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#11 お母さんの言葉

「あぁー……死ぬかと思った……」

やっとのことで二時間の講習を乗り切って――山ほど宿題を出されたけれど――、優真が塾のあるビルからよろよろとよろめきながら出て来る。こんな場所に小夏は週に何度も通っている、しかも学校の授業や宿題も完璧にこなしたうえで、だ。つくづくとんでもないとしか言いようがない。ホントに相性の悪いやつと入れ替わってしまった、優真は心からそう思うばかりだ。

出てきた小夏を迎えたのは、来た時と同じ位置に待機していた母の自動車だった。手を上げて合図をしてから助手席へ乗り込むと、母がさっと車を発進させる。怒涛の一日が間もなく終わろうとしているのを感じた。優真がそっと肩の力を抜く。

「家に帰ったら夕飯にするわ。準備は済ませてあるから、すぐに食べられるわよ」

「うん。お母さん、ありがとう」

ホッと一息つく優真。あとは母親に任せておけば、このまま何事もなく小夏の家まで帰れる――。

「それでね、なっちゃん。ちょっとお話があるんだけど、いいかしら」

――と、思ったのも束の間。少々かしこまった様子で、小夏のお母さんが話を切り出してきた。思い当たる点のいっぱいあった優真は、身を固くして次の言葉を待つ。

「今朝のことだけど、家の中でポケモンの鳴き声が聞こえたの」

「ぽ、ポケモンの声……」

小夏のお母さんが指しているのが大泣きしたフィオネであると、優真は即座に思い至った。とっさに「ゲームの音だ」と言ってごまかしたつもりだったが、どうやらそちらは自分と小夏が同時に発した「入れ替わってるーーーーーっ!」に掛かったらしい。フィオネの声まではごまかしきれていなかったわけだ。

「さっき部屋をお掃除していたら、タマゴの殻を見つけたわ。それも普通のとは違う、海みたいに青い色の」

「タマゴ……あっ」

「もしかしてなっちゃん、海でタマゴを拾ったりしたの?」

「えっと、それは……」

「だとするとあの声は……たぶん、フィオネじゃないかしら。昔、近くの海で聞いた覚えがあるわ」

恐ろしいことに、小夏のお母さんは何から何まで見抜いていた。タマゴの殻を見ただけでここまで分かってしまうのだから、優真としては嘘をつく余地がほとんどなかった。あくまで穏やかな調子の母親とは対照的に、優真はもう気が気ではない。ここは素直になるべきだ、そう判断する。

「ご……ごめん、お母さん。昨日、海に行ったときに、優真くんと二人でフィオネのタマゴを見つけて、部屋に持って帰ってたの」

「やっぱり、そういうことだったの。だから今日、朝早くから川村くんが家に遊びに来たのね。珍しいと思ったわ」

さすがに夢の話や心が入れ替わったことは口に出さなかったものの、海でタマゴを見つけたということは認めた。本当は海ではなく夢の中で見つけたというのが正しいのだが、その発端となったのは間違いなく海での出来事だったから、嘘にはならないはずだ。

砂浜に流れ着いてて、放っておくのも忍びないからこっそり持って帰ってきた、そんなところかしら。お母さんは車を運転しながら、小夏に静かに語り掛けている。優真はただ黙ったままうなずくばかりだ。それはいいとして、ここから何と言われるかが気がかりだった。海へ帰してきなさい、とか、どこかへ放してきなさい、とか、そういう風に言われて家にフィオネを置いておけない可能性は大いにあった。

もしそう言われてしまえば、自分と小夏はフィオネを一体どうすれば……握った拳に冷たい汗を滲ませて、母の表情をうかがっていた優真だった――が。

「フィオネのこと、なっちゃんと川村くんの二人でお世話してあげるんでしょう?」

「……えっ」

お母さんの口から紡がれて出てきたのは、なんとも意外な言葉だった。

「なっちゃんは、独りぼっちで流れ着いたフィオネのことを助けてあげたかったのよね。素敵なことじゃない。お母さん、ちょっと嬉しくなっちゃった」

「お母さん……」

「あいにく、お母さんはお仕事があってあまりヘルプしてあげられないけれど、家にいさせてあげるのは構わないわ」

「じゃあ、これからも……」

「ええ。家にあるものは自由に使っていいから、フィオネのこと、お世話してあげてちょうだい。なっちゃんにとってもいい練習になるはずだわ」

フィオネの来訪を歓迎して、できる限りのサポートをすると言ってくれた。なんだか家族が増えたみたい、そう言うお母さんはどこか嬉しそうですらある。優真は先ほどとはうって変わって目をまん丸くして、小夏の母をまじまじと見つめている。その柔らかな顔つきは、優しい自分の母を思わせるものがあった。

