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第百二話「Atom Heart Mother」

「こんなに暑いんじゃ、外に出るやつも少ないか……」

「ぴこぴこ……」

海へと続く道をのんびり歩きながら、往人さんが小さくぼやいた。喫茶店を出てからというもの、まともにすれ違った人は片手で余裕を持って数えられるほどだった。つまり、今日は皆自分の家とか図書館とか喫茶店とか、暑さをしのげる場所で過ごしているに違いない。こうして外に出ている僕や往人さんのほうが、よっぽどおかしいというわけだ。

「海に行きゃ、子供くらいはいると思うんだが……どうだ?」

「ぴこー……ぴこぴっこ」

「……だな。いたとしても、この暑さじゃ人数は期待できないよな……」

往人さんは表情を少し曇らせて、ポケットに突っ込んでいた右手を外へ放り出した。首筋を軽くひねってこきんと鳴らすと、ため息一つ吐いてまた歩き出した。とりあえず海に行くということ自体は変わりなかったみたいだから、僕もそのまま一緒についていくことにした。

「……………………」

今年の夏はいやに暑い。去年の夏も暑かったはずだけど、ここまで暑いことは無かったはずだ。何が原因かは分からないけど、今年の夏が暑いということは事実だった。八月になったら、今よりももっと暑くなるんだろうか。そうなると、外を出歩くのも大変になりそうだなぁ。

そんな取りとめも無いことを考えながら、僕は規則正しく前足と後足を動かして、海へと繋がる道を行く。

………………

…………

……

 

「……海についたのはいいが……」

「……………………」

「大方の予想通りとは言え、恐ろしいまでの閑古鳥の鳴きっぷりだな……」

海までたどり着いて、往人さんが最初に口にした言葉がそれだった。今日の海は潔いくらい、人っ子一人見当たらなかった。堤防沿いに歩いてみても、人がいないことは変わらない。

「どうにかならんのか、これは」

「……ぴこぴこ」

人がいないんじゃ、人形劇だって披露のしようが無い。今から他の場所へ行くのも億劫だったし、何よりも海からは一度商店街まで戻らないとろくに行ける場所が無い。唯一つ、神社へはまっすぐ繋がる道があったはずだけど、海でこの有様だ。神社に誰かいるなんて、想像する方が難しい。

「前はあんなに子供がいたってのに、日が変わるとここまでいなくなるもんなのか……」

「ぴこ……」

往人さんがため息混じりにぼやいた、その時だった。

 

「お母さーん! 早く早くっ!」

「はいはい。今行くから、走って転ばないようにしなさいね」

 

僕らが歩いていくその隣を、親子連れがすり抜けていく。楽しげに話をしながら、僕たちの歩いていく方向と真逆の方向、つまり商店街の方へと歩いていった。

「……………………」

「もー。お母さん、歩くの遅いよー。紅葉待ちくたびれたー」

「紅葉はいつも元気ね。お母さん、羨ましいわ」

その様子を静かに見つめながら、往人さんはしばし足を止めた。親子連れは往人さんに特に注意を払うそぶりも見せず、そのまま段々と遠くへその姿を消していく。僕らの経っている位置から親子連れが見えなくなるまで、往人さんはそこから一歩も動こうとはしなかった。

……それから、しばらくして。

「……母親、か……」

「……?」

往人さんが、おもむろにその口を開いた。それから間をおかず、こんな言葉を口にする。

「……なあポテト。悪いが、今日の人形劇は中止だ。人の入りは期待できそうにないし、少し、気になることを思い出したんだ」

「ぴこぴこ……?」

「そうだな……お前になら話せそうだ。悪いが、少し話を聞いてもらおうか」

「ぴこぴこっ」

そう告げ、往人さんは道と海辺の間に挟まる堤防へとよじ上った。僕はすぐ近くにあった階段から堤防に登って、往人さんの隣に座り込んだ。海から吹いてくる潮風が頬をかすめて、ほんの少し、くすぐったい感じがした。

