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#21 フェイス/オフ

(さあ、優真くんの家に帰らなきゃ)

スイミングスクールで水泳の練習をこなして、小夏がシャツに袖を通す。今日はフィオネを捜して榁の街中をひたすら走り回ったからだろうか、昨日までよりもずっと体を自由に動かすことができた気がした。優真の体が少しずつ馴染んできている、そう実感することしきりだ。先生からも少しずつ調子が戻って来ていると褒められた。悪くない流れだ。プールバッグを提げて、小夏がジムを出る。

「ただいま、母さん」

「おかえりなさい、優真」

バスに乗って家に帰ってから、いつものように母と向かい合って座る。作ってもらった夕飯をきれいに平らげてから、食器を自分で洗って、また元の位置へ座る。

コップに半分ほど注がれた麦茶を一口飲んだ母が、小夏の目をまっすぐに見つめて。

「今日はずいぶんいろいろあったのね」

「うん。本当に、大変だったよ」

夕飯を食べている最中に、小夏は今日起きたことを洗いざらいすべて話した。ひょんなことから優真とケンカをしてしまったこと、ケンカがきっかけでフィオネを泣かせてしまったこと、フィオネを捜してあちこちを走り回ったこと、港でなんとかフィオネを見つけ出したこと、優真に暴力を振るおうとしていたようとしていた悪いトレーナーを追い払ったこと――ひとつ残らず話してみせた。母はその一つ一つに耳を傾けて、丁寧に話を聞いてくれていた。

そのフィオネは今、優美と一緒に眠っている。小夏がフィオネを連れて帰って来ると、優美は泣いて喜んでくれた。おかえりフィオネちゃん、ケガしてなくてよかったね――フィオネに無事に会えた喜びを爆発させた姿が、脳裏に鮮明に焼き付いている。

(『お兄ちゃん、ありがとう』……そう言ってくれた優美ちゃんの目、キラキラしてたな)

優美の喜ぶ姿を見て、小夏は眩しさを覚えずにはいられなかった。フィオネを無事に連れてくることができてほっとすると共に、少しの間であっても優美に悲しい思いをさせてしまったという悔いが残る。今はすっかり安心して、仲良しのフィオネと共に眠っていてくれていることだけが救いだった。

奥の和室で眠るフィオネを見つめながら、切々とした口ぶりで、小夏が自分の思いを吐露する。

「フィオネには、辛い思いをさせちゃったよ」

「自分たちがケンカをしたら、悲しむのはフィオネなのに、それに気付けなかった」

「ただ、自分の都合だけを相手にぶつけて、それで……」

「それでもフィオネは、こっちに戻ってきてくれた」

「小夏と俺のところまで、また来てくれたんだ」

自分たちがしでかしてしまったケンカを見たフィオネは、泣きながら遠くへ行ってしまった。それはフィオネが自分たちを怖がって逃げ出したものだとばかり思っていたけれども、今になって考えてみると、それとはもっと別の、大事な理由があったのではないかと思う。

「フィオネは、気付かせたかったのかもしれない」

「まだ小さいフィオネが、一生懸命体を張って、俺たちに教えてくれたんだ」

「自分のことも大事だけど、相手のことを思いやるのもまた大事なんだ、って」

「……本当、どっちが子供なんだって感じだよ」

顔を俯けさせる小夏を、母は変わらずじっと見つめている。フィオネを怯えさせてしまった、涙を流させてしまった。その悔しさがにじみ出ている。優真を、そしてフィオネを思いやる心を持てなかった自分が不甲斐なくて、ただため息をつくばかりで。

痛ましい思いに満ちた空気を破ったのは、優真の母親だった。

「すごいわ、優真。それでいいのよ」

「……母さん?」

「だって優真は、フィオネちゃんから教えられたことに気付けたんでしょう?」

思わぬ言葉に目を丸くする小夏。水のように透きとおった瞳には、微笑みを浮かべる母の姿が一杯に映し出されている。

「フィオネちゃんは優真と小夏ちゃんに伝えたかったのよ。辛くとも互いを認め合って尊重する、そのことをね」

「俺と小夏に、フィオネが……」

「ええ。大人にだって難しいことを、優真と小夏ちゃんはちゃんと気付いて、自分のこととして受け止めた。それって、本当に素晴らしいことだわ」

母はすっと目を閉じると、自分の過去に思いを馳せた。まだ優真が生まれて間もない頃のこと、そして優美が優真の妹として生を受けた時のこと。二児を育てる母として、優真と共に子育てに励む小夏に優しい眼差しを投げかける。

