――三時間目の休み時間。
「次は……そうそう、社会だね」
「巴ちゃん、ちゃんと次の時間の準備をしてるのね。感心ね~」
「うん。こうしておくと、慌てずに授業を受けられるからね」
四時間目の社会の準備をしながら、ともえは千尋と談笑していた。ノートと教科書を机の上に置き、ぱらぱらとページをめくる。
「昨日はこの辺りだったっけ……」
見当をつけながらページを送るともえ。その隣から、
「おい、中原」
「……厳島さん?」
唐突に、あさひが声を掛けてきた。ともえが顔を上げ、あさひの目を見つめる。その隣では、千尋が不思議そうな表情を見せていた。
「悪ぃ。今日用事ができて、アトリエに行けなくなった」
「えっ? 用事が入ったの?」
「ああ。どうしても外せねえ用事でな」
あさひはいきなりともえの教室にやってくるなり、「用事ができてアトリエに行く事ができなくなった」とともえに告げた。ともえは面食らった様子で、あさひに聞き返す。
「じゃ、先生に伝えておいてくれよ。頼んだぜ」
「あ……行っちゃった……」
手短且つ一方的に用件を告げると、あさひはさっさと教室から出て行ってしまった。ともえはあっけに取られた表情のまま、立ち去るあさひの背中を見送る。
「……ちょっと巴ちゃん。今のヤツ、隣のクラスの厳島じゃないの?」
ともえとあさひの短いやり取りが終わったあと、隣で突っ立っていた千尋が怪訝そうな表情を浮かべた。眉を顰め声を潜め、ともえにそっと耳打ちをする。
「そうだよ。千尋ちゃん、知ってたの?」
「知ってるも何も、あの子、萌葱小学校でも指折りの乱暴者だって言われてるのよ」
「そ、そんな風に呼ばれてたの?!」
あさひがいろいろな意味で只者ではない事はともえも理解していたが、千尋が「乱暴者」だとハッキリ言い切ったことには、些か驚きを禁じえないようだった。
「それにしても、何なのよあの話し方! ちょっと、一方的過ぎない?」
「そうかな? 単純に、手短に話をしただけだと思ったけど……」
「巴ちゃんったら、人がよすぎるのよ! そんな調子だと、付け込まれるわよ!」
七海と同じような調子であさひを強く批判する千尋に、ともえは若干たじろぎつつも、無言で頷くばかりだった。
「とにかく、巴ちゃん。あんなヘンな男子とは付き合わないほうがいいわよ。乙女たるもの、うざったい噂とか流されちゃったりするのは、一番気をつけなきゃいけないことだわ!」
「あー、えっと……実は……」
憮然とした表情で腕を組む千尋に、ともえがとても言いづらそうにしつつ、こう言葉を挟んだ。
「厳島さん……女の子なんだよ」
「ま、大体、巴ちゃんやあたしと釣り合う様な男子なんて、この学校にはいないわよね! そう、もっと都会のほうに行けば、素敵な人との乙女チックな出会いが――――え?」
勢い込んで一人で喋っていた千尋が、ともえの爆弾発言を受けて一瞬で硬直した。文字通り目を点にして、パチパチとしきりに瞬きをしている。
「……じ、冗談よね、巴ちゃん」
「嘘じゃないよ。だって……厳島さん、下の名前『あさひ』っていうし」
「……………………」
千尋はまともにリアクションする事ができず、あんぐりと口をあけるばかりだった。
「嘘でしょ?! だ、だってあの子、顔立ちとかどう見ても男子だし!」
「わたしもビックリしたけど、ホントに女の子なんだって!」
「じ、冗談じゃないわ! 先生もビクビクしてるとか、六年の男子四人を無傷でぶちのめしたとか、そんな噂があるのに?!」
「ホントなんだよ……」
困惑と興奮とが入り混じった混沌とした調子で、千尋が矢継ぎ早に口走った。ともえは千尋の気持ちを十分理解しつつも、ただ頷くばかりだった。
「はぁ……世の中間違ってるわ。乙女には生きづらい世界ね、いろいろと……」
ため息を吐く千尋。乙女の憂鬱といったところなのだろう。
……「乙女」の使い方が正しいのかはともかくとして。
――お昼休み。
「そろそろ、教室に戻ろうっと」
何の気なしに校内を歩き回っていたともえが、教室へ戻ろうと踵を返す。階段を上り、教室のある廊下を歩く。その途中、職員室の前を横切る形となる。
「……あれ?」
職員室の前に差し掛かったとき、ともえが不意に足を止めた。
(あそこにいるのは……本庄さん?)
本庄さん。二日前に、図書室で顔を合わせた(厳密に言うと、顔を合わせたわけではないのだが)、秀才と名高い同級生の少女が、職員室の掲示板の前で立っていた。掲示板には、幾枚かの二色刷りのプリントが掲示されているのが見えた。
(なんだろう……? 何か、書いてあるのかな?)
