――翌朝。
「……戸締りよしっ。火の元よしっ。水道よしっ」
学校へ行く前に、ともえが出発前の確認をしていた。窓に鍵をかけたことを確認し、ガスは元栓から締めなおし、水道は水滴も垂れていない事を確かめる。二回に分けてチェックを行い、すべて問題ないようであった。
「全部よし……っと。それじゃ、行ってきます」
自分以外誰も家にいないことは分かっていたが、ともえはそれでも必ず「行ってきます」と言っていた。その言葉を口にする事で、「これから学校に出かけるのだ」と気持ちを新たにする事ができたからだ。
「そうだ、これを忘れちゃいけないよね」
玄関に置きっ放しにしていた黄色い通学帽を手に取り、素早く被ってゴムを引っ掛ける。ともえは家の鍵を締め、学校へと向かった。
――学校へと続く道にて。
「七海ちゃん、おはよっ!」
「ふわぁ……あ、ともえちゃん……?」
大あくびをしていた七海に、ともえが背後から声を掛けた。七海は眠そうに目をこすりつつ、声を掛けてきたともえに視線を向けた。
「今日も眠そうだね、七海ちゃん」
「うん……ちょっと、遊びすぎちゃって……」
今にも眠ってしまいそうな目をしながら、七海がため息を一つ吐いた。寝不足が祟って、朝からエンジンがかからないようであった。ほとんど目を閉じた状態で、覚束ない足取りを見せている。
「あんまり遅くまでゲームしてちゃダメだよ。目も悪くなっちゃうし」
「分かってるけど……一度やり始めちゃうと、なかなか終わらなくて……」
お母さんのように注意するともえに、七海は少々決まり悪そうに答えた。遅くまで起きていたのは、ゲームに興じていたかららしい。
「そうそう! 昨日は海外の人と対戦して、五戦四勝一敗だったんだよ」
「四回も勝ったの?! 七海ちゃん、すごいね~」
「かなりやり込んだからね~。ラグに合わせて目押しするの、もう慣れちゃった♪」
口ぶりから察するに、七海は夜遅くまで対戦ゲーム……それも、対戦格闘ゲームをしていたようだった。小学四年生の少女の口から「ラグ」だの「目押し」だのの単語が何の迷いもなく出てくるのが、なんとも言えずシュールである。
「あとは、あれかな。牽制の中足からのヒット確認の精度を上げられるといいんだけど……」
「練習モードで練習してみたらどうかな?」
「それじゃダメなんだよ、ともえちゃん。トレモの時は一つの事だけに集中できるけど、実戦だと一度にたくさんの情報を処理しないといけないからね。何事も実戦実戦」
「あはは……七海ちゃんが言うと、なんだか説得力があるよ……」
胸を張って力説する七海に、ともえが苦笑いを浮かべつつ答えた。
「でも、やっぱりパッドじゃ限界があるかな……親指痛くなっちゃうし、何より精度が落ちちゃうもん」
七海は半目になりながら、空中でなにやらパントマイムのような動作を始めた。左手でワイングラスのように何かをつかみつつ、右手はリズミカルに鍵盤を叩くような動作を見せている。
「……よしっ! 決めた! お父さんにお願いして、アーケードスティックを作ってもらおうっと!」
「えぇっ!? 買ってもらうんじゃなくて、作ってもらうの?!」
「お父さん、こういうの得意だからね。私にぴったりのものを作ってくれるはずだよ。これでもう暴発とはおさらばおさらば♪」
朝っぱらから夢見心地でエアアーケードスティックさばきを披露し、父親にアーケードスティック制作を要望する少女・七海。冷静に考えてみる(もちろん冷静に考えなくとも)と、かなりの変人である。変人という名の変人という称号が相応しい。
「……ロールプレイングゲームとか、スティックだと辛いかもしれないけど……大丈夫かな……?」
