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#08 なんとかしなくちゃ!

一方その頃、小夏は優真の家へやってきていた。今の姿を考えてみれば、帰ってきた――と、言うべきかもしれないけれど。

「ただいまー……」

こわごわ扉を開けて中へ入る。すると、すぐさま向こう側から声が聞こえてきて。

「おかえりー! お兄ちゃん、どこ行ってたの?」

一回り背の低い女の子、優真の妹がこちらに向かって駆けて来る。フィオネを慌てて背中へ隠しつつ、小夏が何でもない風を装う。優真くん、そういえば妹がいるとか言ってたっけ、小夏が優真との会話を振り返る。が、それも束の間のこと。小夏はある重大なことに気が付いた。

(わたし、この子の名前知らない)

目の前にいる女の子は「優真くんの妹さん」だということしか分からない。妹がいるとは聞いていたが、その名前だとか性格だとかは一言も聞いていなかったのだ。性格はおいおい分かっていくにしても、今ここで名前を知らないのはいくら何でもまずい。まずすぎる。こんなことならさっき聞いておけばよかった、そう思っても後の祭りだ。

「た、ただいま」

ただいま、と言ったきり次の言葉が出て来なくて、小夏が石のように固まってしまう。れいとうビームを食らって氷漬けにでもなってしまったかのようだ。そんな小夏、いや兄の様子を見た優真の妹が、不思議そうな顔をして首をかしげて見せる。ひょこひょこと小夏の前まで歩いてくるとちょっと背伸びをして、右手を自分のおでこに、左手を小夏のおでこにぴとっと当てる。

「お兄ちゃーん、大丈夫? 具合悪いの? 優美がお熱計ったげる」

そうか優美か、と小夏がとっさに情報を拾い上げる。この子が自分の名前を一人称にしていてくれたおかげで命拾いした、小夏はわきの下に冷や汗が流れるのを感じつつ、自分と比べて兄の体温が高くないか確かめている優美に声をかける。

「だ、大丈夫だぞ、優美ちゃん」

「優美ちゃん?」

が、今度は呼び名が立ちはだかる。優真は優美のことを普段「優美ちゃん」とは呼んでいないようだ。妹って普通ちゃん付けで呼ぶものじゃないの!? と小夏が心の中で優真に文句を言うが、今は他ならぬ自分自身が優真だ。優真らしくしなければならないのは自分自身なのだ。

「あー、えーっと……ゆ、優美……」

「優美ちゃん! 優美ちゃんでいいよ!」

「え?」

「『優美』っていわれるの、ちょっとさみしかったもん。優美ちゃん、がいい!」

またしても天が小夏に味方をしてくれたようだ。優美は優真から普段呼び捨てされているけれども、内心はちゃん付けで呼んでほしかったらしい。それがいきなり叶ったものだから、なんだか今にも飛び上がりそうなくらい喜んでいる。偶然とは言え、優美が優真のことをいぶかしんでいる様子はまったくない。この流れに乗らない手はない、小夏は今一度気持ちを落ち着けて、優美にそっと目を向けた。

体温を計ってくれている優美の手を優しくとると、大丈夫だぞ、と声をかける。優美も満足したようで、小夏から手を離した。

「ありがとう、優美ちゃん。ごめん……な、ヘンなところ見せて」

「ううん、平気平気。優美、今からエーテル財団のお仕事の練習してるの」

エーテル財団? 顔には出さなかったものの、優美の口にした言葉を小夏が気に留める。そう言えばここ最近、榁のあちこちで白い服を着た研究者らしき人を見かけるようになった。

(「あの人ら、エーテル財団の人やんな?」)

(「だな。この間、おれの母さんがいなくなった時のことを訊きたいって、家に来たんだ」)

(「なんでそないなこと訊きたがるんやろ。そういうの、管理局の人らの仕事と違うん? 佐藤さんみたいな」)

(「さぁなー。なんか、ウルトラホールがどうのこうのとか、そういうこと言ってた気がするけど」)

以前、通りすがりの中学生二人組がこんな話をしながら歩いていたことを、どういうわけか妙にはっきりと覚えていた。後で母親に聞いたところ、ごく最近榁にエーテル財団の支部が作られ、ポケモンの保護活動をしているらしい。

