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第七十話「To the other side of the SMILE」

「美坂さんに栞ちゃぁん! こんにちはぁ」

「霧島さん、こんにちは」

「こんにちは。ちょっと上がらせてもらってるわよ」

診療所へ戻ってきてみるとそこには、前に霧島診療所に診察を受けに来ていた香里さんと、その妹さんの栞ちゃんの姿があった。二人揃って待合室のソファに腰掛けて、外から入ってきた佳乃ちゃんのことを見つめている。

「栞ちゃん、久しぶりだねぇ。元気にしてたかなぁ?」

「はいっ。おかげで元気に過ごせてます。霧島さんはどうですか?」

「あははっ。同じだよぉ。やっぱり元気が一番だよねぇ」

「ふふふ……霧島君の元気、あたしにもちょっとばかり分けてほしいくらいだわ」

香里さんはちょっと気怠そうな表情を浮かべて、長いため息とともに、腰掛けていたソファにもう一度深く腰掛けなおした。

……と。

「……あら? 霧島君。後ろの人は?」

「俺のことか?」

その拍子に、佳乃ちゃんの後ろに立っていた往人さんと目があった。往人さんは体を少し横へと動かして、その姿をはっきりと二人の前に晒す。そのことで、栞ちゃんも往人さんのことに気づいたみたいだ。

「……あっ。お姉ちゃん、この人、前に堤防にいた人にそっくりです」

「そうだな。たぶん、お前の考えてるとおりの人だぞ」

そう言うと往人さんはさらに一歩前に出て、香里さんと栞ちゃんをしっかりと見つめた。

「俺は国崎往人。流浪の人形遣いで、今はここに居候させてもらってる」

「人形遣いさん……ですか?」

「へぇ……なんだか、面白そうじゃない。人形遣いってことは、人形劇を見せて歩いてる、ってとこかしら?」

「ああ。何なら、今ここで見せてやっても……」

往人さんが自信ありげに、後ろのポケットから人形を取り出そうとした……ちょうど、そのとき。

「悪いが国崎君。その時間はないぞ」

「聖? どういうことだ?」

後ろの診察室から聖先生が現れて、人形劇を始めようとした往人さんを制止した。往人さんは訝しがりながら人形をポケットにしまい込むと、「時間がない」と告げた聖さんのことをじっと見据えた。

「準備が終わったみたいね」

「ああ。これから診察を行うから、人形劇は次の機会にしてくれ」

「……なるほど。そういうことか」

はっきりとした理由を告げられ、往人さんは静かに引き下がる。香里さんが立ち上がって、聖さんと一緒に診察室へと入っていこうとする。

「聖先生、お姉ちゃんのこと、よろしくお願いします」

「心配しなくとも、ただの定期検診だ。手術をしようというわけではないからな」

「そんなに心配する必要ないわよ……それよりも」

心配そうに香里さんを見守る栞ちゃんに、当の香里さんは口元に笑みを浮かべて、ふっと目を閉じた。

「……栞。そっちこそ頑張りなさいよ」

「わ、お姉ちゃんっ!」

ひらひらと手を振って診察室へと入っていく香里さんに、頬を赤く染めてあたふたと慌てる栞ちゃん。聖先生は二人を交互に見つめてちょっと驚いたような表情を浮かべながら、香里さんを連れて診察室へと入っていった。

「ふぇ? 頑張るぅ? 栞ちゃん、山登りでもするのかなぁ?」

「え、えっと……そ、そういうわけじゃないです。あ、えっと、明日の予行演習のことですっ」

「あーっ! そう言えばそうだったねぇ。一緒に頑張ろうねぇ」

「あ、はいっ」

佳乃ちゃんはごく自然に栞ちゃんの隣に座って、その混じりけのない澄んだ青色の瞳で、未だに頬を桜色に染めている栞ちゃんのことを見やった。

「……………………」

一人残された往人さんは、そんな二人の様子をどこか遠回しに見つめながら、さりげなく、二人の座っているところから幾分離れた場所に腰を落ち着けて、佳乃ちゃんと栞ちゃんの様子を観察し始めた。僕は二人の様子が気になったから、佳乃ちゃんの近くにそれとなく座って、二人のことを見守ることにした。

