「じゃあね、なっちゃん。終わる頃に迎えに来るから、ここで待っててちょうだいね」
「う……うん。分かったよ、お母さん」
お母さんの運転する自動車で通っている学習塾まで送ってもらった小夏――もとい、優真。走り去っていくお母さんの車を見送ってから、背中にそびえ立つ(本当はそこまで高くないのだが、優真にとっては煙突山のように大きく見えたのだ)学習塾のビルを見上げる。今からここで二時間、みっちり勉強をすることになっている。
どこかでサボってしまおうか、一瞬そんなことを考えた優真だけれど、小夏の顔を思い出してやめてしまった。小夏はきっと苦手だったとしてもスイミングスクールに行って水泳の練習をするだろう、自分だけサボるのは良くない。それに、なんだか小夏に負けているような気がして、自分のプライドがそれを許さなかった。小夏が自分を演じるからには、自分も小夏を演じなきゃいけない。吹っ切れた顔をして、優真がビルの中へ進入する。
「サクセスコースの教室は……あった、こっちだな」
自分は「サクセス」コースに在籍していると、事前に小夏から教えてもらっていた。学校で習うこと以上の内容を教えられたり、応用問題を多く解いたりする、通常より高度なコースだと聞いている。ちなみに、学校の授業と概ね同じペースで勉強するのは「チャレンジ」コースだそうだ。優真が見つけた教室に入ってみると、同級生らしき子が何人もいる。ここで間違いない。辺りをキョロキョロと見まわしてから、優真がなるべく目立たないようにと後ろの席へそっと座る。
提げてきたカバンを開けて、中からテキストとノートを取り出す。今日は算数だ。取り出したテキストとノートはどちらも中々にくたびれていて、特にノートは使い古された感じがありありと伝わってくる。普段から頻繁に閉じたり開いたりして、何度も予習復習を繰り返しているのだろう。勉強熱心なこった、と優真が肩をすくめつつ、小夏がノートにどんなことを書いているのか、ページを開いてちょっと見てみようとする――。
まさに、その時だった。
「いよっす、こなっちゃん」
「わっ!? ひ、東原……?」
横から急に声をかけられてビックリしたためか、優真が素っ頓狂な裏返った声を上げる。席に着こうとしているのは、クラスメートの女子・東原だった。優真としての面識は単に「顔と名前を知っている」レベルだったのだが、小夏とは教室でもしばしばおしゃべりをしているのを見かけていた。まさか、こいつも同じ塾に通ってたなんて。優真は驚きを隠しきれない。
「東原……?」
「あ……東原、さん」
「どったの? こなっちゃん、なんか悪いものでも食べた?」
苗字で呼ばれたせいか、それとも単に小夏の様子がおかしいと感じたのか。東原さんが怪訝な顔をして見せる。やばい、どうやら呼び名があっていないらしい。しかし下の名前が出てこない。お前は誰だ? 君の名は? 優真の頭は止まったまま動かない。
だが、ここで天が優真に味方をする。東原さんの持っているカバンには名札が付いていて、そこにしっかりとフルネームが書かれていたのだ。さりげなく視線をそちらに向けると、カードには「東原 毬」と書かれている。毬、毬だ。こいつの下の名前は毬だった、と優真が自分の記憶を掘り出すことに成功する。苗字でないなら名前で呼んでいるはず、優真が思い切って口を開いた。
「い……いやいやいや! そんなことないよ、まりちゃん!」
「でしょ? 普段は『まりちゃん』でしょ? 『東原さん』じゃなくて。どうしちゃったのって思うって」
正解だったようだ。毬が小夏への不信感を払拭して、いつものように気楽におしゃべりを始める。
「夏休み始まったけど、塾にお祭りの練習に、全然休みって感じしないなぁ」
「その……ほら、宿題もあるしね、学校も塾も」
「それそれ! ホントにさぁ、おまけにお姉ちゃんは相変わらず朝弱いし、起こしに行く身にもなってほしいよ」
「毎日大変だね、まりちゃん」
「遅くまで組紐作ったりして大変なのも分かるけど、朝練くらい自分で行ってほしいなぁ」
優真は注意深く耳を傾けつつ、あくまで無難な応答に終始する。幸い毬は自分の話をするのが好きなようで、優真の応答に疑問を抱く様子はない。
(お祭りの練習? 組紐? 東原はいったい何の話をしてんだ?)
