優真の勉強がひと段落したところで、お次は小夏の水泳だ。近くの海辺にやってきた二人が、岩場で素早く水着に着替える。
「女子の水着ってさ、これ鬱陶しくないか……?」
「ええっ、こっちの方がよっぽど恥ずかしいよ」
小夏の姿をした優真は女子用の、優真の姿をした小夏は男子用の水着を着用している。何もおかしなところはない。おかしなところはないものの、二人にしてみればどちらも異性の服を着ているようなものだ。普段と違う感覚に戸惑うのも無理はなかった。優真の方は全身を包む水着の感触がじれったいのかしきりに体をよじって確かめているし、小夏の方は俯き加減でほんのり顔を赤く染めている。体が入れ替わったことに、どちらもまだ慣れていない様子。
「あのなー小夏、俺の体で胸に手を当てるのやめろよな」
「優真くんだって、さっきから後ろの方ばっかり気にしてる」
「いや……こう、生地がケツに食い込んでもぞもぞしてさ……」
「そういうこと口に出して言わないのっ!」
けれどいつまでもそうしているわけには行かない。優真が小夏を伴って砂浜を歩いていくと、小夏に先んじて準備運動を始めた。
「最初によく体をほぐしておくんだ。これをやらないと、また溺れちまうぞ」
「一応、わたしも軽くやったんだけどなぁ……」
「軽く、じゃ足りないんだ。ほんの少し汗ばむくらいでちょうどいい。覚えといてくれよ」
部屋にいた時とは見違えたように、優真がきびきび動いている。自分がきりっとした顔でストレッチや柔軟運動に勤しんでいる姿を見ると、小夏はちょっと可笑しくなった。とは言え自分もサボるわけには行かない、優真に続けて腕を伸ばす運動をして、体をできる限り柔らかくしておく。しっかり泳げるようになりたいのは。小夏もまた同じだったからだ。
十分に準備運動を済ませたところで、優真が小夏に合図をする。
「よし、こんなところだな。それじゃ、海へ行くぞ」
「あれ? 休憩しないの? 休憩しようよー」
小夏が準備運動だけでもう疲れてしまったという。当然のことながら、優真は盛大にずっこけるわけで。
「おい待て待て、せっかく体があったまったんだぞ、いきなり休憩してどうすんだよ」
「いっぱい運動したから、わたしもう疲れちゃったよ」
「こんなんで疲れててどうすんだよ! こっからが本番だってのに」
「えぇーっ」
「ほら、突っ立ってないでこっちに来いっ」
優真が小夏の手を引いて海へ連れて行くと、軽く水を浴びて体を慣れさせるように告げる。小夏はしぶしぶ水を手ですくって、じりじりと日に焼けて暑くなりつつある肌を冷やすかのように濡らしていく。隣では優真も水を浴びている。傍から見ると、二人して海で遊んでいるようだった。
「これ道にいる人が見たら、わたしたち絶対遊んでるようにしか見えないよね」
「しょうがねえだろ、プールは午前中別のグループが押さえてんだから。それに、プールじゃ俺がお前に付き添えねえし」
「それもそっかぁ……」
さてさて、体が水に慣れたところで、いよいよ泳ぎの練習だ。
「まずは基本からだ。ちょっと沖の方に出て、海の上に体を浮かせてみな」
「ええっと、蹴伸び?」
「まあ、それだな。もっともここじゃ壁は蹴れねえから、単に浮くだけでいい。やってみろ」
小夏が少々不安げな面持ちになりつつ、優真に指示された通り少し沖に出て、体を浮かせてようとしてみる。
「わぷっ」
が、緊張しているのと体に慣れていないのと、それから元々泳ぐのが苦手なのが全部重なって、すぐに体が沈みそうになってしまう。おいおい、と優真がちょっと呆れつつも、じたばたする小夏の隣まで行ってすぐに体を支えてやる。ぷはっ、と小夏が息を吐いて、優真に不安げな目を向けた。
「どうしよう、沈んじゃうよぉ」
「いいか、適度に体の力を抜くんだ。適度にだぞ。じたばたしなくても、それで自然に体は浮く」
「でも、動いてないと重さで沈んじゃうと思うけど……」
「人の体はある程度水に浮くようにできてるんだ。もちろん、完全に気が抜けたら沈んじまうけどな」
