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#18 思春期ビターチェンジ

今日も今日とて小夏と優真の特訓は続く。小夏が優真に勉強を教える時間が終わったところで、優真が小夏に水泳を教えるために海へやってきていた。既にどちらも水着に着替えていて、海で練習に励んでいる。

「小夏、お前まだ顔を水に浸けられないのかよ。俺の言った練習、ちゃんとやってるのか?」

「ううっ……だって、やっぱり怖いんだもん。溺れるって思っちゃって……」

「いやいやいや、怖いって言ったってだな、いつまでも逃げてるわけにも行かないんだぞ。大会までもう後三週間もねえんだから」

「分かってる、分かってるけど……」

小夏の方は相変わらず水に苦手意識があって、顔を水に浸けることもままならない。練習を続けていたおかげで基礎体力は維持できていたし、優真の体にもそれなりに慣れてはきているが、自由に泳げる、とまではまだまだ行かない。日一日と大会が迫ってきていて、小夏も優真も焦りの色を隠せない。小夏もやる気はあったものの、恐怖を乗り越えるには今一歩及ばない状態だった。

「でも、優真くんだって。夏休みの宿題、ちゃんとやってなかったでしょ」

「うぐっ、そ、それは……」

「本番はわたしが側で教えてあげるってわけには行かないから、しっかりこなしてよね」

「……ちぇっ、なんだよ。耳が痛いこと言ってくれるぜ」

優真の方もやっぱりはかどっておらず、小夏から言われた夏休みの宿題も滞りがちだった。毎日のように出される塾の宿題だけで手一杯ということもあったけれど、やっぱり勉強の習慣が身に付いていないことが一番大きかった。こちらも全国学力テストまでの期日は刻一刻と迫ってきている。塾の講義も日に日にレベルが上がってきていて、優真は頭痛と寝不足に悩まされる日々が続いていた。

こうして二人がお互いに入れ替わってから、今日でもう十日になる。危ない場面は何度もあったけど、今のところどちらの家族や友人にも、入れ替わりが起きたことはバレずに済んでいる。その場その場でうまくごまかしてきたからだ。けれどそうは言ってもいつ看破されてしまってもおかしくなくて、ヒヤリとすることは大変多かった。ただ口調を真似るだけに留まらず、小夏は優真らしく、優真は小夏らしく振る舞わなければならなかったから、誰かと話をする時は緊張しっぱなしなのだ。

「みぅ! みぅみぅ♪」

「あっ、こらフィオネっ、勝手に遠くに行っちゃダメだぞ」

フィオネもまた、手がかかって仕方なかった。食べたい時に食べて、遊びたい時に遊んで、そして泣きたい時に泣く。小夏も優真もフィオネの夜泣きでなかなか寝付けない日が多かった。交代で面倒を見ると決めたから、少なくとも一日はぐっすり眠れるのがただひとつの救いだった。天真爛漫、天衣無縫を体であらわしたような自由奔放ぶりで、今も優真に見守られながら海で好きなように遊んでいる。小夏とフィオネの両方を見ないといけない優真は、二倍大変そうだった。

さてさて、泳ぎ始めて一時間ほど。小夏の練習がひと段落したところで、優真が沖合を漂っている小夏に声をかけた。

「ちょっといいか、小夏」

「どうかした?」

「この間さ、宮沢ん家行ったって言ってただろ」

少し前のことだ。優真は小夏から宮沢くんの家へ遊びに行った、という話を聞かされていた。小夏が「そうだよ」と応じると、優真がさらに続けた。

「昨日さ、たまたま宮沢を見かけたんだ。そうしたら、その時に白い服着た女の子が隣にいたんだよ。何か知らないか?」

「白い服を着た女の人……? 宮沢くんのお母さんじゃなくて?」

「いや、母親じゃなかった。あの服は……ああ、そうだ。ほら、あれだよ。エーテル財団。あれの制服だったな」

「エーテル財団……あっ、それならわたしもこの辺りで見たよ。打ち上げられたホエルコを助けてたっけ」

「じゃあ、この辺りにいるのは間違いないな。エーテル財団の服を着た、俺たちより五つか六つくらい年上って感じの姉ちゃんが隣にいて、宮沢と話をしてたんだ」

優真が目にしたのは、エーテル財団職員らしき少女を伴った宮沢くんの姿だった。宮沢くんとは旧知の仲で、家族関係のこともだいたい知っていたつもりだった優真から見ると、その少女の存在はよほど不思議に映ったらしい。しきりに首をかしげて、あいつは誰だったんだ、と繰り返している。そこで、少し前に宮沢くんの家へ遊びに行ったという小夏が何か見ていないか訊ねたのである。

