「……ぴこぴこ」
これは面白いことになったぞと、僕は内心喜んだ。演劇部の部室で「喫茶店に寄っていく」と言っていたみさおちゃん達一年生の子と鉢合わせすることができたのだ。気づかれるといろいろとまずそうだったから、僕はゆっくりと身を隠しながら、余裕を持って話を聞くことができるところまで移動した。幸い喫茶店の中は空いていたし、店員の人が見回りをしているわけでもなかったから、僕にとって都合のいい場所を見つけるのは簡単だった。
「……そんなわけで、送っていく途中にお家の人に会えて、どーにか解決したってわけなんだよ」
「通りで焦っていた訳ですね……保育所は人手不足だと聞いていますし、このようなことが繰り返されないことを望みます」
『でも、どうして入り込んだの?』
「謎です。この風子ブレインをもってしても、その繭ちゃんという子が保育所に入り込んだ理由は分かりそうにありません」
この場に居合わせたのは……みさおちゃん・天野さん・澪ちゃん・風子ちゃんの四人みたいだ。置かれている水入りのコップの数を見るに、どうやら栞ちゃんは来ていないらしい。部室にも顔を見せてなかったし、自然なことかな。
「まー、それは置いといて。この話はこれくらいにしようよ。それよりも私、一つ言いたくて言いたくて仕方ないことがあるんだよ」
『どうしたの?』
みさおちゃんがここで保育所の話を切って、話題を大きく転換しようとした。天野さんも風子ちゃんも特に異論は無いのか、みさおちゃんの話に素直に耳を傾けている。僕は次にみさおちゃんが振る話題はどんなものだろうと楽しみにしながら、こっそりと聞き耳を立てていた。
「前々から言おう言おうって思ってたんだけどね……」
「ええ。どうしました?」
天野さんが相槌を打ち、みさおちゃんが話を進める。その口から飛び出したのは……
「……風子ちゃんだけ仲間はずれだよね、名前的に」
いきなりの辛口発言だった!
「えっ?! そ、それはどういう意味ですかっ」
「ほら。私は『みさお』で、美汐ちゃんは『みしお』で、澪ちゃんは『みお』でしょ?」
「……そういえば、伊吹さん以外の方は皆、『み』から始まって『お』で終わっていますね……」
『澪もぎりぎりセーフなの』
……言われて見ると確かに、風子ちゃん以外はみんな「み」で始まって「お」で終わっている。気づくことはできたけど、みさおちゃんに言われるまでは意識したことさえなかった。言われてみて初めて気づくことってあるんだなぁ……と、僕はどうでもいいことに感心するのであった。
「そんなこと言ってもですね、風子は風子ですっ。それに、それだったら美坂さんも仲間はずれですっ」
「……伊吹さん。今はここにいる面子だけで話をしましょう。美坂さんは美坂さん、伊吹さんは伊吹さんですから」
「そうだよ風子ちゃん。往生際が悪いよ」
『潔くお縄を頂戴するの』
「すいませんっ。その前に、風子何も悪いことしてませんっ」
もっともな言い分だ。
「んー。じゃあ仕方ないから、風子ちゃんも『み』から始まって『お』で終わる名前にしちゃえばいいんだよ」
「さすがは折原さんですね。では、私が一つ考えてみることにいたしましょう」
「ええっ?! 風子が考えるんじゃないんですか?!」
天野さんは口元に手を当てて十秒ほど考える姿勢をとった後、ふっと緊張を解いて、向かい側の席に座っている風子ちゃんのことをじっと見つめた。風子ちゃんはいつもの彫り物を抱えたまま、一体何を言われることやらとどきどきしているのが見て取れるような顔つきをしていた。
「……では、『みかお』というのは如何でしょうか?」
「うん。さすがは美汐ちゃんだよ。すっごくいい名前。思わずハラスメントしたくなっちゃう名前だねっ」
「『お』が余計ですっ。『お』がすごく余計ですっ」
『とりあえず犬耳とか付けるといいと思うの』
澪ちゃんがいつものにこにこ笑顔を浮かべながら、どこから取り出したのやら、風子ちゃんの頭にあからさまに作り物と分かる犬の耳を載せた。完成品を見てみると……あ、結構似合ってる気がする……
「うんうん。これでこそみかおちゃんだよ」
「そうですね。これで伊吹さんも私たちの仲間といえるでしょう」
『犬耳が結ぶ仲間の証、なの』
「すいませんっ。耳付けてるの風子……いえ、みかおだけなんですけどっ」
風子ちゃんって、ああ見えて結構律儀な性格なのかも知れない……
「あははっ……ごめんごめん。ちょっとやりすぎちゃったね。風子ちゃん、なんだか面白くて可愛かったから」
「伊吹さん、素晴らしい反応でしたよ。演劇の素養を強く感じます」
『澪も風子ちゃんみたいに面白い人になりたいの』