残念ながら、ともえも若干変人の要素が入っているようである。そこは心配するところではない。
ちょっと変わった人の多い町。それが日和田市なのである。
――萌葱小学校前。
「――ガンガードで様子見するかリバサで割り込むか読み合い放棄して暴れるか、そこが重要なのよねー……ぐー……」
「七海ちゃん、寝ながら歩きつつ喋るのは危ないからやめたほうがいいよ」
微妙にマルチタスク(寝る/歩く/喋る)しつつ危なっかしく歩く七海を支えながら、ともえは萌葱小学校までやってきた。時を同じくして登校してきた生徒達が、連れ立って校舎の中へ入ってゆく。
「そうだ、帰ったらディレイ6Pの後の繋ぎをアレに変えるレシピを試さなきゃ……くかー……」
「あーあー……こんなんじゃ、また先生に怒られちゃうよ……」
夢の中で楽しそうにシミュレーションを続ける七海をよそに、ともえは左右にふらつく七海を都度矯正してやった。マメといえばマメだし親切といえば親切なのだが、何となくおかしさを感じる光景である。
「ほら、七海ちゃん。早く起きないと、またぶっ放しから事故られて捨てゲーする羽目になっちゃうよ」
「……はっ! いけないいけない……」
ともえは七海を起こす必殺キーワードを使い(何故これで起きるのかは不明)、七海の意識を覚醒させてやった。なんとも世話のかかる同級生だ。
「ともえちゃん、助かったよ。試合中はしっかり意識を持ってなきゃね」
「そうそう。50円がもったいないよ」
かみ合っているのかそうではないのかハッキリしない会話をしつつ、二人が校門をくぐる――。
「よう、中原」
「あ、おはよう、厳島さんっ」
「……?」
――途中、あさひが声を掛けてきた。隣にいた七海が、少しばかり怪訝そうな表情を浮かべ、あさひの方を見る。
「おい、分かってるよな? 今日もアトリエに来いよな」
「大丈夫大丈夫っ。ちゃんと行くから、安心してね」
「おう。すぐに追い抜いてやっから、楽しみにしときな。じゃあな」
二言三言言葉を交わし、あさひはすたすたとその場を立ち去った。
「……ねえともえちゃん。あの子、隣のクラスの厳島さん?」
「そうそう。最近知り合ったんだよ」
「ふーん……」
少々渋い顔を見せ、七海が続ける。
「なんだか、ちょっと感じ悪いよ。こう、ぶっぱと暴れと荒らしだけで勝っていくタイプのような感じ」
「そうかな? わたしは、頼りになるかな、って思ってるんだけど……」
「えー?! ともえちゃん、鈍すぎ! あれ、ともえちゃんを馬鹿にしてる感じだよ!」
「え~? そうかな~……?」
「そうだよ! もっと感覚を研ぎ澄ませて、繊細にならなきゃ! 理想はもちろん、小足見てから昇龍余裕でした、でしょ?」
「でしょ? って言われても、例えが無茶すぎるよ……」
あくまで七海の言っていることが無茶なだけであって、内容については理解できているようである。つくづくよく分からない小学生である。
「相手の足払いを見てから昇龍で刈る。これができれば完璧よ」
「完璧は完璧だけど、毎回反応するのは辛そうだよ……」
そんなこんなでやり取りを続けつつ、二人は教室に入った。
「やっぱり開幕は屈ガよね~。というわけでおやすみぃ~」
「あ~あ……七海ちゃん、早速寝ちゃったよ……」
教室に入るなり、七海は自分の机の上に突っ伏して眠り始めてしまった。あまりに気持ち良さそうに眠っているので、起こすのが憚られるくらいだった。ともえは七海をそのままにしておき、自席へと向かう。
「関口さん、おはようございますっ」
「……おはよう、中原さん」
横を委員長、もとい関口とすれ違った。関口はごく落ち着いた声でともえと挨拶を交わし、向かって前方にある黒板へと歩いていった。
