「ふぅー……どうにか間に合ったみたいね」
「あっ、川口さん。おはようございます」
部室に無駄に勢いを付けて突撃してきたのは、以前観鈴ちゃんと一緒にいた女の子の川口さんだった。額に浮かんだ汗を拭いながら、ゆるゆると部室に歩いて入ってくる。
と、その姿を見た深山さんが、早速川口さんに声をかけた。
「って、茂美……あなた、どうしてパンなんかくわえてるの?」
「ん? いやー、こーやって焼いてマーガリンを塗った食パンの端っこをくわえながら全速力で走ってたらそこに都合よく男の子が通りがかって、そこからめくるめく全六巻構成のほのぼのラブコメに発展するんじゃないかなー、って思ってねっ」
「それ、六巻も中身を持たせられるのか?」
岡崎君の冷静な突っ込みは聞こえていないみたいで、川口さんはもしゃもしゃと食パンを食べながら、鞄を机の上にどっかと置いた。
「そんなに焦らなくても、まだ時間あるわよ」
「そうだけどさ、ほら。部長に見せなきゃいけないものがあるのよ」
「私に? ……あっ! もしかして、新しい脚本?」
「そ。昨日仕上がったばかりの超新作よ」
どうやら川口さんは脚本を担当する人みたいだ。ああ見えて、文章を書いたり物語を構成したりするのは得意なのかもしれない。深山さんの期待に満ちた表情が、川口さんに寄せている期待をそのまま物語っているように見えた。
「待ってたわよ。今練習してるのが終わったら、すぐ次の演目を考えないといけないから」
「にっしっし。私の脚本力を甘く見ちゃダメよ。今のとはまったく別ベクトルの作品を仕上げてきたんだから」
「期待できるわね。それで、今回はどういう話にしたの?」
「んっふっふ。今回はいろいろとすごいのよー」
毎度毎度種類の違う笑い声を上げながら、川口さんがクリアファイルを取り出す。どうやらその中に、川口さんが仕上げてきたという脚本が入っているみたいだった。川口さんは自信ありげに目を閉じて、腰に手を当てながらその場に立っていた。
「まずね、舞台が違うのよ。どこかって? アメリカの山中にある小さな町なのよね、これが」
「アメリカの山中にある小さな町……ね。ずいぶん面白そうな舞台を選んだみたいね」
「あ、部長も分かる? うんうん。やっぱり部長だと話が通じやすくて助かるわー。さっちんにメッセでこれ話したら『どこが面白いんだ』って言われてさー、面白さを説明するのに三十分もかかっちゃったんだから」
「雰囲気としては悪くないわね。怖い話も感動的な話も、どっちでも作りやすそうな感じだし」
「でしょ? 興味湧いてきたっしょ?」
「そうね。早速だけど、続きを聞かせてくれる?」
「ん。それで、その町はね……」
川口さんが楽しそうに話を始める。僕はその様子を横目に入れながら、それとはまた別に、僕の隣で話をしているグループへと目を向けた。
「そう言えば……倉田先輩はもしかして、あの有名な倉田先輩ですか?」
「あははーっ。多分、それで合ってると思いますよ。私以外の『倉田』っていう名前の人は、この学校にはいなかったはずですからねー」
『まさかの入部なの。演劇部の奇跡なの』
「えっと、もしかして、ドラマとかに出てくるみたいな、すごく綺麗でお洒落な服とかを着たりするんですか?」
「そうですねー。お父様と一緒に会食やパーティに出席したりする時は着たりしますけど、普段は普通なんですよー」
「それでも、着る機会がある、ってこと自体が驚きね……」
「うん……私たち、そんな機会自体ないから……」
「これが大人の女性ですね。風子も一方的に参考にさせてもらいます」
このグループは、佐祐理さんを取り囲んでいる。輪の中央にいる佐祐理さんはまるで太陽のような晴れ晴れとした笑顔を浮かべていて、見ているだけでこっちも笑顔になってくるような、いい意味で存在感のある人だった。
さて、こっちはと言うと。
「それで、町外れの森の中にでっかい洋館があって、そこはいろいろといわくつきで、誰も近づかないのよ」
