「はいはい、みんな教室に戻って戻って」
「後で先生から説明があるから、それまでおとなしく待ってなさいよぅ」
女の子を取り押さえた後、真琴ちゃんと藤林さんが先導する形で、保育所内で勝手気ままに走り回っていたり歩き回っていた子供達を少しずつ落ち着かせていった。教室の中へと入るよう促し、訳が分からずに泣いていた子は慰め、事態をてきぱきと収拾させていく。あの女の子というイレギュラーな存在がいなくなったおかげで、保育所を襲った混乱は思いのほか早く終結しそうだった。
「ねえ真琴、これで全員?」
「えっと……うん。これで全員っ」
「やれやれ、ね……まさか、ここまで混乱しちゃうとは思わなかったわ……」
ため息混じりに呟きながら、藤林さんが子供達を見やった。
……一方。
「折原君っ! 捕まえたみたいだねぇ!」
「ああ。この通りだ」
まとわり付いていた子供達がいなくなって自由に動けるようになった佳乃ちゃんが、女の子を捕まえた折原君の下へと駆けて来た。折原君は佳乃ちゃんに目配せをして自分のほうに来るよう促しつつ、取り押さえた女の子の腕をしっかりと掴んでいた。女の子は無言のまま、ただ顔を俯かせていた。
「なあ、どうしてここに入り込んだんだ?」
「……………………」
「ひょっとして、真琴を追いかけて入ったのか?」
「……………………」
折原君の問いかけにも、女の子は答えようとはしない。折原君も最初から答えが返ってくる可能性は低いと踏んでいたのか、あまり深く追求しようとはせず、そこで問いかけを打ち切った。小さく頭を振って、女の子から目線を外す。
「……とにかく、細かい話は後でじっくり聞かせてもらうからな」
「……………………」
最後にそれだけ言うと、折原君はもう何も言わなくなった。
「……………………」
女の子の視線がほんの少しだけ、上向きになったような気がした。
「その子が、さっきまで中を走り回ってた子なのかしら?」
「はい。そういうことになります」
ひと段落着いてから、佳乃ちゃんたちは女の子と一緒に職員室へと入った。真琴ちゃんは仕事に戻ったみたいで、この場には姿を見せていない。今この場にいるのは真琴ちゃんを除いた五人と僕、それから走り回っていた女の子、最後にこの保育所の職員らしき、若い女の人だった。
「そう……それで、貴方達は……」
「えっと……水瀬さんの知り合いです。保育所に来る前に少しの間一緒にいて、それで……」
「……その時に、一緒にこの子に出会ったんです。その……山の上にある、あの神社で……」
藤林さんは終わりを少し濁らせて――あの出来事を、女の子に思い出させたくなかったのだろう――、女の子と出会った事実を話した。
「そういうことね……こんな事に巻き込んでしまって、ごめんなさいね」
「いえ、私達で決めたことですから……」
「こんなところで走り回られちゃ、仕事にならないだろうしな……」
ため息と共に言葉を吐き出しながら、折原君が女の子を見やった。
「……………………」
それから、ややあって。
「……なあ」
「……………………?」
「お前、名前なんていうんだ?」
「あっ……そういえば、まだこの子の名前聞いてなかったよね……なんていうのかな?」
「……………………」
折原君と長森さんに続けざまに問われて、女の子が静かに顔を上げた。二人の瞳をじっと見つめて、何を言うべきか思案しているように見える。その表情はどこか生気が抜けていて、無表情とまでは行かないにしろ、何を考えているのかを類推するには難しい表情だった。
「ねぇ。お名前、なんていうのかなぁ?」
「……?」
「お名前が分からなかったら、ぼくたちがキミの事、なんて呼んだらいいのか分からないからねぇ」
「……………………」
佳乃ちゃんは目線を女の子と同じ高さまで落として、二人に続いてその名を問いかけた。女の子は佳乃ちゃんの瞳をしげしげと見つめて、時折その目を瞬かせる。
