「『カフェ・ペリドット』……」
「よかったよかった、今日は開いてたね」
綾乃に連れられた優真がやってきたのは、海に面した街道にぽつんと立っている喫茶店、その名も「カフェ・ペリドット」だった。この道は優真もよく通る道で、喫茶店であるペリドットがここにあることも知ってはいたものの、店を訪れたことは一度もなかった。綾乃はいかにも慣れた様子で、尻込みすることなくさっと中へ入っていく。遅れてはいけないと、フィオネを連れた優真も後に続く。
「ああ、綾乃ちゃん。いらっしゃい。今日は二人?」
「二人でーす。こなっちゃんと一緒だよ」
「よっしゃ、分かったわ。ほな、こっちの席へどうぞ」
入店した二人を出迎えたのは、コーヒー色のエプロンを身に着けた店員さんだ。年代はおおむね中学生くらい、背丈の割にずいぶん慣れた調子で、綾乃と優真を案内する。親しげな口ぶりを見ると、どうやら綾乃はペリドットの常連らしい。座るように進められたのは、海のよく見える窓際の席だった。向かい合って腰かけた二人に、店員さんがそれぞれメニューを手渡す。厚い皮に入れられたお品書きは年季が入っていて、ずっと古くから使われているのがありありと感じ取れた。
注文するもん決まったら呼んでな、店員さんはそう言い残して去っていく。さっそく中を開いて品物を見始めた綾乃に続いて、優真も注文するものを選びにかかる。
(パープルコーヒーにグリーンカフェオレ、マトマパスタにカラフルタルト……?)
メニューには見たこともない、そして出来上がりを想像できない個性的な料理や飲み物がずらりと並んでいて、思わず目を白黒させてしまう。変わった食べ物を出しているとは聞いてはいたものの、ここまでとは思っていなかったというのが正直なところだった。ただ不思議なことに、どれもこれも他では見たことのないようなものでありながら、得体のしれないゲテモノが出てくるイメージは浮かんでこなかった。要は、程度の差はあるけれど「ハズレ」はなさそうだ、ということだ。
「よしっ、私決めた。ブレンドピーチジュースにするっ」
優真はちょうど綾乃が頼むという「ブレンドピーチジュース」のあるページを開いていた。写真の下にあるキャプションを読んでみると「白桃とモモンの実をブレンドしたどろり濃厚な甘みと味わいが魅力」と書かれている。飲むときに喉を詰まらせそうだ、そしてストローで吸い上げるのは大変そうだ、という印象を抱く優真。恐らくそれは概ね間違っていないだろう。たぶん紙パックには入っていない。
そろそろ自分も決めなければ。優真はあれこれ目移りしつつも、とりあえずある程度は味の予想ができるものを選ぶことにした。
「ええっと、じゃあわたし、アローラ風ココアにする」
「あれれー? こなっちゃん、この間ココア苦手って言ってなかったっけ?」
ぎくっ、と優真が言葉を詰まらせる。小夏は自分の知らないところで、綾乃に「ココアが苦手」だとかそういう話をしていたらしい。言うまでもなく今の小夏は優真だ、そんなこと分かりっこない。なんとかこの場をしのがないと、優真はすかさずこう切り返した。
「あ、あれはね、普通のココアが苦手だったの! アローラ風のは好きなんだ、わたし」
「そうなんだ。確かに、アローラ風はちょっと違うもんね。コーヒーっぽいっていうか」
なんとも締まらない口から出まかせではあるものの、綾乃の疑念を取り除くには十分だった。優真が額に浮かんだ冷や汗をハンカチでぬぐって、ふう、と息をつく。こういうことがあるから、小夏の立場を演じきるのは難しい。いつどこで「前と言っていることが違う」と指摘されるか分からないのだ。