「うーん、この間遊びに行ったときは、そんな人家にいなかったよ」

「小夏も見てないか……ありゃ一体誰だったんだろうな」

「宮沢くんのことはよく知らないけど、従姉妹か誰かじゃないかな?」

「ああ、確かあいつ、従姉妹がいるとかどうとか言ってたな。そいつならあり得るか」

宮沢くんの家へ遊びに行った時の話を振られたことがきっかけになってのか、小夏が「あっ」という表情を見せる。今度は小夏が優真に問い掛ける番だ。

「そうそう、優真くん。一昨日頼んだこと、どんな感じ?」

「一昨日……ああ、東原と話す、ってやつか」

「うん、それそれ。うまく行った? まりちゃん一緒の塾に通ってるから、すぐにできると思うけど……」

小夏が佐々木くんと話したときに小耳に挟んだ、毬がフィオネを育てているという話。自分たちと違って、毬は代々フィオネを育てることが決まっている家の子だ。きっと生態や育て方について詳しく知っているに違いない。ぜひとも話を聞いておきたい、小夏はそう考えたのだけど、優真は気まずそうな顔をして、水滴の付いた首筋をごまかすように触るばかりで。

「……悪ぃ、まだ話できてねえや」

「えぇーっ! まだなの!?」

「いやいやいや、そうは言ったってだな……塾じゃお喋りする暇もろくにねえし、そうは言ってもいきなり家に上がり込むのもなあ……」

「もう、優真くんったら。ちゃんとしてよね。まりちゃんはフィオネのこといろいろ知ってるみたいだし、訊かないとダメだよ」

「俺だって聞きたいけどさあ、下手なこと言ったら小夏じゃねえってバレそうだし」

「事情は分かるし、仕方ないけど、でも……フィオネのこと、もっと知らなきゃいけないし」

「このまま振り回されっぱなしじゃ、俺たちの身がもたねえからな」

「図書館に行って本も探してみてるけど、珍しいポケモンだからかな、なかなか見つからないよ」

「きっついなぁ。図書館で本を探すのに慣れてる小夏が見つけられないんじゃ、やっぱ東原に訊くしかねえか」

フィオネはいわゆる稀少な――でんげきポケモンのサンダーや、むげんポケモンのラティアスやラティオス、かこうポケモンのヒードランのような――ポケモンとは違って、いろいろな地域で目撃はされている。ただ、スバメやジグザグマのような、それこそどこにでもいるようなポケモンともまた違い、数自体はそれほど多くないようだ。文化的には様々な研究がされているが、生き物として詳しく調べた資料は数が少ない。榁の図書館は大変大きくて蔵書も多かったのだが、図書館で本を見つけるのが得意な小夏をもってしてもフィオネの情報を満足に得られる書籍は見つけることができていなかった。

まりちゃんとは、絶対一回話をしてね、小夏からそう言いつけられた優真は、気が進まないながらも承諾するしかなかった。

「それと、もうひとつ。この間は聞きそびれちゃったんだけど……」

「なんだ?」

「綾乃ちゃん。二人でペリドットに行ったんだよね? どんな風だったかなーって、聞きたくて」

「ああ、椎名か。元気そうだったぞ、いろいろ喋ってたし。ただ……なんていうかさ、普通っぽく見えるけど、中身は結構変人なんだな、あいつ」

変人。優真は思ったことをそのまま口に出して小夏に伝える。

「ちょっと優真くん、変人なんて言っちゃ失礼だよ。綾乃ちゃんはわたしの友達なんだから」

「だってさあ、あのほっそりした見た目で剣道やってたりとか、オーベムの……マーガレットだっけ? そいつの店に興味持って自分の記憶を消したがったりとか、絶対普通じゃねえだろ」

