「――みう!」
タマゴが完全に割れた。中から出てきたのは、きれいな海を思わせる青い肌の小さな生き物。大きな頭に小さな体がくっついたフォルムはさながら赤ちゃんのようで、タマゴの中にすっぽり納まるくらいの大きさだ。体の中心、胸の辺りには赤い宝石のような発光体があり、きらきらとまばゆく輝いている。頭からはリボンのような触手が生えていて、先っぽに小さな小さな珠が付いている。黄色く縁どられた青い目は澄み切っていて、小夏と優真の二人を揺らぐことなくまっすぐ見つめている。
「な……なんだこいつ?」
「……フィオネだ」
「小夏?」
いきなり飛び出してきた生き物に戸惑う優真とは対照的に、小夏は思いのほか落ち着いた様子で「フィオネだ」と口にした。
「フィオネはポケモンだよ、あたたかい海に住んでるんだ。ちょうど、あの海みたいに」
「ポケモン……? こいつが……?」
「タイプはみず、分類はかいようポケモン。雨が降ると元気になって、麻痺や火傷もたちどころに治っちゃうんだ」
「そ、そうなのか……」
「海の温度が上がると、頭を浮き袋にして海をただようんだよ。その姿を見た人たちから『海風船』って呼ばれることもあるの」
「確かに、風船みたいな形してるけどさ」
「どんなに遠くへ行ってしまっても、いつか生まれた場所まで必ず戻って来られるんだって。学者さんたちがその原理を調べてるって聞いたかな」
タマゴが割れた瞬間よりもずっと驚いたと言わんばかりの顔をして、優真が小夏を見つめる。小夏の口からすらすらとフィオネの話が出て来るものだから、優真はどう受け止めたらいいのか分からない。この話ぶりからすると、どうやら小夏の言っていることは正しいようだ。だが、どこで小夏はそんなことを知ったのか、なんで小夏がこんなにもポケモンのことを、フィオネのことを知っているのか。優真にはさっぱり分からなかった。
ぽかんと口を開けたままの優真をしり目に、小夏が生まれたばかりの赤ちゃん、もといフィオネに手を伸ばす。フィオネは小夏の指先に手を触れると、目を細めてうれしそうな顔を見せた。
「わたしたちのこと、親だって思ったのかな」
「俺たちが、フィオネの親……」
フィオネを前にした優真が、そう呟いた時だった。
「――みぅ!」
前触れなくフィオネが小さな腕を振り上げると、体の中央にあった赤い水晶体が強く輝きだした。
「な、なんだなんだ!?」
「うわっ、眩しい……!」
光はみるみるうちに強くなって、小夏も優真も目を開けていられなくなる。たまらず目を閉じて、光が収まるのを待つ。目を閉じてもなお満ちる赤い光が、小夏と優真の二人をすっぽり包み込む。真っ赤になった世界の中で、二人は一瞬、自分の体がふわりと浮く感触を覚えた。
フィオネから放たれた光がようやく収まる。優真と小夏が恐る恐る目を開けると、そこにはフィオネが変わらずにふわふわと浮いていた。赤く光ったからといって特に何かあったわけではないらしい。にこにこ笑いながら二人の姿を見ている。何があったのかは分からないが、ひとまず落ち着いたようだ。
「なんだったんだろ、今の……」
「……小夏? なんだよその声……あれ?」
「えっ?」
なんだったんだろ、今の――そう言った声は、明らかにいつもの小夏の声ではなかった。優真がそれを指摘しようとして、自分の声もおかしくなっていることに気付く。小夏も何かが違うことに気が付く。自分ではない誰かが、自分の声で話をしている。二人はそんな感触に見舞われた。
はっとしたふたりが互いに目を見つめる。優真の前にいるのは小夏、小夏の前にいるのは優真で、赤の他人というわけではない。けれど、二人は同時に大きく目を見開いた。
「お前……! なんで俺が目の前に!?」
「優真くん、わたしになっちゃってる!?」
小夏と優真にしてみると、小夏の前にいるのは小夏で、優真の前にいるのは優真だった。慌てた二人が、思わず自分の姿を確かめる。
「ねえ、これって、まさか……!」
「ウソだろ、おい……!」
二人が揃って相手を指さし、そして声を上げた。
「「入れ替わってるーーーーーっ!?」」
そう! 二人は心が入れ替わっていたのだ!!
小夏の中には優真がいて、優真の中には小夏がいる。男子のように腕組みをする小夏(優真)、女子のように口元に手を当てる優真(小夏)。二人は紛れもなく入れ替わっていた。あの時フィオネが魔法か超能力か何かを使って、ふたりの心をするっと交換してしまったのだ。何度確かめてみても変わらない、小夏が優真で優真が小夏、わたしがあいつであいつがわたしで、俺があいつであいつが俺で。小夏と優真は完全に入れ替わっていた!