せっかくだから、フィオネちゃんにも頼んであげたら? そう言われた優真がなるほどと思い立ち、メニューを見せてフィオネに好きなものを選ばせる。フィオネが指したのはグリーンアップルジュース、これならフィオネが飲んでも大丈夫だ。分かった、と優真が承諾して、オーダーするものがすべて決まった。綾乃が店員さんを呼んで、別のテーブルの片付け中だった店員さんがすぐさま反応する。注文を取りに来るまでの間に、優真が他にどんなお客さんがいるのかと辺りを見回してみる。
店の一番奥にあるカウンターでは、小さな女の子がひとりで座って分厚い本を読んでいる。その二つ隣には、スバメを足元に連れた高齢の女性の姿があった。少し遠くに目を向けてみると、テーブル席に一人で座っている高校生の男子がいる。誰かのポケモンだろうか、店の隅ではアブソルが足を折りたたんですやすや眠っている。誰も彼も見知らぬ者ばかりで、今ここに顔見知りはいないようだ。年代が離れた人ばかりだから、目の前の綾乃を除いて小夏の知人もいないと見ていいだろう。
ここまではいい。喫茶店にいても何もおかしくない人たちばかりだ。しかしながら、隅の席に一人で座っている男性だけは、ちょっと……どころか、かなり毛色が違っていた。
(それはいいとして……あれって、メガネなのか?)
ソラマメのようなメガネをかけた細身の中年男性。その異様な風貌に思わず優真の目が奪われる。顔立ちはちょっと異邦人っぽい程度、服装も半袖のポロシャツに黒のスラックスとさほど変わったものでもないのだけど、とにかくそのメガネが目立つことこの上ない。ファッションで掛けている伊達メガネなのか、それとも実用的なメガネなのか。どちらにせよ、目を惹く存在であることに間違いはなかった。
「お待たせー。お二人さん、注文どないする?」
「えーっと、ブレンドピーチジュースと、アローラ風ココア、それからグリーンアップルジュースで!」
「かしこまりましたっ」
店員さんにオーダーを通してから、メニューを回収してもらう。あとは頼んだ品物が出てくるのを待つだけだ。
(わかんねえけど、女子ってこういう場所で雑談とかするもんなのかな)
綾乃と対面して座る優真。体は同性同士、けれど心は異性同士。まっすぐに自分を見つめられると、優真と言えど少し緊張してしまう。ここからきっと綾乃とおしゃべりが始まるに違いない。いわゆるガールズトークである。
何分優真には女子の事情がさっぱり分からない。やっぱり、誰それが好きとか、あの子はちょっとやな感じだよねとか、そういう話になるのかな。これくらいの想像しかできなかった。
(俺は……正直、そういうのあんまり興味ねえんだよな)
部屋にいた時にも考えたことだが、恋愛のことは――少なくとも他人のことについてはあまり話をしようと思うことは無かったし、誰かの陰口を言ったりするのはもっと性に合わない。なんとなくではあったが、綾乃はそういう話をするのが好きそうに見えた。自分が知らないだけで、小夏も結構好きなのかもしれない。小夏にはこそこそと裏で何か言ったりしていてもらいたくなかったんだけどな、勝手なことと知りつつ、優真はそう思わずにはいられない。
「ねぇこなっちゃん。いきなりなんだけど……」
ああ、この流れはやっぱりそうだ。実は好きな人がいるんだけどとか、そういう展開に違いない。
「この間ね、商店街を歩いてた時なんだけど」
「うん」
「ふっ、って右手を見たら、そこに山手がいて……」
「山手くん……」
山手か、と優真は心の中で軽く舌打ちする。そう言えば小夏の通っている塾でも見かけた記憶がある。前にも思い返した通り、あいつは学校の人気者だ。さては綾乃も山手に惚れてしまったのかな。これはどう返したものかな、と少しばかり困りつつ、心の準備をする優真。