優真に力説される小夏だったが、いまひとつ納得がいかないようで。
「適度に体の力を抜くって、なんか矛盾してるよ」
「いいから、一回やってみろって」
「納得できないのにできるわけないよっ」
むっとした様子の小夏に言い返された優真、普段ならここでもっと強く言い返すところだけれど。
「……それもそうか。俺だって、平均分かんないのに解けるわけねえだろって思ったし」
「あ……」
優真はごく落ち着いた口調で、静かに言葉を返した。さっきとちょうど立場が逆になっていることを自覚して、小夏がハッとした顔をする。つい一時間ほど前までは、小夏が優真に「いいから一度やってみて」と言っていたのだ、神妙にしている優真の様子を見ながら、小夏が少し後ろめたい気持ちになる。悪いことをしてしまった、と小夏は思っていたのだが、意外なことに対する優真の方は、小夏の言葉で少し思う処があったらしい。どうすれば小夏に泳ぎを教えられるか、そのやり方をひとつひとつ頭の中で整理しているようだ。
「よし、小夏。俺が手本を見せてやる」
「優真くん」
「泳いでる時は口じゃ説明できねえけど、やってるところを見りゃ参考にはなるだろ。よく見とけよ」
そう言うや否や、優真は小夏からさっと手を放して、海の上にゆらりと浮かんで見せた。小夏は優真の泳法に目を向ける。決してジタバタはしていない、けれど体は浮いている。力をほどほどに抜きながら、水に身を任せている。優真の言っていることは、確かに正しそうだ。
しばらくして、泳ぎを止めた優真が小夏を見やる。
「こんなところか。どうだ? できそうか?」
「どうすればいいかは分かったけど、でも……」
「でも?」
「顔を水に浸けるの、まだ怖いよ……溺れた時のこと、思い出しちゃって」
ここは海。先日小夏が溺れて危うく命を落としかけた場所だ。本当は体を水に沈めているのもつらくて、息を止めて顔を浸けるなんてもっての外だった。溺れた時の記憶がよみがえってしまう、小夏は優真に向かって率直な気持ちを吐露した。
「溺れちまったからか……」
優真がまたしても神妙な面持ちをする。さすがに優真と言えど、この状態の小夏に水泳を無理強いするほど強引ではなかった。水の怖さは優真もよく知っている、否、優真の方がよく知っていると言っていいだろう。溺れた小夏を我が身を省みず助けたのだから、あの状態の小夏がどれだけ危険だったかはよく理解している。またしばし熟考してから、優真がふっと顔を上げた。
「分かった。じゃあ小夏、ひとつ特訓だ。今日から風呂場で水の中に潜る練習をしろ」
「えぇーっ!? お風呂場で!?」
「風呂場ならすぐに顔を上げられるし、簡単にできるだろ。それでちょっとずつ、息を止めても大丈夫なようにするんだ」
「そ、そんなぁ……」
「やるしかねえだろ。今のお前は、俺なんだから」
家で潜る練習をするんだ、と言われた小夏。思わず目玉も飛び出そうだ。ただでさえ水中は苦手なのに、それを克服しないとダメだと言われているのだ。小夏にとって辛くないわけがなかった。
今日は顔を上げたままでいいから、とにかく体を水に慣れさせるんだ。そう言って、優真が先んじて泳ぎ出した。小夏もため息をつきながら、優真に続いて泳ぐ。
十分練習をしてから、二人が砂浜へ上がった。
「はぁーあ、疲れちゃったよ」
「しっかりしてくれよ小夏、今日も夕方から練習あるんだぞ」
ちょっと疲れた様子の小夏に対して、ぜいぜいと肩で息をする優真が声をかける。疲れてはいるけれど割とシャキシャキ動いている小夏の方はともかく、教えていた優真の方はしばらく動けなさそうなくらい疲れている様子だった。
「優真くんと同じで、まったくできない、ってわけじゃないよ。できそうな気はする。でも、上手くいかないよ」
「ちくしょう、俺が小夏の頭をうまく使えないのと同じってわけか」
「動きそうな感触はあるよ。でも……やっぱり、すぐにはできそうにないよ」
「なんとかしてくれよ、小夏。本番は俺の体をフルに使って泳がなきゃいけねえんだから」
「分かってるけど……」
