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第百十話「REJECTED」

「はぁ……はぁ……佳乃っ! 捕まえたか?!」

「うん。この通りだよぉ」

まとわり付いていた子供達をどうにか振り払ったのか、折原君が息を切らしながらこちらへと走ってきた。佳乃ちゃんは繭ちゃんを胸の中に抱き込んだまま、顔を上げてそれに応じる。二人の様子を交互に眺めながら、僕はこの騒ぎの終わりを実感してほっとしていた。

「助かったぞ……俺も長森もとんでもない目に遭ったからな。子供ってのはあなどれないな……」

「大変だったねぇ。長森さんは大丈夫かなぁ?」

「ああ。あいつはみさおと一緒に杏達のところに行った。もうしばらくすれば、走り回ってた子供も落ち着いて中に戻るはずだ」

疲れた調子で言いながら、折原君は一人空を仰いだ。額に滲んだ汗を袖口で拭い、大きなため息を一つ吐く。佳乃ちゃんは繭ちゃんの背に手を回しながら、折原君の様子をじっと見詰め続けていた……いや、本当にそうだったかは自信が持てない。佳乃ちゃんの瞳は確かに折原君の方を向いてはいたけど、そこに折原君の姿が映し出されていたかは分からなかった。僕にはこう、もっと遠くの何かを見つめているような……そんな風に見えた。

「……………………」

佳乃ちゃんに捕まえられてからの繭ちゃんはまるで人が変わったかのようにおとなしくなっていて、佳乃ちゃんから少しも離れようとはしなかった。時折顔を上げて佳乃ちゃんに目をやる以外には、これといった動きを何一つ見せなかった。

後は……

「……みゅ……」

「……大丈夫。大丈夫だからねぇ……」

……時折、二人の間でそんな言葉を交し合う……それくらいだった。

 

「……で、今回は佳乃が捕まえたってわけね?」

「そうだな……佳乃が生き残ってなかったら、今頃もっと厄介なことになってたぜ……」

一連の騒ぎをどうにか収めて、僕達は昨日と同じように職員室に集まっていた。当然だけども、みんな疲れきった様子で、揃ってぐったりとした表情を見せていた。この夏の厳しい暑さの中であれだけの騒ぎを繰り広げたんだから、そんな顔つきになってしまうのも無理は無い。

「昨日はあやふやになったが、今日はここに親も呼んできっちり話をつけたほうがいいと思うぞ」

「そうね……これ以上貴方達に迷惑をかけるわけにも行かないし、親御さんを呼んで話をしましょうか……」

保育所の職員さんは申し訳無さそうな表情を浮かべながら、繭ちゃんにすっと顔を近づけた。

「ひっ……!」

繭ちゃんはそれに驚いたのか目を大きく見開いて、じりっ、と一歩後ずさりした。声の調子や表情から見ても、明らかに怯えているのが分かる。身を固くして、額から冷たい汗を流している……僕は小さくて弱いことを自覚しているから、繭ちゃんが今どういう心境・状況に置かれているのか、手に取るように理解できた。

「こいつ……保育所の中を走り回るのは平気なくせに、誰かと一対一になるとコチコチかいな……どーいう性格しとるねん、ホンマに」

「あぅーっ……もうっ! どういうことを教えたら保育所の中に二回も入り込む、なんて思いつくのよぅ! 親の顔が見てみたくてしょうがないわよぅ!」

「こんなん言いたないけどな……うちも同じやわ。子供の育て方は自由やけど、人様に迷惑かけたらいかんっちゅうことくらいは教えやなあかんで」

「……………………」

「……………………」

明らかに怒っている晴子さんと真琴ちゃんの様子をちらちらと伺いながら、藤林さんと長森さんは複雑な表情を浮かべていた。僕にはその理由が分かる。昨日帰り道に会った繭ちゃんのお母さん――確か、華穂さんと言っただろうか――は、僕が見た限りではごく普通の人に見えたからだ。あの時もどこかへ行ってしまった繭ちゃんを探していたわけだったし、そんなに悪い人とはとても思えない。