「家にはいなかったから、今日は川村くんのところで預かってもらってるのかしら?」

「うん。交代で面倒見ようって、二人で話したよ」

「素晴らしいわ。一人で抱え込まずに、誰かと協力し合う。いい心がけよ、なっちゃん。偉いじゃない」

そう口にする小夏のお母さんの声は、普段よりも弾んでいて。

「そうだわ、いいこと思いついた」

「いいこと?」

「自由研究よ。なっちゃんは自由研究のお題を探してたでしょう? それなら、フィオネの成長日記を自由研究にすればいいんじゃないかしら」

あっ、と優真が口に手を当てる。そういえば、夏休みの宿題の中に自由研究があった。小夏はそのことをお母さんに相談していたらしい。フィオネの様子を記録して日記を作れば、確かに結構いい感じの自由研究になりそうだ。少なくとも、何もしないよりはずっといい。

それにしても、小夏と違って意外とノリのいいお母さんだ。フィオネの面倒を見ることをすんなりOKしたのも、いっそのことそれを自由研究にしちゃえばいいというのも、なかなかすんなり言えることではない。小夏のことを信頼しているんだろうな、優真は心の中でそんな風に思っていた。

「でもね、なっちゃん。これだけは約束して」

ここで再び調子を改めて、お母さんが小夏の見た目をした優真に呼び掛ける。

「ポケモンはね、意志を持った立派な生き物よ。それは生まれたばかりであっても同じ、変わらないわ」

「決して、なっちゃんや川村くんの持ち物じゃないし、おもちゃやアクセサリーでもないの」

「その事を忘れずに――大切に、愛情をもって、フィオネのこと、立派に育ててあげてちょうだいね」

さあ、帰って夕飯の支度をしなきゃね。そう呟く母の姿を、優真が正面から捉える。

この人は、やっぱり小夏の母親だ――真面目なところも、責任感の強いところもよく似ている。本当に、そっくりだ。優真が考えを改める。

(……こっちの母さんの期待も裏切りたくないよな、やっぱり)

窓の外を流れゆく夜景を横目に見ながら、優真がそう決意を新たにするのだった。

 

さて、そうして小夏の家に帰ってきた優真。夕飯を済ませてからリビングでぼーっとしていたところに、お母さんが声をかけてきた。

「なっちゃん、お風呂が沸いたわ。お母さんちょっと外にゴミを捨てて来るから、先に入っててくれる?」

「あっ、はぁい」

お風呂に入ってきてほしいとのこと。優真はすぐに返事をすると、バスタオルを持って洗面所に向かう。自分の家とは勝手が違って何か落ち着かない。ちょっとばかり手間取ってバスルームを見つけると、いそいそと服を脱いで洗濯カゴへ入れていく。下着まで含めてすべて脱いでしまうと、優真はドアを開けて浴室に入った。

真正面に全身を映し出す大きな鏡があることに気が付いたのは、中に入ってすぐのことで。

「……小夏の、体……」

何も身に着けていない素っ裸の小夏――いや、自分自身といきなり対面してしまって、優真は大いに戸惑う。思わずサッと目を伏せると、鏡を見ないようにしながらシャワーを手に取り、小刻みに震える手でお湯を出す。

「あちっ」

出てきたお湯がやたら熱くなっていた事に気付いて慌てて温度を下げる。立ち込める湯気の中で、再び鏡の中の自分、すなわち小夏と目が合う。どこからどう見ても小夏そのもので、普段自分が見ている小夏がそこには存在していて。けれど自分が動くと、鏡の向こうにいる小夏もまた同じように動く。自分とまったく違わない動きをする小夏を見ていると、だんだん、だんだん、自分が小夏なのだという実感が強くなってきてしまう。

シャワーがすっかり適温になったことに気付いて、優真は心にもやもやしたものを抱えながら体を洗う。手のひら、腕、首筋、お腹から脚に至るまで、お湯で温めていく。全身がすっかり熱気と水気を帯びたところで、タオルを手にして石鹸を泡立てた。泡の付いたタオルを手にした優真が自分の体を目にして、思わずその動きを止める。

(俺、小夏の体を洗ってるんだ)

どこからどう見たって、女子そのものの、小夏そのものの体。いつものように雑に洗うようなことをすれば、簡単に傷付いてしまいそう。丁寧に洗わなければ、優真はごくりと唾を飲み込むと、恐る恐る体を洗っていく。胸を洗うときは自然と目が天井を向いてしまって、まるで直視できなかった。

