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#16 ないしょのつぼみ

「あー……もうダメだ、頭が回らねえ……」

へなへなとした声を上げて、優真がベッドに横になる。初めのうちはベッドで寝るのに慣れなかったのだが、体が疲れてくるとそうも言っていられない。じんじんと痛んで熱を持ったおでこにそっと手を当てて、優真が大きなため息をつく。

塾へ通うのがとにかく大変だった。夏期講習の期間が始まって、月曜日以外は毎日のように講義を受けることになっているのだ。勉強のスピードは学校よりもずっと早いうえにとても難しくて、優真は着いていくのもおぼつかない有様だ。授業を聞いているのがやっとで、終わった後は数字や文章を目にするだけで頭が痛くなってきてしまう。自主勉強をしないと追い着けない、そんな気持ちはあるものの、家に帰ってくるともう頭が回らなくなってしまうのだ。

(小夏のノートと先生だけが頼りなんだよなあ、今は)

入れ替わる前の小夏が残してくれた学習用ノートには、優真にとっても参考になることがたくさん書かれていた。小夏は自分が学んだことを整理するのが得意だったらしく、テキストを見るよりずっと理解しやすい。それに加えて、塾の先生がサポートをしてくれたのもありがたかった。突然勉強ができなくなってしまった小夏――本当は優真なのだが、小夏に何かあったと考えたようで、講義前後で時間を割いて個別指導をしてくれるようになった。丁寧に理解まで導いてくれる先生を優真は頼もしく感じて、性別や性格は違えどスイミングスクールの先生に似ている、と思うようになった。

が、そうは言っても目標は全国学力テストで最上位グループに入ること。今のままではまったく歯が立たないのは明白だった。焦る気持ちはある、やらねばという義務感もある、けれど今の優真は疲れ切っていて、身も心も休ませることしか考えられない。

(どっか遊びに行きたいねとか、そういうのだったらまだいいんだ。そうだね、とか言ってりゃいいから)

女子として振る舞わなければいけないのも、優真を疲れさせる大きな原因の一つだった。通っている塾には女子もたくさん在籍していて、たまに話の輪に加わる、いや加わらざるを得ない感じになってしまうのだけど、この年頃の女子というのは優真にとってなかなかにえげつないものだと思うばかりで。

(誰それに好きな子がいるらしいとか、あの男子はちょっと気色悪いとか、そういうのはマジで勘弁してくれって感じだ)

グループでのおしゃべりの種として真っ先に上がってくるのは対人関係だったが、優真は接する機会のない他人の噂話はするのもされるのも苦手だった。顔も名前も知らないなら適当に相槌を打っておけばやり過ごせるが、これに知人が出てくるとなんともいたたまれない気持ちになる。佐々木や宮沢といった聞き覚えのある名前もちょくちょく出てきている。今のところまだ本来の自分――川村優真の名前は上がっていないことだけが救いと言えた。

しんどいのはそれに止まらない、もっと優真を悩ませていることがあった。普段の自分とは服装の勝手があまりにも違っていたことだ。小夏が持っている服といったらふわっとしたスカートやワンピースばかりで、着てみてもなんだか足の間がすうすうしてしまう。足を広げないように、とか、スカートがめくれてないか気を付けて、とか、小夏から顔を合わせる度に言われているから、今となっては優真もそれをひどく気にするようになってしまった。

(ああもう。こんなことなら、小夏にスカートめくりなんてすんじゃなかった)

こうやって自分がひらひらしたスカートを履く立場になってみて、優真は過去に自分がしたイタズラがどれだけ恥ずかしいものだったかを自覚してしまう。もし自分が外を歩いていていきなりスカートをめくり上げられたら、それはもう恥ずかしいことこの上ないだろう。幼い頃のおふざけと言い訳してみても、それをされた側に今自分がいるのだから、もやもやした気持ちが膨らんできてしまって仕方ない。

そして優真の心をもやもやさせているのは、小夏と入れ替わった、ということだけではなくて。

(もし、俺がこのまま元に戻らなくて、小夏のまま、女子のままだったら……)

優真だってもうすぐ十一歳、男子も女子も子供から大人へ変わり始める年齢だ。男子はだんだん声が低くなりはじめるし、女子は胸がふくらみ始める。子供と大人のボーダーラインを越えて、少しずつ変化を遂げていくのだ。

(……痛いんだよな、確か。血が出るって話も聞いたし……)