静かに音を立てることなく、ともえが掲示板、そして本庄の方に近づいてゆく。
「……?」
「あっ……」
ともえの気配を察したのか、本庄がともえの方へ向き直った。ともえは小さく声をあげ、その場に立ち止まる。
「……………………」
本庄は少しばかり目を伏せると、その場からすたすたと立ち去ってしまった。ともえが声を掛ける間もなく、本庄は廊下の奥へと消えてしまった。
「行っちゃった……」
ともえは少しばかり残念そうな表情を浮かべ、本庄が去っていった方角をしばし見つめた。できることなら、本庄と少し話がしてみたかった――ともえは、そう考えていたからだ。
「本庄さん、何見てたんだろ……?」
気を取り直し、ともえが本庄の見ていた掲示板に目を向ける。掲示期限がとっくに過ぎても貼り出されたまま、すっかり色褪せてしまった他の掲示物に混じって、真新しい一枚のプリントが掲示されているのが目に飛び込んできた。
「『将棋大会』……?」
掲示されていたのは、再来週行われるという「将棋大会」の告知だった。学年対抗で選手を選抜し、将棋の腕を競おうという趣旨である。
「もしかして、また校長先生の思い付きだったりして……」
萌葱小学校の校長は、このような唐突な企画を行うことで、校内はもとい、市内でも有名な存在だった。今回の将棋大会も、事前告知が一切なされなかった事も踏まえ、校長の思いつきと見て間違いなさそうだった。
(わたしのクラスからは、誰が出るんだろう……?)
ともえは将棋のルールをよく知らなかったので、恐らく自分が出る事はないだろうと考えていた。そうなると、出場するのは誰になるのだろうか?
(やっぱり、関口さんかな……関口さん、将棋とかも強そうに見えるし)
真っ先に名前が挙がったのは、やはりと言うべきか、みんとだった。ともえのイメージ的に、みんとはこういった頭脳戦にも力を発揮しそうに見えた。何より、あの清楚な様子と将棋の静かな戦いのイメージが、これ以上なくマッチングしている。
「誰が出るにしても、ちょっと楽しみだね。覚えておこうっと」
ともえは最後にそう言い残すと、自分の教室へ向かった。
――放課後。
「にょほほ! 次にもえもえは『さ、そろそろ帰ろうっと』と言うっ!」
「そうだ。帰る前に、ロッカーの整理をしようっと」
「にょわ!! ずるいぞともとも! まりえの台詞を聞いてから変えたにゃーっ!!」
「そう簡単には引っかからないよーっと♪」
隣のクラスからやってきたまりえの相手をしつつ、ともえは口にした通りロッカーの整理を始めた。
「これと、これは家に持って帰って……これはもういらないから、学校で処分しなきゃ」
「んむんむ。プリントの整理は小学生の永遠の課題ぞよ。捨てる捨てないの判断がムズいけれ。こりは実に面倒ぞよ」
「そうだよね~。整理しよう整理しようって思うんだけど、なかなか手が付けられないよ……」
経験はないだろうか。学校で配られたプリントの処遇に困り、ロッカーや学習机に突っ込んでおいたはいいが、保管している場所がいっぱいになって、止むを得ず整理に追われたこと。ともえはそこまでプリントを溜め込んでいたわけではなかったが、そこそこの量がロッカーに累積してきたので、一旦整理をしようと思い立ったわけだ。
「あ、そうだ。まりちゃん、今日は歩美ちゃん、一緒じゃないの?」
「んに。あゆあゆは今日は用事があるとかにゃいとか。脱兎の如く走って行ったぞよ!」
「へぇ~。歩美ちゃん、走るの早いんだね。競争してみたいな」
「にゅふー。そりでは、まりえはともともに百万ジンバブエドル賭けるぞよ!」
「少し前のレートだと、ホント雀の涙みたいな金額だよね……」
どうということのない(ある意味ではなんとも言えない内容だが)会話を交わしつつ、ともえはプリントの整理を進めてゆく。
「……はわ! ともとも、申し訳ないっ! まりえ、ちょっと用事があったのを思い出したぞよ!」
「いつものところだね。わたしは大丈夫だから、先に帰ってくれていいよ」
「にゃはは! そりではともとも、また明日っ! 明日は明日の風が吹くっ!」
「うん。まりちゃん、さようなら」
まりえは急用を思い出したのか、その場から走って立ち去っていった。ともえはまりえを見送った後もプリントの整理を続け、キリのいいところで、処分するプリントを一箇所にまとめた。
「こんな感じかな……っと」
後は、これをリサイクルボックスへ入れるだけだ。軽くまとめたプリントの束を抱え、ともえが教室の前方に据付けられているリサイクルボックスへと向かうため、静かに立ち上がる。
(……知らない間に、みんな帰っちゃったみたい)
立ち上がってから気付いたが、教室に残っている生徒はわずかに二名だけだった。一人は言うまでもなくともえ。そして、もう一人が――
(関口さん……?)
