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第百六話「Do You Want To Know A Secret」

「ぴこぴこ……」

僕の目論見どおり、その場所の戸締りはされていなかった。手洗いの壁に取り付けられた、換気用の小窓だ。聖さんは寝る前にいつもすべての戸締りがされているか確認するんだけど、いつもここはチェックせずにスルーする。最初から誰も入ってこれるわけが無いし、そもそも聖さんが存在を覚えているかどうかも疑問だ。というわけで、利用しない手はない。

「ぴ……こっ……」

僕の体より少し小さな隙間をくぐり、夜闇の広がる外へ出る。隙間が小さくてちょっと苦労したけれど、頑張ればなんとか出られそうだ。頭から先に押し込んで、後はよじよじぐいぐいと体を押し込んでいく。体と窓枠がこすれる感じにこそばゆさを感じながらしばしの間体をよじっていると、そのまま外へ出ることができた。念のために、この小窓は閉めておこう。

「……ぴこっ」

戸締り完了。さて、散歩に出るとしよう。僕は左右を確認してから、裏庭を通って診療所を出た。

 

「……………………」

誰もいない夜の街を、僕は一人歩いていく。今日は適度に風が吹いていて、歩くのにちょうどいいコンディションだった。静寂の中を足音も無く歩いていると、まるでこの世界を独り占めしてしまったかのような錯覚にとらわれる。今この瞬間活動しているのは僕だけなんじゃないか、そんな気さえしてくる。

「……ぴこ」

でも、僕は分かっている。この瞬間も世界のどこかで誰かが活動していて、この世界は僕だけのものじゃないということを。知り合いにだっているじゃないか。そう、毎日夜遅くまでパソコンに向かっている川口さんがそうだ。きっと今もパソコンに向かって、なんだかんだと楽しいことに時間を費やしているのだろう。そうして時間を使う手段があるということは、何もすることの無い僕にしてみれば素晴らしいことに思えた。

僕にはすることがほとんどない。強いてあげるなら、こうして散歩をしたり走り回ったり、あるいは丸くなって眠るといったことくらいだ。それは即ち、僕がそんな至極どうでもいいことしか「できない」ということを意味している。僕にできることは本当に少ない。佳乃ちゃんが誰かとおしゃべりをしていたり、遊んでいたりするときも、僕はただ「見ている」ことしかできない。

僕はいつもただ「見ている」だけなのだ。退屈だと思っても、どうにかしたいと思っても、僕には「見ている」という選択肢しか用意されていない。僕はこれからもずっと、ただ何かを「見ている」だけなのだろう。それはとても楽なことだとは思うけれど、退屈であることもまた間違いない。ああ、僕はどうして犬に生まれてきたんだろう? 人間に生まれてくることができたら、僕はもっと楽しかったはずなのに。

目が冴えるからだろうか。僕は散歩をしながら、そんなことに思いをめぐらせていた。いつもは佳乃ちゃんと一緒に走り回っているから気にならないけれど、こうして一人で落ち着く時間ができたとき、こんな考えが不意に頭をもたげてくる。僕が人間だったら、そんなことを考える必要も無かったのに。いろいろなことをしている佳乃ちゃん達の姿を見るたび、僕は僕と佳乃ちゃんの間に存在する「壁」を感じるのだ。

「……………………」

僕がいろいろと考えを巡らしながら、夜の商店街を歩いていた時のことだった。

 

「あっ……」

 

誰かの息を呑むような声が聞こえた。僕はぴくんと体を振るわせ、声のした方向、つまりは背中へと向き直る。

「ぴこ……」

そこに立っていたのは……

「ポテトさん……」

「ぴこぴこっ」

月明かりを背にしてしっかりと立っている、制服姿の舞さんだった。舞さんは僕に一声かけると、たったったっとこちらへ走り寄ってきた。僕はその場に座り込んで、近づいてくる舞さんを見つめる。あの「剣」を手にしている辺り、今日も多分「魔物」を狩りに来たんだろう。それが具体的にどんなものなのかは分からなかったけど、舞さんにとっては大切なことなんだろうと想像することは、決して難しいことではなかった。

「……すりすり」

「ぴこぴこ……」

僕の側まで駆け寄ってくると、舞さんは無言で僕を抱きしめた。服越しに肌のぬくもりが伝わってきて、心地よい安心感に包まれる気がした。頬と頬を擦り合わせ、お互い目を細める。舞さんは気持ちよさそうにしているし、僕もまたすごく気持ちよかった。そうして触れ合っているだけで、僕と舞さんはまた仲良くなれる気がした。