「山手の見てた方に目を向けたら、『あなたの記憶書き換えます』って看板があったの。これってすごくない? 記憶書き換えちゃうんだよ、記憶」
「……え? あ、あれ? あれ?」
ところがどっこい、綾乃が話そうとしているのは、通りがかった山手を見た時に見つけた謎の看板について、だった。これは予想外もいいところだ。あの展開なら十中八九、山手のことについて話すと思うだろう。だが綾乃にとって山手は単にきっかけでしかなくて、本題はあくまで「あなたの記憶書き換えます」なる看板にまつわるもののようだった。
「えーっと……あ、あのさ、山手、山手くんは……?」
「さあ、そのままどっか行っちゃった。でもあの看板見てたってことは、記憶をどうかしたかったのかもね」
「そ……そうなんだ」
「あ。ひょっとしてこなっちゃん、私が山手に惚れちゃったとか、そういう話すると思ったでしょ?」
「えっ!? いやいやいや、そういうわけじゃ……えっと、ううん……」
「もう、大丈夫だよぉ。こなっちゃんったら心配性なんだから。そんな話、私がするはずないじゃない」
なんだこれ、と優真は呆気に取られるばかりだ。綾乃にとって山手はさして興味のない存在らしく、その返答は実に素っ気ない。しかも自分の考えを見抜いていた辺り、実に抜け目ないというかなんというか。それより記憶を上書きしてくれるらしき店に興味を向けまくっている。なんだって綾乃がそんなに記憶をいじりたがるのか優真には分からなかったものの、色恋沙汰と不思議な店なら後者の方がまだ話はしやすい。綾乃が作った流れにそのまま乗ることにした。
「それより看板出してたお店だよ! 記憶をいじれるって、なんだかすごいよねー」
「えっと、すごいとは思う」
「いいなぁ、あんなお店あるんだ。一度行ってみよっかな」
山手のことはもうすっかりどうでもよくなって、綾乃は店への想いをつらつらと語るばかり。テンションが違いすぎて、優真は正直ちょっと付いていけていない。もちろん優真にだって消したい記憶のひとつやふたつ――それこそ、家を出るまで考えていた、小夏にしでかしたイタズラだとか――ありはしたが、ここまで熱っぽく語られると引いてしまう。そもそも綾乃はどうしてこんな話をいきなり振ってきたのか、小夏との普段の関係が気になって仕方がない。
綾乃に好きなようにしゃべらせていた優真だったが、当の綾乃は前触れなしにこんなことを口に出していて。
「記憶をいじってもらえば、嫌なこととか怖いこととか、全部忘れられるんだろうね」
「うん、まあ……ノートに書いたのを消しゴムで消して、上から新しいことを書くようなものだし」
「だよねー。嫌な思い出とか消したい記憶なんていっぱいあるし、まっさらにして綺麗にしてもらいたいよ。山手も似たような感じなんだろうね、きっと」
とんでもないことをさらっと言う、優真はそう思わずにはいられない。嫌な思い出が多いって、こいつはいったいどんな人生を送ってきたんだか。見た目は小夏に似て物静かなタイプだけど、付き合ってみると意外と闇が深い面が見えてくるタイプではなかろうか。優真は明るい口調で決して明るいとは言えないことをペラペラ話す綾乃を、ちょっとばかり遠巻きに眺めていた。
下手をするとここから綾乃の「消したい記憶」の話が飛んできて、とんでもなく憂鬱な気持ちにさせられるんじゃないか、戦々恐々とする優真だったが、ここで意外なところから救いの手が差し伸べられた。
