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#20 それは勇気の証

毬から聞いた情報をもとに、優真は港まで駆けつけた。

「はぁっ、はぁっ……ち、ちくしょう、体が……」

自分と比べて体力があるとは言えない小夏の体でひた走り続けたものだから、優真は完全に息が上がっている。震える膝を押さえてぜいぜいと息をつきながら、ここにいるであろうフィオネの姿を懸命に捜す。額から流れ落ちて来る汗が目に入ってきて、ずきずきとした痛みが走る。指で瞼をこすりながら、優真がただフィオネだけを一心に捜し続ける。

(あれは)

水色の小さな体、揺れる長い触手、宝石のような黄色の瞳。

「フィオネっ!」

そこに居たのは紛れもなくフィオネ、疑う余地なくフィオネ、間違いなく――フィオネだった。自分の名前を呼ばれたフィオネがハッとしたように声のした方へ、優真のいる方に向き直る。フィオネの目の辺りには、泣いた跡がくっきりと残っている。泣きながらこんなところまで走ってきたものだから、疲れている様子がありありとうかがえた。優真の足が自然と動いて、フィオネへ近づいていく。

けれど、フィオネを捜していたのは優真だけではなく、そして小夏だけでもなかった。

「見つけたぞ! 今度こそ捕まえてやるからな!」

初めて耳にする声。優真が目を向けると、そこには明らかに榁の外からやってきたようにしか見えない、見たことのないポケモントレーナーの姿があった。モンスターボールを携えて、フィオネに狙いを定めている。目的はあまりにも明白、フィオネを捕まえることに他ならない。フィオネは数が少なく珍しいポケモン、欲しがるポケモントレーナーはとても多かった。「親」のいない「野生」のフィオネに出くわして、しかも体力を消耗しているとあっては、絶好の捕獲対象と言えた。

恐れていた事態が、今まさに目の前で起きようとしていた。ここであのトレーナーにフィオネを捕まえられてしまったら、もう二度と自分たちの元には戻ってこない。疲れ切って憔悴したフィオネが、助けを求めるような目を優真に向けている。そうしている間にも、トレーナーはフィオネ目掛けてモンスターボールを投げる準備を済ませていた。

「行けぇっ!」

しっかりと狙いをつけて投げられたボールが、フィオネに向かって真っすぐ飛んで行って。

「――やめろぉっ!!」

フィオネに直撃する寸前、無我夢中で飛び出した優真が、己の身を盾にして弾き飛ばした。捕獲対象を見失ったボールが大きく飛んで行って、道路の上にガチャンと無機質な音を立てて落ちる。

間一髪、フィオネが捕まえられてしまうことは防いだ。しゃがみこんだ優真がフィオネを抱いて、大丈夫か、と声をかける。フィオネが身を震わせながら小さくうなずいて、優真の問いかけに応える。無事でよかった、優真がほっと胸をなでおろす。

「おいっ、何するんだ!」

だが、安心したのも束の間。フィオネを捕まえられなかったトレーナーが怒り心頭の面持ちで、優真の元まで大股でのしのし歩いてくる。もうあと少しでお目当てのポケモンを捕まえられそうだというところで、見知らぬ子供にそれを思いきり邪魔されたのだ。これに腹を立てないはずがない。座ったままの優真が表情をこわばらせながら顔を向けて、その目に肩をいからせながら歩み寄るトレーナーの姿を捉えた。

「ま、待ってください。このフィオネは……俺たちが育ててるんです!」

相手は自分よりも明らかに年上、ちょうどこの間帰ってきた楓子と同い年くらいだ。背はかなり高くて、上から見下ろされるような格好だ。優真は声を震わせながら、それでも懸命に、このフィオネは自分たちが育てているものだと相手に訴えた。

言うまでもなく、それで素直に引き下がってくれるような相手ではなくて。

「知らないさ、そんなこと! 野生のポケモンなんだ、誰が捕まえたっていいじゃないか!」

モンスターボールに紐付けられていないポケモンは、文字通り誰のものでもない。他人にいつ捕まえられてしまってもおかしくないのだ。優真はそれを頭では理解していたが、心は決してフィオネを離すまいと固く誓っていた。ぎゅっと強くフィオネを抱きしめて、睨みつけて来るトレーナーに必死に抵抗する。

その優真の態度が、トレーナーの怒りの炎に油を注ぐ結果となってしまう。

「こいつ……っ!」

優真の――正しくは小夏のお下げ髪をさながら綱のように乱暴にひっつかむと、上に引っ張り上げて無理やり優真を立たせる。髪を引っ張られる痛みに顔をしかめる優真に、トレーナーが目をぎらつかせて凄んで見せる。

