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第七十九話「Stereo Mixer」

「……………………」

真っ暗な世界を切り開くように、柔らかな光が差し込んできた。それを合図にして、深い眠りについていた僕の意識が覚醒のプロセスをたどり始める。

「……ぴこ……」

薄く開かれていた目を半分ほど開けると、そこにはぼんやりとぼやけた世界が広がっていた。体に伝わる微かに熱を持った敷き布団の感触が、何とも言えず気持ちがいい。

「ぴこぉ……」

小さく欠伸をし、涙で瞳を洗い流す。そうして少しクリアになった視界で隣に目をやると、そこにはもう佳乃ちゃんの姿はなかった。僕より先に目を覚まして、もう下へ降りちゃったんだろう。

僕も行こう。

 

「今日はどこかに行くのか?」

「そうだよぉ。学校で大事な集まりがあるんだぁ」

下に降りてみると、佳乃ちゃんはてきぱきと朝食の準備をしながら、しゅこしゅこと歯を磨いている往人さんと立ち話をしていた。どうやら言葉通り、今日は学校で大事な集まりがあるらしい。

「ぴこぴこっ」

「あーっ! ポテトぉ! おはようございますだよぉ」

「ぴっこり」

僕は佳乃ちゃんと朝の挨拶を交わして、待合室のソファに体を沈み込ませた。

「国崎君。悪いが、水やりに行ってきてくれ」

「分かった」

「あ、ぼくも一緒に行くよぉ」

「別に水やりに二人がかりで行くこともないだろ」

「えぇ~っ? でも、往人君だけじゃ心配だよぉ」

「何がだ?」

「お水と間違って溶岩をあげちゃったりしたら、ひまわりが燃えちゃうからねぇ」

「お前の家の裏には溶岩の溜まり場でもあるのか……?」

こんな何気ない風景を描き出しながら、霧島診療所の朝の時間はゆっくりと流れていく。

 

「それじゃあ、行ってきまぁす!」

「ああ。怪しい人にはくれぐれもついて行くんじゃないぞ」

「分かってるよぉ」

いつもと変わらないお出かけの挨拶をして、佳乃ちゃんが診療所から飛び出した。その後ろに、僕も何気なくついて行く。

「あっ、ポテトも一緒に来る?」

「ぴこぴこっ」

学校までのお見送りをして、それから家に戻ってこよう。僕はそう考えて、佳乃ちゃんの問いかけに頷いて返した。てっきり、僕は学校の中には入れなくて、入り口でお別れするものだと思いこんでいた。

「うんうん。そうだねぇ。みんなポテトのことが大好きだから、連れて行ってもいいよねぇ」

「ぴこ?」

「ポテトだったら、部屋の中でもおとなしくしてられるもんねぇ」

「……ぴこぴこ」

けれども佳乃ちゃん的にはそうではなかったらしくて、僕は学校の中にまで一緒についていくことになってしまった。別に嫌な訳じゃなかったけど、僕が学校の中にまで入り込んで本当に大丈夫なのか、それは少し気になることだった。

そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、佳乃ちゃんの足取りは軽くて速い。僕はそれに遅れまいと、小さな足をちょこまかと動かして付いていく。もうちょっと僕の足が長かったら、もっと楽について行けるのなぁ……僕がそんな些細なことを考えていた、ちょうどその時。

「あっ、霧島さん。おはようございますっ」

制服を着た栞ちゃんが、横道からひょっこり顔を出した。いつもと違う格好をしていたけれども、その表情・その声は紛れもなく、昨日美坂さんと一緒に診療所を訪れた、栞ちゃんのものだった。

「おはようございますだよぉ。今日も朝からあっついねぇ」

「はい。こんなに暑いと、アイスが溶けちゃいます」

「うぬぬ~。でも、暑いときに食べるアイスはおいしいよねぇ、アイスと一緒にほっぺたもとろけちゃいそうだよぉ」

「霧島君だったら、夏でも冬でも、ついでに春でも秋でも美味しく食べられるんじゃないの?」

隣には、その美坂さんの姿もあった。昨日よりかは幾分元気そうで、顔色も悪くない。ただ、やっぱりちょっと熱っぽそうな感じがした。風邪がまだ治りきっていないのだろう。

「うぬぬ~。それって、ほめてるのかなぁ?」

「言葉通りよ」

「わ、お姉ちゃんの得意技です」

楽しげに話す三人の姿を見ていると、ああ、僕もこの中に混じって一緒におしゃべりをしたいなあ、なんて考えが、むくむくと頭をもたげてくるような気がした。僕が人の言葉を話せたら、まずなんて言うだろう? 考えてみるだけでも、いろいろと楽しかった。

「さ、こんなところで話してても何だし、部室に行きましょ」

「そうだねぇ。部長さんが待ってるよぉ」

この中では間違いなく一番まとめ能力の高そうな美坂さんが先陣を切って、学校への道を三人そろって歩き始めた。

 

「えっと……今日は確か、新しく入ってくる人の紹介があるんですよね」

「そうよ。渚から聞いた話だと、三人と二人、新しい人が入るみたいだわ」

「三人と二人? それって、どういう意味かなぁ?」

「三人はまったく新しい部員で、残りの二人は深山部長が助っ人を頼んで来てもらった人だって聞いたわ。部長の知り合いって言うくらいだから、多分、三年生ね」

学校へと続く平坦な道をたどりながら、佳乃ちゃんたちはそんな会話を交わしていた。三人と二人。単純計算で言えば、五人も新しい人が入ることになる。元々いた人と合わせると、かなりの人数になるのは明らかだ。