「エーテル財団に入って、困ってるポケモンさんを助けるお仕事するの」

小さいのにしっかり自分のやりたいことを見つけている、優真くんの妹とはとても思えない、なんて小夏が感心して、気を抜いていたところ。

「みぃう!」

「あっ、ちょっと、フィオネ!」

ポケモン、という単語を聞いて興味を持ったのか、後ろに隠していたフィオネが前にぴょんと飛び出してきてしまった。小夏が慌てて制止しようとするも、時すでに遅し。フィオネは優美の前にばっちり姿を現してしまっていた。フィオネと優美の視線が合って、優美の目がまん丸く開く。

「あ、あの、優美ちゃん。これは……」

「わあ! フィオネだぁ!」

「えっ? 優美ちゃん、フィオネのこと知ってるの?」

完全に素の、小夏の口調に戻ってしまっているが、優美はフィオネを間近で見られたことがとにかくうれしいようだ。兄の様子が普段と異なっていることなどまるで気にも留めず、小夏からの問いかけに大きく「うんうん」とうなずいた。

「優美がねー、よく遊びに行く神社でねー、お姉ちゃんがお世話してるの!」

「あっ、そうなんだ……」

「みずポケモンでー、あったかい海にいてー、うきぶくろみたいに浮くんだよ!」

どうやらどこかでフィオネの話を聞く機会があり、そこで特徴について教えてもらったようだ。知識も小夏のそれとほぼ一致している。フィオネをぎゅっと抱くと、二人揃ってうれしそうな顔を見せた。これはきっと気が合いそうだ、小夏はまたしても幸運に助けられたと言えよう。まあ、元々優真と心が入れ替わるようなことが無ければこんなシチュエーションにもなっていなかったわけで、どちらかというと悪運の部類かも知れないけれども。

フィオネのことが早速他人にばれてしまったものの、優美はポケモンが好きでフィオネも懐いている、きっと大丈夫だろう。小夏が額に浮かんだ汗をぬぐう。

「ねーお兄ちゃん、この子どうしたの?」

「えーっと……ああ、そうだ、海で見つけたんだ。海でな」

寝て起きたら持っていたタマゴから孵った、とはさすがに言いづらい。なので、元々タマゴがあったはずの海で見つけた、と言うことにした。一応嘘は言っていないからか、それともよく分からないからか、フィオネもにこにこしながら首を縦にふって同意している。

「そっかぁ、みんなとはぐれちゃったんだね」

「フィオネは群れで生活するから、きっとそうだな」

「この子、お世話したげるの?」

「そうだな……えっと、小夏と一緒に見つけたから、二人で面倒見ようと思って」

「こなつ?」

「あー、うん。同級生の女子なんだ。海を歩いてたらたまたまはち合わせて、その時フィオネを見つけて」

「分かった! お兄ちゃん、優美もいっしょにお世話する!」

「えっ、優美ちゃんが?」

「ね! フィオネちゃん!」

あっという間に話をまとめて、優美も一緒にフィオネの面倒を見ると言いだした。この展開の速さは、雰囲気は違うけれど兄に通じるものがある。なんだかんだで、優真と優美は兄妹なのだ、と小夏は感じずにはいられない。

とは言え、ずっと優美や優真の母親相手にフィオネの存在を隠し通せるとも思えないし、フィオネの面倒を見ていること自体は別に隠さなくてもいいか、と小夏が考える。フィオネはそこそこ珍しいポケモンではあったものの、かと言ってまったく見かけないほど稀少というわけでもない。何年かに一度群れで海を漂う姿が目撃されているし、優美が言っていた通りフィオネを連れている人も少ないながら存在している。連れていてもそこまで違和感はないはずだ。

「フィオネちゃん、いっしょに遊ぼ!」

「みう!」

優美がフィオネを連れて奥に向かおうとする。それに続く形で、小夏も玄関を上がった。優真の運動靴を脱いだ後、いつもの手癖でそれをきちんとまっすぐ並べる小夏――だったのだが。

「あーっ!」

「いっ!?」

一体何があったのか、優美が不意に大きな声を上げた。小夏は当然びっくりしてしまって、一体何事かと優美の方を見る。優美は優美で小夏の方を……優美から見れば兄の優真を正面に見据えて、ぴっ、と人差し指を向けて立つばかりだ。少しだけ間を空けてから、優美が口をいっぱいに開けて言葉を発する。