「繭ちゃん……だったかしらね。悪いけど、あなたの家の電話番号を教えてもらえないかしら?」

「……………………」

そう問いかけられてもしばらく繭ちゃんは怯えた様子を見せていたけど、職員の人が優しく声をかけて何度か宥めると、繭ちゃんは少しずつ肩の力を抜いて、やがておずおずと口を開いた。

「えっと……」

小さな声で一つ一つ番号を呟いて、職員の人がそれを順番にメモしていく。

「この番号で合ってるかしら?」

「うん」

「ありがとう。今、家に誰かいる?」

「……(ふるふる)」

首を振って否定する繭ちゃんに、横から、

「嘘つけっ! 昨日のこの時間に母親がいただろっ!」

「みゅ?!」

「わ、浩平っ! 声が大きいよっ! 繭ちゃん、怖がっちゃってるよ……」

折原君の鋭い指摘が飛ぶ。確かに昨日のこの時間、僕らは華穂さんと会っている。だから多分、今日も仕事には出ていないだろう。繭ちゃんを探しに出ていなければ、華穂さんはまだ家にいるはずだ。

「それは本当なの?」

「はい。繭ちゃんを送っていく時に繭ちゃんを探してる途中のお母さんに会って、そこで繭ちゃんと別れたんです」

「……そう。それなら多分、今日も家にいるはずね……」

ふぅ、と大きくため息を吐いて、職員の人が受話器を上げた。メモを隣に置いてしっかりと確認しながら、一つずつ番号を押下していく。最後の数字を押し終えて、受話器を耳に当てる。

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

……反応が無い。みさおちゃんと長森さんが顔を見合わせる。その表情は不安げだ。身じろぎ一つ許されないような息苦しい沈黙が、部屋いっぱいに広がっていく。そして……

「……繭ちゃん。この電話番号、本当にこれで合ってる?」

「……もしかして、繋がらなかったんですか?」

「ええ……電話番号自体が無効になってるみたいで……」

電話番号は無効だったらしい。番号を書き付けたメモを見せながら、職員の人が問う。繭ちゃんはそれに頷いているけれども、その番号がどこにも繋がらなかったことは、先ほどの電話ではっきりと示されていた。

「繭ちゃん。本当の電話番号を教えてくれないかな?」

「……さっきのであってる」

「合ってないから繋がらんかったんやろっ! あんたは自分の家の電話番号も言えんのかいっ!!」

「は、晴子さん……お、落ち着いて落ち着いて……」

「……さっきのであってる……」

事態が一向に前に進まず怒り心頭の晴子さんを前にしても、繭ちゃんは相変わらず先ほどの電話番号が「正しい」と言い続けている。これでは連絡しようにも連絡できない。職員の人はほとほと困り果てた様子で、折原君にこう問いかけた。

「折原君。昨日この子のお母さんに会ったみたいだけど……その時、苗字とかは聞かなかったかしら?」

「苗字……あ、その時じゃないですけど、聞きましたよ」

「本当? それなら、ちょっと教えてくれないかしら。電話帳で探してみるから」

「はい。確か……『椎名』です。『椎名繭』、それがこいつの名前です」

「分かったわ」

電話帳を手に取り、「椎名」の名前を探し始める。そうしている間にも、繭ちゃんは佳乃ちゃんにくっついて離れようとしない。ここに入ってきてから――正確には、佳乃ちゃんが繭ちゃんを捕まえてからずっと、繭ちゃんは佳乃ちゃんにくっつきっぱなしだ。どうしてそんなに佳乃ちゃんに懐いているのかはよく分からなかったのだけど、佳乃ちゃん自身はそれを自然に受け止めているようで、時折繭ちゃんの体を撫でたりしてあげている。

「……さっきのであってる……」

「うん……まだもうちょっと、時間が必要だよね……大丈夫だよぉ……」

「……………………」

……佳乃ちゃんは一体、何を考えているのだろう? 何がどう「大丈夫」なんだろう?

