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#12 フリーキー・フライデー

明けて翌朝。小夏は優真の母親が出かけたのを見てから、フィオネを伴って自分の家にいる優真の元までやってきた。門扉に取り付けられたチャイムを鳴らすと、優真が出てきて応対する。自分の母親も仕事へ出たようだ。小夏が家へ上がり、そのまま部屋に向かう。

「さあ、早速始めるよ」

「はぁーあ、やる気出ねえなあ」

「出なくてもやるの! さっ、ノートを開いて」

目的はひとつ、優真に勉強を教えるためだ。気が進まない様子の優真を学習机に向かわせると、塾用のカバンからテキストとノートを素早く取り出して開いていく。

「優真くん。昨日はきっと、平均の応用をやったはずだよね」

「そうだけどさ、なんで分かるんだよ」

「事前に予習してたからだよ。講義を受ける前に勉強しておいたら、質問したいことを整理できるからね」

「教えてもらう前に勉強するって、それおかしくないか?」

「全然おかしくないよ。だって『予習』って言葉があるんだよ? 普通のことだと思うよ」

「そりゃあ、確かにそうだけどさ……」

予習なんて今まで一度もしたことが無かった優真にしてみれば、小夏の言っていることはまさに異世界・異次元のもののように聞こえてならなかった。小夏の方はごく当たり前のことのように感じているようで、温度差というものを感じずにはいられない。これからは自分がこんな感じで振る舞わなければならないのかと思うと、優真はげんなりしてしまうのだった。

ともかく勉強だ、と小夏の指導が始まる。昨日答えられずに撃沈してしまった箇所だ。小夏はしっかり内容を把握していて、優真に説明をしていく。

「平均の出し方は簡単だよ。全部足し合わせてから、足し合わせた回数で割るだけ」

「なんでその計算で平均が出るんだよ」

「一度すべての数を足して境目を無くす、ってことだよ。それから改めて割れば均等になる、分かるでしょ?」

「境目……? 境目っていったいなんだ?」

小夏の言葉一つ一つが飲み込めなくて、優真の顔に「?」マークがどんどん浮かんでいく。小夏の言っていることは決して間違いではなくむしろ正しかったのだが、残念ながら勉強に慣れていない優真にとってはいささかペースが速すぎた。一向に前進する気配のない優真に、小夏もさすがにちょっとイライラしている様子。自分ではよく分かっているだけに、理解できない優真にもどかしさを覚えてしまう。

「もう! いいから、わたしの言ったとおりにやってみてっ」

「いやいやいや、分からないのにできるわけないだろっ」

結局言い合いになってしまった。二人がドタバタする様子を、フィオネはふよふよ浮きながら楽しそうに見ている。まったく無邪気なものである。

「じゃあね、ちょっと木の実で考えてみてよ」

「木の実って、モモンの実とかか?」

「なんだっていいよ。例えばモモンの実が三つのバスケットに八個・六個・七個ずつあって、それを三人で等分したかったら、いったん全部バスケットから出してまとめて、それから一つずつ分けて行けばちゃんと三等分できる。そうでしょ?」

「俺は八個欲しいぞ」

「そういう話じゃないのっ」

「うへぇ」

ぴしゃり、と跳ねのけられてしまって、小夏の姿をした優真が思わず肩をすくめる。

「あと! わたしの姿でそんな風に足広げて座らないでっ」

「ええーっ、座る時も足閉じなきゃいけねえのかよ」

「当たり前だよ。だって……その……中が見えちゃうじゃない」

「んなもん誰も見やしねえよ、お前のパンツなんてさ」

「こらーーーーーーーっ!」

この優真によるデリカシーのなさすぎるコメントに、小夏が顔を真っ赤にして大激怒。さすがにこれは怒るのも仕方ないだろう、小夏だって立派な女の子、今は体を優真に貸しているとはいえ、きっちり女子として振る舞ってもらわなければ困るのだ。小夏から強くダメ出しされて、優真がしぶしぶ足をぱたりと閉じるのだった。

「ちゃんとしてよね。わたしだって男の子らしくしてるんだから」

「ちぇっ、スカートだって慣れないのにさ、座り方まであれこれ言われちゃたまったもんじゃないぜ」

辟易した様子の優真がおもむろに立ち上がると、小夏の部屋のタンスの引き出しを引っ張り出す。

「あっ、ちょっと! 人の部屋を勝手に漁らないって約束したでしょ!」

そう言いながら、優真が手にした取っ手を引いてみると。

「おっ、これいいショーパンじゃん。これに着替えていいか?」

短めで動きやすさを重視した装いの真新しいショートパンツが、丁寧に折りたたまれて中にしまい込まれていた。これなら今身に付けているスカートよりも断然気楽に過ごせるに違いない、そう思って手を伸ばした優真――だったが。