「綾乃ちゃん、それって、マーガレットさんのお店と違う? オーベムのマーガレットさん」
「あ、そうそう。それです。すみっこの方に小さくオーベムの絵が描いてあって、マーガレットって人が店主って」
「ああ、ほな間違いないわ。うちもシラセからそないな店あるって教えてもろたし」
オーベム、という名前には聞き覚えがあった。大きな頭を持つ人型のポケモンで、強力な超能力を使いこなすらしい。榁には生息していないポケモンなのだが、どこかからやってきてそのまま住み着き、今やなんと店まで持っているらしい。ポケモンなのに店を開いてるのか、ゲームの世界じゃないんだから――優真はそんな感想を抱く。ともあれ、商店街にはマーガレットなる名前のオーベムが経営する記憶を改ざんしてくれる店があるようだ。まあ、どこを切り取っても奇妙な話である。
「記憶を消したり書いたりできるってすごいよねぇ。どういう原理なのかなぁ」
「気になるんやったら、いっぺん行ってみたらええんと違う? マーガレットさん優しいから、相談とか乗ってくれると思うで」
話をうまく飲み込めずにいる優真とは対照的に、綾乃もこの店員さんもマーガレットの店を普通のものとして捉えている。これが女子の感性なのだろうか、自分もそのうち女子になりきって違和感を覚えなくなるのか。いや、優真にはとてもそうは思えなかった。ペースを合わせてくれている店員さんはともかく、綾乃はやはりちょっとズレたところがある。今度小夏に会ったら話を聞いてみたい、普段綾乃とどんな話をしているのかとか、小夏から見て綾乃はどうなのか、とかをだ。
店員さんが仕事に戻り、マーガレットの店についての話題もここで終わる。それからは夏休みの宿題はどうとか、昨日観たテレビが都市伝説特集で結構怖かっただとか、明日は剣道の練成会があるとか、ごく普通の雑談が続いた。他愛のない話をしている限りやはり綾乃はごくごくまともで、先ほど見せたような後ろ暗さを感じさせる様子はかけらもない。優真も小夏の口調を真似ることを意識しつつ、ごく普通に会話を続ける。
「体育館はエアコンないから、終わった後すっごいむわっとしてさ、汗びっしょりになっちゃう」
「大変そうだよね。面とかつけてるし、いっぱい動くし」
「ホントだよ。先生休憩あんまり挟まないし、掛かり稽古長いし。もうね、家に帰ったら即シャワーだよ」
「分かる分かる。わたしも海で泳いだ後は同じだよ。フィオネも水浴びしたがるし」
「だよねー。体洗うの好きそうだもんね、フィオネちゃん」
「みぃう?」
こんな具合で、しばらくまっとうな雑談が続いていたのだけれど。
「いつも思うけど、こなっちゃんも大変だよね」
「えっ? 何が?」
「川村のこと! ほら、よくちょっかい出してくるって言ってるし」
流れからして不自然ではないとはいえ、あまり振られたくない話題が振られてしまった。優真が普段小夏にイタズラをしていることについて、だ。他ならぬ犯人が目の前にいようとは、さすがの綾乃も気づいていない様子。だからこそ、話しづらいことこの上なかった。
「あ、あぁ……うん。ほんとに、嫌になっちゃうよ」
「ねー、私には見向きもしないのに。川村ったら、こなっちゃんのこと、気になって仕方ないみたい」
「ほ、ホントだよ。こっちは困ってるのにね」
自分で自分の出したちょっかいを否定するというのは、まあ率直に言って気持ちのいいものではない。きっと小夏ならこう思うだろう、そして綾乃にはこう返すだろう、そのシミュレートに集中して、深く考えずに回答する。綾乃が怪しんでいないか、彼女の顔色と仕草をうかがいながら、会話をスムーズにつなげていくことだけに意識を傾けた。