「お兄ちゃんえらーい! お母さんに言われたことちゃんと守ってるー!」

「えっ?」

「くつ! ちゃんと片付けてるー!」

何度目かの悪運である。優真は普段靴を脱ぎっぱなしにしていて、母親からちゃんと直すように言われていたらしい。小夏が普段通りに靴を直したのを、優美は兄が言いつけを守る気になったと勘違いした。きちんとするようになった兄を褒めていたのだ。もちろん、小夏が中に入っていることなど気付いていない。またしてもうまい具合にごまかすことができたというわけだ。

優美の様子を見て、完全ではないながらも小夏は優真の置かれていた状況を察した。運が悪いのかいいのか、肝を冷やしつつも事はうまく運んでいる。小夏は少しだけ落ち着くための時間を取ってから、優美に怪しまれないように優真の言いそうなことを言うことにする。

「そ……そうだぞ。優美ちゃんもお兄ちゃんを見習って、靴をちゃんと片付けるんだぞ」

「はぁーい!」

元気よく返事をする優美。兄と違って聞き分けのいい妹でよかった、と小夏が心の中で胸をなでおろす。明朗快活で天真爛漫な優美の様子を見ていると、まるで自分の妹のような――今この瞬間は、紛れもなく本物の妹だったのだけれど――、そんな気持ちになる。

せっかくこうして出会えたのだから、大切にしてあげたい。小夏はあくまで本心から、そんなことを考えるのだった。

「フィオネちゃん、おててをつないでー」

「みぃ!」

和室で優美がフィオネと遊び始める。フィオネは自分に構ってくれる優美のことが気に入ったのか、ふわふわ彼女の周りを飛び回って楽しそうにしていた。しばらくは優美に任せていて良さそうだ。小夏はそう思いながら二人を間近に見守っていたのだけど、ふとあることに気付く。

(……やだ。汗かいちゃった……)

日がかんかんに照り付ける中歩いて優真の家まで来たこと、優美とのやり取りで何度も冷や汗を流したこと、それから入れ替わる前の優真がどうやら全力疾走して自分の家まで来たらしいこと。それらが積み重なって、小夏は全身が汗でじっとり濡れている感覚に包まれていた。言うまでもなく、あまり気持ちいいものではない。普段からこまめに体を洗っている小夏にしてみれば、尚更好ましくなかった。

一度気になってしまうと、どうしてもその事ばかり意識してしまう。普段の優真がどうしているかは分からないが、体を綺麗に洗うのは悪いことじゃないはずだ。小夏が優美の肩をポンポンと叩いて呼び掛ける。

「優美ちゃん」

「なぁに、お兄ちゃん」

「……こほん。俺、ちょっとシャワー浴びて来るな」

「うん、分かったー」

優美の反応はというと、どうやら不自然だとは思わなかったようだ。きっと優真も海で泳いだ後に家で体を洗ったりしているのだろう。よしよし、と小夏が優美に分からないようにうなづいて、お風呂場に向かう立ち上がった。

と、そこへ。

「みーぅ♪」

「あっ、フィオネ」

「そっかぁ、フィオネも水浴びしたいんだね。お兄ちゃん、フィオネちゃんもつれてってあげて」

フィオネが小夏の方に向かって飛んできて、一緒に行きたい、と言わんばかりの仕草を見せた。恐らくは優美の発言通り、フィオネも水を浴びてすっきりしたいのだろう。あるいは全身がほとんど水でできているフィオネにしてみれば、エネルギーを取り込む意味もあったかもしれない。

本当は一人でゆっくりシャワーを浴びたかったものの、生まれたばかりのフィオネの面倒も見ないといけないことは分かっていた。小夏はごく小さくため息をついて、優美の言う通りにすることにした。フィオネの手を取って部屋を出ると、ちらちら視線をやって浴室を探す。幸い、川村家の間取りはそれほど複雑ではなかった。脱衣所へ向かってみると、下着の入った収納ケースと積まれたバスタオルが見えた。その一番上には、隅っこに「ゆうま」と書かれている。これが優真の使っているもので間違いないはずだ。