それの意味するところくらい、優真だって知らないはずはなく。今はきっと元の体に戻れると信じているけれども、もしずっと入れ替わったままだったら、これから先も女子として――いいや、女性として生きていかなければならない。痛い思いだってすることになるだろう。言い知れぬ不安を抱いて、優真が枕に顔をうずめた。

不安な気持ちになったからだろうか、気のせいかお腹の辺りが少し疼いた気がした。驚いた優真が体を起こしてそっと手を当てる。が、これはあくまで気のせいで、優真の体の中で具体的に何かが起きているというわけではなさそうだ。はあ、と大きなため息をついて再びベッドへ倒れ込む。けれどお腹に当てた手はそのままで、なぜだか離す気にはなれなくて。

(こんな小さい中に赤ちゃんができるなんてさ……どうなってんだよ、女子の体ってのは)

自分も小夏も母親の中から生まれてきた。ということは、このまま行けば自分もまた赤ちゃんを宿せる身体になるというわけだ。いやはや、まるで現実味が持てない、けれどそんな心境とは別に、自分がそんな体になりつつあることは実感している。あまり大きな声では言えないものの、お腹の下あたりには入れ替わる直前の自分と同じような特徴が現れつつある。

一歩ずつ、一歩ずつ、身体が大人に近付いていっているのだ。

せめて、小夏にしょうもないイタズラをするのはもう絶対にやめよう、優真は自分にそう言い聞かせて罪滅ぼしにすることで、どうにか心のざわつきを振り払う。少し間が空くと自分が女子であることを実感して複雑な気持ちになってしまうから、まるで気が休まらなかった。何か別のことを考えよう、優真は気持ちを懸命に切り替えて、つい先ほどまで一緒にいた小夏の姿を思い浮かべた。

優真が置かれている立場は見ての通りだが、小夏の状況もイマイチだった。自分よりもずっと真面目で、海で泳ぐ練習をしようとしていたくらいだからやる気はあった。しかしながら、運動のセンスが壊滅している。これが本当に致命的で、優真の体をまるで使いこなせていなかった。まずそこから教えなきゃいけないのか!? というのが本当に何度もあった。あまりのことに、思わず気が遠くなってしまう。

溺れたことで水に対する恐怖心を抱いていたから、まずそれを何とかしなければならなかった。先日の「お風呂で潜る練習をしろ」はそのための方策だ。ともかく水中で落ち着いて行動できなければ意味がない、優真はそう考えた。そして自分の方も小夏を鍛える必要があったから、この体を使いこなせなければならない。折を見て筋トレをしたり、小夏に指導しながらトレーニングをしたり。そうして少しずつ体を慣れさせていく。幸いと言うか小夏は体力がないわけではなかったので、少しずつではあるが勝手が分かってきた。体を動かすための知識や記憶は自分の体から持って来られていたから、小夏の体でも最低限泳ぐことはできるようになった。

体の方は順調に使いこなせてきているだけに、頭がまるでどうにもならないのが余計に浮き彫りになってしまって、また頭が痛くなってしまうのだけど。

「フィオネのやつもなあ、手がかかってしょうがねえよ」

考えることもやることも山のようにあるというのに、ここにフィオネのお世話をするという大仕事が加わってくるのだからたまったものではない。幸いフィオネは今、タオルケットにくるまって気持ちよさそうに寝ている。さすがに今日は大丈夫だろうな、と優真が時折フィオネに目を向ける。

(そりゃあ……赤ちゃんだし、おねしょくらいは普通なんだろうけどさ)

土曜日は自分がフィオネの面倒を見たのだが、これがなかなか大変だった。ベッドでお昼寝をしていた最中に、フィオネがおねしょをしてしまったのだ。優真が気付いた頃には時すでに遅し、フィオネはぐずって泣いているし、布団はびしょ濡れになるしで、もう散々だった。おねしょと言ってもフィオネの体はほとんどが水、蛇口から汲んだばかりの綺麗な水をぶちまけたような感じで「汚れている」という印象はほとんど無かったものの、気持ちとしてはちゃんと洗わないと落ち着かない。洗濯機で洗うわけにも行かないので、洗剤を使ってよくふき取ってから、庭にあった物干し竿へ引っ掛けて天日干しにした。布団に大きな地図が描かれたさまは、まああまり見られたいものでもない。