「相手をからかってばかりじゃ、いつまで経っても仲良くなんてなれないのにね」
いやいやいや、お前がそれを言うなよ、優真が心の中でツッコミを入れる。目の前にいるのが普段から綾乃にからかわれてばかりの優真だと知ったら、綾乃はどんな顔をするだろうか。見てみたいという気持ちをぐっとこらえて、あくまで小夏として振る舞うことを意識する。
そうしているうちにいつしか時間は過ぎていって、間もなく十五時を迎えようとしていたときのこと。
「ねぇ、こなっちゃん。ひとつ訊いてもいい?」
「どうしたの?」
「今連れてるフィオネちゃん、こなっちゃん一人で育ててるの?」
雑談の流れで、綾乃がフィオネについて訊ねてきた。小夏一人の手で育てているのか、なんてことのない質問だった。優真はフィオネの目を見てから、テーブルの上に両肘を付いている綾乃に答えを返す。
「お母さんにも、一緒に面倒見てもらってるよ」
「ふぅーん。お母さんだけ?」
「あとは……えっと、優真くんにも」
「へぇ、川村もいっしょなんだ」
「うん。フィオネをタマゴを海岸で一緒に見つけたから、それで」
「川村と一緒にフィオネを育てるなんて、大変なんじゃない?」
「大変だよ。二人で交代して家で預かって、それで、互いの家にもよく行ったりするから」
「おおっ、そうなんだ。やるじゃんこなっちゃん、教えてくれてありがとね」
綾乃は三分の一ほど残っていたブレンドピーチジュースを一気に飲んでしまうと、ことり、とテーブルにグラスを置く。ふう、と小さく息をつくと、すっと窓の外へ目線を向けた。
なんだってこんなことを訊ねてきたんだろう――と、優真は顔には出さないものの密かに疑問に感じていた。自分が小夏とフィオネの面倒を見ていることが、綾乃にどんな関係があるというのか。もちろん訊かれたことに対して正直に答えたわけだが、綾乃がそこに興味を持つ理由が分からない。当の綾乃は窓の外から海を眺めていて、何を考えているのかは分からなかった。
「ガンマさん、アルファさん元気にしとります? またいつでもアップルソーダ飲みに来てって言うたってくださいね」
「ありがとうございます。アルファにも伝達しておきましょう」
さて、例の元気のいい店員さんは、先ほど店にやってきた長身長髪の女性――ガンマと言うらしい。彼女と楽しげに話をしている。優真と綾乃は雑談に興じていて、彼女らの会話はさっぱり聴こえていない様子。その横を例のソラマメめいた自己主張の激しい眼鏡を掛けた男性が通り過ぎていき、お手洗いの方へ向かっていく。
「去年の秋頃やったかなぁ。若葉市から来た言う女の子、ええっと、そうそう、ひかりちゃんや。ひかりちゃんがお店に来たのって」
「確か……トキノミヤ博士の所在を聴取された件でしたか」
「せやせや。こっから歩いて三十分くらいのところにあるでって言うて、うちが便箋に地図書いて渡したったんやわ」
「ええ。私が出迎えさせていただきましたので、よく記憶しています。とても」
「そこでひかりちゃんのお母さん働いてるって聞いて、うちこの子応援したいなあ思ったんよ。同じ静都ことば使とったし。親近感やな親近感」
「若葉市から俯瞰すれば、ずいぶんと遠方の地に位置することになりますからね」
「せやんな。今も元気にしとるかなぁ、ひかりちゃん。ええ子やったし、またペリドットに遊びに来てほしいわあ」
「……ええ。ひかりさんに、またペリドットへ来訪いただける日が来ればいいのですが」
と、ここで時計の針がちょうど十五時を指した。今の今までずっと静かだったペリドットに、前触れなくゆったりした曲調のクラシック音楽が流れ始めたのは、まさしくその時だった。
