「立ってるのも疲れるし、あそこに座ろっか」
「ぴこぴこっ」
お姉さんは僕を抱き上げ、廃駅の駅舎に向かって歩いてゆく。幾分光の弱まった電灯が、駅舎の古ぼけたベンチを鈍い光でもって照らしている。暗い中にあるそのベンチは、お昼に見たときよりも心なしか頼もしく見えた気がした。
「よいしょ……っと」
ベンチの真ん中に陣取り、僕はお姉さんの隣へ座った。お姉さんはいつもと同じ服装で、あの白い帽子もそのままだ。たまにずり落ちそうになるそれを左手で押さえながら、お姉さんが小さく息をつく。
「ふぅ……静かでいい夜だね」
「ぴこぴこ」
「あははっ。やっぱりキミもそう思うのかな?」
「ぴっこり」
同意だった。夜は静かで穏やかなほうがいい。不安を抱えたままじゃ、眠るに眠れないし。ただでさえ、僕は暗いところが苦手なのだ。静かで何もない夜が、僕には一番だ。
「今、何時だろうね……」
「……………………」
「ひょっとしたら、もう『明日』なのかも知れないね」
「……ぴこぴこ」
「こんな時間に起きてたら……お母さんに怒られちゃうよね」
「……………………」
僕はお姉さんの言葉――それは呟きにも似ていた――を聞いていて、ある単語に独特のアクセントが置かれていることに気づいた。
「でも、それは愛情の証なんだよ」
「早く寝ないと、明日また起きられないからね」
「寝坊しちゃったら、いろいろと大変だから」
それは――
「『明日』が来ても起きられなかったら……お母さん、怒っちゃうよね」
……思えば、佳乃ちゃんや往人さんもそうだっただろうか。華穂さんも……似たような態度で、この言葉と接していたように思う。
「お母さん」
この短い単語に、どれだけの意味を込めているのだろうか。意味がこもっているからこそ、そこに力を置いて発音するのだろう。そこには間違いなく何かの意味がある。
「……………………」
それを窺い知ることは、僕にはできそうになかったけれど。
「あっ、ごめんね。いつもよりちょっと外が暗かったから、時間のほうが気になっちゃったよ」
「ぴこぴこー」
「そうだよね。キミは『この町の秘密』を聞きに来たんだよね」
お姉さんに言われ、僕は胸が躍った。「秘密」という言葉に、僕は強く強く惹き付けられていた。この平凡な海沿いの町に何が隠されているというのか、僕には気になって気になって仕方がなかった。僕はお姉さんが話を切り出すのを、今か今かと待ちわびていた。
「『秘密』はね、たくさんあるんだ。だからね、一日じゃ全部言えないんだよ」
「ぴこぴこっ」
「だからね、これから少しずつ、キミに『秘密』を教えてあげようと思うんだ。最後まで聞けば、キミもお姉さんと同じくらい、この町に詳しくなれるんだよっ」
「ぴっこり」
僕の興味は惹き付けられっぱなしだ。「秘密」は少しじゃなくてたくさんあって、しかもそれを少しずつ、僕に教えてくれるという。一日で全部言えないくらいとなると、それはすごいものなのだろう。何もすることがない僕にとっては、多すぎるくらいが丁度よかった。
「うんうんっ。気に入ってくれたみたいだねっ」
「ぴこぴっこ」
「よーし……じゃあ、今日のお話を始めるよ……」
そう言うとお姉さんは僕を抱き上げ、ひざの上へちょこんと乗せた。お姉さんが僕の顔を覗き込み、にっこり笑って見せる。お姉さんはそうした後顔を元の位置に戻すと、僕の体に手を回し、静かに語り始めた。
「……今日は、こんなお話……」
この町にはね、たくさんの風景があるんだ。人のいる風景、物のある風景、楽しい風景……そんな風景がたくさん集まって、この町を形作っている。どれかが欠けても、この町は成り立たないんだよ。
風景は誰かに見られて、初めて「風景」になるんだ。そうして風景を見た人の中に、自分の姿を残してもらう。誰かに「憶えて」もらうことで、風景は「風景」になるんだ。人の心の中にカタチをとどめた風景、それが……
……「記憶」。「記憶」っていうんだよ。
記憶になった風景は、それを忘れない限り、人の心に残り続ける。人の心に残って、その人に影響を与え続けるんだ。とても小さなことであっても、記憶は人に影響を与え続ける。いい記憶も悪い記憶もみんなひっくるめて、人とは切り離せない存在なんだ。
風景が集まって町ができて、町の中に人が住む。人は風景を記憶に変えて、また新しい風景を作り出していく。そうしてできた新しい風景が、その町を少しずつ変えていく。人が町を、町が風景を、風景が記憶を、記憶が人を……小さな「輪」を、みんなして回っているんだ。
それはとても当たり前のことだから、そういう「輪」があることを忘れちゃう人も多い。それは誰だって同じこと。ひょっとしたら、意識したことのある人のほうが少ないかもね。
……でもね、この「輪」からは外れられないんだ。記憶が人を動かし、人が風景を変え、風景が町を生み出し、町の風景は人の記憶に変わる……
「……その、繰り返しからはね」
「……………………」
ここまでほとんど止まらずに話した後、お姉さんはふぅ、とため息を吐き出した。一息で話して少し疲れたのか、ここで少し間が空いた。
「あはは……ごめんね。もっと分かり易く話したいんだけど、ちょっと難しいんだ」
「ぴこぴこ」
申し訳なさそうに謝るお姉さんに、僕は首を左右に振って応じた。確かにちょっと抽象的な話だったとは思うけど、言いたいことは理解できる。多分これからお姉さんの話してくれる「秘密」は、今日のお姉さんの話のようなことが下地になるのだろう。それなら、しっかり聞いておかない手はない。
