「ごちそうさまでしたぁ」
「お粗末様。今日も残さず綺麗に食べたな」
「もちろんだよぉ。食べ物の恨みは怖いからねぇ」
「微妙に使いどころを間違えてるぞ、それ」
夕飯が済んで、佳乃ちゃんと聖さんが食器の片づけを始めた。今日の洗い物当番は佳乃ちゃんのようで、聖さんがまとめた食器を手際よく洗っていく。往人さんはそれを見ながら、食器の無くなったテーブルを布巾で拭いていた。
「今日は食器が少なくてらくらくさんだねぇ」
「うむ。洗い物はなるべく少なくするに限るからな」
「……………………」
二人の息のあった片づけ風景を、往人さんはどこか不思議そうな面持ちで見つめていた。どちらかというとその視線は、洗い場に立っている佳乃ちゃんに対して向けられているように思えた。
僕は何もすることがなかったから、みんなの邪魔にならないようにだけ気をつけて、部屋の隅でくつろいでおくことにした。
「終わったよぉ」
「ご苦労様。今日はもう散歩には行かないのか?」
「そうだねぇ。部屋が散らかっちゃってたから、お片づけをしてくるよぉ」
洗い物を終えた佳乃ちゃんは聖さんにそう告げると、とてとてと階段を上って自分の部屋へ引っ込んでしまった。
「……………………」
「……………………」
後に残ったのは、聖さんと往人さんだけ。往人さんは首をぐるりと回すと、ごくごくさりげなく、聖さんに食卓に着くよう促した。
「……ふむ。また、私と君だけになってしまったな」
「ま、その方が落ち着いて話ができるんじゃないか?」
その言葉とともに、往人さんが野球帽を脱ぐ。ばさっ、という音が聞こえて、帽子の中に納められていた長い長い銀色の髪の毛が、ほぼ一日ぶりにその姿を現した。
「今日も一日ご苦労だったな」
「いや、大したことじゃないから。頭ん中がちょっと暑いくらいね」
「それもそうだな」
聖さんは軽く笑ってガラスのコップを取ると、麦茶を注いで往人さんにすすめた。往人さんはおもむろにそれを受け取って、軽く口を付けて喉を潤した。同じようにして自分のコップにも麦茶を注ぐと、聖さんは再び席に着いた。
「それにしてもさ……先生、風邪引きが多いって言ってたけど、それ、マジみたいね」
「まったくだ。佳乃と君が出かけている間にも、五人新しい患者が来た。揃って夏風邪だ」
「その言い方だと、ここが元々夏風邪が流行りやすい場所、って訳でも無いみたいね」
「ああ。ここに住んで随分になるが、ここまで夏風邪の患者ばかり診た夏は無かったな」
麦茶に一口口を付けて、聖さんが困り顔で言う。医者の聖さんが言うくらいなのだから、それは決して誇張でも何でもない、医者の視点から見た確かな言葉なのだろう。僕はそう思った。
「君も気をつけた方がいい。医院の関係者に病人がいたのでは、診察もままならないからな」
「大丈夫だって。あたし、こう見えても体強いからさ。風邪なんて引いたことないわ」
「ほほう……それは面白いことを聞いたぞ。どうだ。その体を医学の発展に差し出す気はないか?」
「パスしとくわ。まだまだやりたいことあるしね」
往人さんは聖さんの言葉を笑ってかわすと、とんとんと肩をたたいて天井を見やった。
「……ところでさ、あんまこういうこと聞くのってどうかと思うんだけど……」
「ふむ。どうした?」
「お昼の患者さん、先生に一体何相談してたの? 診察室の外まででっかい声が聞こえてきたからさ、切羽詰まった相談なのは分かるけど」
「……………………」
聖さんは無言で目を閉じると、そのまま腕組みをして大きくため息を吐いた。
「……本来、患者のプライバシーに関わることは口にすべきではないのだが……」
「ま、それはそうね」
「分からない程度にぼかして言うのなら、とりあえず拳銃で撃たれるのだけは勘弁してくれ、ということだそうだ……」