「み……みぅぅうぅぅぅぅうーーーーーっ!」
目の前でいきなり小夏と優真が絶叫したせいでびっくりしたのか、フィオネが声を上げて泣き始めてしまった。大きな目から大粒の涙をぽろぽろこぼして、なんとも悲痛な声で訴えかけてくる。生まれたばかりゆえに、見た目も赤ちゃんなら、中身もまだ赤ちゃんのようだ。
これはいけない、そう考えた優真――ではなく小夏が、さっとフィオネを抱いてあやしはじめた。
「わっ、ごめん、ごめんね。いきなり大きな声出しちゃって……」
よしよし、よしよーし、と、小夏がフィオネを抱いた腕をゆさゆさと揺らす。子供をあやした経験なんてないから、言うまでもなくその手つきは覚束ない。慣れていないけれども、とにかくフィオネに泣き止んでもらわないことには始まらない。焦る心を抑えながら、小夏が一生懸命にフィオネをなだめる。
小夏の様子を見ながら、優真が何とも言えない顔つきをして。
「小夏ー、俺の声で女みたいな喋り方すんなよな」
「今は静かにしてて」
「えっ」
いつもの調子で軽口をたたいたつもりだったのが、小夏にピシャリと跳ね除けられてしまった。こんな風に言い返されたことは一度もなかったせいで、優真が大いに戸惑う。続く言葉が見つからなくて、小夏が必死にフィオネをあやす姿をただ横で見ているほかなかった。
フィオネを静かにさせたいという思いもあっただろうが、それ以上に泣いているフィオネを見るのが辛い、だからあやしてあげよう。小夏の不慣れで未熟だけど優しい手つきがそう物語っている。見たことのない小夏の姿を立て続けに見せられて、優真はただ戸惑うばかりだ。勉強ばかりしていつも本を読んでいる、地味で内気で引っ込み思案な女の子。優真の中の小夏のイメージは凝り固まっていたから、そこにハマらない姿を目の当たりにして頭が追いつかなくなっていたのだ。
ぐずるフィオネを抱く小夏、その側に立つ優真。そんな二人に、さらなる厄介ごとが降りかかる。
「小夏ー? さっきの声、どうかしたの?」
小夏のお母さんだ。フィオネの泣く声を耳にして気になったに違いない。小夏と優真が思わず顔を見合わせる。
「優真くんお願い。『なんでもないよ』ってお母さんに伝えて。わたしが言ったらヘンに思われちゃう」
「わ、分かった。やってみる」
今ここでこの瞬間「小夏」として認識されるのは間違いなく優真の方だ。優真は緊張した面持ちのまま部屋からそっと身を乗り出して、玄関にいるお母さんに向けて声を上げる。
「な、なんでもね……ないよ! ゆ……優真くんの持ってきたゲームの音だから!」
「分かったわ。じゃ、お買い物に行ってくるから、お留守番、お願いね」
いつもに比べてだいぶ詰まり気味に答えたが、お母さんはとりあえずおかしいとは思わなかったようだ。そのまま靴を履いて、小夏、もとい優真に行ってきますを言って家を出て行ってしまった。とりあえず難は去ったと言っていいだろう。
優真が一息ついて部屋へ戻ると、こちらも小夏がフィオネを泣き止ませていた。
「フィオネ、やっと静かになってくれたよ……」
「お前の母さんも、外に出かけてったぞ」
腕の中ですやすや眠るフィオネを見ながら、ふたりが揃って思いつめた顔をする。当座の危機は脱したものの、自分たちが入れ替わってしまったという根本的なところは何も解決していない。
「どうするんだよ、これからさ」
「分かんないよ、そんなの。でも……」
「でも?」
「この子は……フィオネは、この世界に生まれてくることができた、生きてここに来られたの。フィオネは今、ここで生きてるんだよ」
「そりゃあ、ああやって元気に泣いてたしな」
「まだタマゴから出てきたばっかりの小さな子なんだもん、側で誰かが見ててあげなきゃ」
小夏がふっと目を閉じてから、覚悟を決めた様子を見せて。
「フィオネは、わたしが育てるよ。独り立ちできるまで、わたしが面倒見る」
「育てるったって、お前……」
「なんとかする! どういうものを食べるかとか、そういうことは分かってるから。分かんないことは調べて、それでもダメだったらぶつかってくしかないよ」
優真はまた驚かされた。小夏がこんな強い言い方をするのは初めて見た。自分の知識で立ち向かう、分からなければ調べてみる、それでもダメなら体当たりだ。やっぱり小夏に対して抱いていたイメージと合わない。優真は再び言葉を失ってしまう。小夏の目は覚悟と決意の色を帯びていて、ちょっとやそっとじゃ「フィオネを育てる」という今の意見を覆しそうになかった。
「それに、わたしたちを元に戻してもらわなきゃいけないし」
「……そうだな。それも、そうだ」
泣き止んだとはいえ、二人が元の体に戻る気配はない。フィオネを側に置いて世話をしながら、またあのパワーを使ってもらう必要がある。いつまでも小夏が優真で優真が小夏というわけにも行かなかった。
小夏と優真が互いに見つめ合う。すると、今度は優真の目つきが変わるのが見えた。息を吸ってから、自分の姿をした小夏に宣言する。
「なら、俺もこいつを育てる」
「えっ?」
「お前と同じように、分からなかったら調べる。投げ出したりなんかしない。それでいいだろ」
「でも、このタマゴはわたしが……」
「俺だって同じ夢を見たんだ。なのに小夏に全部押し付けるなんて、できるわけねえよ」
そこまで言うと、ちょっとばつの悪そうな顔をして、優真が小夏から目を逸らす。
「だいたい、お前ひとりだけじゃ不安だからな」
優真の言葉を、小夏は不思議なほど素直に受け止めたのだった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。