それに、さっきの言葉……繭ちゃんを抱きしめた時、佳乃ちゃんが口にした……

 

……『願いが叶う場所』という言葉……

 

それが何を意味しているのか……僕にはまったく分からない。文脈から考えて、多分繭ちゃんの「願い」が叶う場所を指していて、しかもこれからこの「保育所」を「願いが叶う場所」にすると言っていた。

けれど、どうやって? どうやってここを「願いが叶う場所」にする? どうやってこの場所で繭ちゃんの「願い」を叶える? それ以前に、繭ちゃんの「願い」って? 何も分からない僕に、次々と疑問が押し寄せてくる。その中のどれか一つにさえ、僕はまともな答えを返すことができなかった。

佳乃ちゃんがどういうつもりであんなことを言ったのか……僕にはさっぱり分からなかった。

「……あったわ。一つだけだから、多分間違いは無さそうね」

僕が一人で懊悩している間に、職員さんは「椎名」家の電話番号を見つけ出していた。再び受話器を取り、番号を入力し始める……

………………

…………

……

 

「失礼します……」

「はい。こちらにいらしてください」

その人がやってくるまでには、二十分もかからなかった。静かに扉を開け、そのまま中に入る。よほど慌てていたようで、髪の毛が少し乱れていた。額に珠のような汗が浮かび、白いハンカチでそれをしきりにふき取っている。中にいる人物達の顔ぶれを見て、大方何があったか理解したらしい。深々と頭を下げ、繭ちゃんの側へと歩み寄った。

「えっ……もう来はったん……?」

「あぅ……なんか、想像してたのと違う……」

まず、その事自体に驚いている人が二名。二人の頭の中では相当な「わるもの」に仕立て上げられていたはずだから、よくよく考えてみると別に驚くほどのことでもないけれども、想像していた人物像と実際の人物の常識的な行動とのギャップに驚いているようだったから、特に違和感は感じなかった。

「……と、とりあえずや。保育所に無断で入り込んだらあかんって……その子に言うといてくれへんか?」

「そ、そうよぅ……ちゃんと教えといてもらわなきゃ、こっちも大変なんだからぁ……」

それでもまだ不満が残っていたのか、抗議の声を上げる二人。それに対する反応は……

「本当に申し訳ありません。何と言ってお詫びをしたらよいのか……私のせいでご迷惑をおかけしてしまって、本当に申し訳ありませんでした……」

……常識的なものだった。何度も頭を下げ、しきりに娘――だろう、多分――の非礼を詫びている。それは紛れもなく、真面目なごく普通の人間がとる態度だった。少なくとも、繭ちゃんに間違ったことを教えたり、逆に正しいことを教えないような人物には見えなかった。

「お話によると、繭が昨日も同じ事をしてしまったようで……すべて私の責任です。私の目が行き届かないばかりに、このようなことになってしまって……本当に、本当に申し訳ありません」

平身低頭でひたすら詫びを入れ続けるその様子に、晴子さんも真琴ちゃんも完全に気勢をそがれてしまった様子で、ただ戸惑い顔を向け合うことしかできなかった。

「それで……華穂さんですね? それに、こちらは繭ちゃん。これで合ってますか?」

「はい。この子は椎名繭、私は椎名華穂です」

……華穂さんが、その言葉を発した時だったように思う。

 

「……ちがぅ……もぅん……」

 

そんなか細い声が、僕の耳に届いたのは。

「分かりました……電話でお伝えしたように、昨日と今日、繭ちゃんがこの保育所へ入り込んで騒ぎを起こす、ということが続きました」

「はい……」

話をしている二人には届かなかったようで、繭ちゃんにはまったく注意が向けられない。そばに立っている長森さんや藤林さん、晴子さんも同じみたいだった。繭ちゃんの声は、僕にだけ――あるいは、僕よりも繭ちゃんの近くにいる佳乃ちゃんにも――届いたのだ。