食事は相変わらず口移しで与えなきゃいけないし、家にいる時はずっとくっついて遊んでほしいとしきりにせがんでくる。優真もなんとかそれに応え続けていたし、親として責任をもってフィオネを育てていたけれど、しんどいものはしんどいのだ。唯一の救いは、お母さんがいる時は積極的にアシストしてくれることだ。泣いているのをあやすのも、ぐずって寝付かないのをなだめるのも、どちらもずいぶん慣れたものだった。フィオネの方もお母さんが相手だと落ち着くのか、どんな時もすぐにケロリとしてしまう。こういうところは母の強さを感じずにはいられない。

(今日は塾も休みだし、何があっても寝てやるぞ)

久々に訪れたお休み。夏休みの宿題も今日の分はなんとか済ませた。フィオネがぐずってもお母さんに見てもらえる。このまま夜までテコでもベッドから動かないぞ、そう心に決める優真だった――が。

(ピロン♪)

不意に着信音が鳴って、優真がベッドから飛び起きる。

スマホからだ――音の出どころにはすぐに気が付いた。小夏は自分用のスマートフォンを持っていて、家族や友人との連絡に使っている。まだ子供なのにスマホを持ってるなんて! と優真は驚いたものの、実のところクラスの同級生のうち半分くらいはもうスマホを使っていて、今や持っている方が普通になりつつあった。こんな感想を持つくらいなので、優真は当然持っていないし、取り立てて必要だと思うことも無かった。

けれど小夏がこれを使っている以上、自分も使い方くらいは押さえておく必要があった。小夏から基本操作を教えてもらって、とりあえず文字を打つくらいのことまではできるようになった。小夏からは「ヘンなことには使わないで」と念を押されたものの、操作方法もろくすっぽ分からないのに使いようがない。できることといったら電話をかけることと時計やカレンダーを見ること、それから……

「なんだっけこれ、LINQ(リンク)だっけか」

緑のアイコンが目印の「LINQ」を使うことくらいだった。LINQはショートメッセージをやり取りできるアプリで、電話やメールよりも気軽に連絡が取れるということで多くの人が使っている。先程の特徴的な着信音は、LINQが新着メッセージを通知する音だった。

連絡してきたのは誰なんだ、優真はすぐにスタンバイ状態を解除する。下にあるボタンに人差し指を当てると、指紋認証がクリアされてホーム画面が表示される。ここでもまた、自分は今小夏なんだ、と実感させられる。そのこそばゆさが苦手で、優真は必要な時以外スマホに触ることはなかった。

「送り主は椎名……げっ、綾乃からかよ」

椎名綾乃。小夏の友達の一人にして、優真が苦手としているクラスメートの女子だ。よりにもよって、という思いが優真の中で膨らんでいく。ついこの間小夏を助けた直後にも出くわして、厄介な展開になりかけたばかりだった。できることなら避けたい相手、しかも今は小夏の体だ。ますます関わり合いになりたくないという思いが強くなる。されど今の自分は小夏、優真としての感情で綾乃と接するのはまずい。メッセージを見る前から既にげんなりしつつ、優真がスマホを操作する。さて、綾乃が何を連絡してきたのか。慣れない手つきで画面をタップして、綾乃が送ってきたメッセージを確かめる。

「『今ヒマ? いっしょに遊ばない?』……マジかよ」

まあ、恐らくこういうお誘いではないか、とは思っていた。思っていたものの、いざ送ってこられると返答に困ってしまう。本当は断りたかった。頭も体も疲れていたし、何よりヘンな勘繰りをされてはたまらない。だがそうは言ったものの、断るためのいい理由が思い浮かばなかった。ただ「今日は疲れてるから」だと素っ気なさすぎて、目ざとい綾乃に不信感を持たせてしまうだろうし、これだけ気軽に送ってくるということは普段の小夏なら二つ返事で受けているに違いなかった。休みたい気持ちは山々だったが、怪しまれれば元も子もない。ましてや相手は勘のいい綾乃だ、下手な返事は返せない。

悩んだ末に、優真は結局「いいよ」と一言だけ書いてメッセージを送った。すると綾乃はほとんど即座に「今お母さんいないから、うちに遊びに来れるよ」と返してきた。これは綾乃の家へ向かうしかない。今日は寝るつもりだったんだけどなあ、優真は少し気落ちしつつ、外へ出かけるためによそ行きの服へ着替えた。ついでにヘアゴムで軽く髪を括るのも忘れない。小夏はいつも綺麗なお下げを作っていたが、優真はうまいやり方が分からなかったし、何より面倒くさくて、ごく簡単にまとめるだけで済ませていた。