それからしばらく抱きしめられてから、僕と舞さんは顔を離した。そして舞さんは開口一番、僕にこう告げた。

「こんな時間に外を出歩いたら、危ない」

「ぴこー……」

舞さんに頭を優しく小突かれて、僕はその通りだ、と思った。こんな時間に外を出歩いていたら、どんな危険があるか分からない。迂闊だった。最近は怪しい人もうろついているらしいのに、そこまで考えが回らなかった。僕ももう少し頭を使わなきゃいけないなあ……

「……散歩?」

「ぴこ……」

「……眠れない?」

「ぴこぴこ……」

たったそれだけの質問で、舞さんは僕が今どんな状況に置かれているか理解したようだ。夜眠れなくなって、気分を紛らわすために一人散歩をしていた。そんな僕の心境を、舞さんはすぐに分かってくれた。またぎゅっと抱きしめられて、頭をわしゃわしゃと撫でてもらう。

「……よしよし」

少し毛がもしゃもしゃになっちゃったけど、すごく気持ちがいい。この手つきの優しさは……佳乃ちゃん並だ。そのまま全身を預けてしまいそうな、とろけそうな感覚。舞さんがどれほど動物好きなのか……これだけで、十分すぎるほど分かる気がした。

………………

…………

……

 

……それが、しばらく続いた後。

「……今もまだ魔物がうろついてるから、十分気をつけて」

「……ぴこっ」

「……何かあったら、私を呼んで」

「……ぴっこり」

舞さんは僕を地面に下ろして、商店街の奥へと消えていった。

「……………………」

僕はその背を見送りながら、舞さんの言う「魔物」とは何かを考えた。剣を持っている事から考えると、多分それは、武器を持たなければ相対することができないほど強大な存在なのだろう。そして同時に……それは、人間ではないと思う。「魔物」というくらいなのだから、僕らの常識では推し量ることの出来ない「何か」なのだろう。

それが、この町をうろついている。

「……………………」

冷静になってみて、それがとても怖いことであるような気がしてきた。得体の知れない何かが、僕のいるこの町を徘徊しているのだ。舞さんが剣を使わなきゃ勝てないような「何か」が、ひょっとすると僕のすぐ側まで来ている――誰とも戦う術を持たない僕が「何か」に出会ってしまったら、僕は

 

「こーんな時間にどうしたのかなっ」

「!!!」

 

心臓が飛び出したかと思った。いや、僕の中じゃ飛び出していた。体がびくん! と震えて……いや、体がぴょん! と飛び跳ねて、一瞬宙に浮いたような気さえした……いや、多分飛び上がったと思う。とにかく、僕はそれくらい驚いたのだ。

「……!!」

直前に考えていたこととされたこととが一瞬で結びついてしまって、冷静な思考なんて宇宙の彼方へ吹っ飛んでしまった。そのまま動けなくなり、僕は次に起こる事態の予測さえできなくなってしまう。

……そして。

「あははっ。驚かせちゃってごめんね。こんな時間に歩いてるなんて思わなかったから、つい声をかけちゃったよ」

「ぴ、ぴこぴこぴこ……」

僕は腰を抜かしたまま、その声に聞き覚えがあることをどうにか思い出す。顔だけ後ろに向けてみると、そこには確かに、僕の見知った顔があった。それを確認し、一気に脱力する。全身の筋肉から力が抜けて、僕はへなへなとその場に崩れ落ちた。なんだ、お姉さんだったのか……

「ぴこぴこぴこっ」

「うんうんっ。おいでおいでっ。抱きしめてあげるよっ」

僕は安心し、お姉さんの胸へと飛び込む。お姉さんは僕をしっかり受け止めてくれて、そのまま僕を抱きしめてくれた。

「あははっ。いつ抱きしめても気持ちいいよっ。ふわふわのもこもこだねっ」

「ぴこぴこー」

舞さんに比べるとちょっとだけ腕に力がこもり過ぎているような気がしたけど、それでも随分上手な抱きしめ方だなと思った。ああ。出会ったのが魔物じゃなくてお姉さんで、本当によかった。お姉さんに抱かれながら、僕はそれを強く実感する。