「……………………」
……気のせいだろうか。女の子の表情に、少し生気が戻ってきているように見えた。佳乃ちゃんは女の子から片時も目を離そうとはせず、その瞳を優しく見つめている。それに感じるものがあったのだろうか。女の子の口が、ゆっくりと開いた。
……そして。
「……繭」
「……繭? もしかして、それがキミの名前かなぁ?」
「……うん」
女の子が、自分の名前と思しき言葉を発した。どうやらこの子は「繭(まゆ)」ちゃんという名前らしい。嘘をついている様子も無かったから、その情報を信じて、これからはこの女の子のことを「繭ちゃん」と呼ぶこととしよう。
「そっかぁ。繭ちゃん、っていうんだぁ。ぼくは佳乃、霧島佳乃だよ。よろしくねぇ」
佳乃ちゃんはにっこり笑って繭ちゃんの肩を抱くと、そのままそっとその髪を撫でた。
「繭、か……名前はそれだとして、苗字はなんていうんだ?」
「……繭」
「……繭繭? お前、月宮の知り合いか?」
「浩平、それはどう考えても苗字じゃないよ……」
「ねえ繭ちゃん。苗字はなんていうのかな? ほら、名前の前についてるものだよ」
「……(ふるふる)」
みさおちゃんの「苗字は?」という問いに、繭ちゃんは「いやいや」をするように首を振って応じた。それを見たみさおちゃんが、長森さんに助けを求めるように目線を送る。
「瑞佳お姉ちゃん、これって……」
「もしかして、苗字を言いたくないのかな……?」
「うん……私も、そう見えるよ……」
「……………………」
お互いに困ったように顔を見合わせながら、みさおちゃんと長森さんが呟きあった。どうやらこの様子だと、繭ちゃんは自分の苗字を言いたくない理由があるらしい。
「どうしても……言いたくないのかな?」
「……(こくこく)」
「そっか……」
黙ったまま首を縦に振る繭ちゃん。如何なる理由があるにしろ、この状況から繭ちゃんの苗字を聞きだすことはできそうにない。とりあえず名前が「繭」だと分かっただけでも良かったと思うべきだろう。今まではどう呼ぶべきかも分からなかったのだから。
「……どうする? このままここにいるのもどうかと思うし……」
「とりあえず、こいつを家に送ってやろう。それ以外無いだろ」
「それもそうね……ここにいても仕方ないし」
話がまとまったようだ。どうやら繭ちゃんを家まで送っていくことになったらしい。最初からそうなる気はしてたけれど、大方の予想通りの展開だった。
「……………………」
……家に帰るまでに、また何か無ければいいんだけども……
保育所を出て、街中を進んでいく一行。
「ねえ繭ちゃん。繭ちゃんのお家があるところ、ぼく達に教えてくれないかなぁ?」
「……えっと……」
佳乃ちゃんが繭ちゃんの隣に付いて、繭ちゃんから家の所在を聞き出している。何となくだけど、そう遠くない場所にありそうな気がする。
「それにしても、だ」
すぐ近くを歩いていた折原君が、おもむろにその口を開いた。
「お前、何で真琴を追いかけたんだ?」
「ほえ?」
「ほら、保育所にいた赤いリボンのヤツだ」
「はぇー……」
「……いや、はぇー、じゃなくてだな……」
繭ちゃんは何を聞かれているのかもよく分かっていない様子で、きょとんとした表情を浮かべて小首をかしげた。折原君は困った様子で、ふぅ、と小さなため息を吐いた。この様子だと、ちゃんとした言葉のやり取りを成立させるのには、もうしばらく時間がかかりそうだ。
「……とりあえず、今日はおとなしく家に帰るんだぞ」
「うー……かえりたくない……」
「帰りたくないつったって、それ以外に行く場所も無いだろ?」
「かえりたくない」
「……お前なぁ……」
家に帰りたくないとごねる繭ちゃんに、折原君は思わず頭を抱えてしまった。何がそうさせているのかは分からないけれど、繭ちゃんは家に帰りたくないらしい。ひょっとして、折原君たちと遊びたいとでも言うのだろうか?