「すごいね……ちゃんと聞いてくれてるんだ。お姉さん、すっごくうれしいよ」
「ぴっこぴこっ」
お姉さんは満面の笑みを浮かべ、僕の頭をわさわさと撫でてくれた。僕は身を震わせ、お姉さんのされるがままになる。心地よい感触だった。
「あははっ……えらいえらいっ」
「ぴこー」
お姉さんも気持ちよかったのか、そのまましばらく、僕はお姉さんに抱かれたままだった。
「ふぅ……なんだか、ちょっとお腹すいたね」
「ぴこぴこ?」
不意に、お姉さんがそんなことをつぶやいた。僕は顔を上げ、お姉さんの目を見つめる。
「ねぇポテト君。お姉さんね、お料理もできるんだよ」
「ぴこぴこー」
「例えば……こんなのもねっ」
そう見得を切り、お姉さんが懐から取り出したのは、
「……ぴこぴこ?」
「うんっ。クッキー。オーブンでしっかり焼いた、お姉さんの手作りクッキーだよっ」
小さな袋に丁寧に詰められた、きつね色のクッキーだった。見た目はちょっとしっとりとした感じで、なかなかおいしそうだった。少なくとも、真っ黒に焼け焦げて碁石のようにになっている、なんていうことはなかった。
「これでも最初は失敗ばっかりだったんだ。火加減を間違えて真っ黒にしたりして……『碁石』なんて言われたこともあったっけ……」
「……………………」
……僕と同じようなことを考える人が、少なくとも一人いることがわかった。
「でも、ちゃんと練習したんだよ。食べられるように、食べてもらえるように……」
「ぴこぴこ……」
「えへへっ……まだまだ完璧じゃないけどね。でも、味は保証するよ。ポテト君。ちょっと食べてみない?」
「ぴっこり!」
その言葉を待っていた。僕は勢い込んでうなづく。
「うれしいよ……楽しみにしてくれてるみたいだね。それじゃあ、その期待にしっかり応えるよっ」
お姉さんは握りこぶしを「ぐっ」と可愛く握ると、クッキーの袋を閉じていた黄金色の針金を丁寧にはずし、袋の口を広げた。クッキーの甘いにおいが、袋の口からほのかに漂ってくるのが分かる。僕はぴこぴこと短い尻尾を振りながら、お姉さんが準備を済ませるのを待った。
「それじゃあ、お姉さんが食べさせてあげるからね」
そう言いながら、お姉さんは再び懐へと手を差し入れ……
「はいっ」
「ぴこ?」
「あれ? どうしたの? 何かヘンかな?」
「ぴこぴこ……」
「えっ? クッキーをフォークで食べるのはおかしい? そうかな?」
……何故か懐から「フォーク」を取り出し、袋の口に差し入れたのだ。フォークはアルミ製のごく普通のフォークで、取り立てて変わったところはない。けれども、クッキーを食べるためにわざわざフォークを使う理由もない。普通に指で摘んで食べればいいと思うんだけど……
「う~ん……そんなにヘンかな?」
「ぴこぴこ……」
「でも、食べられることは食べられるよねっ」
確かに、食べられることは食べられる。別に強く反対する理由はどこにもない……んだけど、やっぱりなんとなく引っかかるものを感じるというか……どうしてフォークなんだろう?
「あははっ。細かいことは気にしちゃダメだよっ。はいっ。お口を開けてー」
「ぴぃ~……こぉ~……」
まあ、あんまり細かいことに拘っていても仕方ない。それに、クッキーを食べられるということに変わりはないのだ。僕は迷わず口を開け、お姉さんがクッキーを口に入れてくれるのを待った。
「あ~……」
「……………………」
「……んっ!」
口に入れられたクッキーを、僕は早速咀嚼し始める。
「……………………」
しっとりとしていて、程よく柔らかい。バターの風味が口いっぱいに広がって、噛む度にそれが深みを増していく。少し甘みが強くて、甘いものの好きな僕にも満足のいく味付けだった。僕は無心のまま咀嚼して、一思いに飲み込んだ。
「おいしかったかな?」
「ぴこぴこっ」
迷わず頷く。
「わっ、すっごく気に入ってくれたみたいだねっ。お姉さん嬉しいよっ。もう一ついかがかな?」
「ぴっこり」
その後僕とお姉さんは二人して、袋に詰められたクッキーを一つも残さず食べたのだった。
……クッキーを食べ終えてから、ほんの暫く後のこと。
「ぴ……こ……」
「眠くなってきたのかな……?」
不意に、強い眠気を覚えた。目の前がぼんやりとしてきて、足元がおぼつかない。だんだんと意識がふわふわしてきて、夢うつつの狭間を彷徨い始める。急に訪れた眠気に、僕はちょっと戸惑いながらも、それに身を委ねてしまいそうだった。
「ぴこぉ……」
「そっか……眠くなってきたみたいだね。それじゃあ、今日はもうお家に帰ろっか」
お姉さんはそう言い、僕を抱えたまま立ち上がる。
「今日はお姉さんに付き合ってくれて、どうもありがとうっ。お礼っていうわけじゃないけど、ポテト君の家まで送っていってあげるね」
「……………………」
………………
そこから先のことは、よく憶えていない。
ただ、お姉さんに抱かれながら、もと来た道を歩いて……
商店街に入って……診療所の前でお別れをして……
ほとんど眠ったまま、出てきた化粧室の窓から中に入って……
それから……
それから……
………………
…………
……
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。