「……先生って大変ね。そんな相談も受けなきゃいけないんだから」
「まったくだ……回避策の提示のしようがない。選択肢がないのだからな」
麦茶を半分ほど飲んで、聖さんが息をついた。
「……ふむ。どうやら、また古河さんのアイデアが炸裂したようだな」
「また、ってことは、こういうのってしょっちゅうあるわけ?」
「ああ。しょっちゅうだ」
話は往人さんと佳乃ちゃんが出かけた試食会のものになっていた。往人さんが、早苗さん提案・開発の新作パン「アイスパン」について説明すると、聖さんはだいたいの予想をつけていたのか特に驚くこともなく、淡々とした面持ちでその言葉を聞き入れた。
「じゃあさ、他にはどんなのがあったかとか、知ってる? ちょっと興味あるんだけど」
「率直に言おう。聞かない方がいいぞ。聞いただけで食欲減退請け合いのシロモノばかりだからな」
「そんなこと言われたら余計に気になっちゃうんだよねー、あたしって」
「……そうか……ならば、心して聞くといい」
聖さんは一旦間をおくと、おもむろに口を開いて、過去に早苗さんがリリースしてきたパンのラインナップを並べだした。
「……おそばパン」
「……はぁ?! そば?! そばをパンにつっこんで焼いたって訳?!」
「……うどんパン」
「いやそれ、中身がうどんに変わっただけだし!」
「……カレイパン」
「冗談でやってるとしか思えないんだけどそれ」
「……ぶどうパン」
「あれ? それって普通に食べられ無くない?」
「……巨峰が皮付き・種ありで丸ごと入っていたとしてもか?」
「……………………」
「……まだ聞きたいか?」
「いや……そろそろ心理的にお腹いっぱい」
往人さんは「頭が痛い」と言わんばかりに額に手を当てて、ぶんぶんと頭を振った。聖さんは思い出すのも勘弁、といった面持ちで、小さくため息を吐いた。
「こんな感じだ。毎度毎度、パンの常識を遙かに超越したものとパンを華麗に組み合わせている。あの人の感性は恐ろしいぞ」
「……アイスパンって、はっきり言ってまだまともな部類に入るシロモノだったってわけね……」
空になったコップをくるくると回しながら、往人さんがつぶやいた。
「それでもさ、えっと……渚ちゃんだっけ? あそこにいた女の子って」
「ああ、そうだ。古河渚。小さい頃から見ているが、とてもいい子だな」
「ふぅん……それでさ、渚ちゃんからパンの売れ残りをもらって食べてみたんだけど、アイスパン以外は普通にイケてたんだよね。どゆこと? あれ……」
「ふむ……単刀直入に言うなら、古河さんの父上が焼いたパンは何の問題もなく食べられるんだ。むしろ、商店街で手に入るパンの中では一番美味だな」
「なるほどね……よく分かったわ」
往人さんと同じく、僕もどうしてあの店がちゃんとやっていけているのか、これではっきりと理解することができた。
「今日はいなかったみたいだけど、出張サービスでもやってるの?」
「そこまでは分からん……が、前に少し聞いた話だと、子供たちと一緒に野球をしているのを目撃されたらしい」
「……野球?」
「ああ。しかも、本気で」
「……………………」
古河さんのお父さんとお母さんは、揃ってどこかお茶目な人みたいだった。お茶目、という言葉で括りきれる自信はまったく無かったけど、とりあえずそういうことにしておいた。
「……この町ってさ、面白い人多いよね」
「それは褒めているのか貶しているのか、分かりかねるな」
「いやさ……朝早くからうちにやってきて一緒にご飯食べる子がいたり、肩にカラスを乗せた子がいたり……」
「……………………」
「不思議系をそのまま人間にしたような人がいたり、痩せの大食いって言葉じゃ足りないくらいよく食べる子がいたり……」