 

堤防に陣取り、絶え間なく吹き抜ける潮風を浴びながら、おもむろに往人さんが話を始める。

「……さて。ここなら誰も来ないだろうし、ゆっくり話ができそうだな」

「……………………」

「お前も見てたから、話は通じるだろうと思うが……」

そう前置きし、往人さんは本題を切り出す。

「……佳乃と聖の母親のことだ」

「……………………」

……いつもよりも少し重い口調で、往人さんは僕に告げた。

佳乃ちゃんと聖さんの母親。それは昨日、診療所の整理を手伝っていた時、往人さんと僕が偶然見てしまった写真に写っていた人。あの様子だと恐らくもう、この世の人ではないだろう。生前はどんな人だったのか、今となっては知る術も無い。ただ、写真だけを見た印象を言うのなら……佳乃ちゃんによく似た、明るくて優しそうな人に見えた。

「お前は知らないか? 佳乃と聖の母親がどんな人だったのか」

「……(ふるふる)」

僕は往人さんの問いに、首を横に振るしかなかった。僕が佳乃ちゃんの家に入れてもらった頃には、もう佳乃ちゃんと聖さんの二人だけで暮らしていたし、二人がお母さんの話題を出すことは一度も無かった。二人ともその話題を避けているというよりも、最初からいないような印象さえ受けたほどだった。

「そうか……あいつらと付き合いの長いお前なら、何か知ってると思ったんだがな……」

「ぴこ……」

「おっと、気を落とす必要は無いぞ。お前にだって知らないことはたくさんあるんだ。仕方ないことだ」

往人さんは口元に笑みを浮かべて、僕の頭をわしゃわしゃと撫でてくれた。僕はそれが気持ちよくて、思わず体をぴんと伸ばした。さっき駅舎でみちるちゃんが佳乃ちゃんに頭を撫でてもらっていた時のように、僕もまた気持ちよさそうな表情を浮かべていたに違いない。

「しかし……だ。佳乃と佳乃の母親の顔付き、いくらなんでも似すぎじゃないか……?」

「ぴこぴこ」

「最初見たとき、てっきり佳乃が写ってたのかと思ったくらいだ……子は親に似るとは言え、あれはそんなレベルじゃなかったぞ……」

その言葉どおり、佳乃ちゃんと佳乃ちゃんのお母さんの顔は、何かの間違いのようによく似ていた。佳乃ちゃんがどこか女の子っぽいのは、お母さんの遺伝とか影響とかを強く受けているからだろうか? それにしても、あの似方は普通じゃなかった。佳乃ちゃんは間違いなく男の子のはずなのに、顔つきはお母さんそのものなのだ。驚くのも無理は無い。

「あの時の聖の様子も尋常じゃなかった。まるで、佳乃と母親を重ね合わせているようにも見えた」

「……………………」

「佳乃は自覚してないみたいだが……あの様子じゃ、聖は相当気にかけてるみたいだな……」

「ぴこぴこ……」

聖さんが佳乃ちゃんのことを気にかけている――それは間違いない。聖さんは普段から佳乃ちゃん第一で動いているし、佳乃ちゃんもそんな聖さんのことをよく慕っている。あの二人はとても仲のいい姉弟だ。そこに、疑いの余地は無い。それなりに二人と一緒に過ごしてきた僕も、そこは請合っていい。

けれども、それとはまた違う形で、聖さんは佳乃ちゃんのことを気にかけている――往人さんの言葉には、そんなニュアンスが込められているように思えた。明確な言葉で言い表すことはできないけど、近似した言葉で言い表すなら――

 

「……あの様子、まるで佳乃を怖がってるみたいだったぞ」

 

