さてさて優真が学習塾で悪戦苦闘している頃、小夏もスイミングスクールへやってきていた。優真から言われた通りバスに乗って南まで移動し、最寄りの駅へ降り立つ。さすがに小夏だってバスに乗ったことくらいはあるから、ここまでは特に問題はなかった。
本当の問題は、ここからだ。小夏がごくんと息を呑んでから、目の前に建っているそれを見上げる。
(うわぁ、ポケモンジムってやっぱりすごいよ……)
優真の通っているスイミングスクールは、榁におけるポケモンジムの内部に併設された大きな室内プールを練習場所にしている。入口は一本化されているから、必然的に挑戦に訪れたポケモントレーナーや所属するジムトレーナーたちとすれ違うことになる。傍らに強そうなポケモンを連れた彼らに目を奪われながら、小夏はバッグを手に提げて恐る恐る中へ入っていく。
「さ、ハワード。うちに帰って、真理佳ちんの新曲、たっぷり聴くでー! 目指すは100ループや!」
小夏のすぐ横を、コジョンドを連れたジムトレーナーが通り過ぎていく。ハワード、と呼ばれたコジョンドは深く頷いて、静都ことばで話すトレーナーのすぐ隣に付き従いながら、足並みをそろえて歩いていく。
ジムの内部はかなり広大でたくさんの施設があった。どこへ行くべきか迷う小夏だったが、幸い同い年くらいでプールバッグを提げた二人組の男子が奥に向かって歩いていくのが見えた。彼らについていこう、小夏は気付かれない程度に距離を開けながら二人の後を追いかけて、間もなく男子更衣室を見つけることができた。奥は室内プールに直結している。ここで間違いないだろう。
着替えなきゃ。そう考えた小夏が、持ってきたバッグをロッカーへ入れておもむろにシャツを脱ぐ。ここは男子更衣室だから、もちろん周りには男子しかいない。そして今の小夏は優真の体を借りているから、どこからどう見ても男子だ。だから男子更衣室で着替えるのは何ら間違っていなかった。されど心は他でもない小夏、内面は紛れもない女子だ。顔がぽかぽかと熱くなってくる感触を、どうしても抑えることができない。
(わたし、本当は女の子なのに)
もやもやする気持ちを抱えて、小夏は短パンをすとんと床へ下ろす。周囲を怖々見回しながら下着も脱いで、出しておいた水着に穿き替える。言うまでもなく、これも男子用のものだ。普段自分が身に付けている女子用の水着とは形が明らかに違う。端的に言えば、面積がとても小さい。上半身に至っては素っ裸だ。大いに戸惑いながら、小夏はなんとか水着を身に付けた。更衣室にあった鏡で自分の姿を見てみると、やはりそこには優真の姿がある。自分とはとても思えなくて、でも何度目を開いて確かめてみてもやっぱり自分で。小夏は胸がきゅうと締め付けられる思いがした。他の子に倣って水泳キャップとゴーグルを手にして、室内プール場へ向かう。
その途中、小夏は小さく体が震えるのを感じた。小さかった違和感がじわじわと広がって、瞬く間に無視できないほど大きくなる。
(そうだ……わたし、まだ一度もお手洗い行ってなかったよ)
おしっこをしたいという気持ち。ええっと、確か尿意と言ったような気がする。なぜだかそんなことをすぐさま思い浮かべた小夏だったけれど、トイレに行きたいという状況は何も変わらなかった。家で何度か麦茶を飲んだからだろうか、そうこうしているうちにのっぴきならない感じにまでおしっこが溜まっていくのを感じて、小夏が顔を赤くしながらトイレを探す。幸いなことに、シャワールームの前にトイレが備え付けられていた。
(男子トイレ、だよね……今のわたしが入るのって)
普段なら迷わず右手の女子トイレに入るだろうけれども、今の小夏は男子の優真だ。左手にある男子トイレに恐る恐る入っていく。幸いというか何というか、中には誰もいない。個室も空いている。少しでも誰かに見られたくない気持ちが強くて、小夏は一番奥の個室へ飛び込む。結構シャレにならないくらい尿意が強くなっていた小夏が、穿いたばかりの男子用水着をぐっと下ろした。
その時目にしたもの――女の子には決して存在しないもののために、小夏はまた、今の自分が「男の子」だということを嫌と言うほど強く自覚させられて。
(……っ!)