「私だって、優真や優美にたくさんのことを教えられたもの。大きなことも小さなことも、たくさんね」

「子育ては――言葉通り子を育てること。間違いないわ。けれどその中で、親もまた成長していくものなの」

「泣いている子をあやすにはどうしたらいいか、怖がる子を勇気付けるにはどんな言葉をかけてあげればいいか、子と向き合う中で疲れないようにするにはどんな心構えを持っておくべきか。長い道のりを歩く中で、子と自分の在り方を一つずつ学んでいく」

「親と子が手を取り合って、時には本気でぶつかり合って、それでも一歩ずつ前へ前へと進んでいく」

「悲しいけれど、すべてがうまく行くわけじゃないわ。絆を失う親子もいる、どちらかを喪う不幸に見舞われることもある。決して平坦な道のりではないわ」

「今ここに在ること。それを大切にしてほしいの」

だから、と母は前置きしてから、小夏へひときわ柔らかな口調で語り掛ける。

「小夏ちゃんと仲直りができて、本当に良かったわ」

「できることなら、優真と小夏ちゃんが二人、一緒にいてくれる方が、フィオネだって安心できるはずよ」

「――どちらか一人だと、どうしても目が届かなくなってしまうから」

ふっ、と左手に目線を向けて、母が哀愁を感じさせる声でつぶやく。自分に語り掛けてくれた言葉を、つまびらかにしてくれた想いを、小夏がひとつひとつ噛み締める。優真と優美、二人の子供と長年にわたって向き合い続けてきた彼女の言葉は、金言と言うにふさわしい重みがあった。母として、親として、子にどう向かい合うべきか。母の言葉はそのひとつの答えだと、小夏は実感するばかりだった。

小夏の隣にある空いた座席に目を向けていた母が、また正面に向き直る。

「さあ優真。今日は疲れたでしょう。お風呂を沸かしてあるから、ゆっくり入ってらっしゃい」

「うん。ありがとう、母さん」

母に促されて、小夏が席を立って浴室に向かった。

 

シャワーで汗を流してから石鹸で体を洗い、肌が綺麗になったところで湯船に浸かる。疲れた体にお湯の熱がじんわりと伝わっていって、心地よさに思わず息をつく。しばし心地よさに身を委ねてから、落ち着いたところでぼんやりと考え事をする。

「優真くん、今どうしてるかな」

思い浮かぶのは優真のこと。もう塾での勉強も終わって、今は自分の家にいる頃のはず。今は何をしているだろう、どんなことを考えているだろう。自分の体を借りている優真のことを思うと、知らず知らずのうちに胸の高鳴りを覚えてくる。

手でお湯をすくう。自分を温めて疲れを癒してくれている、熱された水。その心地よさは言うまでもなく、明日への活力をもたらしてくれる。身をゆだねて体を深く沈めながら、小夏は思いを巡らせる。

(あの時、わたしは死んでたかもしれないんだ)

だが、海で自分の体を絡めとって命を奪おうとしたのも、また水だ。

(そんなわたしを、優真くんは助けてくれた)

(自分が溺れるかもしれないのに、それでも……助けてくれたんだ)

恐怖のあまり封じられていた記憶が、落ち着きを取り戻した今静かに紐解かれる。優真の声が、自分を呼ぶ声が、必死に呼びかける声が、ふつふつと蘇ってきた。あの時自分はまさに生と死の境目をさまよっていて、そんな自分を生きる者の世界に引っ張り上げてくれたのが、他ならぬ優真だった。

優真が自分にしてくれたことを受け止めた小夏が、そっと胸に手を当てる。

(どうして気が付かなかったんだろう、もっと早く理解できなかったんだろう)

(わたしが今ここにいるのは、優真くんのおかげなのに)

(それなのにわたしは「死んだ方がマシ」なんて、ひどいことを言っちゃって……)