「みぃ……」

「なんだフィオネ、起きたのか」

着替えを済ませて準備完了、というところで、フィオネが目を覚ます。放っておくのも良くないし、連れて行くか。優真はそう考えて、腕を伸ばしてフィオネを抱く。

「これから外へ出かけるから、おとなしくしててくれよな」

「みう♪」

お出かけ、と聞いてフィオネが嬉しそうな顔をする。さしあたり機嫌はいいようだ。優真はなんとか気合いを入れ直して、フィオネを抱いたまま家を出た。

「椎名の家、こっから結構遠いんだよな……」

 

「ああもうっ、海沿いの道、風が強いんだよっ」

遠慮なく吹き付ける潮風にスカートをまくられそうになって、優真が顔を赤くしながら歩いていく。小夏の服ときたらワンピースにスカートばかりで、どちらにしてもひらひらした服であることに変わりなかった。男子の時はずっとジーパンやジャージだったから、足で布がぱたぱたしている感覚自体に慣れない。ましてや下穿きが見えてしまうようなことがあれば、こっぱずかしいなんて言葉じゃ済まされない。最初のうちはさして気にも掛けなかったが、小夏らしい振る舞いを心がけている内にどんどん気になるようになってしまった。しきりに辺りを気にしつつ、同じくらいスカートにも気を配りつつ、優真は歩き続けた。

綾乃の家の場所は知っていた。以前綾乃が風邪を引いて学校を欠席したとき、先生からプリントを持って行ってほしいと頼まれて家まで赴いたことがあるからだ。思えばあの後くらいから、綾乃が自分をからかうようになってきたような気がする。こんなことなら持ってかなきゃよかったな、なんてことを考えつつ、当時の記憶を頼りに優真は街道を歩いていく。

十五分ほど歩いたところで立ち止まって、ここだな、と優真が呟く。やってきたのは自分の家とほぼ同じくらいの大きさを持つ一軒家、表札には「椎名」と書かれている。この家で間違いないはずだ。えへん、と軽く咳払いをして、あくまで今の自分は小夏なのだ、と気持ちを引き締める。さっと身なりを整えてから、優真が家のチャイムを鳴らした。

「すいません、皆口です」

「はぁい」

送ってきたメッセージの通り母親がいないためか、応対したのは綾乃本人だった。間もなく綾乃がドアを開けて出てきて、優真を中へ迎え入れた。

「こなっちゃんいらっしゃ……あれ? それ、ポケモン?」

「フィオネだよ。海で拾ってさ……えっと、わたしがお世話してるの」

「へぇー、そうなんだ。こなっちゃんがポケモン育ててたなんてね。よろしくね、フィオネちゃん」

綾乃がそっと腕を伸ばして、フィオネと手をつなぐ。フィオネは綾乃とハイタッチができたことが嬉しかったようで、目を細めてキャッキャッと喜んでいる。

「この子、かわいいねー」

「う、うん」

可愛いっちゃ可愛いけど、面倒見るのは大変なんだぜ、と心の中で小さくぼやく。泣き止んでくれなかったり勝手にどこかへ行こうとしたりと、お世話をしている間は気が休まらないことを知っているから、優真は素直に喜べないのだった。

「見た感じ、フィオネちゃんって赤ちゃんみたいだね」

「赤ちゃんそのものだよ、タマゴから生まれたし」

「タマゴから生まれたんだ。海で浮いてたけど砂浜に流れてきたとか、そんな感じなのかな?」

「たぶん、そうだと思う」

さすがに「夢の中で見つけた」とはとても言えない。綾乃が納得するようにうまく話を合わせていく。小夏ほどすらすらと話すことはできなかったが、相手に怪しまれないように調子を合わせていくことくらいはできた。だいたいの場面は、それで切り抜けられたのだ。幸い綾乃も、目の前にいる小夏の姿をした優真を特におかしいとも思っていない様子。綾乃はフィオネを角度を変えて眺めたり、嫌がられない程度になでてみたりと、興味津々といった様子だ。