「いろいろあるんだよ、綾乃ちゃんにだって」

「人は見た目だけじゃわからないって、俺にも分かるけどさ……」

「……消したい記憶の一つや二つ、誰にだってあるものだよ」

そう言われてしまっては、優真としては返す言葉がない。やれやれ、と肩をすくめるばかりだった。

優真と小夏が海から上がって近くの岩場へ向かうと、体を拭いて綺麗にしてから元の服に着替える。それからまた砂浜へ戻ると、座り込んでぼんやり海を眺める。お昼になるまではまだ少し時間がある。少し距離を開けて座った二人の間に、フィオネがするりと入り込む。

「……はぁ。わたしたち、いつまで入れ替わったままなんだろう」

「元に戻れなかったら、洒落になってねえぞ」

深刻な顔をする二人をよそに、フィオネは楽しそうにはしゃいでいる。辺りをぴょんぴょん跳ねまわって、時々優真の肩に乗ったり、小夏の足にぴとりと寄り添ったり。悩み事とも心配事とも無縁、そんな顔つきをして見せていた。遊びたがるフィオネの相手をほどほどにしてやりながら、小夏が大きなため息をつく。

「フィオネはいいなぁ。悩みなんて、一個もなさそうで」

「本当、気楽なもんだよな。俺たちの気も知らないでさ」

そうやって少しばかりうんざりしながら、フィオネに構っていた二人、だったのだけど――。

 

「よお、川村!」

「なっ!? さ――」

 

不意に声をかけられた優真――他人から見た姿は小夏――が驚き振り向いて、思わず「佐々木」とその名を口にしてしまいそうになる。そう、砂浜に立っていたのは他ならぬ佐々木くんだった。優真の友達の一人で、普段ならなんてことのない相手。しかし今、優真は小夏と心が入れ替わっている。もちろん、佐々木くんはその事を知る由もない。慌ててその口を押えてごまかすと、こちらに向かって歩いてくる佐々木くんを見やる。

佐々木くんが呼んだのは自分だということに気付いた小夏――外見は紛れもない優真――が、一瞬遅れてぱっと後ろを振り向いた。だがそこで、小夏もまた絶句してしまう。

「やあ、皆口さん」

「えっ!? やま――」

そこに居たのは佐々木だけではなかった。佐々木だけでなく、あろうことか、山手くんが一緒にいたのだ。小夏の同級生で、通っている塾も同じ。校内でも人気者で知られる山手くんが、なぜか佐々木くんと仲良くつるんで、この場に揃って居合わせているのだ。突然のことに小夏が言葉を失う。無意識のうちに右手に目をやると、そこには同じく愕然とした顔つきの自分が、優真がいた。こんな状況になるなんて思ってもみなかった、とでも言いたげな顔をしている。

ペースを変えずに歩いてきた佐々木くんと山手くんが、小夏と優真のすぐ側で立ち止まる。佐々木くんは口元に笑みを浮かべていて、なんだか目つきもにやにやしている。対する山手くんはいつもと同じ顔つきで、いたって和やかに微笑むばかりだ。

このシチュエーションで真っ先に口火を切ったのは、やっぱり佐々木くんで。

「ひゅう。川村お前、誰かと一緒にいると思ったら、皆口だったんだな」

「プールバッグがある……ということは、二人で一緒に海で泳いだりしてたのかな?」

「お、おいっ! ……あ、いや……こ、これは……」

小夏の見た目をした優真が慌てて何か言おうとするものの、優真の見た目をした小夏に目を向けたままの佐々木くんはちっとも聞いていない様子で、さらにこう続けた。

「皆口も大胆なやつだなあ。海で二人っきり、なんてさ」

「ふっ、二人っきり……! ちょ、ちょっと!」

佐々木くんが優真に向けた言葉に小夏の方が、小夏に向けた言葉に優真の方が反応したものだから、佐々木くんは面白くて仕方ないという表情だ。怪しむ様子はなくて、むしろ自分の考えが正しいことを再確認したかのようで。