「ひどいですっ。みか……いえ、風子に対する嫌がらせですっ。みかお……いえ、風子も怒るときは怒りますっ」
「……ねえ風子ちゃん。さっきから微妙に名前を言い間違えてないかな?」
「そんなことはありません。みかお……いえ、風子はいつだってパーフェクトな大人の女性です」
「……正直なところ、ここまで美味しい伊吹さんが私と同学年だという事実に、この天野美汐、柄にも無く嫉妬(かんどう)してしまいそうです」
『ものすごい当て字なの』
みさおちゃん達は屈託無く笑いながら、楽しそうにおしゃべりに興じていた。なんだかんだで風子ちゃんも楽しそうで、和気藹々という言葉がぴったりの空間が形成されていた。
「まー、風子ちゃんのことはこれくらいにして……みんなが気になってること、そろそろ話そうよっ」
「そうですね。今日は……偶然か必然か、この場にはいらっしゃらないことですし」
「まったくです。鬼の居ぬ間の選択です」
『風子ちゃん、誤字なの』
四人がそれぞれ顔を寄せ、それまでよりも少し声のボリュームを落として話し始める。
「……ねえ風子ちゃん。栞ちゃんのことは……もう知ってるよね?」
「はい。昨日の集まりの時、こっそりと観察させていただきました」
「やはり……伊吹さんも、美坂さんは霧島先輩のことを好いているとお考えですか?」
「はい。あの様子は間違いなく恋する乙女です。乙な女と書いて乙女です」
『霧島先輩のこと、じーーーっと見てたの』
「そうだよね……あそこまで集中して見てたんだから、絶対間違いないよね」
話題は……予想通り、この場にいない一年生の女の子である、栞ちゃんと佳乃ちゃんの関係についてだった。最初からこうなるだろうと予測はしていたけれども、いざ話が始まってみると、やっぱりその内容が気になって仕方ない。僕は息を潜め、みさおちゃん達の話を聞き漏らすまいと、全神経を耳へと集中させた。
「美坂さんの方は間違いなく、霧島先輩に想いを寄せていることでしょう。霧島先輩は決して悪い人ではないですし、私自身、霧島先輩なら間違いなく美坂さんを幸せにしてくださると思います。しかしながら……」
「う~ん……すっごく優しい人だし、お兄ちゃんなんかよりずっと頼れる感じがするし、何かあったときすぐ駆けつけてくれそうだし……いい人だとは思うよ。でも……ねぇ……」
『澪にも優しくしてくれるの。絶対いい人なの。でも……』
「風子の個人的な意見ですが、なんとなく、女の子っぽい感じは否めないと思うのです」
「そう、そこなんだよね……」
「そうですね……私も、そのことを言おうと……」
『澪も同じなの』
風子ちゃん以外の三人がかくんと首を垂れ、はぁ、と大きめのため息を吐き出した。
「いや、それが悪いって訳じゃないんだよ……でも、なんとなく……」
「欠点ではないと思います……が、霧島先輩の場合、本当に男性なのかどうか分かりかねるケースが多すぎます」
『この前部長さんに女の子の衣装を着せられた時、似合いすぎててびっくりしたの』
「風子は見たことありませんが、なんとなくその光景は想像が付いてしまいます」
「ええ……恐らく、伊吹さんの考えてらっしゃるとおりの光景ですね」
そしてその光景は、僕が頭の中で考えているような光景ともぴたりと一致するのだろう。女の子の服を着た佳乃ちゃんなんてあまりにも自然すぎて、そればっかり考えてたりなんかしたら、男の子の服を着てる時の方が不自然に思えてくるに違いないだろう。
「……でも、栞ちゃんが本当に霧島先輩のことが好きだっていうんなら、私は応援するよっ」
「同感です。美坂さんの恋が成就するよう、私たちにできることをいたしましょう」
『澪もお手伝いするの』
「はい。このヒトデにかけて、風子が美坂さんのことを幸せにしてあげましょう」
なんだかんだで、栞ちゃんの恋路は真剣に応援していくつもりみたいだ。栞ちゃんと佳乃ちゃん、それにみさおちゃんや天野さん達。これからみんながどうしていくのか、どうなっていくのか、僕の興味は尽きなさそうだ。
それから少し取りとめの無い雑談が交わされた後、みさおちゃんから不意に、こんな話題を切り出してきた。
「ねえ美汐ちゃん。美汐ちゃんって確か、風紀委員だったよね?」
「ええ。クラスから男女一名ずつ、必ず出ることになっていますからね。しかし、それがどうかされましたか?」
「えっと……瑞佳お姉ちゃんから聞いたんだけど、夏休みの間も学校を巡回してるって、ホントの話なのかなー、って思って」
なんでも佳乃ちゃんの通う高校には風紀委員――学校内の規律を正し、不正や学生らしからぬ行動を起こされるのを未然に防ぐ、真面目な人たちの集まりだ――がいて、それが夏休みの間も学校を巡回しているらしい。夏休みなのにそんなことをさせられるなんて、大変だなぁ。