「うんうん。だんだん面白くなってきたわね。それで?」
「それでそれで、実は町の中心産業を担ってる製薬会社の創業者の一人がその洋館を建てたんだけど……」
順調に話が進んでいるみたいだ。もっと別の場所に、視点を向けてみることにしよう。
「そういえば、ことみちゃんはまだ来てないのかなぁ?」
「えっと……確か図書室に本を返しにいくって言って、来てすぐに図書室に行っちゃいました」
「そうか……一ノ瀬が帰ってきたら、きちんと挨拶をせねばなるまいな」
「ふふふっ。留美ちゃんって、律儀な人なんだね。なんだか可愛いよ」
「か、可愛い?! ななっ、何を根拠にそんな……」
「多分、気づいてないのはお前だけだぞ。七夜」
「……かなり嫌いじゃない……」
「や、やめてくれ……お世辞を言われるのには……慣れてないんだ……」
「お世辞っていうか、全員素の意見だと思うぞ」
七夜さんは相変わらずの様子で、その顔を真っ赤にしている。あの様子だと、本当にこういう状況に慣れていないんだろう。その初々しい様子が、七夜さんをよりいっそう、川名さんの言うように「可愛い」女の子に見せているように思えた。
ちょっとしつこいかも知れないけど、こっちの様子も見ておくことにしよう。
「で、実はその洋館は製薬会社の研究所で、そこでは恐怖の殺人ウィルスが研究されてたのよ!」
「……え?」
「んっふっふ。ここからが怖いポイントなのよ! そのウィルスって言うのはね、まー裏設定はじゃんじゃかあるんだけど、とりあえず人に感染するとその人をゾンビみたいな状態にしちゃって、阿鼻叫喚の地獄絵図って感じなのよ」
「……………………」
「んでんで、ウィルスは人以外にもカラスとか犬とかにも感染して、そういうのもゾンビにしちゃうのよねー。おっそろしい話だわ」
「……………………」
「それだけじゃないのよ? 研究所ではそのウィルスをベースにして、まったく新しい生体兵器(バイオ・オーガニック・ウェポン)を研究してる真っ最中だったの! その中でも研究者達が自信を持っておすすめするザ・ニュー製品が、日本語に訳して『暴君』の名を持つ生体兵器だった、ってわけ!」
「……………………」
川口さんはすごくノリノリで話をしていたけれど、それを聞いている深山さんの表情が完全に硬直しているのを、僕は見逃さなかった。この後に川口さんを待ち構えているだろうあまり良くない未来を想像して、僕はちょっと川口さんがかわいそうに思えた。
「洋館の中に突入した隊員は襲い来るゾンビやゾンビ犬と戦いながら、どーにか脱出する方法を考えるのよ」
「……………………」
「ね? ホラーとアクションとサスペンスが詰まった、超ナイス脚本だと思わない? どうかな? かな?」
「……茂美……」
「ん?」
「……悪いけどその脚本、思いっきり既出だわ」
目を伏せてどこか申し訳なさそうに言う深山さんに、川口さんは口をあんぐり開けて、誰がどう見ても「信じられない」といった感じの表情だと分かるような顔をしてみせた。
「ま、マジで……?」
「残念ながら、ね。でも、これを一から思いついたっていうのなら……」
「……ちっ。まーさか部長がこれを知ってたとはね……世の中分からないものn」
「って、あんたって子はーっ!!!」
「ぎゃふんっ!」
深山さんからウェスタンラリアート(推定)をモロに食らい、川口さんが成すすべなくその場に倒れこんだ。ラリアートをぶちかました瞬間の深山さんの表情は、この世のものとは思えない恐ろしさだった。これが部長なのかと思わずにはいられない、圧倒的な迫力に満ちていた。
「かゆ……うま……」
「まったく……私だってそれくらいは知ってるわ。こう見えてもね、豆腐までは行ったのよ。豆腐クリアは無理だったけどね」
「ぬ……ぬっふっふ。私なんか、豆腐もクリアしちゃったんだからね……がくっ」