このままではよくない、そう思った小夏が、一歩前に出て懸命に反論する。

「さっ……佐々木! これはだな、そういうのじゃない、そういうのじゃないから! ただ……!」

「へへっ。なんだよ川村お前、お前の言ってる『そういうわけ』って、どういうのだよ?」

「そっ、それは、その……」

「川村くんと皆口さん、仲がいいみたいだね」

目の前にいる山手くんが、まったく嫌味を感じさせずに、あくまで率直な意見として「優真と小夏は仲が良さそう」だなんてさらりと言うものだから、小夏の方はもう気が気ではない。明らかに狼狽して、焦燥して、舌がまるで回らなくなってしまった。

「ちがっ……ちっ、違うって……!」

「そ……そうだよ! おれ……わたしたちはただ、海で泳ぐ練習をしてただけで……」

「んー? なんで二人で練習する必要があるんだー? 水泳なんて一人でもできるだろ」

二人の関係にバリバリと切り込んでくる佐々木くんを前にして、優真、もとい小夏は半泣きだ。そんな小夏と言いたい放題の佐々木くんを前にして、小夏、もとい優真はただおろおろするばかりで、一向に事態を好転させることができない。

「あれ? そこにいるポケモン、フィオネかな?」

小夏と優真が絶体絶命のピンチを迎えているとはつゆ知らず、辺りをふよふよ漂っていたフィオネを、山手くんが見つけ出した。とにかく何か言わないといけない、その気持ちでいっぱいだった優真が身を乗り出して、ついこんなことを口にしてしまう。

「フィ、フィオネだよ。わたしたち二人で面倒……お世話してる、の」

「二人で……?」

ところが、そこに佐々木くんがさらに食いついてきてしまって。

「川村お前、確かこの間こいつのこと『赤ちゃんみたいなポケモン』だって言ってたよな? なら、二人で赤ちゃん育ててるってわけかあ」

やばっ、と思わず口を押える優真。ポケモンの技である「ふぶき」を正面からもろに食らってしまったかのように表情を凍り付かせる小夏。そしてそこへ来て、山手くんがさらに言葉をかぶせてくる。

「元気そうな子だね。仲良く育ててあげてる証拠だよ。二人が親でよかったよ」

本当に悪意のない、むしろ二人を慮った優しい一言。

山手くんが放ったその何気ない一言が小夏を傷付けたとは、かけらも思うはずもなく。

「一緒に海で泳いで、ポケモンを二人三脚で育ててる。おまけにオレが何か言うたび、違う方が言い返してくる」

佐々木くんは二人の様子を見て、自分の考えが合っているものだという思いをますます強くしていく。

「川村お前、油断も隙も無いやつだな」

「――皆口と付き合ってた、なんてさ!」

川口と皆川は付き合っている――今置かれている状況を全部整理してみて、佐々木くんはそういう風に解釈していた。今の優真と小夏には、付き合っていると思われてもおかしくないだけの証拠が揃っていた。

それが二人の本心なのかどうかは、まったく関係が無くて。

「い……いやいやいや、そういうのじゃねーって……!」

「なんだよ、皆口お前、川村の口癖まで移ったのか? ホントに仲いいなあ、お前らさ」

佐々木くんは自分の考えにすっかり確信を持ってしまったようで、頭の後ろで手を組むと、ひゅう、と口笛を吹いて見せた。

「別に隠さなくたっていいだろ。別に他のやつに言いふらしたりはしねーからさ。けどよ、あんまり外で見せつけてると、お喋りな女子のネタにされちまうぞ」

「さ、佐々木、お前……!」

「はぁーあ。先週は相沢が月宮に告ってオッケーもらったって話聞かされたし、国崎も神尾と手つないで歩いてるの見たし、オレも……」

小夏と優真から一度目線を外して、佐々木くんが海岸沿いの道路に目を向ける。

「……えっ」

途端にその動きが止まる。みるみるうちに表情をこわばらせると、口を小さくパクパクさせて、わなわなと体を震わせた。佐々木くんが何かを目にしたのは間違いなかったのだが、優真も小夏も揃って頭が真っ白になっていたせいで、彼が何を見たのかを気付くことは無かったし、そもそも何かを発見したということにも気が付かなかった。