……「恐怖」。それが、一番近いような気がした。

「前に……ものみの丘へ行ったときもそうだった。聖は俺に『佳乃の側にいてくれ』と、やたらと念押ししてきた」

「ぴこ……」

「佳乃を大切に思う気持ちは理解できるが、佳乃はああ見えても立派な男子高校生だぞ。なのに、あの念の入れよう……まるで、佳乃が自分の目の届かないところへ行くことを怖がってるみたいじゃないか」

そこまで言われて、僕も確かにおかしいと思った。佳乃ちゃんは見た目は女の子っぽいし、ちょっと子供っぽいし、何となく「守ってあげなきゃ」と思わせるような雰囲気がある。けれども実際は、どんな時でもしっかりとした判断を下せるし、力は平均以上にあるし、頭の回転だって早い。僕の知っている男の子の中でも、佳乃ちゃんは一番しっかりした子だと思う。僕がそう思うのだから、聖さんなら尚更、佳乃ちゃんの実像を正確に捉えているはずだ。

「分からんな……聖が佳乃をどう見ているのか、さっぱり分からん……」

「……………………」

「佳乃と聖の両親……特に、母親にしても謎だな。どうして佳乃とあんなに顔つきが似てるのか、俺じゃ説明が付かない」

「ぴこぴこ……」

「女の聖が母親に瓜二つになるなら分かる。が、佳乃は男の子だぞ? それなのに……どうしてなんだか」

往人さんは繰り返しそんなことを呟きながら、遠くの水平線をじっと見つめているようだった。

「……分からん。まったく分からんな……」

「……………………」

「佳乃と聖のこともそうだが……何よりもまず、俺自身のことが分からなくなってきた」

「ぴこ?」

不意に往人さんが話題に載せた「自分自身のことが分からない」という言葉に、僕は気になって声を上げた。

「ここだって旅費が溜まれば出て行くつもりだ。そう、一所にずっと留まってるわけにも行かない」

「……………………」

「ずっと同じ場所にいれば……その分だけ愛着が湧いて、出るに出られなくなる。そうなったら、俺の旅もおしまいだ」

「ぴこ……」

「……なのにな。おかしなもんだ。そういうことはしっかり自覚してるってのに、佳乃や聖のことが気になり始めてるんだ」

大きく息を吐いて、往人さんが呟く。その声色には、少なからず自嘲的な色が見え隠れしているように思われた。

「何が気になってるのか、俺にもよく分からない。他人の事情に頭を突っ込むなんて、今までの俺じゃ考えられなかった」

「……………………」

「……ま、これも単なる気まぐれだろうな。もう少し世話になって旅費が溜まったら、俺は消えるとするさ」

「ぴこぴこ~……」

「寂しそうな顔するなって。何も、今日明日に荷物まとめて出て行くわけじゃないんだからな」

往人さんから「出て行く」と聞かされた僕は急に寂しい気持ちになって、往人さんの足に体をこすり付けた。往人さんは僕の気持ちを理解してくれたのか、いつものように笑って僕の頭を撫でてくれた。そうしてもらっているうち、僕は少し落ち着くことができた。誰かに優しく撫でてもらうのは、本当に気持ちがよくて、悲しい気持ちや寂しい気持ちを癒してくれる。

……でも。

往人さんは旅人さんだから、いつかはここを出て行かなきゃいけない。それがいつになるかは分からないけど、気が遠くなるほど先、というわけではないだろう。この夏が終わる頃……いや、それよりももっと前に、往人さんはここを出て別の場所へ行ってしまうに違いない。往人さんがここを出て行けば、ここを出て行く術の無い僕に往人さんと会う方法は残されていない。それは、途方も無く寂しいことに思えた。

