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第百話「K2」

「夢……かぁ。ひょっとしたら見てるかもしれないけど、ぼくは憶えてないよぉ」

遠野さんから「夢を見るか」と問われて、佳乃ちゃんは遠くの青空を見上げながら、そう、静かに答えた。「夢」という言葉を口にした瞬間、佳乃ちゃんの表情に微かな影が差したようにも見えた。本当のところは、僕には分からなかったのだけれども。

「遠野さんはどうかなぁ? 何か夢を見たりするのかなぁ?」

「……はい。最近、少し変わった夢を見るようになりました……」

「んに……みなぎぃ、もしかしてそれって、草むらの夢のこと?」

「草むらの夢?」

みちるちゃんの口から出た「草むらの夢」という言葉に、佳乃ちゃんが興味を示すそぶりを見せた。その言葉から推測するに、恐らくそれは草むらにまつわる夢なのだろう。例えば……草むらを歩き回っていたりとか、草むらの上で寝転んでいたりとか……そういったものだ。

「……ええ。聞きたいですか……?」

「そうだねぇ。遠野さんがどんな夢を見たのか、聞かせてほしいよぉ」

佳乃ちゃんの言葉を受けて遠野さんは小さく頷き、先ほど佳乃ちゃんがそうしたように、遠くまで続いている空を見つめた。

「……私は一人、草むらで佇んでいました……」

 

……色のない世界。グレイスケールの空。モノクロームの草原。白黒の濃淡だけで描き出された世界に、私は一人佇んでいました。ふっと気がついたときにはもう、私の意識はそこにありました。明瞭な意識を伴って見る夢というのはこんなものなのかと、冷静に考えられるくらいに。

風を感じました。暖かくも冷たくもない、ただ頬を、髪を、首筋をすり抜けていく風。私は思いました。「ああ、この世界には風にも『色』がないのか」と。風に「色がない」、という言い方はおかしいでしょうか……? けれども……なんとなくですが、分かってもらえると思います。その世界には、風にさえ色が無かったのです。

その世界に色が無いことを知った私は、ふと、私自身からも色が無くなってしまったのかと思い、自分の手を見つめました。けれどもそこにあったのは……この通りの、鮮やかな肌色の手でした。着ている服も髪にも「色」が付いていて、私はほっとすると同時に、途方も無く寂しい気持ちになりました。

白黒の世界でただ一人、色を持っている私。それは……幸せなことなのでしょうか? 色が「ない」ことが悲しいことで、色が「ある」ことが喜ばしいこと……そう、言い切ることはできるのでしょうか? 「持つ」者と「持たざる者」。それは往々にして、持つ者が優位にあります。実際、そうなのかも知れません。

けれども……あの夢の中で私が感じたのは、感じたことも無いほどの「孤独」でした。いっそのこと私からも色が消えて、白黒になってしまった方がよかった。私は色のある自分を見たとき、真っ先にそう思ったのです。それが幸せなことなのかは分かりませんが、そうであったほうが「孤独」を感じずに済む……それは間違いないと思いました。

……少しして、私が周囲を落ち着いて見られるほどになった頃、一つ気づいたことがありました。

 

ガラクタ。無数のガラクタ。原形をとどめているもの、原形をとどめていないもの、何かの破片と思しきもの、ガラクタ同士が接合されたもの、壊れているのが目に見えて分かるもの、まだ使えそうに見えるもの……そういったものが、無秩序に落ちていました。

 

草原に広がる無数のガラクタ。それは……幻想的と言うべきでしょうか。それとも……また、何か別の言葉で形容するべきでしょうか。おかしな話かもしれませんが……草原が誰かの心を表しているとすれば、ガラクタは「感情」や「記憶」を表している……そんなたとえ話が、ふっと心を過ぎりました。広い広い草原が心なら、ガラクタはその心を形作る断片的な感情や記憶……夢の中かも知れませんが、そんな考えを抱いたことに、不思議と疑問は感じませんでした。

そうして……私がしばらく、ガラクタの並ぶ草原を眺めていた時のことでした。

「……あれは……?」

 

「女の子ぉ?」

「はい。そこに、一人の女の子が立っている……そんな風に見えた気がしました」

遠野さんはそこまで言うと、ゆっくりと瞳を閉じて話を終えた。遠野さんの話を聞いた佳乃ちゃんは不思議そうな表情をして、遠野さんの顔を覗き込んでいる。

「ガラクタの散らばった草原の先に……一人の女の子がいました」

「へぇー。なんだか不思議な夢だねぇ」

「はい……私も何故こんな夢を見るのか、それに……どうしてこんなによく憶えているのか……分からないんです」

「そうだねぇ……不思議だよぉ」

佳乃ちゃんはしきりに「不思議」という言葉を繰り返し、遠野さんの夢語りを評して見せた。「不思議」という言葉を口にする瞬間の佳乃ちゃんの表情はどこか楽しげで、遠野さんの見た夢に興味を持っていることがはっきりと示されているようだった。