「わ、悪い川村、山手。オレ、ちょっと用事が……じゃ、じゃあな!」

佐々木くんはくるりと後ろへ振り返ると、言葉を詰まらせながら脱兎のごとくその場を立ち去った。山手くんが「どうしたんだろう」という顔をしながら佐々木くんの背中を見送り、それからまた穏やかな顔つきを見せてから、二人にこう言葉をかける。

「ごめんね、邪魔しちゃって。じゃあ皆口さん、また塾でね。川村くんも元気で」

爽やかな印象を振りまきつつ、山手くんが悠々と砂浜を歩いていく。

「…………」

「…………」

佐々木くんも山手くんも立ち去ってしまって、あとに残されたのは――気まずさの頂点に達した、小夏と優真の二人だけ。

少しばかり間を置いたところで、優真が恐る恐る声を上げる。

「こ、小夏……」

ところがその直後、小夏がこちらをキッと強くにらみつけてきて。

「なんで……! なんであんなこと言ったりしたの!」

その瞳には、涙がいっぱいに浮かんでいた。

「えっ、いや、あ、あんなことって……」

「ふたりでフィオネを育ててるとか! なんで山手くんの前で言ったりしたの!」

「いやいやいや! 待ってくれ、フィオネのことは本当だろ!?」

「ホントでもなんでも、ああいうこと言わないでって言ってるの!」

顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくりながら声を張り上げる小夏を目にして、優真はただただ戸惑うばかり。

「どうして山手くんに……! 山手くんには知られたくなかったのに……!」

けれど、次に小夏が見せた仕草で、優真もようやくその意味を理解するに至った。

「もしかして小夏、お前、山手のことを」

小夏は山手くんのことが気になっていた、あるいは――好意を抱いていた。だから、山手くんには優真と一緒にいることを知られたくなかった、ましてや、二人で子育てじみたことをしているなんて、もっと知られたくなかった、ということだ。

優真の言葉を受けた小夏は、はっきりとは肯定しなかった。けれどまた、否定もしなかった。つまるところ、当たらずとも遠からずとでも言うべきか。それが恋愛感情としての「好き」かどうかは別として、小夏が山手くんに特別な感情を抱いていたことは間違いなかった。

「……なんだよ、そういうことだったのかよ」

すると優真は、なんだか無性に腹が立ってきた。怒りの感情がふつふつと沸いてきて、ついつい乱暴な言葉を口に出してしまう。

「ちぇっ。山手なんかみたいなやつが好きだったなんてな」

「……ちょっと、それどういうこと」

こんな言い方をされては、控えめな小夏だって引き下がれない。顔を真っ赤にして怒りを露わにすると、優真に敵意むき出しの目を向けた。

「はっきり言ってやろうか? お前が山手みたいなスカしたやつが好きだったのが気に食わないってことだよ! 踏んだり蹴ったりもいいとこだぜ」

「何よ! 踏んだり蹴ったりなのはこっちの方だよ! もう最低っ、ホンットに最低っ!」

「お前……! 元はと言えばなあ、全部お前のせいなんだぞ、こんな無茶苦茶なことになったのは!」

心が入れ替わってしまったこと、フィオネの面倒を見る羽目になってしまったこと。それはすべて、小夏が海で溺れてしまったから。優真はずっと押し隠していた憤りにも似た思いを、ついに小夏の前でぶちまけた。

ここまで来てしまうと、後はもう言い合いになるしかなかった。

「わたし、女の子なのに……! 男の子のフリするの、もうつらいよ! やめたいよ!」

「うるせえ、俺の方が辛いに決まってるだろ! なよなよしてさ、スカートはいてさ、やってられねえよ!」

「優真くんが悪いんだよ! 泳ぐのだって嫌なのにやらなきゃいけないし、それに……せっかくお母さんと約束したのに……!」

「知るかよ、こっちは最後のチャンスなんだぞ! なのにお前のせいで台無しにされて、人生お先真っ暗だっての! ふざけやがって!」

「やめて! わたしの声でそんなこと言わないで!」

「お前だって、俺の声で女子みたいなこと言うんじゃねえよ!」

「いい加減にしてよ!」

「あ? やんのか? 調子に乗ってんじゃねえぞ!」

お互い掴み合いになって、激しく体を揺さぶり合う。力は優真の体を持つ小夏の方が強いけど、こういうケンカには慣れている優真も小夏の体で負けじと食らいついていく。どちらも今まで溜め込んでいた思いを爆発させて、取っ組み合いの大喧嘩に発展してしまう。