「美坂さん、風邪引きさんになっちゃったんだねぇ」

「はい。お姉ちゃんが風邪を引いちゃうなんて、ちょっとびっくりです」

「そうだよねぇ。栞ちゃんも風邪を引いちゃわないように、ちゃんと髪の毛を乾かしてから寝てねぇ」

「はい。どうもありがとうございます」

いつもの調子に戻った栞ちゃんが、はにかんだような笑顔を見せて返事をする。佳乃ちゃんはそんな栞ちゃんのことをじーっと見つめていたけれども、あるところに来ると、その目をはっきりと見開いた。

……そして。

「栞ちゃん、髪、ちょっと切ったんだねぇ」

不意に、そんな言葉を口にした。急に声をかけられた栞ちゃんがぴくっと体を震わせて、隣に座っている佳乃ちゃんの方にぐるり! と顔を向けた。

「え?! わ、分かりました?!」

「うんうん。ちょっと短くなってるよぉ。さっぱりさんだねぇ」

「えっと……似合ってなかったり……してませんか?」

「そんなことないよぉ。涼しそうだねぇ。ぼくもそろそろ切った方がいいかなぁ」

佳乃ちゃんは栞ちゃんの表情の変化にまったく気づいていないのか、ごくごく自然に、ちょっとだけ短くなった(らしい)栞ちゃんの髪の感想を口にした。対する栞ちゃんはと言うと……

「……!」

うれしそうな、恥ずかしそうな、驚いたような、びっくりしたような、信じられないといったような、はにかんだような、どきどきしているとでも言うような、そんな七色の表情を順繰り順繰りに浮かべて、元に戻りかけていた頬を再び真っ赤に染め上げていた。

「……………………」

往人さんは栞ちゃんの様子を見つめながら、どこか興味深げな表情を浮かべていた。

 

「そうなんだぁ。みんなで旅行に行くんだねぇ」

「はい。ここの反対側の海が見えるところに、一年生の皆さんで旅行しに行くんです」

栞ちゃんの髪の話も一段落ついて、佳乃ちゃんと栞ちゃんがとりとめもない話を始めた。往人さんは興味を失ったのか、帽子を深くかぶり直して、ソファに身を横たえ静かに眠り始めた。

「古河先輩の話だと、新しい人がまた入ってきてくれるみたいですね」

「そうみたいだねぇ。これでまたにぎやかになるよぉ」

「はい。一年生の方も入ってくれるみたいですし、今から楽しみです」

一年生の子……きっと、風子ちゃんのことだろう。入った時期がちょっと遅いし、舞台に立てるかは分からないけれども、あの木彫りのヒトデを一人で、しかもあんなにたくさん作ったというのだから、きっと手先は器用なのだろう。小道具とかを作ったりするのは得意そうだと、僕は思った。

「これで一年生の子は五人になるんだねぇ」

「はい。気がついてみると、結構多くなっちゃいました」

「うんうん。古河さん、いろんな人に声をかけてるみたいだからねぇ」

確かに、あの七夜さんにも声をかけて、しかも入部を本気で考えさせちゃうくらいなんだから、古河さんの勧誘効果は相当なものなんだろう。古河さん自身の演技も上手だったし……なんだか、演劇部に入るために生まれてきた人みたいだ。

「そう言えば……夏風邪を引いちゃう人が、なんだか増えてるみたいですね」

「そうなんだよぉ。長森さんのお母さんも引いちゃったんだってぇ」

「えっ?! 本当ですか?」

「ホントだよぉ。さっき診療所に来たって、往人君が言ってたんだぁ」

「そうなんですか……実はもう一人、風邪を引いちゃった人を知ってるんです」

「えぇ~っ?! 風邪引きさん、また増えちゃったんだぁ……」

「はい……なんでも、仁科さんのお姉さんも風邪を引いちゃって、大変そうにしてるって話です」

「……………………」

僕は二人の話を聞きながら、ちょっとばかり、夏風邪を引いた人が多すぎるような、そんな気がしていた。

僕が知っているだけでも……まず、香里さん。それに、天野さんのお母さん。長森さんのお母さんに、仁科さんっていう子のお姉さん……ひょっとすると、最近立て続けに休職願いを出した保育園の人たちも、夏風邪が原因で熱が出たのかもしれない。