和式便器を跨いでから屈み込んで、目を全力でギュッと閉じたまま、必死の形相で用を足す。認めたくない、信じたくない、でもわたしは今男の子なんだ。お腹の下から伝わる感覚が、小夏に容赦なく襲い掛かる。目元にうっすら涙を浮かべて、小夏はすべてが終わるまで一度も目を開かなかった。自分の目で見ることなんてできっこない、見ればそれが現実だと思い知らされて、心が押しつぶされてしまいそうになるから。
やることをやり終わってから、涙目でやけっぱちになりながら後始末をして、いろいろなものがない交ぜのぐちゃぐちゃになって抑えきれない気持ちをぶつけるように水洗ノズルを思いきり踏みつけて、何もかも水に流したのだった。
(こんなのもう嫌だよ。わたし、女の子なのに……)
情けなさが極まってしばらく立ち直れずに、小夏は個室で一人涙に暮れる。だが悲しいかな、どれだけ泣いたところで、今の自分が優真の体を借りていることは変わらない、変えようがない。そろそろ練習が始まってしまう、行かないとみんなが心配する。乱暴に涙を拭って、顔を流水で洗ってから、小夏がよろよろと個室から出ていった。
どうにか気持ちを抑え込んでから、小夏はプールサイドまで向かう。今は年少組がプールを使っていて、小夏たちの組の練習が始まるまでにはまだ時間がある。他の子たちはプールサイドに置かれたベンチのようなものに座っていたから、小夏はちょっと距離を置いて同じように座る。このまま静かにしていよう――と、小夏は考えていたのだが。
「あっ、川村くーん!」
「ふぇっ!?」
いきなり声をかけられる。川村、ということは優真、すなわち自分だ。何事か何事か、と小夏がキョロキョロしていると、プールサイドを歩いてくる競泳水着姿の少女が。もしやあの人か、と小夏が思わず目をみはった。近付いてくる少女は自分より年上で、高校生くらいの人に見える。が、小夏はまったく面識がなかった。優真とは何かつながりがあったのかも知れないが、小夏にとっては見ず知らずの赤の他人だった。そのまま小夏の隣までやってきて座ると、じっと瞳を覗き込んでくる。
「川村くん? 川村くーん?」
ぽかんとしている優真の姿をした小夏の前で、お姉さんが手のひらをひらひら振って見せる。何か返事をしないと、とは思っているものの、何分相手の名前も分からないのではどうしようもない。
「私だよ、沙絵ちゃんだよー」
「ええっと……沙絵さん」
「おっ、川村くんやっと返事してくれたね。うんうん、私だよ、沙絵だよ」
と、ここで自分から名乗ってくれた。この機を逃すまいと、小夏がその名前を復唱する。どうやらこの人は「沙絵」さんと言うらしい。相変わらず優真とはどんな関係なのかさっぱり分からないが、さし当たり不自然には思われなかったようだ。小夏の返答を受けてうなずいた沙絵が、そちらの方にもう少し体を寄せる。
「先生が復帰してよかったね。川村くん、練習してる時いつもイキイキしてるから」
「あ、はい」
「私も年少さんのお手伝いしてるけど、みんなすごく元気だね。見てて楽しくなっちゃうよ」
どうやらこの沙絵というお姉さん、インストラクターのアルバイトをしているらしい。見ると水着にはポケモンジムのロゴマークが入っている。年少組が今ちょうど全員出て行ったから、沙絵さんはフリーになった、そんなところだろう。
「川村くんは夏休みの宿題、ちゃんとやってる?」
「ええ、まあ、やってます」
「早めに手を付けるのがいいんだよね。私もやってるけど、難しい問題が多くて頭痛くなっちゃう。高校生もラクじゃないね」
沙絵は相手の目をよく見て話をするタイプのようだ。自分が喋るのが好きな相手なら好きなように話をさせておくだけでよかったが、沙絵のように相手のペースに合わせてくる場合はきちんと受け答えをしなければならない、小夏は神経を張りつめさせながら、気楽に話す沙絵にペースを合わせることに集中する。
