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#07 どっちがどっち!

小夏のお母さんが買い物へ出かけている間に、入れ替わった小夏と優真が素早く話を進める。

「ルールはできるだけ簡単な方がいい。細かいことまでいちいち覚えてらんないからな」

「そうだね。何かあったら、その時考えるしかないよ」

二人はルールを作った。小夏の体に優真の心が、優真の体に小夏の心が宿ったこのとんでもない状況を乗り切るために、最低限これだけは守ろうと言う決まりを定めたのだ。

「一、入れ替わったことは秘密にすること」

「二、できるだけ相手のマネをしてなりきること」

「三、相手のものを勝手に見たりしないこと」

「四の一、わた……おれは男の子らしくする」

「四の二、……えへん。わたしは女の子らしくする」

合意したのはこの四つのルールだ。お互いに復唱して確かめ合う。

「わたしと優真くんが入れ替わった――なんて言って、お母さんたちが信じるとは思えないし」

「もし信じたら信じたで、二人まとめて案件管理局に連れてかれちまう」

二人の心が入れ替わったと言う秘密は何が何でも死守しなければならない。うかつに言おうものなら気が変になったのかと思われかねないし、真に受けた親が案件管理局へ二人を連れて行ってしまうかもしれない。実際、案件管理局へ持っていくことも考えてみたものの、小夏も優真も大事にはしたくなかった。自分たちだけではなく、二人で面倒を見ることになるフィオネについても考えてのことだ。

出来る限り相手になりきる、これも当然だった。心が交換されたという秘密を守って暮らしていく以上、小夏は優真として、優真は小夏として振る舞うことが求められる。普段それほど接触する機会が多いとは言えなかったから、完全に真似ができるかというと不安が残る。そこはもうアドリブで切り抜けるしかないというのが、二人の下した結論だった。

「俺は小夏のものを勝手に見たり触ったりしない、それでいいな?」

「わたしだって、優真くんの部屋を漁ったりしないよ。お互い様だからね」

入れ替わったとは言え小夏には小夏の、優真には優真の事情がある。下手に相手の秘密を詮索したりしないこと、これが第三のルールだ。小夏が言いだしたものだけど、優真も文句ひとつ言わずに同意した。さすがにもうそこまで子供ではない、人に知られたくないことの一つや二つ誰にだってあるだろう。

ましてや、つい最近までちょっかいを出されていた側と出していた側で、おまけに異性同士なのだから。

「……わたしは、俺」

「俺は、わたし」

「うぅー、『俺』かぁ……なんだか慣れなくてこそばゆいよ」

「泣き言言うなよ。お……じゃなかった。『わたし』って言わされるわたしの身にもなってみろよ」

なんともぎこちないが、普段のふたりになりきるにはやるしかない状況だった。

「あとさー小夏、この髪の毛、切っちゃダメなのか?」

「絶対ダメ! せっかくここまで伸ばしたのに、ヘンに切られたら泣いちゃうよ」

「なんかこう……前髪が掛かってうざったいんだよ」

「それでも切っちゃヤだよ。髪を伸ばしてからやってみたいヘアスタイルがあるんだもん」

「ちぇっ、しょうがねぇなぁ」

「わたしだってすっごい変な感じなんだよ。男の子の体なんて経験したことないし」

「普通はねえよ、心と体が入れ替わるなんてよ」

慣れない体に慣れない言葉遣い。もどかしそうにしている優真と小夏を見て、フィオネがにこにこ笑顔を見せている。

「なんだよフィオネ、楽しそうに笑ってさ。こっちは面白くもなんともないぞ」

「おい小夏、男の子言葉になってるぞ」

「二人きりの時はいいじゃねーかよ、他に誰もいねーんだし」

「今から練習しな……しねーとダメで……ダメだろ」

「もう、ぎこちないなぁ、優真くんは」

「あーっ! わたしそんな喋り方しないもん!」

「俺だってしねーよ!」

前途多難。その言葉がぴったり当てはまる。誰が見ても、小夏と優真は対照的だった。そんな二人が相手になりきろうというのだから、それはもう大変なことだ。ハッキリ言ってしまえば、いつ誰に秘密がバレてしまってもおかしくない。今は夏休みだから、学校に行かなくてもいいことだけが幸いだった。