「……そうだな。確かに、個性のある人が多いというのは認めよう」
口元に笑みを湛えて、聖さんが言った。
「ところでさ、一つ気になってたことがあるんだけど」
「うむ。どうした?」
そろそろ時計が九時を指そうとした頃、往人さんが聖さんに不意に声をかけた。
「先生さ、真琴っていう子、知ってる?」
「知っているぞ。水瀬さんのところの子だろう。あの子がどうかしたのか?」
「大したことじゃないんだけどさ……」
長い髪を後ろへやりながら、往人さんが問いかける。
「あの子と名雪ちゃんって子、姉妹なんだよね?」
「私はそう聞いているが……」
「うん。あんまりこういうこと言わない方がいいんだろうけど……本当に姉妹なの?」
「というと?」
「姉妹にしちゃさ、顔立ちとか髪の色とか、あんまり似てないような気がするんだけど……」
この言葉に、聖さんは椅子に深く座り直して、大きく息をついて答えた。
「……どうやら、いろいろと事情があるらしい。私にもうかがい知れないところでな」
「そう……」
真琴ちゃんと水瀬さんの関係については、聖さんも詳しいことは分からないようだった。往人さんはそれ以上つっこんだ質問をしようとはせず、そのまま口を閉じた。
「ところで、君はどこで水瀬さんたちに出会ったんだ? 帰り道か?」
「そうそう。帰ってる途中に出会って、このあたりの学校の生徒会の人間に放火犯と疑われた、って話を聞いたのよ」
「……放火犯? どういうことだ?」
「あたしも詳しいことは分からないんだけど……どこかの掲示板に貼られたポスターに火が付けられて、掲示板ごと燃えちゃったんだって」
「なんだって……?!」
往人さんから放火の話を聞かされた聖さんが、目をかっと見開いて往人さんを見やった。往人さんは真剣な面持ちのまま、聖さんの様子を見ていた。
「……思うんだけど、これって前に川名さんが言ってた、掲示板にハサミが突き刺さってたって話と関係あるんじゃないの?」
「無いとはとても思えんな……しかし、ついに火を持ち出したか……」
「そうみたいね……この分だと、標的が人間に変わるのも時間の問題ね」
「……………………」
聖さんは俯いただけで、はっきりと返事はしなかった。けれどもその表情に、不安と憔悴がはっきりと現れているのは、誰の目にも明らかだった。
「……用心するに越したことはないわね」
「……当然だ」
「さて……そろそろ寝ることにしようか。夜更かしは厳禁だからな」
「それもそうね。先生も疲れてるっしょ」
「甘いな……君に労られるほど、ヤワな体はしていないぞ」
「そりゃ結構」
最後にそんなことを言い合って、二人のおしゃべりはお開きになった。僕はそれを見届けて、台所を後にする。
「……ぴこぴこ」
朝からいろいろあって疲れちゃったから、僕もそろそろ寝よう。佳乃ちゃんの部屋の片づけも、もうそろそろ終わっているだろう。階段を上って、佳乃ちゃんの部屋へと歩いていく。
「……………………」
佳乃ちゃんの部屋の入り口から、微かに光が漏れているのが見えた。ドアは開いている。少しでも開いていさえすれば、僕は体をねじ込んで中に入り込むことができる。ドアに前足をかけて、部屋の中に入った。
「……くー……」
「ぴこぴこ……」
部屋の中に入ってみると、片付けの途中で疲れちゃったのか、佳乃ちゃんはベッドの上に倒れこんで気持ちよさそうに眠っていた。起こすのも何だったから、僕は佳乃ちゃんの隣について、その身を横たえた。
「……………………」
そのまま目を閉じると、だんだんと体が重くなっていくような感じがして、そうかと思うと、今度は体が宙に浮かぶような感覚に変わって――
――僕の意識は、そこで途絶えた。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。