川口さんは自分の口で「がくっ」と言うと、その場で大の字になって気持ちよさそうに眠り始めた。その様子を、深山さんは呆れた顔で見つめている。きっとこの二人はいつもこの調子なんだろうと、僕は思わずにはいられなかった。
と、ちょうどその時。
(がららっ)
三度扉が開く音が聞こえて、その場にいた半分くらいの人の視線が、一斉にその方向へと向けられた。外から扉が開けられたということは、また別の誰かがこの部室へ訪れたということだ。そして、そこに立っていたのは……
「はぁ……はぁ……ど、どうにか間に合ったようだな……」
「う……うん……やっぱり、初日から遅刻しちゃったら、まずいもんね……」
会話だけじゃ今ひとつ分かりにくいと思うけど、そこには僕の知っている人が二人、息をぜぇぜぇ切らして立っていた。
「よぅ相沢。今日もぎりぎりセーフだな」
「おっはよー。ひょっとして、今日も名雪を起こしてて遅れたのかしら? 夏休みでもお熱いわね~」
「ぜぇ、ぜぇ……違うっ。遅れたのはこいつが原因だっ」
「うぐぅ……だって、朝ごはんは大切なんだもん……」
祐一君の陰に隠れながら、あゆちゃんが申し訳無さそうに言った。僕の推測だけど、多分祐一君とあゆちゃんは一緒に行く約束をしていて、祐一君があゆちゃんを待っていたらこんなぎりぎりの時間になっちゃった……そんなところだろう。
「あ、そー言えば名雪は朝練あるんだっけ。起こさなくても大丈夫よね」
「ひゅーひゅー。朝から起こす起こされるって、仲の良い幼馴染さんねぇ。浩平といい祐一といい、羨ましいもんだわ。あーあ……私にもさ、部屋まで起こしに来てくれるかわいい幼馴染がいたらさ、人生今の三倍くらい面白くなりそうなんだけどなー。ね? 思わない?」
「川口……お前、女の子だろ。一応」
いつの間にか復活していた川口さんの冷やかすような言葉に、祐一君が一番正解に近い突っ込みを入れた。川口さんって普通の女の子だとばかり思っていたけれども、どちらかというとそれは間違いで、ちょっとおかしな女の子だったんだ、というのが正直な感想だ。
「ひょっとして、新しく入った三人の人の最後の一人って、あゆちゃんのことかなぁ?」
「そうよ。私は渚と部長から聞かされてたけどね。でもって、ここに勧誘したのはもちろん、我らが悪の演劇副部長よ」
「えと……私、何か悪いことをしなきゃいけないんでしょうか……」
悪の演劇副部長(川口さん談)の古河さんが、おずおずと前に出てきた。それは悪の演劇副部長というよりもむしろ、小さな演劇部部長といった癒し系コンテンツに出てきそうな、そんな風貌だった。
「そうなんだぁ。あゆちゃん、これからよろしくねぇ」
「うんっ。ボクからもよろしくお願いするよっ」
「うんうん。それじゃあ、みんなに挨拶しに行こっかぁ」
「そうだねっ」
佳乃ちゃんはあゆちゃんと一緒に、あゆちゃんが来るのを待ち構えているみんなの所まで歩いていった。
「相沢……お前も部員だったとはな。驚いたぞ」
「七夜? ひょっとして、お前も新しく入ったやつの一人か?」
「うむ。古河に誘われてな。分からないことだらけだが、全力を尽くすつもりだ。これからもよろしく頼む」
「ああ。こちらこそ。お前の頑張りに期待してるぞ」
七夜さんと祐一君がごく自然に挨拶を交し合って、お互いの存在を確認しあった。この様子だと、七夜さんもすぐにこの部に解け込めるだろう。
……そして、その隣では。
「うー……眠いおー」
「さっきまで全然そんな様子を見せてなかっただろ、お前」
「というよりもむしろ、この中では一番元気そうに見えたがな。私には」
川口さんが机にべったりと張り付いて、目を糸にして今にも寝そうになっていた。さっき大の字になって寝てたのは、別に部長のラリアートが決まったからとかじゃなくて、単に眠たかったからじゃないのか、と思わずにはいられなかった。
「ほーら、茂美。そろそろ時間だから、起きなさいって」
「うにゅ……にんじんは食べられないおー」
「お前、どこで名雪の口癖を習得したんだ」