「また時間ができたら、佳乃やお前に会いに来てやるさ。今生の別れって訳じゃないんだから、そこまで悲しまなくてもいいだろ」

「ぴこ……」

「お前には佳乃がいる。聖だっている。他にも大勢、お前のことを好いてくれる人間がいるだろう。俺一人いなくなったくらいで、そうそう何かが変わるもんじゃない」

「……………………」

「それくらいの存在でいたいんだ。誰かに影響を与えるような、誰かに気兼ねされるような、そんな間柄は……俺には、一つも無い方がいい」

寂しげな笑みを交えて、往人さんが呟いた。僕は黙ったまま、ただ往人さんの言葉に耳を傾けていた。

僕は、往人さんの気持ちも判る気がした。往人さんは旅人さんだ。一所に留まってしまうのは、往人さんの言うとおり、旅をしていく上で決してよくないことだろう。だから、誰とも深く関わらず、誰にも影響を与えることなく、いつでも自由にいなくなることのできる存在でありたい。いつでも自由に消え去れる存在になりたい。それは、当然の願いだと思う。

「……………………」

……どんな人間同士の間にも、いつかは別れの時が来る。別れというものは、その絆が固ければ固いほど、痛みにも似た悲しみを僕らに与える。出会いは別れの始まりだと、誰かが言っていたような気がする。人と人はお互いに出会った瞬間から、別れに向かって止まることなく走り続ける運命にある。悲しみが待っているのは分かる。辛いのだって分かる。けれどもその悲しみは、人と人とが固い絆を結んだ、動かしがたい証拠なのだ。

……僕はそう思うことにした。そうすれば、別れの時の悲しみを、少しくらいは和らげることができるだろう。

と、僕が一人で考え込んでいた時のことだった。

 

「あっ、往人さん」

「……観鈴か?」

 

海辺を散歩していたのだろう、観鈴ちゃんが姿を現した。往人さんの姿を見つけるや否や、ぱたぱたとこちらに向かって走ってきた。

「にはは、こんにちは。今日はお仕事お休みなのかな?」

「ま、そんなとこだな。どこもかしこも閑古鳥で、人形劇をやる相手がいない」

「そっか。それは大変」

「ああ、大変だ」

どっちも全然大変そうには見えない様子で、「大変」「大変」と言い合っている。なんだろう……この、微妙な息の合い方は……

「お前はどこに行くつもりなんだ?」

「どこにも行かないよ。ちょっとお散歩してただけ。それで、誰かお友達に会えたらいいなー、って思ってたの」

「そんなもんか……ま、お前らしいな」

「そうかな……あ、隣、座ってもいいかな?」

「いいぞ。好きにしろ」

「にはは。ありがとう」

観鈴ちゃんはさりげなく往人さんの隣に座って、一緒になって海を眺め始めた。

「綺麗な海だよね。私、海を見てるとすっごく楽しい」

「……まあ、悪くないな。人の手が入ってなくて、海そのものって感じがする」

「うん。ここ、田舎だもんね」

観鈴ちゃんはそう言うと、にっこり笑ってこう続けた。

「でも、私はこの町が大好き。何にもないけど、何でもある町。そんな気がするの」

「何も無いが、何でもある……そらまた、えらく深い言い回しだな」

「うーん……ヘンだったかな? ちょっと、分かりにくいとは思うけど……」

「いや、言いたい事は分かるさ。それだけ、お前がこの町を好きでいるってことだろ」

往人さんは帽子をきゅっと直しながら、観鈴ちゃんに答えてみせた。観鈴ちゃんは隣でうんうんと頷いて、往人さんの言葉に納得しているようだった。

「……………………」

「……………………」

それから、お互いに海を眺めながら、しばらく時間を潰した後のことだった。

「ねえ往人さん。往人さんは、ヘンな夢とか見たこと無いかな?」

「夢? さぁな。見てるかもしれないが、よくは憶えてない。そういうお前はどうなんだ?」

「……えっと……」

往人さんに問い返され、観鈴ちゃんがほんの少し、その顔を俯けた。そうして少し間を置いてから、観鈴ちゃんはまた、元通りの位置まで顔を上げた。

……そして、こう呟いた。

 

「……空の夢。空の夢を見たの」

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。