「よしっ」

小夏が服を脱いで洗濯カゴへ放り込む。フィオネを伴って浴室の中に入ると、自分の家とだいたい同じ雰囲気の風呂場があった。違和感なく使えそうだ。

「みぅ! みぃう!」

「わかった、わかった。先にお水でシャワーしたげるよ」

声を上げるフィオネをなだめながら、小夏が蛇口をひねってシャワーから冷水を出す。ちべたっ、と小さく声を上げつつ、小夏がフィオネを抱いてそっと水浴びをさせる。

「みーう♪」

「わっ、こらこら、はしゃぎすぎはしゃぎすぎ!」

水を浴びられてうれしいのだろう、フィオネがとにかく動き回るので、小夏の体に冷たい水が掛かって仕方ない。暑い中でいたとは言え、いきなり冷水を浴びるのはなかなか体に堪える。ぶるぶると身震いしつつ、にぎやかなフィオネに水浴びをさせる。

「ねぇフィオネ、そろそろお湯出してもいい?」

「みう?」

「お湯っていうのは、あったかいお水のことだよ」

言われていることが何のことか分からなくて、フィオネはただ首をかしげるばかりだ。物の試しとばかりに、小夏が給湯器を操作して水をお湯に変えてみる。ほどなくして、シャワーからは冷水ではなく温水が噴き出し始めた。手のひらで確かめて温度がほどほどに上がったのを確認したところで、そっとフィオネに当ててみる。

「むぅ……みうみぅっ!」

「わわっ、ごめんごめん、イヤだったんだね」

どうやらお湯はお気に召さないらしく、眉をひそめてぐずりはじめてしまった。あわてた小夏がお湯を止めて、フィオネを抱いてあやしてやる。幸い、泣き出すには至らなかった。フィオネとしては冷たい水の方が気持ちいいようだ。

しょうがない、と諦めて、小夏が再び冷水に戻してシャワーをさせてやる。フィオネは満足げだが、小夏は寒くて寒くて仕方がない。時折フィオネの顔色をうかがいつつ、お湯を出してもいいか、と訊ねてみる。

「フィオネー、そろそろお湯出してもいい?」

「みぅっ」

「えー、まだダメー? わたし風邪引いちゃうよぉ」

結局フィオネが満足するまで水シャワーは続いて、やっと小夏が体を洗う番になった。フィオネにお湯が掛からないように、蓋をかぶせた浴槽の上に座らせて、小夏がほう、と大きく息をつく。

(あったかい海に住んでるって言うけど、あくまですっごく寒い所の海と比べた「あったかい海」なんだね……)

流氷の浮かぶ北海に比べれば、榁が位置している南海は確かにあたたかい。あたたかいのは間違いないが、お湯ほどのぬくもりはもちろんない。何も意識せずに触れれば「つめたっ」と手を跳ね上げてしまうくらいには冷たいのだ。ちょうどさっきまで浴びる羽目になっていた冷水のように。

シャワーがお湯を出し始めるまで、小夏が手持ち無沙汰になった。ぼうっとしながら、正面にある鏡を見る。

(……優真くんだ)

鏡に映し出されていたのは、どこからどう見ても他人で、紛れもなく男子で、疑う余地なく優真で。今更ながら、自分が優真の体を借りているのだということを強く意識させられてしまう。

そして、小夏は目の当たりにする。

(当たり前だけど……アレも付いてるんだ)

男の子であることの証、女の子との決定的な違い。鏡面に投影された自分の姿を、小夏はどう捉えたらいいのか分からなかった。自分は今男の子に、優真くんになっている。そして優真くんは女の子に、小夏自身になっている。遅かれ早かれ、優真もまた自分が小夏であることを意識することになるだろう。

そう思うと、小夏は急にほほがかあっと熱くなるのを感じた。自分の体に優真が乗り移っている、そう思うと、顔から火が出て燃え上がってしまいそうだった。

(優真くん、わたしの体でヘンなことしてないかな? してないよね……?)

小夏は小学五年生、そろそろ男子と女子の違いだって分かってくるし、思春期の兆しのようなものも迎えている。それはたぶん、優真も同じだろう。自分にちょっかいばかりかけて来る苦手な男子が、今まさに自分の体の中にいる。小夏がきゅっと目を閉じる。満ち満ちて来る恥ずかしさを懸命にこらえて、どうにかこうにか気持ちを落ち着かせようと胸に手を当てる。

今は、優真くんを信じるしかない。イタズラ好きのわんぱく少年だけど、嘘はつかないし危ないこともしないと思いたい。そう思うしか、今の小夏に手立てはなかった。

さてさて、小夏とフィオネはシャワーを浴び終えて、優美の待っている和室へ戻ってきたのだけれど。

「あ、お兄ちゃん。さっき電話あったよ」

「えっ、電話……?」

「スイミングの先生から! 今日から練習はじまるって言ってたよ!」

スイミング、練習。勘のいい小夏である、優美のこの言葉で、自分がどういう状況に置かれているか瞬時に理解した。

(――そうだ! 優真くん、スイミングスクールに通って……っ!)