胸に当てていた手をほっぺに滑らせる。感情をあらわにした優真に引っ叩かれた頬、今はもう痛みは消えて、ただ柔らかな感触があるだけ。あの痛みは、今まさにここに生きているからこそ感じられたもの。優真が命を懸けて自分を救ってくれたからこそ、ここに在ることができている。今はそれを、かけがえのないものとして受け止めることができるようになった。

小夏がゆらゆらと湯気を立てる水面を見つめる。そこに映っているのは、幼なじみの男子である優真の顔、他でもない今の自分自身。

(……やってみよう)

眼前で揺らめく顔をしばらく見つめてから、小夏がふっと息を止めて、静かに湯船の中に顔を浸けた。頭の先までお湯の中に沈んで、短く切り揃えられた髪がほんの少し揺れるのをハッキリと感じることができる。

水中はとても静かだった。例えようもないほど静かだった。聞こえてくるのは自分の鼓動だけ。それを耳にするたび、自分は今生きているのだと実感する。今ここに生きて、優真として生活している。置かれた状況を深く噛み締めて、ひとつひとつ整理していく。そうしていると不思議なほどに心が落ち着いてきて、水の中に全身が浸かっていることへの恐れが感じられなくなっていることに気が付いた。

わずかばかりの水音を立てて、小夏がそっと顔を上げる。纏わり付いたお湯を丁寧に手で拭うと、水面に再び自分の顔が映りこんだ。そこにいるのはやはり優真で、それは自分自身だ。けれど――小夏にはそれが、優真が向こう側から自分を見守ってくれているようにも見えていて。

「……できた」

「できたよ、優真くん。水の中に、顔を浸けるの」

自分が笑うと、向こうにいる優真も笑う。やっとかよ、待ちくたびれたぜ。そんな軽口が今にも聞こえてきそう。

「遅れちゃったけど、お礼を言わなきゃ」

水の中にいる優真と向かい合った小夏が、ゆっくりと口を開いて。

「ありがとう、優真くん」

ありがとう。率直な感謝の言葉が、自然に口からこぼれた。

「わたし、やるよ。優真くんみたいに、泳げるようになって見せるから!」

小夏の心は――はっきりと、変わり始めていた。

 

 

優真が学習塾のあるビルから出てきた。母親が車内から手を振ると、優真もまた手を振って応じる。助手席のドアを開けて車に乗り込むと、優真がしっかりとシートベルトを締めたのを見て、母が静かに車を発進させた。

昨日と同じようにたくさんの勉強をした。密度が濃くて相変わらず大変ではあったが、いつもよりも先生の話していることがスーッと頭に入ってくるような気がした。今日はフィオネを捜しながらたくさんのことを考えて、小夏の頭をフルに回転させた一日だった。その効果があったのだろう。心と体のギャップが少しずつ埋められて、小夏として生きることに慣れ始めている。優真はそう感じていた。

信号が赤に点るのが見えて、母がゆっくりとブレーキをかける。車が完全に停まったのを確かめてから、母が左手にちらりと顔を向けた。その目は小夏を、もっと言うなら、小夏が見せている肘の辺りに向けられていて。

