――放課後。
「……よしっ。これで準備完了、っと」
ランドセルに教科書とノートを詰め、ともえが帰宅の準備を済ませる。クラスメート達も続々と教室を出始め、残っているのは掃除の担当と、雑談に興じている数名の生徒達のみだった。
「せっかくだから、今日もリアンさんのアトリエに行こうっと」
今日は両親も帰ってこない。多少遅くなっても、何の問題も無いだろう。ともえはそう考え、ランドセルの中に隠しておいたマジックリアクターに触れる。魔法の練習ができると思うと、ともえの心は自然と浮き立つ。意気揚々とランドセルを背負い、教室を出ようとしたともえだったが……
「あ~なた~のた~めな~らど~こま~でも~♪ つ~い~て~ゆ~け~る~わ~た~し~♪」
「……?」
隣の教室から、聞き覚えのある声が聞こえて来た。ともえが気になって廊下を見渡すと、
「せ~つな~いお~もい~をう~たに~して~♪ あ~めふ~るし~んか~い~ち~♪」
「おーい、まりちゃーん!」
「ん? およっ! ともともではぬぁいかっ! 今日も元気っ娘で何より何より!」
「まりちゃんも、これから帰るの?」
「んに。今日も激戦に次ぐ激戦を生き抜いたけれ! とっとこ家に帰って、我が愛しのゆきぽと戯れるぞよ!」
大きな傘を担いだまりえが、楽しげに歩いているのが見えた。特に寄り道もせず、まっすぐ家に帰るつもりのようだ(家に帰ってから一体何をするつもりなのかはともかくとして)。
「まりえちゃん、わたし、一緒に帰ってもいいのかな……?」
「歩美ちゃん? まりちゃんと一緒に帰るんだね」
その後ろから、歩美がひょっこり姿を現す。これから、まりえと一緒に帰るようだ。
「モチのロンぞよ! 困ったときはお互い様々! ↓タメ↑+キックでサマーソルトキック! 雨にゃんか少佐のサマーの前には一刀両断されるのみだぞよ!」
「……雨?」
まりえの言葉を受けて、ともえが窓へ目をやる。
「ホントだ、雨降ってる……」
廊下の窓から覗く外の風景は、雨に濡れて歪んで見えていた。朝から崩れかけていた天気が、夕方になってついに持ちこたえられずに雨降りに発展してしまったようだ。しとしとという音が聞こえるあたり、雨脚はそれなりに強いようであった。
「降水確率は三十パーセントだって言ってたけど……傘、持ってきてよかったよ。お母さんに感謝しなきゃ」
ともえはランドセルに差し入れていた折り畳み傘を手に取ると、ほっとしたように息をついた。あさみに言われて持ってきた折り畳み傘が、まさに役に立つ瞬間であった。
「にょほー。んで、あゆあゆは傘を忘れちったから、まりえと相合傘で帰るというわけぞよ」
「なるほど、そういうことだったんだね」
「うん……まりえちゃんのおかげで、濡れて帰らずに済むよ」
まりえに寄り添いながら、歩美がにっこり笑った。
「そういえば、まりえちゃん……」
「んにゅ? どしたのあゆあゆ?」
「今気付いたんだけど、随分大きな傘を使うんだね」
まりえが担いでいたのは、まりえの背丈よりもさらに幾分長い、大人用の傘であった。周りの生徒達は皆子供用の小さな傘を使っていたから、まりえの大きな傘は殊更に目立って見えた。
「にゅふふー。これは、まりえの宝物ぞよ!」
「へぇー、大切なものなんだねっ」
「うにゅ。どれくらい大切かってーとぉ……」
傘を持ったまま、まりえが腕組みをする。
「……………………」
「……………………」
暫し無言になった後、まりえはおもむろにこう答えた。
「んに! 時の勇者の下突きを着地キャンセルするテクニックと同じくらい大切けれ!」
「そ、そうなんだ……全然分からないけど……」
「うんうん、それは大切だよね! やらないと、隙だらけになっちゃうもん」
「な、中原さん、分かるの?!」
ともえはそこそこのゲーマーのようである。
「あとあえて言うなら、Cでサイドステップしながら移動するテクニック並に大切ぞよ!」
「ぜ、全然分かんないよっ!」
「そうそう、それやらないと、目標タイムがクリアできないからね~」
「えぇっ?! 中原さん、普通に会話してるよっ!」
「いんや~、アラスカ空軍基地は今でも夢に見るけれ。レーザートラップはもうこりごりだぞよ」
その分、弾無制限リロード不要は爽快の一言だ。
「さて! そろそろ帰ることにするけれ! あゆあゆっ、しっかり付いてくるぞよ!」
「うん。まりえちゃん、ありがとうっ」
「二人とも、気をつけて帰ってね」
ともえは二人を見送った後、
「さて、わたしも行こうっと」
間もなく、昇降口に向かって歩き始めた。
萌葱小学校を出て、ともえはリアンのアトリエへと向かう。
「この天気だと、空を飛ぶ練習はできなさそうだね……」
雨脚は徐々にではあるが、確実に強くなってきている。ともえは折り畳み傘を差して、できるだけ身を小さくして歩いていた。萌葱小学校からアトリエまでは、歩いて二十分といったところだった。
「でも、魔法の練習なら大丈夫だよね。リアンさんと一緒なら、きっと楽しいよ」
雨降りの中でも、ともえはつとめてポジティブシンキングだった。何事も前向きに考え行動する事ができるのは、ともえの美点の一つである。