……残念ながら、その意味は分からなかったけれども。

そんな僕のことは露知らず(当たり前だけど)、華穂さんと職員さんの話は進んでいく。

「どちらもこちらの方々にご協力いただいて、繭ちゃんを捕まえることができましたが……その間、保育所の中は混乱状態で、本来の機能を果たせなかったことは事実です」

「はい……本当に、どのようにお詫びすればよいのか……」

「とりあえず、前回と今回に関してはこれといった被害も出ていませんし、こちらとしてもこれ以上物事を大きくしたくありませんから不問としますが……今後はこのようなことの無いよう、きちんと言っておいて下さい」

「ありがとうございます……繭にはきちんと言って聞かせておきます。繰り返しになってしまいますが……本当に申し訳ありませんでした」

華穂さんが一際深く頭を下げ、沈痛な面持ちを浮かべた。それを見た職員さんも、これで幕引きを図ろうと考えたのか、穏やかな表情を見せてこう告げた。

「では、これから仕事もありますし、お帰りいただいて結構です。ご足労頂き、ありがとうございました」

「ご迷惑をおかけしました。さあ、繭。一緒に家に帰りましょう」

そう言って、華穂さんが手を伸ばした時だった。

「……ちがうもぅん……」

「……繭? どうしたの? 何が……」

……先ほどか細く聞こえた言葉が、今度は……

 

「ちがうもぅんっ! 『しいな』じゃないもんっ!!」

 

……一同の耳をつんざく位の大きな声で、再び発せられた。

「?!」

「えっ?!」

「いっ!?」

一同がひるんだ隙に、伸ばされた華穂さんの手を拒絶するかのように強く振り払い、繭ちゃんは再び走り出してしまった。引き戸を叩きつけるように開けると、その勢いを殺すことなく運動場を駆け抜けていく。追いかけようにもまず状況の把握ができず、どうしようもなかった。

「ちがうもんっ! ちがうもぅんっ!!」

「繭! どこに行くの!! 繭!!」

華穂さんの呼び止める声にも応じず、繭ちゃんは走っていく。華穂さんを入れるために開けておいた保育所の正門を抜け、そのままその姿を消してゆく。

「繭! 待ちなさい! 繭!!」

「華穂さん? 華穂さん!!」

それに続いて、華穂さんも走り出す。この段階になって初めて、折原君たちは状況の把握ができるようになっていた。

「浩平……」

「……何が何だか分からないが、とりあえず、このまま放っておくのはまずい、ってのは分かるな……」

「じゃあ……どうするの?」

「……追いかけるぞ。多分華穂さんじゃ、繭は捕まえられない」

「やっぱそうなるわよね……ま、あたしは最初からそうするつもりだったけどね」

「それじゃあ、善は急げだよぉ」

状況を把握した後に出た結論は、繭ちゃんの追跡。それには全員、異論無しのようだった。

「行くぞ」

「うんっ!」

「わわわ、待ってよ浩平っ!」

「佳乃っ! 行きましょ!」

「分かってるよぉ!」

あっという間に話をまとめて、佳乃ちゃんたちは走り出す。

……そして。

「あぅ……晴子さん、ちょっと……」

「……ええわ。あんたも行きたいんやろ?」

「うん……繭ちゃんの言ったこと、気になるから……」

「……行ってきなさい。真琴ちゃんの分は私と晴子さんで見るから、真琴ちゃんは繭ちゃんのことを心配してあげて」

「……うんっ! 京子さん、ありがとうっ!」

今回は真琴ちゃんも加わるようだった。晴子さんと……京子さん、というのか。京子さんの許可をもらって、元気よく走り出す。びっくりするくらいの俊足で運動場を駆け抜けると、正門に到達する頃には折原君たちの一団に合流していた。

「……………………」

僕も行こう。

 

……華穂さんの前で「『椎名』じゃない」と言った、繭ちゃんの姿を見つけるために。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。