「わからない!? わたし、好きでもない人からいきなりキスされたんだよ!? こっちの身にもなってみてよ!」

「こいつ、よくも言いやがったな! あのままほっといたら、お前死んでたんだぞ! ここにいなかったって言ってんだよ!」

「だって……だって……! こんなことになるくらいなら、死んだ方がマシだったよ!」

「……お前っ!!」

死んだ方がマシだった、小夏が言い放ったこの言葉が、優真の感情に火を点けた。

(バシッ)

優真が小夏をの頬を――外から見ると、小夏が優真の頬を――、思いきりひっぱたいた。乾いた音が海岸一帯にいやに大きく響いて、小夏が砂浜にどさりと倒れ込む。

「……あっ」

そこで、言い合いがピタリと止まった。優真はハッとして、震える自分の右手を呆然と見つめる。そこにはまだ熱と、そして痛みが残っている。小夏もまた生気の抜けた顔をして、強く打たれた頬にこわごわ左手を添える。じんじんとした痛みが遅れて伝わってくる。さっきまでの荒れようが嘘のように、小夏は黙り込んでしまう。

何も言わなかった、何も言えなかった。ただ沈黙するしかなかった。優真も、小夏も、一言も口に出すことができなかった。倒れ込んだ優真の姿をした小夏、手をじっと見つめるばかりの小夏の姿をした優真。自分たちが置かれた状況を、嫌と言うほどに強く認識させられて。

けれど。

「……みっ……」

この静寂は、突如として破られた。

 

「みぅ……みぅぅぅぅぅぅぅうっ! みぃうぅぅうぅぅぅ!!」

 

「――フィオネ」

自分のお世話をしてくれているはずの小夏と優真が激しい言い争って、挙句の果てに優真が小夏に手を上げてしまったのを目の当たりにしたフィオネが、普段よりもずっと激しく泣き出したのだ。それはまさに火が点いてしまったかのよう。喉が潰れそうなほど激しく泣きじゃくって、フィオネは取り乱したように辺りを走り回っている。

ただ事ではないフィオネの様子に胸騒ぎを覚えた優真が、すぐに駆け寄ってフィオネを抱こうとする。けれどフィオネは優真の手をすり抜けて、ものすごいスピードであらぬ方角へ飛び去って行ってしまった。

「フィオネ! フィオネっ! 待ってくれ! どこに行くんだ!」

フィオネは砂浜を抜けて道へ上がると、勢いを落とすことなく走っていく。瞬く間にその姿は目で追えなくなって、どんどん遠くへ行ってしまう。

血相を変えた優真が倒れ込んでいた小夏に駆け寄って、喉の奥から絞り出すような声を上げる。

「小夏、頼む、フィオネを一緒に捜してくれ」

「このままじゃあいつが遠くに行っちまう、二度と俺たちのところに帰ってこないかも知れないんだ!」

小夏は何が起きているのか飲み込めない様子で、ただ惚けたように優真を見つめるばかり。優真はそれでも小夏に繰り返し、フィオネを一緒に探してほしいと頼み込む。

「あいつにはお前が必要なんだ、親のお前がいなきゃ、ダメなんだ」

「だから小夏、フィオネを、フィオネを……っ!」

悔恨の念でいっぱいになった表情を浮かべて、優真が深く頭を下げた。

「……俺は今からあいつが走ってった方に行く」

「落ち着いてからでいい、後からでいい」

「だから……頼む」

「フィオネを、一緒に捜してくれ」

そこまで言うと、優真はすっと立ち上がって、砂を払うのも忘れて無我夢中で走り出した。

小夏はしばらく一人その場に座り込んでいたものの、やがて少しずつ、その目に色が浮かび始める。意志がはっきりと表れて、自分にはなすべきこと、しなければならないことがあると自覚した表情に変わっていく。

「……フィオネ」

それは、ただひとつ。

「……行かなきゃ」

フィオネを――捜し出すこと。

「わたしも、行かなきゃ……!」

小夏は全身に力を込めて立ち上がると、砂を蹴って走り出した。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。