「よしよし。可愛いね……」

「ぴこ……」

お姉さんは僕を抱きしめながらも、視線は別の場所へ向けられていた。僕が視線の先を追うと同時に、お姉さんからも声が上がる。

「う~ん……やっぱり、この辺りにも落ちてないみたいだね……」

「ぴこ?」

僕の問いかける声に、お姉さんが顔をこちらに向けた。

「ぴこぴこ?」

「この前の落し物を探してるのかって? えっとね、それも探してるんだけど、今日はまた別のものを探してるんだ」

お姉さんは探し物をしているらしい。しかも、この前のものを探しているわけではないという。一体、何を探しているというのだろう? 僕の疑問がお姉さんにも伝わったのか、お姉さんはさらに言葉を続けた。

「友達がね、リボンを失くしちゃったんだ。黄色くて細長い、かわいいリボンなんだよ。どこに行っちゃったんだろうね……」

……その言葉を聞いて、僕はすぐにピンと来た。そして、お姉さんの言う「友達」が誰なのか、ということも。

あいにく、僕からお姉さんに何かを伝えることはできそうにないけど、この話は憶えておくことにしよう。ひょっとすると、お姉さんの役に立てるかもしれないと思ったからだ。

……ただ、あのお姉さんと「リボンの持ち主」のあの子が「友達同士」というのは、なんだかちょっと引っかかるような気がした。どういう経緯で知り合ったのだろうか? なんだか見当もつかない。昨日お姉さんの知り合いと言われて駅で紹介された、あの男の人もそうだ。よくは分からないけど、お姉さんの交友関係は相当に広いらしい。小さな女の子から、会社勤めの男の人まで……なんだかアンバランスな交友関係だ。

「……………………」

それから、しばらくして。

「……ふぅ。この辺りには無さそうだね……」

お姉さんは探し物を諦めたようで、額に流れる汗を拭った。些か残念そうな顔をしながら、名残惜しげに地面を眺めている。この辺りにあるだろうと踏んで探しに来たのだろう。期待が裏切られた時というのは、誰でもそんな表情を浮かべるものだ。

「ちょっと疲れちゃったし、いつもの場所に行く?」

「ぴこぴこっ」

「あははっ。一緒に来てくれるみたいだねっ。うんっ。それじゃ、向こうで一緒にお話しよっか」

どうせ、今夜はもう眠れないんだ。お姉さんに付き合って、このまま一緒に過ごすことにしよう。僕なんかとお話してお姉さんが楽しいのかどうかは、ちょっと自信が持てなかったけど……

 

「……よっと。今日は涼しいねっ」

「ぴっこり」

夜の廃駅というのは、昼とはまた違った趣がある。ぼんやりとした明かりを放つ電灯に照らし出され、駅はその輪郭をおぼろげに浮かび上がらせる。その片隅にある古ぼけたベンチに、僕とお姉さんは腰掛けた。

「やっぱり、この場所はいいね……すっごく落ち着くよ」

「ぴこー……」

「懐かしい気持ちになるよ。故郷から離れた遠い遠い場所で、食べ慣れたお菓子を見つけたときみたいな……そんな感じかな」

静かに語るお姉さんの姿を、僕はじっと見つめる。夜空を見上げているのだろうか。その表情の程を伺うことは出来ない。ただ、口調から察するに、多分、悲しい表情はしていないだろうと思った。遠い昔を懐かしんで、自然に紡がれる言葉を口にしている。そんな感じだろう。

「いい風景だと思わないかな……」

「……ぴこ?」

「田舎の古びた駅、家に帰る子供達、沈んでいく夕陽……」

「……………………」

「そんな風景が、ここにもあったんだよ」

お姉さんの声の調子が、段々と穏やかなものに変わって行くのが分かった。

「……ねえ、ポテト君」

「ぴこ?」

不意に問いかけられ、僕が顔をお姉さんに向ける。

「キミはいろいろなものに興味を持っていて、いろんなことを知りたいと思っているように見えるけど……どうかな?」

「ぴっこり!」

「そっかぁ。やっぱり、そうなんだね」

僕が元気よく返事をすると、お姉さんはにっこり笑って頷いた。

「……ポテト君」

「?」

僕の名を呼び、しばし間を空ける。

……そして。

 

「……この町の秘密を、知りたいとは思わないかな?」

僕に、そう告げたのだった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。