「もうあと一ヶ月もしないうちに、水泳大会だね」
「はっ、はい」
「あははっ、もう緊張しちゃってる。川村くんなら、全力を出せばきっと大丈夫だよ。私やハルも応援に行くからね。もちろん、お姉ちゃんも」
優真を応援するために、姉妹総出で応援に来てくれるらしい。その心遣いが伝わってきて、伝わりすぎてきて、溢れんばかりの勢いで伝わりまくってきて、肩をポンと叩かれた小夏はますます緊張してしまうのであった。
小夏がカッチカチに固まっていることはまるで気付く様子もなく、沙絵がふっと別の話題を口に出す。
「今日は帰ったら楽しみだなぁ、映画観るの」
「映画?」
「そ。ハルが簡単なあらすじを教えてくれて、面白そうだしみんなで観ようってなったの。で、お昼のうちに駅前のツタヤで探してきたってわけ」
帰宅してから観たい映画があるという沙絵。どうやら水泳からはちょっと離れたようだ。小夏が少し息を抜いて、沙絵の話に耳を傾ける。
「ハルが言ってたんだけど、中学生の男子と女子が主人公なんだって」
「中学生の人が」
「うん。それでね、男子のクラスに女子の子が転校してくるんだけど、その子は昔の幼なじみだったの」
「へぇー」
「気になる展開でしょ? でも、幼なじみって言ってもだいぶ間も空いちゃってるし、すぐに仲良くなるわけじゃないと」
「まあ、普通はそうですよね」
「うんうん。だけどふとした弾みで、二人で一緒に神社の石段から転げ落ちちゃう。ちょうど、北の方にある星宮神社みたいな」
「ええっと確か、星の神様とかを祀ってる……」
「おおっ、よく知ってるね。あそこそっくりの神社だよ。で、幸い大きなケガもなくてどっちも無事だったんだけど、実はその時に――」
ここまで比較的のんびり話を聞いていた小夏、だったが。
「――心が入れ替わってた! って展開なんだよ、これが!」
沙絵が何気なく口にした言葉が、小夏の平常心をこっぱみじんに粉砕した。世界の終末をこの目で見たかのようなすさまじい形相で、なおも楽しそうに話をする沙絵を呆然と見つめている。この人は一体何を言っているのか、もしかして自分の中身が優真ではないことを見抜いていてこんな話をしているんじゃないか、全部バレてしまっているんじゃないか、小夏の脳がフリーズしてしまう。
「で、どうにか周囲にばれない様に、男子は女子の、女子は男子のふりをするんだって。どんなお話になるのかすっごく楽しみ……あれ?」
口をあんぐり開けて硬直していた優真の姿を見て、沙絵が目をパチパチさせる。本日二度目の手のひらサインで、どこかに飛んで行ってしまった意識を引き戻そうとする。
「おーい、川村くん? 川村くーん?」
「……はっ」
あまりのことに完全停止してしまっていた小夏だったが、沙絵の呼びかけを受けて再び動き出した。沙絵が心配そうな目を向けている様子を目にして、ぶんぶんと首を振ってどうにかこうにか平静を装う。まったく装えていなかったとは言え。
「ちょっと川村くん、大丈夫? なんかこう、瞳孔開いてたようにも見えたけど」
「あ、だっ、大丈夫、大丈夫です、わた、俺……」
一人称もまともに言えなくなった小夏。まずいと思ってもうまく頭が働かないし口も回らない。どうしようどうしよう、と焦る気持ちばかりが募っていったが、ここでこの流れを断ち切る出来事が起きて。
「よーし、そろそろ練習を始めるぞー。小一原、準備運動頼む」
「はいっ」
スイミングスクールの先生が、プールサイドに姿を現したのだ。すいません、行きます、と沙絵に断わって、小夏が逃げるようにその場を後にする。沙絵はまだ心配そうな顔をしながら、心なしか歩幅を狭くして内また気味に駆けていく優真の背中を目で追っていた。
準備運動を済ませたところで、いよいよプールへ入る段になった。言うまでもなく小夏も中で泳ぐわけなのだが、その心は凪がない海のように大きく荒れていて。
(い、いきなりクロールで25メートル!? バタ足とかじゃなくて!?)