「うにょ?」
「うにょ? じゃなくて」
深山さんに促され、川口さんがしぶしぶ起き上がる。その表情はどこか不満げだ。
「川口……お前は昨日、何時に床に付いた?」
「う……五時半くらいだおー……」
「五時半?! 五時半まで何やってたんだよ、一体……」
「いやぁー……ハードディスクが一杯になっちゃってさー……」
「……固い円盤? 相沢、固い円盤がどうかしたのか?」
「とりあえず……あれだ。ビデオの超パワーアップ版とでも思っておいてくれ」
「あ、ああ……」
少なくとも、七夜さんの家にはパソコンもハードディスクレコーダーも無いことは分かった。
「ハードディスクが一杯になっちゃって、しょーがないから撮ったアニメを消化しようと思ったのよねー……」
「ふーん……それで、観てたら五時半になっちゃったの?」
「んー……二時半には全部観終わったんだけど、最後に観たやつ……えーっとほら。女の子が四人出てきて、その中の二人がそこはかとなく杏と椋っぽくて、全体的にまったりしてて、随所に小ネタが仕込んであって、オープニングがすごいあれ」
「……アレね。私もチェックしてるわよ」
「してるのかよ、部長」
「うんうん。で、それのオープニングがすごい頭に残ってさー、オープニングの部分だけ切り出して観てたらだんだん止まらなくなっちゃってさー、あははははー」
「とりあえず、茂美からいっぺんパソコンを取り上げてみたいわね……」
「にゅふふ。それでさー、夜でハイになっちゃってたのもあるんだけど、聞いてるうちにだんだん歌詞が聞こえるような気がしてきてさー、オープニングにあわせてどれだけ歌えるか挑戦してみたのよー」
「まさか……それで?」
「うぐぐぐぐ~。五時くらいにはもう私が五人目のメンバーじゃね? って思うくらいシンクロできてたのに、今はもうちっとも思い出せないのよっ! あーっ! こうなったら今日も徹夜でもってけ! セーラーふk」
「さっさと寝なさいって言ってるでしょうがーっ!!!」
「こなたっ!」
部長さんの愛の鉄拳が、川口さんの脳天に炸裂した。川口さんは机に倒れ伏して、そのまままったく動かなくなってしまった。どうやら今度はクリティカルヒットしてしまったらしい。川口さんは目を回して、頭上で鳥を三匹ほど回していた。
「……相沢」
「ん? どうした?」
「私も……チェックしたほうがいいだろうか……その、川口と深山部長がチェックしているという……」
「……大丈夫だ。俺も名前しか知らない」
「そ、そうか……」
七夜さんって本当に律儀なんだなぁと、思わずにはいられなかった。
さて、それから少し経って、時計がそろそろ十時を指そうとした頃。
「ゆきちゃん、そろそろ始めない?」
「そうね……でも、まだ一ノ瀬さんが帰ってきてないから、もう少しだけ待ってみるわ」
散り散りにおしゃべりをしていたみんなが一箇所に集まって、いよいよ何か話し合いをするような雰囲気になり始めていた。
「……そういえば、あいつらはまだ来てないのか?」
「そうみたいね。今日は起こしに来てくれる人がいないから、ほっといたらいつまでも寝てるんじゃないかしら」
「かもな……」
この様子だと、一ノ瀬さん以外にもまだここに来ていない人が誰かいるみたいだった。
「遅いねぇ」
「そうですね……何か悪いことが起きていないといいのですが……」
「……いや、その心配は無用だ」
「どういうことですか?」
「もうすぐ入ってくるぞ」
岡崎君がそう言って、ほんの、ほんの、ほんの少し経った後のこと。
(がららっ)
四度後ろの戸が開かれて、誰かが入って来たことを告げた。
その人物の、第一声は……
「やれやれ……間一髪ってとこだったな」
「もうっ……お兄ちゃんがもっと早起きしてくれたら、こんなに走らなくても済んだんだよっ!」
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。