まさしくその通りである。優真は榁の南にあるジムに足しげく通っていて、そこで水泳の練習をしていた。優真自身が言っていたことだし、以前近くを通りがかった時にジムから出てくるのを目撃したりしていたから、疑う余地はどこにもなかった。

知っての通り、小夏は水泳が大の苦手だ。それを少しでも克服しようとしたのが、まさに昨日起きた海難事故だ。あの時は優真に助けてもらったわけだが、今は自分がその優真になってしまっている。泳ぎ方の勝手も分からないのに、優真ばりにしっかり泳ぎをこなさないといけない。想像しただけで気が遠くなりそうだった。小夏の顔がみるみるうちに青ざめていく。

だが――そんな小夏に、さらなる衝撃が襲い掛かる。

「もうすぐ大会だもんね。お兄ちゃん、がんばってねーっ」

「大会――!」

今度こそ、小夏は今度こそ頭の中が真っ白になった。優美の言っている大会と言うのは、八月の半ばに開催される水泳大会のことに他ならない。運動の苦手な小夏にはこれと言って縁のないイベントだったが、市の広報にも毎年載るくらいの規模の大きな大会だということは知っていた。そしてそこでは毎年のように大変高レベルなレースが繰り広げられて、後にプロの選手になって活躍する人も少なくないとか。まさしくプロへの登竜門、地元のコイキングが世界のギャラドスへ飛躍するための大舞台であった。優真はそのうちのジュニア部門に出るはずだったに違いない。

そこに自分が出場するのである。プールの授業になると憂鬱になってしまうような自分が、海で溺れて死の淵をさまようような自分が! 悪い冗談としか言いようがなかったが、あいにくこれは冗談でも何でもない。今この瞬間何とかしなければいけない、確固たる現実そのものだった。

「むーすーんで、ひーらーいーて♪」

「みぅみぅ♪」

小夏は今にも死にそうな顔をしている。スイミングスクールで水泳の練習があるというだけでもこの世の終わりみたいな気持ちになるというのに、そこに畳みかけるように水泳大会も開催されると来ている。こんなことがあっていいのか、小夏が頭を抱える。

(……はっ。ちょっと待って、そういえばわたし……)

と、その時である。小夏はある重大な事実に気付く。

(わたしがスイミングに通うってことは、優真くんが塾に行くってことで)

(塾に行くってことは、テストを受けるってこと――!)

自分が直面している危機とほぼ同じような事態が、今自分の中に入っている優真にも降りかかろうとしている、ということであった。運動の不得意な小夏に、勉強が不得手な優真。二人はお互い苦手な分野に真っ向から挑戦しなければいけなくなっていたのだ!

今度のテストは絶対に落とせなかった。あのテストで平均して九十点を取らなければ、お母さんとした約束は無効になってしまう。このままでは自分の夢が潰える、優真には例え何があろうとテストで好成績を残してもらわなければならなかった。気は進まなかったが、優真に勉強を手とり足とり教えるくらいのことでもしないととても太刀打ちできまい。小夏は覚悟を決めるほかなかった。

「優美ちゃん、悪い。ちょっと電話借りるぞ」

「いいよぉ」

フィオネと遊ぶ優美に断わってから、小夏が受話器を上げる。

ダイヤルした先は、もちろん自分の家だった。

 

互いの家の電話を鳴らして、小夏と優真がホットラインをつないだ。目的はただひとつ。自分たちが置かれている危機的状況を何とかするためだ。ちょうど優美が用事で出かけたのを見て、小夏が優真にこちらへ来てほしいと言う。できれば対面で話をした方がいい、そう思った優真はすぐに承知して、小夏のいる自分の家まで飛んで走ってきた。

間にフィオネを挟んで、あぐらをかいた小夏(優真)とぺたんと足を折りたたんで座る優真(小夏)が目を向け合う。

「整理するぞ。俺は八月の十七日に、全国学力テストを控えてる」

「わたしは八月の十六日に、水泳大会に出場しなきゃいけない」

「もちろん、周りにばれない様にしなきゃいけないし……」

「フィオネのこともちゃんと見てあげなきゃダメ。こんなところかな」

心が入れ替わっただけでも大変だと言うのに、二人にはお互いやらないといけないことが山のようにあった。優真は小夏の代わりに塾へ通って勉強をしてテストを受けなければいけないし、小夏は優真の代わりにスイミングスクールに通って水泳の練習をして大会に出なければならない。入れ替わっていることがバレてはいけないし、そして合間を縫ってフィオネのお世話もしてあげなければならない。