そろそろ小夏のお母さんが帰ってくる。ややこしくなる前に、優真――もとい小夏は退散した方が良さそうだった。

「なあ小夏……いや、優真。フィオネはどうする?」

「……今日は俺が連れて行く。お前の妹はポケモンが好き、だったよな?」

「一応、ね。家にポケモンがいることも多いから、海で拾ったって言えば、ごまかせる、と思う」

「分かった。代わりばんこで面倒見よう、それでいい?」

「ああ。そうしよう」

「俺が父さんで」

「わたしが……お母さん。そういうことだよね?」

「ああ、そういうことだ」

優真が小夏、小夏が優真であることをそれぞれ意識して、慣れないながらもそれぞれの口調をまねて話す。フィオネを抱いた優真姿の小夏が、小夏の家を後にする。

「優真くん、お母さんにヘンなこと言わないでよ」

「お前だって、俺の妹にカッコ悪い所見せんなよ」

最後にそう言い合ってから、小夏がかつて自分の帰る場所だった家の扉を閉めた。

「……はぁ。優真くんの家に行かなきゃ」

小夏は腕の中にいるフィオネを抱いたまま、肩を落とし気味に歩いていくのだった。

 

さて、小夏が家を出て行ってからおよそ十分後。

「ただいまー」

買い物に出ていた小夏のお母さんが帰ってきた。優真はどきっとしつつ、一度呼吸を整えてから部屋を出る。自分は小夏だ、自分は小夏だ――心の中で繰り返しそう言い聞かせて、小夏らしい振る舞いを心がける。

「お、おかえり」

「なっちゃん、ただいま。今日も外は暑いわねぇ、汗かいちゃった」

ハンカチで汗をぬぐいながら、母は提げていたビニール袋を玄関に置く。果たして小夏は家事を手伝う子だったのか、それともお母さんに任せきりだったのか。優真が必死に考えてみる。あの性格だ、なんとなく簡単な家事くらいは手伝っていそうな気がする。小夏らしさという観点に立つと、ここは手伝った方がそれっぽいだろう。普段やっていなかったとしても、珍しく手伝ってくれた、と思ってくれそうな気がする。

「荷物、持ってくよ」

「いつもありがとね、なっちゃん」

正解だったようだ。よしよし、と優真が安心しつつ袋を取り上げる。ところがここで、思いもよらぬ追加指示が飛んできて。

「ついでで悪いけど、お野菜を野菜室に入れておいてくれないかしら。他に買ってきたものを車から降ろさなきゃいけなくて」

野菜室に野菜を入れておいてほしい。優真が目をぱちぱちさせる。「野菜室」なるものを、優真は知らなかったからだ。

(な、なんだ? 野菜室?)

お母さんは外へ荷物を取りに行ってしまった。とりあえず手に提げた袋を持って歩いていく。自分の母親は買い物から帰ってくるといつも台所へ行っていたから、この後行くべきところは多分台所だろう、冷蔵庫とかもあるし。優真はそう当たりを付けて台所を探す。幸い、台所はすぐに見つかった。

問題は――野菜だ。

「野菜室って……どこだ?」

字面からして野菜を置いておくスペースだというのは伝わってくるものの、それがどんな場所でどこにあるのかがさっぱり分からない。家事に疎い優真にとってはかなりの難題だ。少なくとも、物理的に野菜を蓄えておくための「部屋」ではないような気はする。考えられるのは台所の戸棚か、床下の収納スペースか、あるいは――。

「……野菜ってなま物だし、やっぱり冷蔵庫か……?」

冷蔵庫にある一番下の引き出しを引く。中には冷たいものがたくさん入っていた。たぶんここだろう、そう考える優真だったが、よく見ると優真が野菜を突っ込もうとしている場所には小分けされたご飯やアイスクリームの箱が見え隠れする。端的に言うと、そこは冷凍庫だ。優真は冷凍庫に野菜を入れようとしていた。気持ちが焦っていたこともあったが、優真は冷凍庫と冷蔵庫の区別を付けられていなかったのだ。