「……………………」
関口は黒板消しを手に取り、黒板消しクリーナーに掛ける。チョークの粉を吸い取る無機質で少々耳障りな音が暫し聞こえた後、関口は黒板消しが綺麗になったことを確認し、元の位置へ戻す。関口は一人黙々と、作業に取り組んでいた。
「関口さん、お花の水、換えておいてくれない?」
「……分かった」
黒板を綺麗にした関口に、クラスメートが別の頼みごとをする。関口は小さく頷いて、頼みごとを受け入れる。
「委員長、後でプリントとって来てくれないか?」
「……私がやっておく」
別のクラスメートが、続けて関口に依頼する。関口は表情一つ変えることなく、クラスメート達から寄せられる頼みごとを引き受けていた。
「……………………」
黒板消しの掃除に始まり、花の水の交換からプリントを取りに至るまで、関口は一人ですべてをこなしていた。頼まれ事をされても嫌な顔一つせず、黙々と仕事に取り組む。
「すごいなぁ……関口さん。わたしだったら、一度に頼まれたら混乱しちゃうよ……」
そんな関口の様子を、ともえは頬杖をついてぼーっと眺める。ともえもクラスでは真面目で模範的な生徒の一人だったが、関口はそれを遥かに超えているように見えた。寡黙で真面目な、学級委員の鑑といえる存在だった。
「むー。委員長は、すごい人なのです」
「やっぱり、瑠璃ちゃんもそう思う?」
「むー。瑠璃ちゃんもそう思うのです」
ともえの横から、瑠璃が声を掛けてきた。瑠璃もともえと同じように関口を見つつ、しきりに頷いている。
「むー。委員長にお願いすると、どんなこともすぱっと解決してくれちゃうのです」
「そうだよね。どんな事を頼まれても、必ず引き受けてくれるみたいだし」
「むー。その通りなのです。何を頼んでも、ぜったいに断らないのです」
関口はクラスメートの依頼を一つ一つ聞き入れて、都度丁寧に対応してやっているらしい。生真面目で責任感の強い性格が伝わってくるようだ。
「学級委員も、他に誰もやらなかったから、みんなが推薦したんだよね」
「むー。その通りなのです。委員長とクラスが一緒だった子は、みんな委員長が適役だと口をそろえていたのです」
「それで、関口さんが引き受けてくれたんだね」
おおよそ自分から進んでやろうと思う人は居ないであろう「学級委員」という役職を、みんとは皆から推薦されて引き受けたらしい。クラスメートから推薦されるほどであったのだから、このクラスに入る前から働きぶりは確かなものだったのだろう。
「みんとちゃんはねぇ~、三年のときに私と同じクラスだったりするよぉ~」
「みんとちゃん……あ、関口さんの事だね」
「その通りぃ~。三年のときからぁ~、真面目でしっかり者だったよぉ~」
語尾を間延びさせつつ、珊瑚が会話に加わってきた。珊瑚は一年前に関口……もとい、みんとと同じクラスだったという。恐らく、先ほど瑠璃の会話に出てきた「みんとを委員長に推薦したクラスメート」の中に、珊瑚の姿もあったに違いない。
「みんとちゃんはぁ~、日和田でも有名な、お嬢様だったりするよぉ~」
「お嬢様……そう言われてみると、それっぽい感じはするね」
「うんうん~。珠理ちゃんとはぁ~、またちょっと『お嬢様』の方向が違うけどぉ~」
高飛車で驕慢に見える(根はお人よしだが)珠理がアクティブな「お嬢様」だとすると、みんとは「深窓の令嬢」という言葉をあてがうのがピッタリのような、落ち着いた「お嬢様」だ――珊瑚の言葉には、そういったニュアンスが込められている。
「それでぇ~、みんとちゃんのお父さんはぁ~、地主さんの上に社長さんだったりぃ~」
「それじゃあ、関口さんは『社長令嬢』ってことになるんだね」