泣きそうになっている小夏に、泣きたいのはこっちだよ、と優真が返す。これもさっきのやり取りと逆だ。いやはや、どうにもこうにも、上手く行かないふたりである。
「けど、俺はもうくたくただ。小夏の体じゃ思い通りに動けねぇ、あちこちが痛くなってやがる」
「わたしは疲れちゃったけど、痛いって感じは特にないかな」
「そりゃあ俺が普段筋肉使ってるからな」
「そうだね。腕とかすっごいがっちりしてるし」
「普段運動してねえのに急に動かすと、やっぱダメだな……やろうと思えばできるけど、体が付いてくのがやっとって感じがする」
「運動とかスポーツ、わたし苦手だもんね」
「お前なあ……しれっと言うなよしれっと」
「だって、勉強してる方が好きだったんだもん」
結構なペースで回復しつつある小夏とは対照的に、小夏の体を借りている優真はぐにょんぐにょんになってしまっている。いてて、と顔をしかめつつ、凝り固まった筋肉をほぐすので精一杯、といったところだ。
「ねえ、優真くん」
「なんだよ」
「水泳大会って、どうしても出なきゃダメ? 来年じゃ遅い?」
こんな調子で水泳大会に出場するのはさすがに不安すぎる、来年に先延ばしできないか、と小夏が優真に持ち掛ける。言われた優真は顔を俯かせて、小さく首を横に振った。それはできない、はっきりとした否定の合図だった。
「そう言われると思ったよ。けど、小夏のテストと同じで、どうしても落とせないんだ」
「ちょっと聞きづらいけど……それは、どうして?」
「年齢の問題だよ。今年がジュニア部門に出られる最後のチャンスなんだ」
「あ――そっか、来年十一歳になるから……」
「そうだ。この大会で優勝しなきゃ、俺の夢には届かないんだ」
榁では十一歳になるとポケモントレーナーの免許を得て、自分の意思でどこにでも行くことができるようになる。身体的にはともかく、法的には「成人」として扱われる可能性が出てくる年齢なのだ。優真が出場しようとしている水泳大会は、十一歳を区切りとしてジュニア部門・シニア部門を分けている。優真は今十歳、来年の二月には十一歳に上がる。優真の言う通り、最後のチャンスというわけだ。
はっきりとした理由を並べられて、小夏は何も言い返せない。自分も今年の学力テストにすべてを賭けていて、優真には絶対に落としてもらいたくないと思っている。だとすると、自分もまた水泳大会から逃げることはできない。
こうなったら、もう覚悟を決めるしかない――小夏はそう考えるほかなかった。
「みぅ? みぅみぅ♪」
「あっ、フィオネ」
バスケットに入ってぐっすり寝ていたフィオネが起き出してきて、小夏と優真の間に割って入ってきた。どうやら構ってほしいようだ。優真の姿をした小夏にくっついて、しきりに短い腕をパタパタさせている。
「遊んでほしいみたい。優真くん、わたしフィオネとちょっと遊んでくるね」
「ああ、頼む。俺はまだちょっと動けそうにねえ」
慣れない小夏の体で疲れが取れない様子の優真に代わって、小夏がフィオネを連れて海へ向かった。この様子だと、水に自分から入ることを怖がるほどじゃなくなったか、と優真が少し安堵する。優真に溺れた経験はなかったが、あの時の小夏が恐ろしい目に遭ったことは容易に想像が付いた。息をまったくしていなくて、死人のような顔をしていた小夏の姿を、優真は今でも時折思い出してしまう。
(海で溺れて死にかけたってのに無理やり泳がせるのは、正直こっちだってキツいからな)
今、こうして小夏がフィオネと海で水を掛け合って遊んでいる姿を見て、口には出さないもののホッとしていた。
「わ、待ってフィオネっ。あんまり沖へ出ちゃダメだよ」
勝手に遠くまで泳いでいこうとするフィオネを、小夏が抱いて引き留める。油断も隙も無いんだから、小夏がフィオネをなでながら困ったように言う。
こりゃ、どっちもちゃんと見てなきゃダメだな――砂浜に座り込んだ優真が、ひとりそんなことを考えるのだった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。