と、そこへ。

「なっちゃん」

「えっ、あっ、お母……さん」

残りの荷物を持ったお母さんが、台所へ姿を現した。やばい、と身を固くする優真。何かまずい所があったのかと、目があちらこちらに泳ぎ回っている。

「ああ、そうだったそうだった。冷凍食品も一緒に詰めてたんだったわ」

「はい?」

「先に冷凍室へ入れてくれようとしてたのね。さすがなっちゃん、気が利くわ。あとはお母さんがやっておくわね」

よくよく見ると、袋の上の方に冷凍食品のパックが入っているではないか。どうやらお母さんは、小夏が気を利かせて先にこれを冷凍庫に入れようとしている、という風に見てくれたようだ。慌てて取り繕いつつ、そうだよ、と調子のいいことを言いながら、冷凍食品を中へ詰めていく。運よくうまい具合に乗り切れたとは言え、内心は冷や冷やものだった。

食品をそれぞれの収納場所にしまいながら、お母さんがおもむろに口を開く。

「川村くん――」

「!?」

唐突に「川村くん」と苗字を呼ばれて、中身が優真の小夏が驚いて飛び上がる。

「――は、もう帰ったの?」

「えっ? あっ、う、うん。もう帰……りましたわ」

ビックリしたのと慣れない女の子言葉を遣おうとしたせいで、普段の小夏ならまず間違いなく口にしないような珍妙な似非お嬢様言葉になってしまった優真。これはさすがにおかしいと思ったのか、お母さんが小夏の方に目を向ける。

「なっちゃんったら、急にどうしちゃったのよ」

「あー……えっと、か、帰ったよ! もう用事は済んだって言って、家に帰ったよ!」

「もう、分かったわ。なっちゃんが冗談を言うなんて、珍しいじゃない」

あくまで小夏がおふざけをしていると思ったのだろう、お母さんはくすくす笑いながら冷蔵庫の扉を閉める。ここもなんとかごまかすことができた。優真はバクバクと高鳴る鼓動をどうにか抑えながら、お母さんの様子をちょっと遠巻きに伺う。

(女子の言葉遣い、めんどくせえなぁ……)

これからしばらくはこうやって気を付けながら口をきく必要がある。優真の考える通り面倒くさいことではあったが、小夏と入れ替わったことがバレてしまったら大変なことになる。気を引き締めないと、と優真がぐっと拳に力を込めた。

買ってきたものをすべて片付け終えてから、お母さんが台所に立って料理を始めた。テーブルの側でその様子を見ていた優真だったが、そこでまたお母さんがこちらを見てきた。思わずドキリとする優真。見た目は他でもない小夏本人だったが、知っての通り中身は川村優真だ。小夏と普段一緒にいるお母さんなら、小夏の様子がおかしくなったことにいつ気が付いてもおかしくない。だからこうして視線が合うたびに緊張してしまうわけだ。

「なっちゃん」

「はいっ」

「今日は確か、塾の日だったわよね」

「塾……?」

塾。その言葉で、優真はひとつ大事なことを思い出す。

(小夏のやつ、塾に通ってたんだった!)

優真も前に見たことがあったが、小夏は近所でもレベルが高いと評判の学習塾に通っていたのだ。そして今小夏を演じているのは自分だ。これはつまり、優真が小夏の代わりに塾に行って勉強しなければならない、ということでもある。優真、もとい小夏の表情がみるみるうちに強張っていく。体は小夏になったとはいえ、頭の中は自分のままだ。あいにく小夏のように頭が回る気はしなかった。