そして、タオルを持った手がお腹の下辺りまで来たところで、優真はもうたまらずその目をぎゅっと閉じた。とても見ていられない、見てしまえばそれだけで小夏を傷付けてしまいそうな気がした。他人に、それも仲が良いとは言えない自分に体を、それも決して見られたくないような場所に触れられているなんて、小夏にしてみれば苦痛以外の何者でもあるまい。優真はわんぱくな反面硬派でもあったから、自分が好奇心で小夏の体をもてあそぶなんて事は文字通り天地がひっくり返ったって考えもしなかった。カケラも考えるはずなんてない。優真にだってそれくらいの分別はしっかりついていた、わきまえるところはしっかりわきまえるのが優真なのだ。

とても深い罪悪感を覚えながら、優真が小夏の体を隅々まで綺麗にする。せめて清潔さだけは保っておかなければ、今の優真にできることはそれくらいしかなかった。

(こんなのさっさと終わってくれなきゃ、身が持たねえよ)

身体にいっぱい付いた泡をシャワーで洗い流す優真の表情は――憂鬱、そのものだった。

 

 

「はぁー……もうくたくただよぉ……」

全身くたくたのへとへとになった小夏がなんとかスイミングスクールを乗り切って――とは言っても、実際にはバタ足をしたり体を浮かせたりで、基礎の基礎の練習をしていただけだけど――、バスに乗ってどうにか家まで帰ってきた。ドアを開けて中に入ると、向こうから誰かが歩いてくるのが見えた。

(優真くんのお母さんだ)

小夏と優真の母親は互いに顔見知りだった。顔見知りというレベルではなく、親友同士だったのだ。子供同士はさておき、優真のお母さんと自分のお母さんは昔からの幼なじみで大変仲が良かった。しばしばお互いの家へ遊びに行っていて、小夏とも顔を合わせる機会が何度もあった。だから、出迎えてくれた優真の母親とも、あまり緊張せず対面することができた。

「おかえり、優真。今日もお疲れさま」

「うん。ただいま、母さん」

優真は「母さん」と呼んでいたはず、その事を思い出しつつ、優真らしい振る舞いをして見せる。母親は少しも疑問に感じていないようだった。靴を脱いでから、例によってきちんと直してから玄関を上がる。見ると優美は先に寝てしまったようだ。寝室で布団をかぶってすやすや寝息を立てている。

そしてその傍らには、タオルケットをかけられたフィオネも一緒に眠っていた。

(フィオネのこと、優真くんのお母さんに言わなきゃ)

この状況でフィオネが家にいることに気付いていないはずがない。なぜここにフィオネがいるのか、小夏は母親にきちんと説明しておく必要があると感じた。残しておいた夕飯を温める母の背中に、小夏がそっと近づく。

「母さん、えっと……」

「フィオネちゃんのこと?」

「うん。その、あいつを――」

追い出さないでやってほしい、心細いながらに勇気を出して、お母さんにそう言おうとした小夏だったけれど。

「優美から聞いたわ。お世話してあげるって。優しいわね、優真」

「母さん」

「お風呂とか、フィオネちゃんに使わせてあげていいからね。庭になってる木の実も食べさせてあげて、きっと喜ぶわ」

どうやら優美がうまい具合に事情を説明してくれたらしい。おかげで、優真の家で堂々とフィオネのお世話ができるようになった。この抜け目のなさはやっぱり優真くんに似ている。なんだかんだで兄妹なのだと思わずにはいられなかった。

「フィオネちゃんのこと、小夏ちゃんと一緒に見つけたんですって?」

「うん。小夏と交代しながら面倒見る、つもりなんだ」

「ええ、それがいいわ。一人だけで全部こなすのは大変だもの」

小夏がテーブルの椅子を引いて座ると、お母さんが出来立てのように湯気を立てるハンバーグと付け合わせの野菜の載ったお皿を前に置く。背中では、お味噌汁の入った鍋が火の付いたコンロにかけられている。

「せっかく小夏ちゃんがいるなら、二人一緒にいてあげる方が、フィオネにとってもいいはずよ」

寂しげに「小夏と一緒にフィオネの側にいてあげてほしい」と口にする母親の姿に、小夏は少しばかり違和感を覚えた。言っていることはしごく当然、小夏にとっても納得のいくものだったが、優真の母親が醸し出す悲しげな雰囲気に胸がざわつくのを覚えた。どうしてだろう、どうしてこんな顔をするのだろう、小夏の中で少しずつ疑問が膨らんでいく。