「みなさん、こんにちは。ラジオ・ラピスラズリの時間です」
優真が顔を上げる。ラジオの放送が始まったらしい。元々ラジオを聴く機会が無かったとは言え、「ラジオ・ラピスラズリ」なる番組の名前は耳にしたことがない。綾乃も同じだったようで、「なんだろうね」と優真に訊ねてくる。二人揃って首をかしげつつ、放送に耳を傾けた。
ラジオの放送が始まると同時に、カウンターの向こうでコーヒーを淹れていたマスターがすっと持ち場を離れて、テーブルでスマートフォンをいじっていた高校生の男子の元へ向かう。
「羽山くん羽山くん、始まったよ。ほら、頼子ちゃんのラジオ」
「えっ!? いや、おっ、俺は……べっ、別に、これを聴きにきたわけじゃないですから」
「ありゃま。いらないお節介だったかな。でも、せっかくだから聴いてってよ。きっと楽しいと思うから、ね」
マスターは高校生――羽山くんににっこり笑顔を向けてから、今度は並んでぽかんと口を開けている優真と綾乃の元へ歩み寄ってきた。
「どう? このラジオ、地元の女の子が放送してるんだよ」
「ええっ!? ホントなんですか?」
「うん。いわゆる、コミュニティFMって形のラジオだね。最近流れてくるようになったんだ」
まだほとんどの人は気付いてないみたいだけどね、受信機を残しておいてよかったよ。マスターはそう付け加えた。
「ラジオ・ラピスラズリ、久々の開局。これはグッドニュースだね」
「ラピスラズリ……ちょっと待って、それってもしかして――」
その名前を、優真は別の場所で目にした記憶があって。
「なあ椎……こほん。ねえ綾乃ちゃん、ラピスラズリって、ここから二十分くらい行ったところにある、喫茶店っぽい場所だよね?」
「あっ、うんうん。それ、私も見たことあるよ。でも、今はもう閉まってたと思うんだけど」
「うちの友達から聞いた話やけど、最近またお店開けて、こないしてラジオの放送するようになったみたいやわ。高校生が四人かそこら集まった言うてたっけ」
「頼子ちゃんと七海ちゃん、あとは希ちゃんに弘美ちゃんだったかな。みんな顔見知りだから、放送が楽しみだよ。久しぶりの復活だしね」
「へぇー、そうなんですね!」
マスター曰く、あのラジオは以前も放送されていて、最近になって再び流れるようになった、とのことだ。それがどの程度以前のことなのかまでは分からないが、久しぶり、と言うからには、それなりに期間が空いていたのだろう。
「まだ喫茶店としては営業しとらんみたいやけど、ペリドットにしてみれば手ごわいライバルの出現やな、お姉ちゃん」
「だね。これはうかうかしてられないよ」
口ではそう言いながら、マスターはとても嬉しそうな顔をしていた。
「昨日は海辺へ散歩に行ったんですけど、その時クズモーを見かけてね」
「あっ、あたしも見た見たっ。なんかふよふよ浮いてて、海藻になりきってるって感じで……」
ラジオからはパーソナリティと思しき女の子が、相方と他愛ない雑談を繰り広げる様子が延々と流れてくる。
「マリルって、ルリリから進化するときに♀から♂になっちゃうことがあるんだって!」
「それって……性転換!? ひゃーっ、そんなことあるんだ! ビックリしちゃうねー」
初めのうちは物珍しさで聞いていた優真と綾乃だったものの、女子高生たちのヤマもオチもない話がずっと続いて、なんだかちょっと退屈してしまったようだ。また元のおしゃべりに戻ろうか――優真がそう切り出そうとした直前だった。
「おねーちゃんっ!」
店のドアが開いたかと思うと、そこから優真にとっても聞き覚えのある声が飛んできて。
(えっ? あの声……沙絵さん?)