「じゃあ、家に帰らずにどうしたいんだ?」
「みゅー……あそびたい」
「遊ぶって……誰と、どこで、何をして遊ぶんだ?」
「かけっこがいい」
「あのなぁ……こんな炎天下でかけっこなんてやったら、熱射病でぶっ倒れるぞ」
「折原君、違うよぉ。夏に多いのはねぇ、熱射病じゃなくて日射病の方なんだよぉ」
「何? 日射病と熱射病って別だったのか?」
「そうだよぉ。熱射病は体の中に熱がこもっちゃって、日射病は体の中から水が出て行って、血液がちゃんと体の中を回らなくなっちゃうんだぁ。でもねぇ、最近は日射病じゃなくて熱中症って言うようになったんだよぉ」
「……ああ、今更ながらだが、お前の家って診療所だったんだよな……」
「えへへ~。そんなに褒められると照れちゃうよぉ」
折原君のどこに自分への賞賛を読み取ったのかは分からないけど、佳乃ちゃんはそう言って折原君の言葉に応じた。折原君は「もういつものことだ」とでも言いたげな表情で、また隣にいる繭ちゃんに目をやった。
……と、その時。
「繭……! こんなところに……」
僕らの歩いていた道の向こうから、若い女の人が一人、こちらに向かって歩いてきた。そう思っていたのも束の間、女の人は佳乃ちゃんたちのすぐ側まで歩み寄ってきて、その場にいた全員の顔をぐるりと見回した。
「えっと……どなたですか?」
「ああ……すみません。その子の……繭の母親です」
「繭ちゃんのお母さん? それならちょうどよかったわ。あたし達、ちょうど繭ちゃんの家を探してる途中だったから」
「もしかして、繭をうちに送ってくださる途中だったんでしょうか?」
「はい。えっと……いろいろあって、繭ちゃんをうちまで送っていくことになって、それで……」
みさおちゃんは「いろいろ」の部分をあいまいにして、繭ちゃんのお母さんからの問いに答えた。
「そうなんですか……どうもありがとうございます。繭がご迷惑をおかけして……」
「いや……それはどちらかというと保育……いててててっ?!」
「お兄ちゃんっ! いらないことは言わないのっ!」
つい口を滑らせそうになった折原君のわき腹を、みさおちゃんが力強くつねった。折原君は顔をしかめて言葉を切り、つねられた部分を痛そうにさすっていた。
「皆さん、どうもすみませんでした。さあ繭、家に帰りましょう」
「……………………」
繭ちゃんはどこか不満そうな……いや、不満そうな、という言い方はしっくりこない。どちらかと言うなら……少し悲しそうな表情をして、お母さんに手を引かれるまま、その場からゆっくりと立ち去っていった。
「……………………」
「……………………」
僕と佳乃ちゃんは同じほうを向いて、だんだんと小さくなってゆく繭ちゃんの姿を見つめていた。
「やれやれ……これで一件落着、ってとこね」
「そうだね。最初はどうなるかと思ったけど……繭ちゃんももう、あんなことはしないと思うよ」
「それならいいけどな……正直、炎天下の中を走り回るのはこりごりだ」
「うーん……私も、それはちょっと遠慮したいよ。汗びっしょりだし」
何にせよ、藤林さんの言うとおり、この件は「一件落着」と相成ったわけだ。神社から始まったこの騒動も、これでやっと終わりを迎えた。
僕はその時、これで何もかも終わると考えていたのだ。これでみんな終わって、もう繭ちゃんにかかわることも、繭ちゃんと僕達が一緒にいるようなことも、もう二度とないだろうと思っていた。これで終わった、何もかも終わったのだとばかり、僕は思っていたのだ。
――これがすべての始まりだったなんて、僕は思ってもみなかったんだ――
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。