「車で送っていくから、遅れないように準備しておいてね。終わったら迎えに行くわ」

「あ――わ、分かった。遅れ……ないように、する」

「宿題もあったはずだけど、なっちゃんならもう済ませてるかしらね。一応、確かめておいてちょうだい」

「う……うん」

「もうすぐ全国学力テストもあるから、がんばってね」

全国学力テスト! その単語を聞いた瞬間、優真は卒倒しそうになった。塾に通うと考えただけでも頭痛がしてくるのに、その上学力テストも控えているなんて――気が遠くなりそうとはこのことだ。しかも全国と名が付いているだけあって、要求されるレベルは計り知れない。以前別のクラスメートが話をしていた記憶がある。このテストで上位に名を残すような生徒は、トップクラスの秀才ばかりだとか。学校で時々やるようなテストとはまるでわけが違う。

もちろんこれも、自分の頭で何とかしなければならないのだ。

(どんだけ勉強好きなんだよ、あいつ……)

心の中で苦虫を噛み潰したような顔をしながら、ともかくその場をやり過ごすことに専念する。これからどうするか、後でちゃんと考えなければいけない。

「じ、じゃあお母さん。わたし……ちょっと部屋に行くから」

「ええ。お昼になったら教えるわ」

これ以上ボロを出すわけにはいかない。リビングを離れて小夏の、自分の部屋に戻ることにする。学習机の椅子を引いて腰かけると、そのまま「ああ……」とばかりに頭を抱えてしまった。ため息がもう止まらない。

「女子のふりするだけじゃなくて、勉強までしなきゃいけねーなんてよ……」

前途は多難、課題は山積み、先行きはもう真っ暗だ。どうしてよりにもよって小夏なんかと入れ替わってしまったのか、口調も考え方も、得意なことも苦手なことも、趣味も特技も、そして何より性別もみんな逆だ。一番なりきるのが難しい相手になってしまったと言っても全然大げさじゃない。小夏はどう思っているか知らないが、優真にしてみれば最悪の展開だった。

どうすればこの危機的状況を乗り切れるか、優真はもうなりふり構わず考えて。

(小夏に教えてもらうしかねーかな……勉強)

他ならぬ小夏に頼るしかない、そう考えたのだった。

それに、フィオネのことも気になっていた。今は小夏が連れているけれど、時折自分でも面倒を見る必要があるに違いなかった。あの様子だと小夏は一人で面倒を見ようとするだろうけど、さすがにそれは気が引けた。あの夢を見た以上。自分もフィオネの誕生に関わっていると考えるのが正しいように思えた。いくら気に食わない小夏が相手とは言え、責任を全部押し付けるのは性に合わなかった。

「あいつ、今頃どうしてるかな……」

自分の家に向かった小夏はどんな状況になっているか、優真は考えを巡らせるほかなかった。今はちょうど優美が家にいる時間で、一緒に遊んでほしい、なんて言われている気がしてならなかった。小夏に優美の相手ができるだろうか、いや無理だろう、優美に振り回されている光景しか想像できない。ヘンなことをしたり言ったりして、自分の兄としての威厳を傷付けていなければいいけれど。

なんて、優真が小夏のことをあれこれ考えていた最中だった。

「……あっ」

不意に優真が体をぶるっと震わせて、イスから降りて床の上に立つ。その表情はちょっとせっぱ詰まっていて、「やばいやばい」という様子がひしひしと伝わってくる。

(トイレ、行きたくなっちまった……)

ずっと緊張していて意識する間もなかったのだが、一息ついてちょっと気が緩んだせいか、不意にトイレへ行きたくなってしまったのだ。割と限界が近い感じがする。女の子の体に慣れていないから、我慢の勝手もいつもとだいぶ違う。左手を当てて前を抑えながら、優真が部屋のドアを開けて廊下に出る。

挙動不審な様子をお母さんに見られないよう注意しつつ、トイレがどこか探す。ここだ! と思って開けた扉がクローゼットだったり、ここか? と思って行ってみるとお風呂場だったりで、何度か「はずれ」を引いてから、優真はなんとかトイレを見つけ出した。そそくさと扉を開けて、中に入ってからちゃんと扉を閉める。