優真が抱いた疑問は、カウンターの奥に控えていたマスターと店員さんがこんな応答をしたことで、すぐさま解消された。
「あ、お姉ちゃん」
「よっす! 今日もがんばってるみたいだねっ」
「ありゃま、沙絵じゃない。遊びに来てくれたの?」
「ちょっと寄り道っ。練習早く終わっちゃったから、お姉ちゃんたちの様子見に行こっかなーって思って」
ペリドットを訪れたのは沙絵だった。優真にしてみればジムで先輩に当たるお姉さん的存在で、話をすることもしばしばあった。今まで知らなかったが、沙絵はここのマスターの妹にして、店員さんの姉にあたるらしい……つまりあの店員さんは、マスターと沙絵さんの妹、ということだ。何のことは無い、ペリドットは姉妹二人で運営されていたというわけだ。
(まさか、マスターが沙絵さんの姉貴だったなんてな)
意外なところで人間関係が繋がった気がして、優真は少し不思議な気持ちになった。無関係だと思っていた人同士が関係していると知ると、新しい世界に触れたような気がする。これに限らず、優真がしばしば感じることでもあった。
しかし今の優真は小夏、小夏と沙絵には面識などあるはずがない。話しかけたい気持ちをぐっとこらえて、前にいる綾乃に再び目を向ける。綾乃はスマートフォンを少しいじっていたが、それもすぐにパタンとケースを閉じて、小夏の姿をした優真と目を合わせた。そこからまた自然と、とりとめのない話が始まる。
「ねえお姉ちゃんたち。佐藤さん、今日はここに来てない?」
「佐藤くん? 今日は見かけてないね。お仕事中なんじゃないかな」
「うちも見とらへんなぁ。お姉ちゃん、佐藤さんになんか用事あったりするん?」
「うん。相談したいことがあってね。もしかしたら、管理局の人に来てもらわないといけないかも知れないんだ」
「よかったらでええねんけど、どういうことか教えてくれへん? ちょっと気になるわ、それ」
「ジムに通ってる知り合いがいるんだけど、最近その子の様子がおかしくて。ひょっとしたら何か起きてるんじゃないかなって、心配なんだよ」
「ありゃま。それなら、できるだけ早く話したほうがいいね。もし見かけたら、私から佐藤くんに伝えておくよ。沙絵が捜してたよ、って」
「うん、お願いしちゃうね」
横で沙絵たちが話していたものの、優真は綾乃とのおしゃべりに集中していて、少しも気に掛けていなかった。
結局そのまま夕方までペリドットで過ごして、陽が傾いてきたところで家に帰ることにした。フィオネはうとうとしていて、優真の腕の中で今にも眠ろうとしている。泣いたりすることもなかったから、フィオネにとってもペリドットは居心地のいい場所だったのだろう。頼んだグリーンアップルジュースも綺麗に飲み乾している。また連れてきても大丈夫そうだ、優真はそう考えた。
「じゃあね、こなっちゃん。また遊ぼうね」
「うん。バイバイ、綾乃ちゃん」
互いに別れの挨拶をして、優真と綾乃がペリドットの前で別れる。扉がひとりでに閉まって、カランカランと鈴の音が響きわたる。やがて二人の影も見えなくなって、ペリドットから離れていった。
「――ふむ」
二人が出ていく様子を、店の隅で見ていた者がひとり。優真をして「ソラマメみたいなメガネをかけた人」――その人だった。おもむろにスマートフォンを取り出したかと思うと、慣れた手つきで何やら文字を入力していく。あっという間に文面を書き上げると、そのままメールを送信してしまう。
ケースをパタンと閉じてポケットにしまい込むと、すっと席から立ち上がって、メガネの奥に光る目をぎらつかせる。
「彼女のフィオネについては、少し調べる必要がありそうですねぇ」
「……あの容貌、ドクター・トキノミヤが何か噛んでいるかも知れません」
今日、ここペリドットにフィオネを連れて入店したのは、優真しかいない。彼が口にした「フィオネ」は、優真のフィオネしかありえなかった。
「よもや、このような僻地に研究開発部門があったとは……先々代も厄介なことをしてくださる。どうやら先代にもうまく引き継がれていなかったようですが」
「代表の仰っていた通り、榁には魑魅魍魎が蠢いていますな。いやはや、さすがに目聡いお方だ。私が見込んだだけのことはある」
「とは言え、かのフィオネにさほど危険はないでしょう。少なくとも、通常個体と異なる反応は見られない」
誰にも聞こえないような小さな声で、誰に対して向けるでもなく。
「――見習いのあの子に、少しばかり調べさせるとしましょうかねぇ」
確かに、そう呟いたのだった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。