「あれは……」
僕らの見ている先にいたのは、水瀬さんと真琴ちゃんと……あと一人、他の二人よりもはっきりと年上だと分かる、女の人だった。シルエットが水瀬さんにそっくりだったから、きっと水瀬さんのお母さんだろうと、僕は考えた。
「どうしたのかなぁ? 真琴ちゃん、なんだか怒ってるみたいだねぇ」
「そうみたいだね。声が震えてるよ」
川名さんとそう言い合ってから、佳乃ちゃんは水瀬さん達のいる方に向かって歩き始めた。それに付いて行く様に、観鈴ちゃんと往人さんも歩いていく。もちろん、僕も遅れないように付いていく。
「水瀬さん、どうしたのぉ?」
「わ、霧島君。これからどこかに行くの?」
「ううん。古河さんのところで試食会があってねぇ、その帰りだったんだよぉ」
「そうなんだ~。また早苗さんが新作を作ったみたいだね」
「うんうん。今日はアイスパンだったんだよぉ」
「……ア、アイスパン……」
佳乃ちゃんから平然と発せられた「アイスパン」の言葉に、水瀬さんは微妙に引いているようだった。パンの中にアイスを入れて焼くなんてアイデア、普通じゃまず思いつかない。そもそも、どうやって焼いたのかも見当が付かない。
「こんにちは。名雪ちゃん」
「わ、川名先輩。もしかして、先輩も試食会に?」
「うん。渚ちゃんに誘われてね。ところで……何かあったみたいだね」
「えっ?」
「ひょっとして、誰かに怒られたのかなぁ?」
「……聞こえちゃってたみたいだね」
水瀬さんは事情を理解したのか、その表情を少し改めて、佳乃ちゃんと川名さんを見やった。
「真琴ちゃんのことだよねぇ」
「あぅ~っ……聞いてよぅ! 真琴が犯人扱いされたのよぅ!」
「何の犯人にされちゃったのぉ?」
「放火よぅっ!」
『放火?!』
「あ、あぅっ?!」
真琴ちゃんの「放火」という言葉に驚いたみんなが一斉に尋ね返したものだから、それに驚いた真琴ちゃんが一歩後ろへと下がってしまった。佳乃ちゃんたちが揃って身を乗り出して、真琴ちゃんに視線を集中させる。
「真琴ちゃん、放火って、どういうことぉ?」
「ひょっとして、誰かが放火しちゃったのかな?」
「とりあえず、どういうことなのか説明してもらおうか」
「どこであったの? いつあったの?」
「あ、あぅ~……」
質問攻めに遭って、真琴ちゃんがたじろぐ……と、その時。
「私が代わりに説明しますね」
「あ、秋子さん……」
隣にいた水瀬さんにそっくりな女の人――どうやら、「秋子さん」というらしい――がすっと真琴ちゃんの前に出て、代わりに説明を買って出た。一同、視線を真琴ちゃんから秋子さんへとスライドさせる。
「ついさっき聞いた話なんですが……」
「……………………」
「昨日の夜に、誰かがこの町の北にある掲示板に火をつけたみたいで、真っ黒に焼け焦げていたらしいんです」
「掲示板に……火を?」
「ええ。夏祭りのポスターが火元になったみたいで……誰がやったのかは分かりませんが、いい話ではありませんね」
秋子さんは落ち着いた調子で言うと、ふっと目を閉じて頬に手を当てた。その表情はどこか物憂げで、そして悲しげに見えた。
「……佳乃ちゃん。夏祭りのポスターって言えば……」
「うん。ぼくも同じことを考えてたよぉ」
「ひょっとして、あのポスター切り裂き魔のことか?」
「そうだね。私は関係あると思うな」
僕も川名さんと同じ考えだった。その放火犯は、どう考えてもポスターを狙って火を放っている。切り裂くだけでは飽き足らずに、ついにポスターを焼き始めた。僕にはそう思えて仕方なかった。
「秋子さん。それ、誰から聞かされたのかな?」
「確か……この近くにある高校の三年生の方で、男の子でしたね。メガネをかけていて、隣に女の子を連れていましたよ。何でも、生徒会一同で、この辺りの見回りをしているとか……」
「……あっ。あの人だね。一緒にいる子はまでは分からないけどね」
「うん。わたしもあの人だと思うな」
「……………………」
秋子さんと川名さんの言葉を聞いて脳裏に浮かんできたのは、この間出会ったあの男の子の姿。あの時の光景――佳乃ちゃんが何も言い返せずに、ただ拳を震わせていた、あの光景――を少し思い出すだけでも、胸がちくちくと痛んだ。それは佳乃ちゃんも同じだったのか、佳乃ちゃんは口を硬く閉じたまま、何も言おうとはしなかった。