「……………………」
時折ランドセルを背負いなおしつつ、ともえは順調に歩を進めてゆく。もう後五分ほどすれば、アトリエにたどりつく――
「……?」
――ともえが足を止めたのは、その時のことだった。
「誰かいる……?」
ともえが立っていたのは、海沿いの道にある空き地の前だった。かなり長い間手が入っていないのか、草が相当に背丈を延ばしている。片隅には、太い幹を持つ樹がぽつんと立っていた。そして、その下で……
「……………………」
下級生と思しき男の子が、一人で雨宿りをしているのが見えた。遠目から見ても、傘を持っていないことはすぐに分かった。時折空を見上げながら、諦めたように顔を落とす。その動作を、間を空けながら幾度か繰り返す。
(傘を忘れちゃったのかな……)
ともえは少年の姿に釘付けになった。雨宿りをする少年は、春先の雨がもたらす肌寒さに震えながら、止まない雨が止むのを待ち続けている。だが、空模様は芳しくない。雨が止むのは、早くとも夜が更けてからだろう。それまでずっと、こうして木の下にいるというわけにもいくまい。
「……よしっ」
思い立ったときには、ともえはすでに行動を起こしていた。
「どうしたの? 傘、忘れちゃったのかな?」
「えっ?」
まさか声を掛けられるとは思っていなかったのだろう。少年がきょとんとした表情を見せて、ともえの呼びかけに応じた。ともえは優しい表情を少年に向け、穏やかな口調で話しかけた。
「……うん。朝降ってなかったから、大丈夫だと思って……」
「そっか……そうだよね。朝は、曇りだったからね」
沈んだ表情で答える少年。ともえはうんうんと頷きながら、少年に同調した。
「ぼく、体が弱いから……雨に濡れちゃうと、必ず風邪を引いちゃうんだ」
濡れて強引に帰るわけにはいかない理由が、少年にはあった。ともえが少年を見やると、少年は色白で、ほっそりとした体の持ち主だった。恐らく、体がそれほど丈夫でない――朝、珠理に付き添われて保健室へ行った琥珀のように――のだろう。寒さに震える体が、それを如実に物語っていた。
「帰る途中に雨が降ってきて、ここまで走ってきたんだけど……雨が止まなくて、帰れなくなっちゃって……」
「そういうことだったんだね。あなたが、ここで雨宿りをしてたのは……」
ともえが少年の頭に手を置くと、少年は重々しくこくり、と頷いた。どうすればいいのか分からず、ただただ途方に暮れている。そんな調子だった。
「……………………」
少年の様子を見ながら、ともえは一つ、考えをまとめる。
(……うん。やっぱり、こうするのが一番だよね)
正確に言えば、あらかじめ「多分、自分はこうするだろう」と考えていた事を実行に移すための、最後のとりまとめをしたのだ。
「……ねぇ」
……そして。
「わたしの傘、使っていいよ」
「……えっ?!」
ともえは自分が使っていた折り畳み傘を、迷わず少年に差し出した。
「ちょっと小さいけど、でも、雨はちゃんと防げるよ」
「でっ……でも、それだとお姉ちゃんが……」
「わたしは大丈夫! こう見えても、雨に濡れて風邪を引いたことは一度も無いからね!」
胸を張るともえに、少年は戸惑いつつも、差し出された傘にそっと手を伸ばす。
「本当に……いいの?」
「もっちろん! あ……傘、女の子柄だけど、そこは、ちょっと勘弁してね」
両手を合わせて苦笑いを浮かべるともえに、少年の頬が綻ぶ。穏やかな手つきで傘を受け取ると、ともえに明るいまなざしを向けた。
「お姉ちゃん、ありがとう!」
「どういたしまして! 風邪引かないように、しっかり差して帰ってね」
「うん!」
ともえから受け取った傘を開き、少年が樹の下から足を踏み出す。そのまま、少年は家路に着く――
「あっ……」
――と思いきや、少年はぴたりと足を止めた。ともえは不思議に思い、少年に声を掛ける。
「どうしたのかな?」
「えっと……お姉ちゃん、萌葱小学校に通ってるの?」
「そうだよ。もしかして、あなたも?」
ともえの答えに、少年は大きく頷いた。間を置かず、少年が続ける。
「それなら、明日お姉ちゃんの教室に傘を返しに行くよ。だから、クラスと名前を教えて欲しいな」
「ホントに? ありがとう! わたしは四年A組の、中原ともえ、だよ」
「分かった! 四年A組の、ともえお姉ちゃんだね!」
ともえの名前を聞き、少年は満足したように頷く。
「ともえお姉ちゃん! ありがとう! 明日、必ず返しに行くからね!」
「うん! 気をつけて帰ってね!」
傘を差して帰る少年の背中を、ともえはしばし見送る。少年はともえが貸してあげた傘で雨を防ぎながら、空き地から立ち去っていった。
「よかったぁ……これで、あの子も風邪を引かずに帰れるよ」
ともえは安堵した表情を浮かべ、ほっと胸をなでおろすのだった。胸に、ほのかに熱を感じる。純粋に善いことをしたあとに感じる、素晴らしい後味の良さだった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。