優真とフィオネを家に上げて和室へ案内してから、綾乃が冷たい麦茶を入れたグラスを二つ持ってきてくれた。優真はそれを早速飲んで、乾いていた喉をうるおす。

「こなっちゃんこなっちゃん。フィオネって、海の神様そっくりだよね」

「海の神様……マナフィのこと?」

「そうそう、マナフィマナフィ」

ポケモンにはさほど詳しくない優真だったが、フィオネとマナフィのことは人並みに知っていた。海にまつわることだからだ。フィオネによく似た姿を持つ海の神様で、心を司っているらしい。海は生命の源、心あるすべての存在が生まれいずる場所。なるほど、心を司るというのも納得だ、と感じたのを覚えている。参ったことは無いが、星宮神社にもマナフィのご神体が奉納されているらしい。

「前にフィオネとマナフィのことをテレビでやってて、関係ないって言ってたけど、でも見た目そっくりだよね」

「マナフィからフィオネができたんじゃなくて、フィオネを元にしてマナフィって神様ができた、って話もあるよ」

「そうなんだ。さっすがこなっちゃん、やっぱりポケモンのこと詳しいね」

綾乃から「さすが」と言われた優真は、悪い気はしなかったものの、少しばかり引っ掛かりを覚えた。さすが、ということは、普段から小夏が綾乃にポケモンの知識を披露しているのだろうか。小夏がポケモンに詳しい、そんなイメージはまるでなかった。勉強ばかりしていて、外でポケモンを追いかけたり、一緒に遊んだりするような光景はまるで想像できなかった。考えられるのは、せいぜい本で読んで知識を貯めていることくらいだ。それにしたって、小夏がポケモンの本を熱心に読んでいるとも思えない。

小夏とポケモンの関係をあれこれ考えつつ、優真がフィオネにも自分の分の麦茶を飲ませてあげていると、綾乃が違う話題を振ってきた。

「ねぇこなっちゃん。もしかして、ちょっと日焼けした?」

「うん。わたし、海で泳ぐ練習してるから」

「あ、やっぱり。すごいねー」

「ほら、ちょっとでも泳げるようになった方がいいと思って」

「泳ぐの苦手だって言ってたのに、こなっちゃん自分から練習がんばってるんだ。えらいなぁ」

感心する綾乃に、優真はちょっと得意そう。ところがその直後、綾乃の口から思いもよらない言葉が飛び出した。

「私は剣道のお稽古だけでもうへとへと。他の運動まで手が回らないよ」

えっ、こいつが剣道を? 優真は驚きを隠せない。綾乃は見た感じいかにも運動とは縁のない華奢な女子といった見た目だし、ましてや武道とは何のつながりもなさそうに見える。けれど綾乃が小夏にウソをつく理由もない。ということは、どうやら剣道を習っているというのは本当らしい。取り合わせが意外過ぎてにわかには信じられなかったが、確かに榁は剣道がそこそこ盛んで、剣友会もいくつかあることは知っている。優真が通うジムにも武道場があって、そこで稽古をしている風景を何度か見たことがあった。ひょっとすると気付かなかっただけで、そこに綾乃の姿もあったのかも知れない。

ふと部屋の隅を見てみると、綾乃の発言を裏付けるかのように、防具を入れるための大きなかばんと、刺繍の入った抹茶色の竹刀袋が置かれていた。どちらもそれなりに年季が入っている。綾乃の発言は事実だったようだ。意外なこともあるもんだな、と優真は感心することしきりだ。

(竹刀、一度振ってみたかったんだよな)

こんな状況でなんだが、優真は一度素振りというものをやってみたかった。一番好きなスポーツは水泳で間違いないものの、実は剣道にも興味があったのだ。今は小夏の体になっているとは言え、軽く動かす分には問題ないはず。それに自分の知り合いには剣道をやっている人はいない。一度興味を持つとどうしてもやりたくなってしまう、優真はそんなところがあった。綾乃に目を向けると、口を突いてこんな言葉が飛び出した。

「綾乃ちゃん。いきなりだけど、竹刀持ってみてもいい?」

「えっ? いいけど、なんで急に?」

「こう、見てたらなんか、わたしも素振りとかしたくなっちゃって」

「ふふっ、ヘンなこなっちゃん。人が変わったみたい。でもいいよ、それなら庭に行こっか。中じゃ素振りできないし」

そう言いつつも、くすくすと笑う綾乃の顔はどこか嬉しそう。竹刀袋を手にすると、優真を連れて家の庭へ向かう。二人で遊ぶものだと思ったフィオネも、後ろからふよふよ浮いて着いてきた。

