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第百三十話「Monochrome World, Spiritless World.」

「灰色の世界? なんだそれは?」

「んー、なんつーかさ、全部が灰色なのよ。相沢君は『グレースケール』って知ってる? 画像の階調を保持したまま白黒にすることなんだけど、それを全体に施したような世界」

身振り手振りを交えながら、川口さんが見たという夢について話をしている。不可思議な内容に興味を引きつけられたようで、その場にいた祐一君・あゆちゃん・栞ちゃんの三人は、川口さんの話に釘付けになっているようだった。

「白黒の世界か……他には何かあったのか?」

「そうね。ここからが私が『ヘンな夢』だって主張する所以になるんだけど……」

回転椅子から降り、川口さんが部室の隅へ向かう。

「私がいたのは、白黒の草原だったんだけど、そこにね……」

そこに据えられていた古い机の中へ手を差し入れ、錆び付いた金属と軽い物体が擦れたとき特有の摩擦音と共に、

「……こんな感じのノートが、私の周囲に山ほど散らばってたのよ」

色あせた一冊の学習用ノートを取り出し、自分へ視線を向けている三人にそれを見せた。

「ノートがたくさん散らばってたのか?」

「そうそう。ちょうどこんな感じのノートが、私の周りにたくさん散らばってたわ」

「中には何も書いてなかったか?」

「んー……はっきりとは憶えてないけど、一冊手にとって読んでみたような気はする。で、しばらくそのノートを見てたから、たぶん、何か書いてあったんじゃないかしらね」

ノートを机の中へ押し込みながら、川口さんは答えた。祐一君は少し首をかしげながら、川口さんから聞かされた「夢」の内容を咀嚼して理解しようとしているようだった。

「おかしな夢だと思わない? だってさ、たくさんのノート@大草原よ? サルバドール・ダリもびっくりのカオスな世界じゃない」

「でもな川口、夢ってのはたいていそんなもんじゃないか? 意味をつかもうにもつかめない、シャボン玉みたいなもんだろ」

「それはそうかも知れないけどさー……なんっか引っかかるんだよね。今までこんなにしっかり……いや、ノートの中身は忘れちゃったけど、全体的な展開とか風景とか、そういうのを憶えてたことなんて一度もなかったし」

机の上に置かれていたノートパソコンのタッチパッドを弄りながら、川口さんは言った。真っ暗になっていたディスプレイが急に明るくなり、たくさんのウィンドウが散らばっているデスクトップ画面が表示された。

「ま、大草原にノートなんて普通じゃあり得ないし、いいネタになりそうじゃない。ここから空想と妄想の翼を羽ばたかせて、新作の構想につなげられれば……にしししっ」

ディスプレイを見つめながら笑みをこぼす川口さん。そこへ……

「あの……茂美さん」

「ん? どったのしおりん。何でも言ってちょうだい」

不意に栞ちゃんが声をかけた。川口さんは即座にディスプレイから目を離し、隣にいた栞ちゃんへと目を向け直した。

「えっと、信じてもらえないかも知れないですけど……」

「うんうん。気にしないから、言っちゃって言っちゃって」

「実は……」

テンポを合わせるように間をおき、栞ちゃんが呟くように言う。

 

「私も、茂美さんと同じような夢を見たんです」

 

川口さんは目を瞬かせ、興味と疑問の二つが入り交じった表情を見せた。

「本当に? 栞ちゃんの方はどんな感じだったか、憶えてる?」

「はい。茂美さんのものとは、ちょっと違いましたけど……」

隣の椅子に座り、栞ちゃんが川口さんと目線をあわせた。川口さんは先ほど浮かべた表情のまま、じっと栞ちゃんのことを見つめている。

「私も茂美さんと同じように、白黒の世界にいました」

「やっぱり、イメージをグレースケールにしたような世界だった? ちょうど……ほら、こんな感じの」

川口さんはキーボードを叩いてアプリケーションプログラムを立ち上げると、おもむろに海辺の写真を開き、メニューから「グレースケール」を選択した。刹那、色鮮やかな青と肌色を見せていた海辺の写真が、温度を感じさせない白黒の写真へと変化した。

「これですっ。本当に、この写真みたいな風景でした」

「そっか……私と同じみたいだね。それで……どんな感じだったの?」

栞ちゃんはグレースケールになった砂浜の写真をまじまじと見つめながら、頭の中にある記憶を静かにたぐり寄せるように、ゆっくりとした調子で話し始めた。

「私も、たぶん草原のような場所にいたんだと思います」

「たぶん?」

「はい。私の場合は……」

 

「そこが真っ白な雪で覆われていて、下がよく見えなかったんです」

 

その言葉……特に「雪」という単語を口にした瞬間、栞ちゃんの表情にわずかな翳りが見えた気がした。夏場の暑い部室だというのに、僕はほんの一瞬、その熱さを忘れそうになった。それは栞ちゃんの口にした「雪」という単語そのものから伝わる、遺憾ともし難い冷たさに理由があるような気がした。

「雪に覆われた草原……ってとこかしらね?」

「そうだと思います。それに……空からも、どんどん雪が降ってきてましたから」

心なしか、栞ちゃんの声が震えているように思えた。それはほんの僅かな違いでしかなく、事実として栞ちゃんの声が震えていたのかは定かではない。されど、普段と違う色を帯びていたということは間違いなく、完全に僕の疑念を否定することはできなかった。