「ダメーーーーーーーーっ!」

「おわっとぉ!?」

横から小夏が全身全霊の体当たりを仕掛けてきて、優真が横に押し出されてしまった。小夏は慌てて引き出しを閉じると、タンスの前に腕を大きく広げて立つ。何があっても触らせないし着させもしない、そんなとんでもなく強い意志を感じる目で、小夏が優真をキッとにらみつけている。これにはさすがの優真も強く出ることができなくて、ただぱちぱちと瞬きを繰り返すほかなく。

「こ、小夏……」

「ダメって言ったらダメ! わたしがいない時も、絶対に触っちゃダメだからね!」

ここまで強く言われてしまっては、優真だってうなずくしかない。どうやらあのショートパンツは小夏にとってよほど大事なものか、あるいは特別な意味を持つものなのだろう。これについては小夏の言うとおりにしよう、優真はそう考えるのだった。

さてさて、こうしてひと悶着あったものの、ふたりは再び勉強に戻る。どちらもやっと少し感覚がつかめてきたようで、小夏が優真に基礎を教え、優真がそれを使って問題を解く、ということを繰り返す。とは言えやっぱり優真は優真、小夏に教えてもらいながらも、なかなかしっかり理解するというところまで辿り着けない。

「なんだろうなぁ、俺だってまったく分かんないわけじゃないんだ」

「さっきまでよりはよくなったけど、まだまだこれからだよ」

「マジかよ、もう頭が痛くて痛くて……使い慣れてねぇせいだな、きっと」

今の優真は小夏の体を借りている、すなわち頭は小夏のものだ。その頭の中にはこれまで蓄積されてきた知識がそのまま残っている、ゆえに優真も、頭の使い方さえ分かれば同じ力を発揮できる――はずなのだけど、これがうまくいかない。それもそのはず、頭を使うための心は優真のもので、そしてその心は小夏の頭をフルパワーで使いこなせる能力を持っていないからだ。

「ダメだよ、ちゃんと分からなきゃ。復習をちゃんとしないと、テストで大失敗しちゃうよ」

「分かってるけどよぉ、分かんねぇんだよなあ」

泣きそうな様子の優真に、「泣きたいのはこっちだよ」と小夏が情けない声で返す。気が重いのはお互い様とは言え、頭の痛いシチュエーションだった。

「なあ小夏。テストって絶対受けなきゃダメなのか? 今年は受けませんとか、そういうのダメなのか?」

「……うん。今年のテストは特別、絶対に落とせないんだ」

「そりゃあまた、どうしてだ?」

「お母さんと約束したことがあるの。平均で九十点以上を取ったら、わたしのお願いを聞いてくれる、って」

「そうか……やるしかねえってわけか……」

「大変なのは分かるよ、よく分かる。でも……本当に、一度きりのチャンスなんだ。だから……」

なんでも小夏は全国学力テストで高い点数を目指す代わりに、目標を達成した暁にはお母さんにお願いを聞いてもらえる約束をしているようだった。それも、今回が最初で最後のチャンスになるとか。小夏があんまり真剣な顔をして言うものだから、優真は返す言葉が見つからなかった。

自分にも水泳大会が控えていて、小夏に優勝してもらわないといけないと思っている。小夏にそれだけの重い役目を期待するのだから、自分も相応の努力をしなければならない。だったら、勉強でも何でもやるしかない――気が進まないながらも、本質的に生真面目なところのある優真はそんな風に考えるに至った。

「そう言えば、さっき優真くん頭痛いって言ってたけど……わたしも同じだよ。なんだかクラクラしちゃう」

「痛いのは、小夏もなのか」

「そうだね。テキストを読めば意味は分かるし、すこし考えれば答えも出て来るけど、でも、いつもよりスッと頭に入らない感じがして……」

「だよなあ。俺、勉強苦手だもんなあ」

「あっさり言わないでよ! わたし、それで苦労してるんだからっ」

「いやあ、そんなこと言ったって……」

相変わらず凸凹なやり取りをしていた小夏と優真、だったのだが。

「みぅ……みぅぅぅぅっ!」

突然、側に居たフィオネが泣き出してしまった。その途端、ふたりがぱたりと言い争いを止めて、フィオネの側に寄る。

「なんだなんだ、どうかしたのか?」

「さっきまで楽しそうにしてたのに……あれかな、お腹が空いちゃったのかな」

「ひょっとしてフィオネ、まだ朝飯食ってなかったりするのか」

「うん。家を出る時まで寝てたから、それで……」

そういうことか、と優真が納得する。少し思案して、小夏に頼みごとをする。

「すまねえ小夏。ちょっと待っててくれ」

「えっ? あっ、優真くんっ、優真くん!」

優真は部屋を出ていくと、そのまま家を飛び出してしまう。小夏は戸惑いながらも、泣き止まないフィオネを必死であやす。

「そうだ。お水を飲ませてあげれば……」

フィオネが昨日水浴びをして喜んでいたことを思い出す。ならば、水を飲むのだって好きなはず。小夏は急いで台所まで向かうと、冷蔵庫からペットボトル入りのミネラルウォーターを取り出す。飲みやすいようにコップへ注いでから、そっとフィオネの口の側まで持っていく。