「その夢を見たのは昨日かなぁ?」

「……いえ。三日ほど前から、同じ夢を繰り返し……」

「ということは、もう三回も同じ夢を見てるんだねぇ」

「……はい。恐らく、すべて同じ内容だと思うのですが……」

二人がそうして夢について話していた、ちょうどその時だった。

 

「そうか。お前のお兄ちゃんも入院してるんだな」

「うん。ベッドで寝ててね、お話を聞かせてくれるんだよ」

 

小学校に通うか通わないかくらいの幼い男の子と女の子(見る限り、男の子のほうが二つか三つほど年上のようだ)が二人連れ立って、廃駅の近くの道を歩いていた。ゆっくりとした足取りで、男の子の後ろへ女の子が付いていくようにして歩いていく。

「僕の妹も病院にいるんだ。ちょうど、今のお前くらいの年頃なんだぞ」

「そうなんだ。じゃあ、私とちょうど反対なんだね」

会話から推測するに、二人は兄妹などではなく、同じ病院に入院しているそれぞれの「兄」と「妹」を通して知り合った者同士らしい。男の子の方はお兄さんで、女の子のほうは妹。どちらも兄妹仲は良いようだ。

「ねえ、そのおもちゃは何?」

「これか? これはカメレオンだ。こうやってころころーって転がすと……ほら、舌が出てくるんだ」

「あっ、ホントだ……なんだか面白い」

「な? 面白いだろ? これをお見舞いに持っていってやるんだ」

「そうなんだ……きっと、喜んでくれると思うよ」

「ああ。喜ばない方が無理な話ってもんだ」

男の子は得意げにカメレオンのおもちゃを掲げて、隣にいる女の子に見せた。女の子は興味深げにカメレオンを見つめて、どこか物欲しそうな視線を向けていた。男の子のデモンストレーションが気に入ったのか、カメレオンのおもちゃに興味を持ったみたいだった。

「そういうお前が持ってるのは……本か?」

「うん。絵本だよ。お兄ちゃんが作ってくれたんだよ」

「手作りの本なのか?」

「そう。お兄ちゃんがね、私のために作ってくれたんだ。すっごくいいお話」

「どんな話なんだ?」

男の子がそう聞くと、女の子は口元に指を当てて、少し考える仕草を見せてから、こう答えた。

「えっと……えっとね、ペンギンさんが出てきて、いろいろなことに挑戦して、失敗しちゃったりもするんだけど、最後はみーんなうまくいって、お星様の国へ行くお話」

「へぇー……ペンギンのくせにやるじゃないか」

「えへへ。お兄ちゃんが考えたお話なんだよ。すごいよね」

「ああ。じゃあ、今度は僕も絵本を作ってやることにしよう」

「うん。作ってあげてよ。きっと喜んでくれるよ」

男の子と女の子は楽しげに話をしながら……ゆっくりと駅を通り過ぎ、そのまま遠くへと消えてしまった。多分、これから二人揃ってお見舞いへ行くのだろう。男の子の妹さんと、女の子のお兄さんが揃って元気になってくれる日が早く来てくれればいいのにと、僕は願わずにはいられなかった。

「……………………」

……それにしても、ここから歩いていけるような距離に、病院なんてあったっけ……?

 

「遠野さん、いろいろ聞かせてくれてありがとぉ。すっごく面白かったよぉ」

「……はい。霧島さんに喜んでいただけたのなら……」

それからしばらくして、話を終えた佳乃ちゃんがベンチから立ち上がり、遠野さんにお別れの挨拶をした。遠野さんは深々と頭を下げて、佳乃ちゃんのことをじっと見つめていた。ちなみにみちるちゃんは疲れてしまったのか、遠野さんに膝枕をしてもらって気持ちよさそうに眠っている。いいなぁ。気持ちよさそうだなぁ。

「それじゃあ、また来させてもらうよぉ。その時はよろしくねぇ」

「……了承、です。いつでも……ここにいらしてください」

「うんうん。風邪とか引いちゃわないように、体には十分気をつけてねぇ。またねぇ」

「……はい。それでは……」

最後にそう言葉を交し合って、佳乃ちゃんは駅を後にする。僕はそれに遅れることのないよう、すぐさまその後を追いかける。

「……………………」

ふと見上げた空は、いつもと変わることのない、雄大な雲を携えた立派なものだった。

 