「うぬぬ~。今年の夏はちょっとヘンだよぉ。風邪引きさんが多すぎるよぉ」

「はい……お姉ちゃんも、早く治ってくれるといいんですけど……」

「そうだねぇ。でも、心配しなくても大丈夫だよぉ」

「……はいっ。霧島さんと、霧島さんのお姉さんがついてますからねっ」

「うんうん。ぼくとお姉ちゃんに任せてよぉ」

そう言うと、佳乃ちゃんは栞ちゃんの肩をぽんぽんと叩いて請け合った。

「……………………」

……なんだか二人の様子を見ていると、先輩と後輩と言うよりはむしろ、年の近い姉妹……じゃなかった。兄妹みたいに見えてくるから、ちょっと妙な感じだった。

 

「栞ちゃんは、もう予約したのかなぁ?」

「はい。前売り券の前売り券を、お姉ちゃんと一緒に買いに行ってきたんです」

「うぬぬ~。気合い十分だねぇ。ぼくも負けてられないよぉ」

佳乃ちゃんと栞ちゃんはその後も楽しそうにおしゃべりを続けていたけれども、僕はだんだん眠たくなってきて、二人の話を聞くのをやめてしまった。その場にころんと横になって、何とはなしに、ソファの先に置かれているガラスのテーブルへと目をやった。テーブルの上には、聖さんが読んでそのまま置いたんだろう、折りたたまれた新聞が無造作に放置されていた。

「……ぴこぴこ?」

すると僕の目に、こんな文字が飛び込んできた。

『災七回目の夏 記憶を永』

前と後ろがちょうど僕のいるところからは見えなくなっていて、僕の目からはその十文字だけを読み取ることができた。

「……ぴこ……」

何があったのかは知らないけれど、どうやら僕がまだ生まれてくる前の七年くらい前の夏に、何か大きな災害があったみたいだ。それで、一面に大きめの見出しが出ていたんだろう。気にはなったけれども、僕にはそれが何だったのかについて調べる術はなかった。

「……ぴ……こ……ぴ……こぉ……」

そのままうとうとして、往人さんと一緒に眠りにつこうとした……

……ちょうど、その時。

「終わったわよ」

「あっ、お姉ちゃんっ」

診察室から香里さんと聖さんが出てきて、診察が終わったことを告げた。僕は眠りかけた体をぐぐっと起こして、こちらに向かって歩いてくる二人を見つめた。

「どうでしたか? 大丈夫でしたか?」

「心配ない。ただの夏風邪だ。ただ、少々症状が長引いているようだったから、今日は薬を処方しておこう」

「……はぁ。やれやれね。薬には頼らないつもりだったんだけど」

「まあ、最終的には君の体がものを言う。薬はあくまで、手助けをする存在でしかないからな」

「はい。そうですよね。聖先生」

栞ちゃんがこくりと頷いて、聖さんの言葉に同意する。聖さんは満足げに二度三度と頷いて返事をすると、そのまま、再び診察室へと戻っていく。

「大変だねぇ。明日、学校休む?」

「それほどのことじゃないわ。ちゃんと出席するわよ。伝染さないようにだけ、気をつけておくことにするわ」

「無理はしちゃだめだよぉ。辛いときは、誰かに寄っかかってもいいんだからねぇ」

「……ええ。ちゃんと覚えておくわ」

香里さんはふっと笑って、静かに目を閉じてつぶやいた。

「……さて。検診も終わったことだし、聖先生から薬をもらったら、家で静かに休むことにするわ」

「家のことは全部私がやりますから、お姉ちゃんは早く元気になってください。体のこと、ちょっと心配です」

「大丈夫よ。これは本当にただの『風邪』なんだから」

不安げに寄り添う栞ちゃんをなだめるように、香里さんが言った。こうやって見ていると、本当に仲のいい姉妹なんだなあって、改めて思う。早く元気になって、心配事が消えてくれればいいのに……純粋に、僕もそう思った。

「帰るのか?」

「ええ。人形劇はまた今度見せてもらうことにするわ」

「そうか……ま、見かけたら声でもかけてくれ」

「はい。楽しみにしてますね」

そう言って、二人と(いつの間にか起きていた)往人さんが言葉を交わしあった……

……その時。

 

「すみませんっ。古河ですっ」

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。