「やっ……! やめっ……!」

「子供のくせに、よくも僕の邪魔をしてくれたな」

辺りに人影は見当たらず、誰もこの状況を見ていない。いるのは自分とフィオネ、そして今にも自分を襲おうとしている他所のトレーナーだけ。優真は懸命に立ち向かおうとするが、力の弱い小夏の体ではどうにもならなかった。じわじわと恐怖が優真の心をむしばんで、絶望が広がっていく。

優真を吊るしたまましばらくその姿を眺めていたトレーナーだったのだが、やがてそのぎらぎらした瞳が、優真にもはっきりとわかるくらい、色を変えるのが見て取れて。

「口で言って分からないなら――その体に分からせてあげるよ」

心にぞっとした寒気が走るのを覚えた。わきの下に冷たい汗が滲んで、歯が震えてカタカタと鳴っている音が嫌に大きく聞こえてきて。

「態度は気に食わないけど、結構可愛い顔してるじゃないか」

「そう怖がらなくてもいいだろう? 大人しくしてたら、殴ったりはしないさ」

「――殴ったりは、ね」

今、自分は小夏の体を借りている。小夏は自分と同い年の女子で、まだ幼さを残す子供だ。その小夏の体に、こいつは何をしようとしているのか。想像が付かないわけではない、考えることを恐れていた。この後起きることがあまりにもはっきりと想像できてしまって、頭が考えることを止めてしまったのだ。獲物を見つけたグラエナのような目つきで自分を、小夏を見て来るこのトレーナーに、優真はただ恐怖するしかなかった。

(小夏……)

もし――もし、だ。こいつの手で自分が傷付けられたら、それはすなわち、小夏が傷付けられることを意味する。小夏の体に、二度と消えない、決して消せない傷が残ってしまう、そういうことだ。

「僕はどうせはみ出し者なんだ、今さら何をしたって構いやしないさ」

明らかに差し迫った身の危険を感じて、優真の目が怯懦の色に染め上げられる。これから己の身に起きることを想像して、足がすくんで動けなくなってしまう。それでも決して、優真は決して、フィオネを離そうとはしなかった。

今にも優真が連れて行かれそうになっていた、まさしく、その時だった。

 

「やめてーーーーーっ!!」

 

不意にとても、とても大きな声がしたかと思うと、トレーナーが誰かに思いきり体当たりされて、地面にたたきつけられるように倒れ込んだ。その弾みで優真を掴んでいた手を離して、自由の身にしてしまう。

「あ、ああ……」

トレーナーに強烈なタックルを仕掛けたのは、他でもない「自分」で。

「優真くん! 大丈夫!?」

他でもない、小夏だった。

「痛てて……こいつっ、ふざけたことを!」

地面に背中をしたたかに打ち付けたトレーナーがなんとか起き上がると、ますます怒りを明らかにして、自分に突撃してきた小夏に掴みかかった。小夏は歯を食いしばってキッとトレーナーを強くにらみつけると、相手の手を掴み返して取っ組み合いのけんかになった。

トレーナーと揉みあいになりながら、地面に倒れたままの優真、そしてその胸に抱かれたフィオネを目にした小夏が、声の限り叫ぶ。

「優真くん逃げて! フィオネを連れて、遠くに逃げてっ!!」

自分のことはいい、ただフィオネを護って逃げてほしい。小夏の叫びは、優真にも確かに届いていた。けれど優真からはまだ、先ほどまでの恐怖が抜けきっていなかった。腰が抜けて立ち上がることができずに、じりじりと後ずさりをすることしかできない。優真がまごついている間にも、体格で勝るトレーナーが小夏を押し倒して、馬乗りの体勢に持ち込む。激怒したトレーナーは、今にも小夏を拳で殴りつけようとしていた。

けれどその拳が、小夏に叩き込まれることはなく。

「きゃうっ!」

「……うわぁっ!?」

後ろからの「ふいうち」。無防備なまま痛打を受けたトレーナーが、ひときわ大きく吹き飛んで地面に叩きつけられた。トレーナーに「ふいうち」を仕掛けた影が、一瞬のうちに間合いを詰める。

「シラセ!」

シラセ。小夏からそう呼ばれたのは、小柄な♀のアブソルだった。トレーナーをしっかり見据えながら、凛然とした表情で小夏と優真の前に立ちはだかる。素早く体勢を立て直した小夏もそれに続いて、優真とフィオネを護るという強い意志を見せた。

「くっ……! や、やってられるか! くそっ!」

小夏から思いきり体当たりされ、続けて力の強いアブソルから得意の「ふいうち」をもらい、さしものトレーナーも大きなダメージを受けていた。目に怒りの炎を燃やす小夏と強烈なプレッシャーを放つシラセに圧倒されたトレーナーは、それでもなおフィオネと優真を狙おうとしていたのだけれど。