――学級委員の、みんとだった。こんな時間まで何をしているのだろう。ともえは無意識のうちに、関口のほうへ一歩近づいた。
「……………………」
みんとはホウキを手にして、一人教室の掃除をしていた。さっ、さっ、と規則正しい感覚で床を丁寧に掃き、埃やごみを少しずつ集めてゆく。みんとがしていたのは掃除。それ自体は、何の問題も違和感もなかった。
問題は、別の場所にあった。
(今日の掃除当番って、確か太一くんたちの班だった気がするけど……)
掃除をしていたのは関口一人だけで、他には誰もいなかった。ともえは、自分の記憶が正しければ、今週掃除当番に当たっていたのは、太一たちの班だったはずだ、と気付いた。だが、教室に太一たちの姿はない。ランドセルも消えている。恐らく、既に下校してしまったのだろう。
(だとすると、関口さんは……)
居なくなった太一たち。一人掃除をしているみんと。この状況から導かれる答えは明白、太一たちの代わりに、みんとが掃除をしてやっていたのだ。
「……………………」
みんとは愚痴を零す事も表情を曇らせる事もなく、淡々と黙々と粛々と、教室の掃除を進めてゆく。あたかも、一人で掃除をする事が当然だとでも言わんばかりの様子だった。
……だが。
(いくらなんでも、教室を一人で掃除するのは大変だよ……)
ともえは、みんとが一人で掃除をするのが当然、とは思っては居ないようだった。プリントをリサイクルボックスへ入れ、みんとの後姿をじっと見詰める。
(……リアンさんだったら、ちょっとくらい遅刻しても、大丈夫だよね)
リアンのあの性格だ。少しばかり遅刻したところで――そもそも、リアンと二人の弟子の間に、これといった定刻は最初から存在しなかったが――、咎められる事はあるまい。ともえは唯一の懸念事項が、実際には懸念するに当たらない事をしっかり確認し、思い描いていた行動を実行に移す。
「関口さん、わたしも手伝うよ」
「……中原……さん?」
些か驚いたようだった。後ろから声を掛けられたみんとの反応である。曇りも淀みもない澄み切った目をぱちぱちと瞬かせて、みんとがともえの姿に見入っていた。ともえから声を掛けられるとは、欠片も想像していなかった事が分かる。
「一人だと、掃除するの大変だよね。わたしでよかったら、手伝わせてほしいな」
「けれども……中原さんは、掃除当番じゃないから……」
「それは、関口さんも同じだよ。それにしても、太一くんたちったら、掃除もせずに帰っちゃうんだもん。明日、ちょっと言ってあげなきゃね」
屈託なく笑うともえに、みんとの表情が、微かにではあるが緩んだように見えた。
「……ごめんなさい。手伝ってもらえると、私も助かる……」
「任せて! じゃあ、わたしは後ろのほうを掃くね。関口さんは、このまま前で続けてくれるかな? チリを真ん中に集めてまとめて捨てちゃえば、一度で済むよ」
「……分かった。中原さん……」
みんとは続けて何か言いかけたのだが、上手く言葉をつむぐ事ができず、そのまま口ごもってしまった。ともえはみんとの不可解な様子に気づく事もなく、自分が使うための箒を取りに、掃除用具入れのほうまで歩いていった。
「二人でやれば、二倍早く終わるよっ」
「……(こくり)」
ともえの言葉に、みんとは小さく、けれども確信を込めた調子でもって、頷き返した。
「……よしっ。これで終わりだね」
およそ十五分後。集めたチリをちりとりに載せて、ともえとみんとは掃除を終えた。それなりに時間を掛けて床を掃いたおかげで、教室は目に見えて綺麗になっていた。
「関口さん、お疲れさま」
「こちらこそ、中原さんに手伝ってもらって、ごめんなさい……」
「とんでもないよ。関口さんには、お世話になりっぱなしだからね。いつもありがとう、関口さん」
普段の仕事振りに対する感謝を込めて、ともえが礼を言った。みんとは気恥ずかしそうに顔をうつむけつつ、小さく頷いて返した。
「掃除をさぼった太一くんたちには、ちゃんと言っておかなきゃダメだね。関口さん一人で全部やるなんて、大変だよ」
「……………………」
ともえの言葉に、みんとは静かに耳を傾けていた。彼女の表情からは、ともえに対する感謝の気持ちががにじみ出ているのが目に見えて分かった。
「じゃあ、わたしはこれで帰るね。関口さん、さようなら」
「……さようなら、中原さん」
みんとに別れの挨拶を告げ、ともえは教室を後にした。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。