「でも、どうして真琴ちゃんが疑われたんだろう……?」
「あぅ~……」
「えっとね、その人が言うには、前に真琴ちゃんがライターを持って歩いてるところを目撃したから、だって」
「ライター? そんなもの、何に使うつもりだったのかな?」
「祐一に復讐するつもりだったのよぅ」
「……え?」
真琴ちゃんから出た「復讐」という言葉に、川名さんが戸惑ったような反応を見せる。すると今度は水瀬さんが前に出て、川名さんに事情を説明し始めた。
「……えっと、手短に話すと、真琴が祐一にイタズラしようとして、その目的で使うつもりだったんだよ」
「イタズラで放火するのか?」
「違うわよぅ! ね、ねずみ花火を使って脅かそうとしただけよぅ!」
どちらにしろ、半端なく危なっかしいなと、僕は思った。
「真琴、あれは祐一が起きてたから大丈夫だったけど、もう二度とやっちゃだめだよ」
「あ、あぅ~……うん……」
「……………………」
「うーん……火事にならなくてよかったけど、もうやらない方がいいと思うよ」
往人さんは半ば呆れた様子で、水瀬さんに諌められる真琴ちゃんを見つめていた。川名さんはごくごく当然の言葉を付け加えて、その会話を終わらせた。
「……あっ、霧島君。この人、霧島君の友達かな?」
「そう言われてみると、見かけない方ですね。最近ここにいらっしゃったんですか?」
「おっと、自己紹介がまだだったな」
「あぅ?」
往人さんはそう言うと、水瀬さん達の前に足を一歩踏み出した。
「俺は国崎往人。流浪の人形遣いだ。今は佳乃のところで厄介になってる」
「……あっ! 観鈴ちゃん、もしかしてこの前話してくれた人形遣いの人って……」
「うん。往人さんのこと。黒い服の人形遣いさん」
「わ~。この人のことだったんだ。霧島君の家にいるって、本当?」
「そうだよぉ。住み込みで働いてくれてるんだぁ」
「そうですか……国崎さん、この町の住み心地はどうです?」
「まだ来たばかりだからなんとも言えないが……ま、悪くは無い」
往人さんの言葉に、秋子さんはにっこり微笑んで頷いた。
「えっと……私は水瀬名雪。霧島君と同じ学校に通ってるんだよ。この子は真琴。私の妹だよ」
「妹……なのか?」
水瀬さんが真琴ちゃんを「自分の妹」と紹介したことに、往人さんは少なからず戸惑いを見せていた。往人さんの戸惑いは僕にも分かる。二人が姉妹だと言うには、顔立ちや性格といった特徴が、あまりにもかけ離れすぎていると思ったからだ。
けれども、
「うん。そうだよ」
「うん。妹よぅ」
「ええ。名雪の妹なんですよ」
「……そうか」
三人に半ば押し切られる形で、往人さんは渋々納得した様子だった。ここにもきっと、僕には分からない事情があるのだろう。
「私は水瀬秋子です。どうぞよろしくお願いします」
「ああ、こちらこそ。また何か機会があったら、その時はこっちもよろしく頼む」
「はい。困ったことがあったら、いつでも声をかけてくださいね」
朗らかな笑みを浮かべる秋子さんを、往人さんはいつもの表情と姿勢を崩すことなく見つめていた。
……と、その時。
「あっ!!」
「ぴこ?」
不意に僕に向かって、誰かが驚いたような声を投げかけてくるのが分かった。僕はずずいと顔を上げて、その声の主を探してみる。それは……
「いぬーいぬー」
「ぴこっ?!」
「わ、水瀬さん、目がなんだかすごいことになってる」
「細かいことは分からないけど、名雪ちゃんのスイッチが入っちゃったのは分かるよ」
「水瀬さん、ポテトのことが大好きなんだねぇ」
「いぬーいぬー」
……水瀬さんがまるでロボットのような的確な足取りで、僕を捕獲しようと接近してくる。僕は別に逃げる必要は無かったんだけど、水瀬さんのあまりの変貌振りに、内心ちょっと怖くなっていたというのが偽らざる本音だ。僕はこの後に訪れる水瀬さんのほお擦り攻撃に備えて、身をしっかりとちぢこめておくことにした。
「いぬーいぬー」
「ぴこぴこー」
「ぴこーぴこー」
「ぴこー」