便座に座った瞬間、優真の脳裏に小夏の姿がよぎった。とっさに目をギュッと閉じて、それから体の力を抜いてすることをする。ひどくざわつく気持ちをちょっとでもごまかすために、手の甲を指先でつまんでつねる。下半身で起きていることを意識しないようにするためだ。これはあくまで小夏の体、さっき小夏と約束した通り、他人の秘密を勝手に見たり触ったりするべきじゃない。こういうところは妙に真面目で紳士的なのが優真だった。

しばしの間を開けて、水洗の音が聞こえてきた。どうにか無事に済ませたようだ。

「うぅ……」

扉から出てきた優真の顔は、耳の先まで真っ赤になっていた。いくら普段の優真が細かいことを気にしないわんぱく少年とは言え、もう間もなく思春期に差し掛かろうかという年齢だ。慣れない女子の体で用を足す、そのことに恥ずかしさを覚えないわけがなかった。小夏のスカートをパッパッとはたいて、形を雑にではあるけれど整える。

(女子の体って、こんな風になってんのか……)

今日からしばらくの間はこんな違和感に包まれることになる。はぁあ、と小夏の姿をした優真がひときわ大きなため息をついて。

(待てよ。俺の体には今小夏が入ってるわけだから……)

自分が今感じているようなことを、小夏もまた感じているのではないか。女子の心で男子の体という今の状況に戸惑って、それこそこんな風にトイレの前でやいのやいのと考えたりしているのではないか。あるいは、小夏の方は自分の体を見たり触ったりしているのでは……。

(や、やめだやめだ! 小夏のことなんかより、まず自分のことだっての!)

気恥ずかしさでいっぱいになった優真が雑念を振り払い、これから小夏がするはずだったことをすべく、すごすごと部屋へ戻っていくのだった。

(……小夏には、身体のこととか訊いたり言ったりしないようにしなきゃな。嫌がるだろうし)

そして相も変らず、こういうところはしっかり真面目なのだった。

すったもんだした末に部屋に戻った優真だったが、さしあたり何とかしなければならないのは学習塾のこと、そして全国学力テストのことだ。それまでに元の体に戻れればいいが、そうなる保証はどこにもない。いざとなったら自分がテストを受けなければならない。ここで悲惨な点数を取るようなことがあれば、自分も小夏も一巻の終わりだ。かと言って自分だけでどうにかできるとも思えない。優真は完全に頭を抱えてしまう。

「……あれ?」

レベルの高い学習塾に、学力を競う全国学力テスト。小夏が立ち向かうはずだったこれらについて知った優真だったが、その時はたと気付く。自分もこれと似たような立場だったのではなかろうか、と。

(――このままじゃ、小夏がスイミングに行って水泳大会に出るってことじゃねーか!! いやいやいや、それはありえねえよ!)

スイミングスクールと夏休み後半に控えた水泳大会。今の自分にとっての学習塾と全国学力テストとほぼ同等のそれが、小夏にもまた存在していた。放っておけば、25メートルもろくすっぽ泳げないような小夏がスイミングスクールに通い、水泳大会にも出場してしまうことになる。それだけは、それだけはなんとしても避けたい。いや、否が応でも避けなければならない事態だった。

水泳大会では何が何でも勝たなければいけなかった。優真にとってそれは単なる腕試しという枠を超えていて、大げさでも何でもなく、この大会に人生を賭けていた。ここからどうしても飛躍しなければならない。自分の夢を叶えるためには、大会で優勝することが絶対条件だった。仮に小夏が出ることになったとしても、小夏に死に物狂いで泳いでもらわなければならない。そのためにできることは何でもするつもりだった。

もう一刻の猶予もない。自分の立場が危うければ、小夏の状況も危機に瀕している。早くこのことを小夏に報せなければ。

「ちっくしょう、なんでこんなことになっちまったんだよ!」

部屋に備え付けてあった電話の子機をひっつかむと、優真はかつての自分の家の――今は小夏がいるであろう家の電話番号を、ものすごい速さで叩いたのだった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。