「お巡りさんっ! こっちです! 女の子が!」

「待て! そこで何してる!」

港で繰り広げられていたトレーナーの蛮行を目撃していた人がいたようだ。テニスラケットの入ったバッグを肩に提げた高校生らしき女の子が、近隣の交番から巡査を連れて港へ駈け込んで来たのだ。さすがにこうなってしまうと分が悪すぎる。これ以上手に負えないと判断したのか、尻尾を巻いてその場から逃げ出した。

やがてならず者の姿が完全に見えなくなると、助けを呼んできてくれた女の子が地面にへたり込んでいる優真に寄り添う。

「大丈夫? ケガとかしてない?」

「あ、あぁ……」

「声が聞こえたから来てみたら、ひどいことになってて……もっと早く気付いてあげられたらよかった。でも、もう心配しなくていいよ。悪い人はいなくなったから」

優真は放心状態で、女の子の呼びかけにも満足に応えられない。安全が確保できたことを理解した小夏が、シラセと共に後ろにいた優真に目を向ける。小夏の顔を目にした優真が、やっと身体の力を抜いて、震える声でその名前を呼ぶ。

「こ、小夏……」

「優真くん……」

小夏が優真の目を見る。優真が小夏の瞳を覗き込む。

「フィオネ」

そして二人の目が、同時にフィオネに注がれて。

「み、みぃぅ……」

フィオネは怯えていた。目の前で小夏と優真、そしてシラセが派手な立ち回りを繰り広げたおかげで、すっかり怯えてしまっていた。けれど優真から離れようとすることはなく、その体にしっかりと、しっかりとしがみついていて。

フィオネは――二人の元へ、無事に戻って来たのだ。

 

 

優真が港へやってくる、ほんの少し前のこと。

海に沿って作られた道を、小夏が全速力で走っている。向かう先はもちろん港、毬の姉がフィオネを見かけたという、榁で一番大きな港だ。そこにフィオネがいる、もう一度フィオネに会える。その思いが無限のエネルギーを生み出して、小夏を前へ前へと突き進ませる。道行く人をかわして、時折出くわすポケモンには目もくれず、小夏はただただ走り続けた。

自分と優真がちょっとしたいざこざからひどいケンカをして、フィオネを悲しませてしまった。フィオネがタマゴから孵ったとき、二人で力を合わせて立派に育てると約束したというのに、だ。もうあんなことは繰り返さない、だからもう一度、自分の腕の中にフィオネが戻ってきてほしい。フィオネに再会できたら、優しく、力いっぱい優しく、その体を抱きしめてあげたい。無事にフィオネに会えること、小夏はただ、それだけを願っていた。

小夏はただ前しか見ず、フィオネのことしか考えていなかった。だから――

「あれ……? シラセ?」

自分のすぐ隣を伴走する小さな影に気付くまでに、いつもよりずいぶん時間を必要とした。

シラセ。榁に住み着いている野良アブソルで、小夏もよく知っているポケモンだった。普段は喫茶店「ペリドット」を経営している瑞穂さんの家で暮らしているのだが、ふらりと外へ散歩に出ることも珍しくない。人懐っこく大人しい性格で、何度か体を触らせてもらったこともある。そんなアブソルのシラセがいつの間にか自分の近くにくっついて、同じ速さで走っている。一体どうしたのだろう、さすがに気になった小夏が声をかけた。

「シラセっ、どうしたの?」

名前を呼ばれたシラセが走りながら顔を上げる。優真の目をじっと見つめると、何かを訴えるようなまなざしを向けてきた。シラセははっきりとした目的があって、こうして優真の姿をした小夏にくっついてきている。彼女の瞳は何かを訴えていて、小夏の側についていなければならない、という思いを強く感じさせるもので。

小夏の脳裏に、かなり前に本で読んだアブソルの特徴がよみがえってくる。昔の人は、アブソルを見かけると天災や災害に見舞われたことから、アブソルを不幸を呼ぶ存在として忌み嫌っていたという。ところが最近の研究で、アブソルには差し迫った危機・避けるべき災厄を予知する先天的な力があり、人々の前に姿を現すのは彼らを救いたいと考えているからだ――という見解が示された。今ではこの説が一般的に認知されてきて、アブソルへの見方は大分変わって来たと、その時読んだ本には書かれていた。

ではひるがえって、今ここにシラセがいるのは――。

(まさか……優真くんとフィオネに何か……!?)