「ふぅーむ……白黒の世界に降る雪、ね。なんというか、心も体も寒くなりそうな……」

「はい……普通は、すごく『寒い』と感じるはずだと思うんです」

「えっ……?」

栞ちゃんの言葉に、川口さんが珍しく戸惑い気味に返した。一拍間を置き、栞ちゃんがこう続ける。

「でも……その夢は違ったんです」

「……推測だけど、寒さも暑さも……痛みとか苦しみとか、そういうのが一切感じられなかったとかかな……どう?」

「茂美さんの言うとおりです。そんな世界の中で、私は何も感じなかったんです」

「……………………」

「寒いとか痛いとか……そんなことを、少しも思わなかったんです」

静かに呟く栞ちゃんを、川口さんは冷静な面持ちで見つめていた。

「……………………」

感情の欠如した世界。無機質な世界。僕の脳裏に、灰色の風景が浮かんでくる。それは不思議なほどはっきりと、奇妙なほどくっきりと、僕の意識の中で形作られている。

その感覚は、まるで……

 

……同じ光景を、僕もどこかで見たことがあるような……

 

……そんな印象を抱かせるものだった。

そんなはずは無いというのに。僕の記憶の中に、灰色の世界など無いはずなのに。どうして僕は、川口さんの話で出た「灰色の世界」も、栞ちゃんの見たという「灰色の世界」も、こんなにはっきりと思い浮かべることができるのだろう。

「……………………」

……考えたところで、分かるものではなかった。

「なんだか変わった夢を見てる奴が多いんだな……」

「……………………」

「しかし……二人して似たような夢を見るなんて、変わった話だよな、あゆ」

「……………………」

「案外その内、他の奴らもみ始めたりしてな。なあ、あゆ」

「……………………」

「……あゆ?」

「……………………」

ふと気づいて顔を上げてみると、そこに惚けた表情をしたあゆちゃんが立っていた。隣にいた祐一君は不思議そうな顔をして、しきりにあゆちゃんに声をかけている。

「おーい、あゆ~」

「……………………」

「……あっ、向こうに空飛ぶたい焼き」

いや、今時そんなネタで引っかかるような人はいな

「えっ?! どこ、どこ?!」

いた! ここにいた!! 僕の目の前にいた!!!

「……に見えるなぁ。あの雲」

「えっ……? 祐一君、まさか……」

「もちろん、空なんか飛んでないぞ」

「うぐぅっ! また騙されちゃったよ~……」

あゆちゃんは悔しそうな表情を浮かべて、祐一君を恨めしそうに見つめていた。

「ぼーっとしてるみたいだったから、お前が一発で起きそうなことをしてやっただけだぞ」

「うぐぅ……嘘は泥棒の始まりだよっ」

「食い逃げは窃盗罪だぞ」

「うぐぅ~! ちゃんとお金払ったもんっ!」

ころころと表情を変えるあゆちゃんを見ていると、何故だか楽しい気分になれるから、不思議なものだった。

 

それから、暫くした後のこと。

「……ねぇ祐一。藤林さん、どこ行ったか知らない?」

「杏? ジュースでも買いに行ったんじゃないか?」

水瀬さんが祐一君に声をかけ、藤林さんがいないことを話題にした。そう言われてみると、部室に来てから一度も声を聞いていない。どこかに出かけたんだろうか?

「杏って来てたの? あたし一度も見かけてないわよ」

「私も見てないわね。相沢君、一緒に来たのかしら?」

「ええ。校門の近くで出会って、ここまで一緒に」

「どこに行っちゃったのかなぁ?」

いなくなった藤林さんのことを、皆が口々に言い始めた時だった。

「……何かあったのかな……?」

「みさき? どうしたの?」

川名さんが動きを止めて、耳に神経を集中させていた。

「下で、何か騒ぎが起きてるみたいだよ。声が聞こえるんだ」

「……本当。大勢で何か騒いでるっぽい。何言ってるかまでは聞こえないけど」

二人の話を聞き、僕も耳を澄ませて聞いてみる。すると、確かに二人の言うとおり、下で何か騒いでいるような声が聞こえてくるのが分かった。何があったんだろう?

「気になるわね……みさき、渚。悪いけど、ちょっと留守番頼める?」

「ゆきちゃん、見に行くの?」

「そうね。気になることは気にならなくなるまで調べるのが、私のモットーだから」

「そうだったね。ゆきちゃんらしくて、いいと思うよ」

「部長らしいと思いますっ。後でお話を聞かせてください」

揃って朗らかな笑みを浮かべながら、川名さんと古河さんが言った。

「ほほー。何だか面白そうな雰囲気ねー。私も一緒に行くっ!」

「気になるねぇ。ポテトぉ、ぼく達も行ってみよっかぁ」

「ぴこぴこっ」

「気になるな……俺も行ってくる」

「わたしはここで待ってるよ。香里と栞ちゃんもいるしね」

そんなこんなで、僕らは騒ぎが起きているという階下へと向かうことになったのだった。

 

「どの辺りだ?」

「んー……多分だけど、校門近くの掲示板の辺りが怪しい感じがする」

「確かに、声が聞こえてくるのはその方向で間違いないわね」

校舎を出て外を歩きながら、騒ぎについて言葉を交わす。ここまで来ると、はっきりと声が聞こえてくる。川口さんの言うとおり、校門の近くにあった掲示板で何かあったようだ。

……と、その時。

「……ちょっと待って。あれ、杏じゃない?」

「ほんとだねぇ。あんなところでどうしたのかなぁ?」

目を凝らしてみると、掲示板に出来た人だかりの中心に立っている藤林さんの姿が見えた。あんなところで一体何をしているんだろう?

「……………………」

僕は神経を集中させ、そこで何が起きているのかに耳を傾けた。

「……………………」

そうして、聞こえてきたのは……

 

「藤林っ、ポスターが破られたって、本当なのかっ?!」

「だーかーらー、そうだって言ってるでしょ! 何回言えば分かるのよっ!」

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。