内容によく分からない点がいくつもあったが、たぶんいつもの小夏なら全部知っていてうまく受け答えしているに違いない。なんとなく知ってる風を装いながら、優真は毬に喋らせるに任せた。毬が話をしてこちらが相槌を打つ分には、ボロが出ることも少ないと考えたからだ。
口で会話のキャッチボールをしつつ、優真は毬について知っていることを思い出してみる。小夏と違ってちょっと気が強いタイプで、掃除をさぼっている男子を見つけたら「ちょっと男子ぃ」とか言いそうな感じのする女子だ。実際に言っているところを見たことがあるような気もする。海の近くにある優真や小夏の家からは幾分離れた山間で暮らしていて、聞くところによると家はかなり大きいらしい。会ったことはないが姉がいて、顔もよく似ているとか。思い出せるのは、これくらいだ。
わずかな時間で残っている自分の記憶を整理しつつ、こうして毬と話をしていた優真だったが、そこへ別の知り合いが教室に入ってくるのが見えて。
(あいつは……山手か)
しゅっとした少し背の高い男子生徒。確か「山手」と言ったはずだ。隣のクラスに在籍していて、直接話をする機会はなかったが、優真も顔と名前くらいは知っていた。スポーツ万能で整った顔立ち、おまけに勉強もできるとあって、女子からの人気がすこぶる高い。それでいて性格もひねくれたところがなく真っ直ぐだったから、男子の友達も大勢いた。いわゆる学校の人気者というわけだ。優真にとってみれば、勝っているのは水泳くらいで他は軒並み負けていたから、あまりいい気持ちはしなかったけれども。
山手の後姿をじーっと目で追っていたら、隣にいた毬が口元ににやりと笑みを浮かべて、小夏……いや、優真の肩をポンポン叩いてきた。
「こなっちゃんったら、また目が山手の方向いちゃってる」
「えっ? あ、いや……」
「もう、ごまかさなくたっていーの。うちはこなっちゃんのこと応援してるから、せいぜいがんばってよね」
ちょっと待て、毬は何を応援しているのか。自分は何をがんばれというのか。優真は事情をさっぱり飲み込めないまま、毬はさっさと別の話を始めてしまう。
「それでさ、こなっちゃん。うちね、この間アニメの映画観たの。おばあちゃんと二人で」
「えっと……映画? それってどんな映画?」
優真は毬のペースについていくのがやっとだったものの、逆に言えば毬に合わせていれば自分から話す必要はなかったから、ボロを出す心配もあまりせずに済んだ。口はちょっとばかり忙しくはなるものの、毬と隣同士で良かったかもしれない。
「ええっと、まずね、高校生の男子と女子が出てくるわけ」
「恋愛の映画?」
「まぁそんなとこ。で、男子は都会で、女子は榁みたいな田舎で暮らしてると。海は出てこないけどね」
「へぇ、田舎に住んでるんだ」
「そうそう。女子は神社で巫女さんをやってて、妹もいるのよね。うちみたいな感じの」
「まりちゃんそっくりの?」
「ホントにさぁ、あんまり似すぎてて笑っちゃったもん。お姉ちゃんがいるとこまでそっくりなんだから」
「珍しいこともあるんだね」
「でしょ? それでそれで、遠く離れて暮らす二人が不思議な夢を見るわけ」
「夢?」
「最初は普通の夢だって思ってたんだけど、そうじゃなかった。二人はね、夢の中で――」
次の瞬間、毬の口から爆弾が飛び出した。
「――心が入れ替わってた! って展開なのよ」
毬の言葉に、優真が口をあんぐり開けてこの世の終わりみたいな顔をした。この発言は爆弾過ぎた。爆弾をゼロ距離で爆発させられたくらいの威力があった。優真の平常心を跡形もなく吹っ飛ばしてしまうパワーを秘めていた。こいつはいきなり何を言っているのか、まさか全部バレていてわざとこんな話をしているのか、今この瞬間自分が小夏と入れ替わっていることを見抜いているのではないか。優真の脳がフリーズしてしまう。
「映画の前半終わりくらいで入れ替わってることに気付いて、『入れ替わってるー!?』から二人の関係が始まるのよ」
そんな事とはつゆ知らず、先日観たという映画の話を続ける毬。
「男子と女子は入れ替わったり元に戻ったりを繰り返して日常生活を送るんだけど、やっぱり初めのうちはうまくいかなくてさー、相手の顔に『ばか』とか書いたりするんだよね。これがもう笑っちゃって笑っちゃって……って、こなっちゃん? こなっちゃん?」