気になるところはあるものの、それよりお腹がぺこぺこになってしまった。温まったお味噌汁がテーブルに置かれたところで、用意してくれた夕飯を食べる。普段の小食気味の小夏からするとずいぶん分量が多かったけれど、優真の体は食べ物をいっぱい欲しがっていて、小夏は出されたものすべてをぺろりと平らげてしまった。食べ終えてからコップに注いだ麦茶を飲んで、ほう、と大きく息をつく。

「ごちそうさま、母さん。おいしかったよ」

小夏がそう言ってから、食器を取りまとめて流しまで持っていく。そのまま自然に洗い物を始めると、イスに座っていたお母さんが目をぱちぱちさせる。

「まあ、優真。洗い物してくれるの?」

「あ……う、うん。自分の食器だし、洗おうかなって」

「ありがとうね。お母さん嬉しいわ」

実はいつもの癖でやってしまったのだけど、お母さんは喜んでいるので結果オーライと言えよう。洗剤を少し垂らしたスポンジを泡立てて、食器を丁寧に洗っていく。優真が元に戻ったら食器を自分で洗うことになってしまうだろうけど、まあそれくらいは構わないだろう。小夏は心の中でぺろりと舌を出して、何食わぬ顔で食器洗いを済ませてしまった。

洗った食器を水ですすいで立て掛ける小夏。その背中から、優真のお母さんの柔らかな声が聞こえてくる。

「いい機会じゃない、優真」

「機会?」

「小夏ちゃんと仲良くなるための、よ。お母さんだってそれくらい知ってるわ」

はて、と小夏が心の中で首をかしげる。優真が自分と仲良くなりたいと思っている、果たしてそんなことがあり得るのだろうか。いやないだろう、顔を合わせればイタズラばかりしてくる優真に限ってそんなはずはあるまい。この間なんて歩いていた最中に本をパッと取られたし、ちょっと前にさかのぼると肩叩きからのほっぺツンツンもされた、もっと前には急いでいるのに通せん坊をされて、小さいころにはスカートめくりまでされて……と、過去にさかのぼって挙げていけばまるでキリがない。仲良くしたいなんて気持ちはちっとも伝わってこない。

わたしのお母さんと仲がいいからかな、小夏はそう考えた。自分たち同士の仲がいいから、子供たちにも仲良くしてもらいたい、と考えていてもおかしなところはない。けれども小夏は、誰と仲良くするかは自分で決めるからいいのに、とちょっと不満そう。少なくとも、優真と積極的に友達になりたいという気持ちはなかった。

今はその気持ちとは関係なしに、一心同体になってしまっているのだけれど。

「お母さんは仕事であまりフィオネちゃんのこと見られないけれど、小夏ちゃんに優美もいるわ。仲良く一緒に育ててあげてね」

優真くんのお母さんも働いてるんだ、自分の母親も仕事に出ていることを思いながら、小夏がそんな感想を抱く。今日はたまたま仕事が休みで、朝から買い物に出かけて行ったが、普段のお母さんは朝から夜までずっと仕事をしている。優真のお母さんがどこで働いているのかは分からなかったが、きっと自分のお母さんのように毎日忙しくしているに違いなかった。

と、優真になった小夏が、コップに注がれた麦茶を静かに飲むお母さんの目を見つめていたのだけれど。

「うぐ……けほっ、けほっ!」

「……! 母さん!?」

急に咳き込みはじめて、苦しそうな様子を見せた。小夏がすぐさま駆け寄って様子を見る。あまり具合は良くなさそうだ、小夏は内心不安を覚えながら、咳を繰り返す母親の背中を繰り返しそっとさすってやる。ちょっとでも楽になってくれれば、そう考えての行動だった。

「母さん、大丈夫?」

「ううっ……ごめんね優真。もう大丈夫、ちょっとね、お茶が器官に入っちゃって」

なんだ、そうだったのか、と小夏が拍子抜けする。何かものを飲むときに間違って変なところに入ってしまい、げほげほとせき込むと言うのは小夏も経験があったから、お母さんがどんな状況だったのかは容易に想像が付いた。落ち着いたのを見てから、優真が背中から手を放す。

「ありがとう。落ち着いたら、お風呂に入ってらっしゃい」

「分かった」

ちょうど自分もそう思っていたところだ。小夏は台所から出て、まっすぐお風呂場へ向かう。脱衣所の扉を閉めると、いそいそと服を脱ぎ始めた。

その背中を、お母さんは目で追っていて。

「……優真と優美に、もう少し楽をさせてあげたいけれど」

誰にも聞こえないような小さな声で、ひとり呟いたのだった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。