「不思議な夢だよねぇ。草むらにガラクタが転がってるなんてねぇ」

「ぴこー」

佳乃ちゃんは遠野さんから聞いた夢のことがよほど気になるのか、帰り道でもそのことをしきりに話していた。僕としても遠野さんの夢は不思議に思えたし、それを三日も続けて見ているとなれば、何がしかの意味があるような気がしてくる。

白黒の草原に散らばるガラクタ。それはあまりにも現実離れしすぎていて、夢でしか見ることのできない光景に思える。何を意味しているのかは分からないけど、何かを意味しているような気はする。佳乃ちゃんはその意味を考えて、いろいろと楽しんでいるのだろう。

「どういう意味なんだろうねぇ……気になるよねぇ」

「ぴこぴこ……」

そうやって、僕と佳乃ちゃんがおしゃべりをしながら歩いていた時のことだった。

「あれれぇ……?」

「ぴこ?」

不意に佳乃ちゃんが立ち止まり、前方を指差す。その先に立っていたのは……

 

「……佳乃か?」

「往人君っ!」

 

いつものスタイルで町を歩いている往人さんだった。佳乃ちゃんは往人さんの姿を認めるとぱたぱたと駆けて行き、あっという間にその距離を縮めてしまった。僕もそれに連なって、往人さんのそばへ行く。

「往人君、今日もお仕事かなぁ?」

「そうだな。とりあえず人のいるところを探してるが……なかなか見つからないもんだな」

「そうだねぇ。今日はとってもあっついからねぇ」

「まったくだ……こんな日に外に出るヤツなんて、どうかしてるぞ」

自分のことは棚に上げて、往人さんが言って見せた。

「……ああ、そういえば佳乃。聖がお前のことを探してたみたいだったぞ」

「ええっ?! 本当かなぁ?」

「ああ。お使いに行ってきて欲しいから、見かけたら声をかけてくれって頼まれたんだ」

「分かったよぉ! 往人君、ありがとぉ! それじゃあ、ぼく先に家に帰ってるねぇ」

「分かった。気をつけてな」

そう言うや否や、佳乃ちゃんはびっくりするくらいの速さでもって、この場から風のように走り去っていった。僕は往人さんのそばに立って、どんどん小さくなっていく佳乃ちゃんをしばし見送った。

「ん? お前は帰らないのか?」

「ぴこっ」

「そうか……じゃ、俺についてくるか」

「ぴっこり」

僕はまた往人さんのお仕事を手伝えることのうれしさをかみ締めつつ、隣にぴったりと寄り添った。

「うれしそうだな。俺と一緒にいて、そんなに楽しいのか?」

「ぴっこぴこ」

「お前が楽しいなら構わないが……しかし、不思議なもんだな。佳乃や聖なんかよりも、お前の方がよっぽど普通に見えるなんてな……」

苦笑いを浮かべる往人さんを、僕は多分、笑顔で見つめていたのだと思う。

 

「しっかし、今日の暑さは異常だぞ……」

「ぴこ~……」

往人さんと一緒に商店街を歩いていたとき、往人さんがそんな言葉を口にした。普段は涼しげに歩く往人さんだったけど、さすがに今日の暑さは堪えたらしい。汗は流していなかったけれど、いつもよりも幾分暑そうだった。

「……向こうの喫茶店で少し涼んでいくか」

「ぴこぴこ」

ちょうどすぐ近くに喫茶店があった。前にあゆちゃんが水瀬さんに追いかけられた時、逃げるようにして入ったあの喫茶店だ。僕は往人さんの影に隠れて目立たないよう心がけながら、こっそりと中へと入り込む。

「いらっしゃいませー。何名さまでお越しですか?」

「一人だ」

往人さんはそう言うと、空いていた席に適当に腰掛けた。僕はその隣に座り、往人さんの顔を見つめる。喫茶店の中はさすがに涼しくて、暑くなっていた体が冷やされていくのを実感した。「喫茶店で涼む」というのは、こういうことを言うのだなぁ……

……涼しい風に当たりながら、僕がそんなことを考えていた時のことだった。

 

「……そういうことだったのですか。それはまた、随分と災難でしたね……」

「もー大変だったんだよー。繭ちゃんは走り回るし、子供達にもみくちゃにされちゃうし……」

「それは実に災難でした。というわけで、魔除けにこの彫り物をどうぞ」

窓際の席から、聞きなれた声が聞こえた気がした。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。