「みぃうっ!」

「わぁっ!?」

しかしながら、フィオネはそれもお気に召さなかったようだ。ぱしっ、とコップをはたいてしまって、床がびしょ濡れになってしまう。もちろん小夏も巻き添えでずぶ濡れだ。フィオネはただ泣くばかりで、小夏がどれだけ慰めても止む気配がない。一度火の付いてしまったフィオネは、どうしようもなかった。

(どうしよう……わたし、どうしたらいいんだろう……っ)

零れた水とフィオネの涙で濡れた小夏が、フィオネを抱いたまま呆然と座り込んでいる。いったいどうすればいいのだろう、フィオネの泣く声を聞いていると、なんとかしなきゃという思いがどんどん募っていく。だが、今のフィオネはどうやっても落ち着いてくれそうにない。小夏は今にも泣きだしそうな顔で、それでもどうにかフィオネをあやし続ける。

途方に暮れる小夏だったが、玄関のドアが開く音が聞こえて、ハッとした様子で顔を上げる。

「悪い! 待たせたな!」

「優真くん!」

小夏姿の優真が、スカートを揺らしながら台所まで駈け込んで来た。その手には、鮮やかな色をしたよく熟れた薄桃色の実が握りしめられている。

「モモンの実……! 優真くんの家で……」

「ああ! 俺ん家の庭に生ってるやつだ。他のポケモンもしょっちゅう食わせてやってるからな、味はお墨付きだぞ」

優真の家では庭で木の実を育てていたことを、小夏もここにきて思い出した。昨日優真の母親も自由に食べさせていいと言っていた。モモンの実もそのひとつだ。優真は小夏からフィオネを渡してもらうと、おもむろにモモンの実を食べさせる……

(しゃりっ)

……のではなく、自分の口でかじった。その様子に、小夏が目を丸くする。

「ゆ、優真くん? フィオネに食べさせるんじゃないの?」

当然湧いてくる疑問を口にする小夏。けれど優真は「待ってろ」とばかりに小夏を手で制すると、かじったモモンの実を口の中で細かく噛み砕く。泣き続けるフィオネをそっと持ち上げると、優真がその口にそっと唇を寄せた。

横で見ていた小夏がはたと気付く。口移しだ、優真くんは口移しで柔らかくしたモモンの実を食べさせてあげるつもりなんだ、小夏が優真の行動の意図を理解する。優真からモモンの実を与えられると、不思議なほどあっさりとフィオネは泣き止んでしまった。自分から優真の口の中身を吸って、もっと欲しいとせがんでいるよう。それに応じるかのように、優真が再びモモンの実を口に含んで、またフィオネに与える。これが何度か繰り返された。

モモンの実を丸ごとひとつ食べさせたところで、フィオネが優真から離れた。もう泣く様子はない。満面の笑みを見せていた。

「ふぅ……やっと落ち着いたみたいだな」

「うん。やっぱり、お腹が空いてたんだね」

あれほど泣いていたのが嘘のように、フィオネがキャッキャッと嬉しそうな声を上げている。モモンの実をお腹いっぱい食べさせてもらえて、満足したようだ。優真と小夏が顔を見合わせて、お互い安堵した表情を浮かべる。

すぐさま機転を利かせた優真に、小夏は率直に言って驚きを隠せなかった。もし自分だけで何とかしようとしていたなら、きっとうまくいかなかっただろう。優真くんもたまにはやるんだ、ちょっと素直になれないながらも、小夏が優真を評価する。

「しっかし、赤ちゃんそのものだな、フィオネのやつ」

「ホントだよ。目を離しちゃいけないね」

けれど、気が緩むと、つい口も軽くなってしまうわけで。

「優真くん……泣き止ませてくれたのはいいけど、目の前でわたしがキスしてるの見るの、ちょっと恥ずかしかったよ」

「しょうがねえだろ、こんな状況なんだぞ。それに、お前だって」

「えっ?」

「座り方! 足をペタンって広げて座るのやめろよな、女子みたいだぞ」

台所に座り込んでいた小夏だったが、その座り方は明らかに女の子のそれで、今の優真の姿には到底合わないものだった。

「だ……だってわたし、女の子だもんっ!」

「だーーーーっ! 俺の声でそんなこと言うんじゃねぇ!」

フィオネを泣き止ませるために協力したのも束の間。結局また、いつもの二人に戻ってしまうのだった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。