「どうなのかな?」
「ええ、それは事実です。一年生・二年生・三年生からそれぞれ二名ずつ、当番制で巡回を行っています。私も来週のいつかに割り当てられていたはずですが……細かい日時は失念してしまいました。後で確認しておかなければ……」
「夏休みなのに休んでいません。看板に偽りありです」
『どうして夏休みの間も巡回しないといけないの?』
澪ちゃんから質問の書かれたスケッチブックを向けられて、天野さんが少し表情を曇らせながら、こう、澪ちゃんからの問いに答えた。
「……あまり、公にしたい事柄でもないのですが……」
「……………………」
「実は数年ほど前、夏休みの校舎に入り込んで、不純異性行為に及ぼうとした男女がいたそうなんです」
「えっ……ってことは、まさか……」
「はい。どうにか未遂で終わったとのことですが、その男女を取り押さえることはできず、逃げ仰せられてしまったと聞きました」
「ががが……学校でやっちゃうんですかっ。ふ、風子も身の危険を感じずにはいられませんっ」
『ドラマとか小説の中だけの話だと思ってたの』
「……私もだよ。だから風紀委員が巡回して、学校の平和を守ってくれてるんだね」
「そういうことですね。今のところ幸い、問題になるようなことは起きていないとのことです」
天野さんがそう言うと、周囲に安堵の色が広がった。話題的に微妙なところだったし……なんとなく、この面子でそんな話題はあまり似合わないような気がする。少なくとも、僕はそう思うのだ。
「ま、この話もコレくらいにして……そういえば最近、風邪が流行ってるみたいだね」
「ええ。私の母も風邪気味で……幸い、症状は軽いのですが……」
「うん……瑞佳お姉ちゃんのお母さんも風邪気味なんだって。澪ちゃんは大丈夫?」
『澪は大丈夫だけど、澪のお友達が風邪引きさんなの』
「そうなんだ……風子ちゃんは?」
「えっと……風子は大丈夫です。でも、おねぇちゃんが……」
「風邪を引いてしまわれたのですか?」
「いえ。最近野菜作りに凝り始めて、段々と庭が狭くなりつつあります」
「……風子ちゃん、紛らわしいよ……」
みさおちゃんは苦笑いを浮かべながら、いつもの表情でマイペースに語る風子ちゃんを見つめていた。
『そろそろ帰る時間なの』
「そうだね。じゃ、解散にしよっか」
「ではまた、次の機会にお会いいたしましょう」
「次は風子が天野さんを弄ってみせます。手首を洗って覚悟しておいてください」
しばらくの談笑の後、みさおちゃん達は会計を済ませ、お店の前で解散して家路に付いた。ふと僕が目をやってみると、往人さんも店を出ようと立ち上がっているところだった。何から何までちょうどいい。僕も一緒に出ることにしよう。
「さて、そろそろ行くか……」
「ぴこぴこっ」
往人さんは僕が隣にいなかったことにはまったく気づかなかったようで、僕がそれとなく隣に付くと、往人さんはそのまま自然に出口へと向かい始めた。遅れないよう、僕も一緒に歩いていく。
「ありがとうございましたー」
「……………………」
お店の人の挨拶に見送られ、往人さんと僕が外へ出る。
「ぐぁっ……やっぱ外は暑いな……」
「ぴこ……」
途端、むせ返るような熱気に包まれる。日陰のある道を選び、僕と往人さんが歩き出す。暑いことは暑いけど、さっきに比べれば幾分マシになっている……気がする。
「とりあえず、海辺に足を伸ばしてみるか」
「ぴっこり」
目的地も決まった。そうと決まれば、あとは歩くだけだ。僕は遅れることの無いよう、しっかりと付いていく。海まで行けばまた往人さんの人形劇を見られるのかと思うと、今から楽しみだった。
そんなことを思いながら、商店街を歩いていた時のことだった。
「でも美佐枝、もったいないよー。あの子、絶対美佐枝のこと好きだって」
「あのねぇ……そんな事言ったって、迷惑なものは迷惑なの。分かるでしょ?」
「またまたー。気のあるとこを見せとかなきゃ、いざって時に困るわよ?」
佳乃ちゃんと同級生と思しき女の子が三人話をしながら、ゆっくりと僕の隣を抜けていく。
「とにかく、あの子の話はおしまいっ。あたしだってあんまり考えたくないんだから」
「んもー。美佐枝ったら、意地っ張りなんだから……」
「今からでも遅くないって、ね?」
楽しげな会話を右から左へ聞き流しながら、僕はずんずんと歩いていく。その内、会話は聞こえなくなった。
なんてことない夏の風景に、僕はまた溶け込んでいくのであった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。