「昨日伊吹さんが入るっていうのは聞きましたけど、後の二人は誰なんでしょう?」

「それはまだ分からないわね。そう言えば伊吹さんって、あの伊吹先生の……」

美坂さんが口元に手をやって、その言葉の続きを口にしようとしたときのことだった。

「妹、だぞ」

後ろから、佳乃ちゃんとも栞ちゃんとも美坂さんとも違う第四の声が飛び込んできた。後ろを向いた佳乃ちゃんと、その声の主との目がバッチリ合った。

「あっ、北川君だぁ! おはようだよぉ」

「よっす。美坂もいっしょだったか」

「ええ。道、途中から合流してるから」

「北川さん、おはようございます」

「ああ、おはよう」

佳乃ちゃんの背後にいた北川君がさっとその隣に回り込んで、佳乃ちゃんの左隣についた。

「噂じゃ、木彫りの星を配り歩いてるって聞いたぞ」

「木彫りの星? それ、どういうことですか?」

「言葉通りだ……って、それじゃ美坂の台詞だな。俺も詳しいことまでは聞いてない」

「案外、お星様じゃなくてヒトデだったりしてねぇ」

「木彫りのヒトデ……いくらなんでもそれは無いわね、多分」

……本当は佳乃ちゃんが正解なんだけど……とは言い出せないのが、僕にはちょっと歯がゆかった。

 

「なあ霧島に美坂。最近、駅前の本屋の近くに警官が立つようになったこと、気づいてたか?」

四人揃って道を歩いていた時、北川君がおもむろに口を開いた。その言葉を耳にした佳乃ちゃんと美坂さんが、揃って視線を北川君へと向ける。

「知らなかったよぉ。美坂さんはぁ?」

「あたしも知らなかったわ。ねえ北川君、それ、いつぐらいからかしら?」

「詳しいことは俺にも分からないんだが……少なくとも、二日くらい前からは見かけるようになった気がするな。本屋の前でずっと立ってるから、嫌でも目に付いたんだ」

「万引きが増えたんでしょうか……?」

「そうかも知れないな……何にせよ、穏やかじゃないよな」

北川君の話を耳に入れながら、僕はふと、北川君の言っていた「二日くらい前」に、どこかでこれに関わるような話を聞いた覚えがあることに気がついた。

(…………)

それが何だったのか、ということまでは、ちょっと思い出せそうになかった。ただ、本屋に関わるよくない話を小耳に挟んだ。それは間違いなく僕が体験したことで、疑いようのないことだった。

「しかし、本を盗むやつがいるなんてな……一ノ瀬が聞いたら、間違いなく怒るだろうな」

「そうだねぇ。ことみちゃんは本を大切にする人だからねぇ」

「いつも思うんだけど……あたしには、あんなにたくさんの本を崩さずに持っていけるバランス感覚のほうが、万引き犯よりもよっぽど気になるわね」

それは、僕も同じだと言わざるを得なかった。

 

「とうつき~」

「えっと……」

『到着』

「えぅっ、二人同時に左右から言わないでくださいっ。ステレオ効果でびっくりしちゃいました」

そんなやり取りをしているということは、もう学校に着いたということだ。正門をくぐって、佳乃ちゃんたちが学校の中へと進んでいく。

「人が少ないねぇ」

「そうですね。やっぱり、夏休みですから」

「そう言えば、夏休みの特別課題、まだ終わらせてなかったな……」

「あたしもよ。夏休みくらい、勉強のことを忘れさせてほしいものね」

「まったくだな」

何気ない言葉のやり取りをし合いながら、佳乃ちゃんたちは歩いてゆく。

「……………………」

校舎に入って靴を履き替え、誰もいない静かな廊下を歩いていく。こつん、こつん、とリノリウムを叩く静かな音だけが聞こえて、どこか不思議な感覚にとらわれるのを感じた。

「人の少ない学校ってのは、ずいぶん雰囲気が違うもんだな……」

「そうですね……夏休みの学校って、なんだか寂寥感があって、ドラマみたいじゃないですか?」

「残念だけど、ドラマのジャンルは学園ものに限定されちゃいそうだけどね」

「むー。そんなこと言うお姉ちゃん、嫌いです」

「あははっ。二人とも、仲良しだねぇ」

そんな風におしゃべりをしているうちに、どうやら目的地の教室にたどり着いたみたいだ。

「結構来てるみたいね」

「そうだな。俺達も入るぞ」

「うんうん」

北川君が戸を開けて、その隙間からみんなが中へと入り込んでいく。

それをまず、出迎えたのは……

 

「おはよう霧島君。それに北川君と美坂さん」

 

部長さんの深山さんだった。穏やかな視線をこちらに向けて、落ち着いた調子で挨拶を交わした。

「おはようございますだよぉ。もうみんな来てるのかなぁ」

「みんな、って訳じゃないけど、ほとんどの人が来てるわね。後はいつもの遅刻組を残してるだけだわ」

「ってことは……あいつ、夏休みでも変わってないみたいだな」

「今度はどう言い訳するか、ちょっと楽しみね」

北川君と美坂さんが互いにちょっと大人っぽい笑みを浮かべて、まだ来ていない誰かのことを噂しあっているのが見えた。

……と、その時。

 

「ゆきちゃん。ひょっとして、霧島君たちかな?」

「……佳乃?」

「どうやら、そうみたいだな」

「美坂さんと北川君も一緒みたいです」

「ですね。これで後は、いつもの面子を残すばかりでしょうか」

「ふぇ? いつもの面子って、どういうことですかー?」

「えっと……お姉ちゃん、どう説明すればいいかな……?」

「そうね。簡単に言うなら、遅刻組ってとこかしらね」

 

たくさんの声が、僕らの耳に飛び込んできた。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。