僕はあっさり抱きしめられて、水瀬さんの頬ずりの嵐を受けることになった。水瀬さんの頬はそれこそお餅のように柔らかくて気持ちよかったんだけども、あんまりにも勢いが激しいから、摩擦熱でだんだんと僕の体が熱くなっていくのが分かった。抱きしめられているから、逃げようにも逃げられない。
「ぴこーぴこー」
「ぴこぴこ……」
「ぴこーぴこー」
「……ぴこっ?!」
「わわわ~! 水瀬さんっ、お持ち帰りは禁止だよぉ~」
水瀬さんが僕を抱きしめてそのままの勢いで帰ろうとしたから、気づいた佳乃ちゃんが慌てて止めに入った。水瀬さんの肩をがしっと掴んで、それ以上先に進ませないようにした。
「う~。だって、かわいいんだもんっ」
「ポテトは可愛いけど、お持ち帰りはダメだよぉ」
「じゃあ、テイクアウト、だよっ」
「同じ意味だよぉ」
「……………………」
このやり取りを見ていた往人さんが、不意にこんなことをつぶやいた。
「……そういえば前に商店街であゆを追っかけてたのは、こいつだったな……」
往人さんにとって、それは単なる独り言に過ぎなかったに違いない。実際、僕もこの往人さんの言葉に、独り言以上の意味があるとは思えなかった。往人さんは以前の水瀬さんとあゆちゃんの追跡劇をどこかで目撃していて、その事に付いてほんの少し口にした。僕には、その程度のことにしか思えなかった。
……けれども。
「……あゆ?」
「……ん?」
その独り言に、とても意外な人物が反応をして見せた。往人さんもそれに気づいたのか、おもむろに顔をそちらへと向ける。
「もしかして、その『あゆ』というのは、月宮さんのことですか?」
「ん? ああ。月宮あゆって子だ。いろいろあって、今日一緒に朝飯を食ったんだが……」
「……そうですか……」
「……………………」
秋子さんはほんの少し、ほんの少しだけ表情を曇らせて――それは、本当によく見ていないと分からないほど――、静かにつぶやいた。往人さんと秋子さんの他に、この会話に介在している人はいなかった。
「……そうですね。きっと、そうですよね」
「……どうかしたのか?」
「いえ、こちらのことです。変なことを聞いてしまって、すみませんね」
「いや……」
秋子さんはここで会話を切ってしまうと、そのまま目線をそらしてしまった。往人さんはどこか物足りなささげな表情をしながらも、それ以上会話を続けようとはしなかった。
「う~、真琴っ、絶対に離しちゃダメだからねっ」
「うんっ。真琴はいつだっておねーちゃんの味方だからねっ」
「うぬぬ~っ。お持ち帰りは禁止だよぉ!」
「霧島くんっ、ふぁいとっ」
「……ぴこぴこ」
僕は左右に引っ張られながら、往人さんの様子にだけ気を向けておくことにした。
「それじゃあ、また今度ねぇ」
「う~……また連れてきてくれるよね?」
「うんうん。連れてきてあげるから、安心してねぇ。でも、お持ち帰りは禁止だよぉ?」
ひと悶着あった後、僕らはようやく解散することになった。観鈴ちゃんと川名さんは水瀬さんたちと同じ方面に帰るみたいだから、これでようやく、佳乃ちゃんと往人さんの二人だけになることになる。
「あ、観鈴ちゃん。前に言ってた勉強会、いつやるのかな?」
「えっと……もうすぐできればいいけど、まだ予定が決まってないの」
「それじゃあ、また都合のいい日に電話してね。来るのは……確か、茂美ちゃんと渚ちゃんと、あと瑞佳ちゃんだったよね」
「うん。みんなで力をあわせれば、宿題も怖くない。にははっ」
「そうだね。頑張って終わらせちゃおうねっ」
大きなグループが二手に分かれ、それぞれの家路を行く。
「でも、鋏で切るだけじゃなくて、放火までしちゃうなんてね……怖い話だよ」
「そうですね。川名さんも、十分気をつけてくださいね」
……………………
「え? 観鈴ちゃんも?」
「うん。遠野さんが言ってたんだよ。水瀬さんにそっくりな小さな子を見かけたって」
それを見送ってから、佳乃ちゃんと往人さんも歩き出す。
「それじゃ佳乃、そろそろ帰るか」
「そうだねぇ」
揃って歩く二人に遅れないように、僕も一緒についていく。
夕焼けに照らされて長く伸びた影が、どこまでもどこまでも、続いているのが見えた。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。