心の中で優真とフィオネの名前を出した途端、シラセが軽く目を伏せるのが見えた。間違いない、優真とフィオネに何か危険が迫っている。シラセは自分を通してそれを察して、共に危機に当たるために付いてきてくれたのだ。

だとすると、尚更急がなければならない。二人の身に何かが起きてからでは遅いのだ。小夏が優真の体をフルに使っていっそうスピードを上げると、隣についていたシラセも小夏に合わせて大地を駆ける。目的地は他でもない、榁の港だ。

一度もスピードを落とすことなく走り続けた小夏が、港へその身を滑り込ませる。素早く辺りを眺めまわして、優真の、そしてフィオネの姿が見当たらないか確かめる。

「あれは……優真くんとフィオネ!?」

二人の姿はすぐに見つかった。

見知らぬ少年に襲われそうになっているという、危機的状況に陥っていた姿で。

「助けなきゃ……!」

小夏が走り出す。全力で走って行って、ただまっすぐに走って行って。

 

「やめてーーーーーっ!!」

 

あらん限りの声を上げて、脅威にぶつかって行った。

 

 

今日もまた、陽が沈もうとしている。美しい橙色が海を染めて、空から少しずつ灯りが消えていく。

「――それで、港へ行く途中にアブソルのシラセに出会って、一緒についてきてもらったんだ。優真くんとフィオネに何か悪いことが起きるんじゃないか、って思ってね」

すっかり安心しきって体を預けるフィオネを、優真が持ってきてくれていたお気に入りのタオルケットに包んで優しく抱いてあげながら、小夏がことのいきさつを話した。海や川を捜したこと、毬からフィオネと優真の行方を聞いたこと、途中でシラセが一緒についてきてくれたこと。隣を歩く優真の、いつもよりいささかゆっくりとしたペースに歩調を合わせながら、穏やかな口調で語った。

小夏がそっと優真に目を向ける。優真は俯いて目を伏せたまま、口を真一文字に結んでいる。そっと肩に手を置いてやると、優真が不安げな目を小夏に向けた。とても悲しそうな自分の顔、目の当たりにした小夏の胸が針で刺されたように痛む。優真の瞳にはうっすらと涙が滲んでいて、未だ抜けきらない恐怖の色を残している。

「優真くん」

静かに彼の名前を呼ぶ小夏。すると優真が、まるで張りつめていた糸が切れてしまったかのように、微かに滲ませていた涙をいっぺんに溢れさせて、小夏に寄り掛かってわあわあ泣き始めた。

「ごめん、小夏っ、ごめんっ……!」

「優真くん」

「俺、怖くて、怖くて……何されるんだろうって思って……!」

「……うん、うん」

「自分のせいで、小夏を傷付けちまうって、それで、それでっ……!」

小夏の体で見ず知らずのトレーナーに襲われそうになりながら、必死にフィオネを守り通した優真。身の危険は紛れもなく優真に降りかかっていたというのに、優真はただ、自分が小夏を傷付けてしまう、その事を何よりも恐れていた。その思いは小夏が察するに余りある。押しつぶされそうなすさまじい恐怖の中で、優真は全力で、懸命に、必死に戦い抜いたのだ。

とめどなく涙をあふれさせ、小夏の胸を借りて泣きじゃくる優真を、小夏が包み込むように抱きしめる。

「大丈夫、優真くん。もう大丈夫だよ、安心して」

「小夏……」

「フィオネも無事だったし、優真くんも、ちょっと肘に切り傷が付いちゃっただけ」

「小夏っ……!」

「傷薬を塗って絆創膏を貼っておけば、綺麗さっぱり消えちゃうよ。もちろん、傷痕なんて残らずにね」

優真をあやすように背中をぽんぽんとそっと叩いてやりながら、小夏が心からの言葉を優真に贈る。

「フィオネを――フィオネを護ってくれて、ありがとう」

顔を上げた優真の目に浮かんだ涙を、指先でそっとすくってやる。

「遅くなったけど……仲直り、させてほしいな」

小夏の言葉を、優真は驚くほど素直に、しっかりと受け止めて。

「俺も……ごめんな、小夏。本当にごめん。もう二度と小夏のこと悪く言ったり、叩いたりなんかしないから。絶対しないから」

「うん。わたしもごめんね。優真くんの気持ちも考えずに、あんなこと言っちゃって」

「俺、これからもフィオネのこと、一緒に面倒見させてもらっていいかな」

「もちろんだよ。わたし一人じゃ、きっとダメになっちゃうもん。これからも頑張ってもらうからね」

「……うん。ありがとう、小夏」

二人が互いの手を取り合って、固く握手を交わした。

「さあ、家に帰ろう」

「わたしは、スイミングに。優真くんは、塾へ行かなきゃ」

小夏と優真は再びひとつになって、同じ道を歩み始める。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。