ノンストップで喋っていた毬だったが、ここで小夏が機能停止していることに気が付いた。目の前で手の平をひらひら振って、一体どうしたのかとしきりに呼びかける。固まっていた優真は毬の話が中断されたことに気付き、ハッと脳を再起動する。
「あれ? はい? まりちゃん?」
「こなっちゃんホント大丈夫? 空から星が落ちてきたみたいな顔してたけど」
「あ、うん……へ、平気平気、大丈夫、大丈夫……」
明らかに平気でもないし大丈夫でもなさそうだったが、優真がどうにか場を取り繕う。だが、今度ばかりは毬の懸念を取り除ききることはできなかったようで、隣からじーっと見つめられているのを感じる。これは、よろしくない。なるべく毬と目を合わせないようにしつつ、体を小さく縮こまらせる。時間よ早く過ぎてくれ、優真はただそう願うしかなかった。
進退窮まっていた優真だったが、ここで教室に先生が入ってくるのが見えた。算数を教えているのは女性の先生のようだ。ナイスタイミングだ。毬も姿勢を正して前を向くのが見えた。冷や汗を手のひらで拭い、優真が前方に立つ先生を見やる。
「はい、みなさんこんばんは。それでは、本日の授業を始めます」
はい、と生徒たちの元気な声が飛んだ。
『キノガッサが「タネマシンガン」をくり出して、それぞれ二回・五回・四回・二回・二回、相手に当たりました。一度の「タネマシンガン」が相手に当たる平均は何回ですか』
先生が開くように指示したテキストのページには、こんな問題文が書かれている。三分間の時間が与えられ、これを各々が解く……というものだったのだが。
(やっべぇ……全然意味分かんねぇ……)
こんな問題は見たことも聞いたこともない、というのが優真の本音だった。そもそも「平均」なんて概念を今ここで初めて知ったと言ってもいい。一体何をどう考えればいいのか、優真には皆目見当もつかなかった。
そして、運の悪い状況は続く。
「では、皆口さん。答えを発表してください」
よりにもよって、自分が指名されてしまった。恐る恐る立ち上がるものの、何も言葉が出てこない。気が動転して、頭が真っ白になってしまっている。心なしか頭痛もしてきた。これは本格的にまずい状況と言えた。黙ったままの小夏を先生も不思議に思ったのか、「皆口さん?」と呼びかけて来る。きっと普段ならすらすらと答えを言うことができていたのだろう。が、今の小夏は優真だ。どうしても答えることができなかった。
「わ……分かりません」
ようやく絞り出したのは、降参の言葉だった。これには先生も他の生徒たちも意外だったようで、教室が少しざわついている。
「皆口さん、どうしちゃったの?」
「なんか、小夏ちゃんらしくないね」
口々に言う同級生たちに冷や汗をかきながらも、優真は何も答えることができずにいた。
「宿題はきちんとできてるのに、皆口さん、どうしちゃったのかしら」
「そ、それは……」
まさか、今の自分は小夏ではない――なんてことは、口が裂けても言えない。ついでにこの状況では、言ったところで信じてもらうことも難しいだろう。優真はすっかり俯いて、ぼそぼそと消え入りそうな声で応える。
「ど、ドわすれ、しちゃって……」
「皆口さんったら、ポケモンじゃないんだから」
先生のツッコミに、教室にいた生徒たちのほとんどがドッと笑った。これはツライ、優真は改めて、自分の置かれている状況を認識する。
「いいわ、皆口さん。ちょっと疲れてるみたいだし、先生が解説するわね。分からないところがあったら、後でいくらでも質問してちょうだいね」
「は、はい……すいません……」
まずい。その言葉以外は何も出てこなかった。こんな有様でテストなんて受けようものなら、見事なまでに玉砕してしまうだろう。やばいことになったとは思っていたが、実際に経験してみると優真が想像していた以上のものがあった。
(小夏に何とかしてもらわないと)
頼みの綱は、自分の中に入っている小夏だけ。明日会ったときに、聞けることは全部聞いておかなければ。優真はキュッと目を閉じて、そう考えるばかりだった。
優真は気付いていない。自分のことでいっぱいいっぱいで、まだ気付いていない。
「……」
隣の席に座る少女が、笑う周囲をよそににこりともせず、己のことをじっと射抜くように見つめ続けていることに。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。