庭へ出た優真と綾乃は二本入っていた竹刀をそれぞれ一本ずつ手に持ち、隣り合って構えを取る。

「ふぅん、こんな感じなんだ。左足を軸にするんだね」

「そうそう。こなっちゃん、その構えだよ。きれいきれい」

元々運動神経は抜群の優真、あっという間にそれらしい構えを取れるようになった。なるほど、これなら体勢を崩さずに前進できる――力の置き所が理解できて、優真はしきりに頷いている。国語や算数の問題を前にした時とはまるで違って、綾乃から教えられたことをするすると吸い取っていく。目の前にいる小夏の物覚えがあんまりいいものだから、教える綾乃も楽しそうだ。

じゃあ、ここからちょっと振ってみよっか。綾乃はそう言ってから、ひゅん、と風を切る音を立てて竹刀を振り下ろす。優真もそれに倣って、掲げた竹刀を前へ投げるかのように打ち下ろした。さすがに初めての素振りゆえに、綾乃に比べると動きが硬くて少しぎこちない。力をほどよく抜いてみて、アドバイスをもらった優真が深く頷いて、再び竹刀を振り抜く。するとどうだろう、目に見えて型がよくなった。

コツをつかんだ優真は俄然楽しくなって、びゅんびゅんと空気を切り裂く音を伴う形のいい素振りを何度も繰り返した。あっという間に上達してしまった小夏を目の当たりにした綾乃の目は、すっかり驚きの色に染まっている。

「うん。こなっちゃん、素質あるよ。私と一緒に剣道やらない?」

「……ふぅ。やってみたいけど、お母さんと相談してから、だね」

「いいよ。私はいつでも待ってるから」

ほがらかに笑う綾乃を見ていると、優真も嬉しくなって笑う。普段はからかわれてばかりの綾乃と親しく付き合っている、その満足感を味わう。これも小夏の姿だからできたこと、せっかく小夏の体を借りているのだから、楽しめることは楽しみたい。入れ替わってからというものとかく苦労続きの毎日が続いていた優真にしてみれば、ちょっとくらいいいじゃないか、という思いもあった。

それにしても、やはり綾乃は小夏が相手だといたって素直な反応しか返さない。これが本来の素なのか、あるいは小夏にだけは心を許してというのか。どちらにせよ、こちらをからかってこない綾乃は厄介に思うこともなく、ごく普通の快活な女子として接することができた。人にはいくつもの面があるとはよく言われるが、ここまではっきり見せられるとそれを実感するほかない。

さて、素振りは十分に楽しんだ。優真が綾乃に「ありがと」と言いながら竹刀を返却すると、綾乃が笑顔でうなずいて袋の中へしまった。部屋に戻ろっか、綾乃がそう口にした直後だった。

「ただいま」

「あ、お母さんだ」

誰かが家に帰ってきた。途端、綾乃が声を上げた。

「お母さん帰ってきちゃった。こなっちゃん、これから外行こうよ」

「えっ? あ、うん……」

「私、一言だけ断わって来るよ。フィオネちゃん見つかっちゃうとまずいから、家からちょっと離れててね」

こなっちゃんはちょっと外で待ってて。そう言付けると、綾乃は竹刀袋を和室の隅へ置いて、玄関へとてとてと急いで走っていった。庭に残された優真とフィオネが、お互いに顔を見合わせる。いきなりどうしたのだろうか。とは言えあの様子だと、綾乃のお母さんには見つからない方が良さそうだ。特に綾乃の言葉からして、フィオネが見つかってしまうとまずい気がする。周囲をうかがいつつ、優真が静かに門をくぐって外へ出る。

「おかえり、お母さん」

「ただいま。お留守番ありがとうね」

「いいよ。じゃあ私、これからお出かけしてくるから」

「そう。遅くならないうちに帰ってくるのよ」

中から聞こえてくる会話は普通そのもので、別に変わったところはない。お母さんが特段厳しい人という印象も受けなかった。それだけに優真は、綾乃が自分とフィオネを母親の目に触れさせまいと立ち回ったのをひどく奇妙に思った。もしかすると小夏と綾乃のお母さんの仲が悪いとか? いや、あの真面目な小夏が大人の不興を買うとは思いづらい。いくら考えたところで、結論は出てくれなさそうだった。

「ふぅ、うまくごまかせたかな。お待たせこなっちゃん。行こっか」

家から出てきた綾乃に直接事情を訊ねるというわけにも行かず、優真はなんだかもやっとした気持ちを抱えつつ、綾乃と並んで歩いていくのだった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。