを見つめながら、その口からどんな言葉が出てくるのか気になって、耳にすべての神経を集中させていた。遠野さんの言葉を、ただの一つも聞き逃すことの無いように……と。

「……………………」

……けれども。

「……ぴこ?」

全身のあらゆる神経を集中させていた僕の丸い耳が真っ先に拾ったのは、佳乃ちゃんの声でも、遠野さんの声でもなく……

「……………………」

その、どちらの声でもなく……

 

「かーっ!」

「わ、そらっ。そんなに走っちゃダメだよ」

 

……そんな、ふたつの声だった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。