「その通りぃ~。噂だけどぉ~、将来は跡取りになるとも聞いた気がするぅ~」
みんとの実父は大地主にして、日和田一体で大きな影響力を持つ企業の代表取締役であるとのこと。しかも、みんとはその後継者として有力視されているらしい。落ち着いた立ち振る舞いや仕事の卒のなさは、両親からの教えによるものだろうか。
「関口さん、勉強も運動も、すごくよくできるよね」
「やっぱり、琥珀ちゃんもそう思う?」
「うん。三年のときの運動会のリレー、琥珀のせいでみんな負けそうになっちゃったときも、関口さんが取り返してくれたから……」
そしてお約束の通り琥珀も加わり、みんとの噂話に興じる。
「お兄ちゃんと一緒に病院から帰る途中に、おっきな『ナギナタ』を担いでるのを見たよ」
「『ナギナタ』ぁ~? 琥珀ちゃぁ~ん、なにそれぇ~? 食べ物ぉ~?」
「むー。『ナギナタ』……あ、分かりましたなのです」
不意に「ナギナタ」という言葉を口にする琥珀、素直に首をかしげる珊瑚、何やら思い至った様子の瑠璃。瑠璃はぽんと手を叩くと、ぱっと明るい表情を浮かべた。
「瑠璃ちゃぁ~ん。『ナギナタ』って、なんなのぉ~?」
「むー。答えは簡単なのです! だんご大好きな演劇部の部長さんが、突然恐ろしい笑い声を上げながらナタをすぽこんと振り下ろすことなのです! これぞ『ナギナタ』! 珊瑚ちゃん、分かったかな? かな?」
「違う違うっ! ナギナタ(薙刀)っていうのは、長い棒の先っぽに刃がついた、武器の一つだよ!」
とても嫌な解釈(しかも大きく間違っている)をした瑠璃に、ともえが慌ててフォローを入れた。
「うん。ともえちゃんが言ってる事で、大体あってる……お兄ちゃんに、あれが『ナギナタ』だって教えてもらったから……」
「なるほどぉ~。武器だったんだぁ~」
「むー。中の人つながりだと思ったのですが」
「瑠璃ちゃん、そんなの担いで歩けないよ……」
そもそも、「もの」かどうかさえ怪しい。
「珠理ちゃんから聞いたけど、関口さん、武道を習ってるんだって。すごく強いとも聞いたよ」
「むー。薙刀を振り回して、敵兵を一掃している姿が目に浮かぶのです」
「それだとぉ~、やっぱり主力は~、C4でバッサリかなぁ~?」
「C6で強い技が出るかもしれないよ。360度衝撃波とか!」
言うまでもなく、C5は全方位打ち上げである。
「関口さんって、ホントにすごいよね。勉強も運動もバッチリだし」
「髪も身嗜みも綺麗で、武道の心得もあって、冷静で落ち着いてて……」
「むー。どんなお仕事も引き受けて、完璧にこなしてくれるのです」
「すごいお金持ちでぇ~、しかもぉ~、将来は跡取り娘ぇ~。まさに完全無欠の鉄壁ぃ~」
昨日算数の授業で見せた完璧な回答、琥珀で奪われたリードを丸ごと取り返す運動神経、清楚で美しい髪に顔、冷静な性格、真面目で隙のない仕事ぶり、実家は日和田有数の名家、しかもその跡継ぎになることが確実視されている。珊瑚の言うとおり、これ以上のものは望むほうが難しい、完全無欠の鉄壁だった。
(すごいなぁ……わたしとは、いろいろ大違いだよ)
ごく普通の一軒家で家族と一緒に暮らし、人並みの運動神経と学力を持っている程度のともえにとっては、みんとのすべてが「大違い」に思えた。
「私もぉ~、あんなお嬢様になれたらいいなぁ~」
「むー。お嬢様になる前に、まず口調をきっぱりさせたほうがいいのです」
「えぇ~、それはぁ~、ちょっと無理なお話ぃ~」
軽妙な会話を繰り広げる珊瑚と瑠璃を見ながら、ともえと琥珀が笑うのだった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。