あまりのことに思わずため息をつきまくる小夏と優真。ふたりがこの状況にとんでもなく頭を痛めていることもつゆ知らずといった調子で、フィオネは辺りをぴょんぴょん跳ね回っている。

「ねぇフィオネ、わたしと優真くん、元に戻せたりしない?」

「みう?」

「ほら、朝にやったさ、赤い光出すやつ、もう一回使ったりできないのかよ」

「みうみう♪」

交換した心を元に戻してくれないか、優真と小夏がそんな風にフィオネへお願いしてみるが、フィオネはどこ吹く風といった具合で遊ぶばかり。そもそも自分たちの話がうまく通じていないようなきがしてならなかった。

「ダメだこりゃ。ありゃきっとただの偶然か何かだ」

「しばらくは、入れ替わったままでいるしかないみたいだね」

「はぁ……今はそういうこった」

フィオネがもう少し成長して言葉を理解してくれれば、ひょっとすると元に戻してくれるかもしれない。しかしそのためには十分な時間が必要だ。今すぐに、というわけには行かなさそうだった。

「ねえ、優真くん」

「なんだよ、小夏」

「その……さっきも言ったけど、その体で、へ……ヘンなこと、しないでよ。わたしも、しないから」

「わっ、分かってるよ。お前だって、俺の姿で『きゃあ』とか叫んだりするなよ」

お手洗いとお風呂場で、それぞれ異性の体に乗り移ったことを自覚した小夏と優真。どぎまぎしながら相手に釘を刺して、そしてまた自分も相手の信頼を裏切るまいと心に決める。小夏は優真に恥をかかせるつもりはなかったし、優真だって小夏を傷付けるつもりはない。二人だけの秘密を共有する身ゆえに、デリケートなことについてはお互い誠実であろうとしている。

と、心では思ってはみるものの、どちらも慣れない体に歯がゆさを感じるばかりで、足並みをそろえて一緒に、というのはなかなか難しかったのだけれど。

「いいか、小夏。これからは毎日朝から水泳の練習をするぞ」

「だったらわたしは、優真くんに勉強を教えるよ」

不幸中の幸いと言うべきか、優真は体を動かす感覚を小夏の体に持ち込むことができたし、小夏は勉強して蓄えた知識を優真の頭に持っていくことができていた。入れ替わったのはあくまで「心」だけで、「頭」は本来のあるべき場所に残っていた。

もちろん、基礎体力の低い小夏の体では優真のような泳ぎ方は無理があったし、勉強の苦手な優真の頭では小夏ほどすらすらと知識をアウトプットできなかったが、どちらも相手に教えるために必要なものは持っていた。優真は小夏に自分の体の使い方を思い出させ、小夏は優真に自分の頭の使い方を思い出させる。遠回りとはいえ、今はこれしか手段がなかった。

優真の中に入っている小夏には何が何でも水泳大会で優勝してもらわなければならなかったし、小夏の中に入っている優真には全国学力テストで高得点を取ってもらう必要があった。この夏には、どちらにとっても譲れないイベントが控えているのだ。

「はぁーあ。夏休みだってのに、小夏と毎日顔を合わせなきゃいけないなんてよ」

「憂鬱なのはこっちだよ。わたし、全然泳げないのに」

とにかくやるしかない、嘆いたところで時間は過ぎていくのだ。

「あっ、優真くん、そろそろ塾に行く時間だよ」

「もうこんな時間か。小夏、お前もスイミングに行かないと」

優真は学習塾へ、小夏はスイミングスクールへ。ふたりがそれぞれの習い事に出かける準備をする。フィオネに「出かけて来る」と言うと、どうやら意図を理解したようだ。優美が出してくれていた薄手の布団にくるまって、あっという間にスヤスヤと寝息を立て始めた。

(塾の勉強って何すんだろ……漢字ドリルを黙々と解くとか?)

(水泳……さすがに、いきなりクロールで25メートル泳ぐとかじゃないよね?)

胸の中に、たくさんの不安を抱えながら。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。