初っ端からクロールで端から端まで泳ぐと聞いて、足が完全にすくんでしまう。今の体は泳ぎの得意な優真のものとはいえ、小夏にはそれをうまく使うための技術も感覚もなかった。単純にいつもよりちょっと体力があるだけの、ずぶの素人に過ぎない。
前の子たちがプールに入って次々に泳いでいく。みんな優真に負けず劣らず力強い泳ぎを見せていて、泳ぎ切るのもあっという間だ。そうこうしている内に、小夏の番が回ってきてしまった。意を決して、小夏が入水する。
だが、ここで小夏の目が見開かれて。
(わたし……また、溺れちゃうんじゃ……)
顔を水に浸けようとしたが、体が言うことを聞いてくれない。小夏の脳裏をよぎっていたのは、他でもない、昨日海で起きた事故のことだ。優真とのキスやフィオネの誕生、入れ替わったことのドタバタでここまでずっとごまかされ続けていたが、いざ体を水中に預けてみると恐怖が鮮明に蘇ってきてしまった。足に鈍い痛みを感じたこと、自由の効かない水中でもがいたこと、息が苦しくなってやがて意識を失ったこと。そのすべてが、小夏へ一気に襲い掛かる。
青ざめた顔をして固まっていた優真を見た先生が、あまり間を置かず駆け寄ってきた。普段の優真ならまず見せない様子に、異様なものを感じ取ったようだ。
「川村、大丈夫か? 顔色がよくないぞ、唇が真っ青じゃないか」
小夏の頭は真っ白になっていた。何をしようとしても体が言うことを聞かずに、ただただ水中に潜ることを拒否し続けている。完全に気が動転してしまって、普段できることさえできなくなってしまっている。その様子が先生にも伝わったようで、急かしたりすることなく純粋に心配してくれていた。
体を震わせて、声を詰まらせて。小夏は置かれている状況を必死に認識して、死に物狂いで声を絞り出した。
「ご……ごめんなさい。泳げる、気がしなくて……」
「こりゃ重症だな。悪いが、隣のレーンに移っててくれ。後で話を聞こう」
何が起きたのかと、先に泳ぎ切った同級生たちが優真と先生の元へ集まってくる。突然のことに皆戸惑ってしまって、お互い顔を見合わせるばかりだ。先生は側に控えていた別のインストラクターへ他の子たちの指導を引き継ぐと、隣へ移った優真の側まで駆け寄った。
「川村、一体どうしたんだ。どこか、具合でも悪いのか」
「えっと、あの……そうじゃないんですけど……」
「体調は問題ないとすると……やはり気の持ちようか。もしかして、大会が近付いてきてるからか?」
それはあくまで理由の一つに過ぎなかった。だが紛れもなく、今こうして顔を青くしている要因の一つではあったから、小夏は素直にうなずいた。
「そうかそうか、緊張して勝手がわからなくなったんだ。大丈夫だ、川村。焦らなくていいぞ。こういうことは誰にでもあるんだ」
「先生……」
「大会が近付いてきて、気持ちがはやるのは分かる。それに体が追いつかないこともな」
小夏は優しい先生の言葉にただ首を縦に振るばかりで、心のざわめきを収める術を見つけることができずにいて。
「自分を追い込みすぎて体が動かない、先生にも経験はある。川村は責任感が強いからな、絶対優勝しなきゃいけない、そう思ってるんだろう」
「もちろん、目標を達成するためには自分に厳しくなることが必要だ。成果を出すためにも、妥協はいけない」
「とは言っても、このままじゃよくないのも事実だ。でも心配するなよ、先生が大会までにしっかり自信を取り戻させてやる。大船に乗ったつもりでいてくれよ」
まずい。その言葉以外は何も出てこなかった。こんな酷い状態で大会に出場なんてしようものなら、見事なまでに玉砕してしまうだろう。まずいことになったとは思っていた、思っていたが、実際に経験してみると小夏が想像していた以上のものがあった。
(優真くんに何とかしてもらわないと)
頼みの綱は、自分の中に入っている優真だけ。明日会ったときに、してもらえることは全部してもらわなければ。小夏は大きく息をついて、そう考えるばかりだった。
小夏は気付いていない。自分のことでいっぱいいっぱいで、まだ気付いていない。
「……」
遠くのベンチに座る年長の少女が、不安を湛えた目を向けて、じっと視線を送り続けていることに。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。