「なっちゃん。ひとつ、いいかしら」

「どうしたの? お母さん」

「その――右腕の絆創膏、どこかでケガをしたの?」

肘にできた傷のことを訊かれるとは思っていた。だから優真はさほど慌てていなかったし、母に対する答えもあらかじめ準備していた。

「今日ね、優真くんとケンカをしちゃったんだ」

「川村くんと?」

「うん。本当に、ちょっとしたことだったんだけど。でも、それで取っ組み合いになっちゃって」

「あらあら、なっちゃんらしくないじゃない」

母はちょっと安心した様子で、優真とぶつかり合ったという小夏、もとい優真に、ごく軽い調子で言ってのける。

「ホントだよね。でもそれで、フィオネが怖がって、すごい泣いちゃって」

「そうね。二人が掴み合いのケンカをするなんて、まだ小さいフィオネが見たらビックリしちゃうわ」

「やっぱり、そうだよね。それで、泣きながらどこかへ行っちゃって、捜さなきゃってなって、町中を走り回ったの」

「そこからすぐに捜しに行ってあげたのね。無事に見つかったのかしら?」

「港にいたよ。でもそこで、他所から来たトレーナーに捕まえられそうになってて、わたしが庇ったの」

「フィオネはモンスターボールに入っていないから、他の人でも捕まえられる――だからね」

「その通りだよ、お母さん。でも、その人が『何するんだ』って怒って、髪を引っ張られたりして……それで、その時にすりむいちゃって」

絆創膏を貼った肘を指さして伝えると、母はうんうんと納得したように何度もうなずいた。ここでちょうど信号が青に変わり、母が車を前に発進させる。

「ずいぶん怖い目に遭ったのね、なっちゃん。無事で何よりだわ」

「うん……怖かったよ、本当に怖かった。優真くんが助けてくれなかったら、どうなってたか」

昼に起きた出来事を一つずつ思い返しながら、優真は自分の体を抱いた。今の自分の体、本当は小夏の体。借りている体に取り返しのつかない傷を負わせてしまうところだったことを自覚して、優真が小さく身震いする。この華奢な体を、綺麗なまま小夏に返さないといけない。優真は改めて、そう思うばかりで。

「でも、本当に怖かったのは、他でもないフィオネだよ」

「なっちゃん」

声のトーンが変わったのを見て、母がちらりと目を向ける。

「フィオネはわたしと優真くんが面倒を見てて、わたしたちがしっかりしてないといけないのに」

「それを、フィオネのことなんか忘れて大ゲンカをして、不安にさせちゃったんだ」

「わたしも、優真くんも、まだ子供で、全然子供のままで、フィオネを育てるなんて無責任だったんじゃないかって」

「……親として失格なんじゃないかって、そんな風に思っちゃった」

本心から出た言葉だった。自分たちはフィオネの親気取りで育てていたつもりだったが、子育てを担うだけの能力も責任も持ち合わせていなかったのではないか。自分たちの不甲斐なさを見抜いたフィオネが、悲しくなって自分たちから遠く離れていってしまったのではないか。悔恨と自責の念ばかりが募って、優真が沈んだ声でつぶやく。

対向車も先を行く車も、そして後ろを走る車もないことを確かめて、母が少し車のスピードを落とした。視線は前を向けたまま、普段よりもさらに柔らかな調子の声で、俯いている優真に向けて言葉をかける。

「合格よ、なっちゃん」

「えっ?」

「親として失格なんかじゃない、お母さんが保証するわ」

「お母さん……」

「なっちゃんのお母さんをしてる私が言うんだから、間違いないでしょ?」

母の声を耳にした優真が、思わず顔を上げる。

「行く途中に、今日フィオネは優真くんの家にいるって言ってたわよね」

「うん。優真くんが、優美ちゃんとフィオネを会わせてあげたいって」

「だから、ちゃんと戻って来た。そうでしょ?」

「……うん」

「フィオネは――なっちゃんたちを信じていたからこそ、ケンカをしているのを見て泣いた。そして信じていたからこそ、自分を守ってくれたなっちゃんたちのところへ戻って来た。そういうことじゃないかしら?」

顔を上げた優真が目にしたのは、穏やかに微笑む母の顔だった。

「もちろん、ケンカはしないに越したことはないわ。お互いを尊重し合えるなら、それが一番よ」

「けれど、時にはぶつかり合うことだってある。やっぱり人間だもの。その時は遠慮なんてせずに、思ってることを全部言った方がいいの」

「ぶつかり合って、言い合いになって、それで『もう止めた』って別れ別れになるんじゃなくて、そこからまた一緒に歩けるように自分を見直す。それが大事なのよ」

これ以上ないくらいにすんなりと、さらさらとした水が流れるかのように、母の言葉が心に沁み込んでくる。

「小夏にはそれができたんだから、親として失格なんかじゃない。合格も合格、花丸だわ」

「無責任だったんじゃないか、なんて言葉が出てくるのは、強い責任を自覚している何よりの証拠よ」

本当に無責任な人からは、自分は無責任だなんて言葉は出てこないものよ。ふふん、と笑う母の表情に、優真の気持ちがほだされていく。

「子供はね、安心できる人の前でこそ、一番大きな声で泣くものなのよ」

「自分の存在を知ってほしいから、その人に構ってもらいたいから」

「なっちゃんだって――もちろん、そうだったわ。本当によく泣いて、元気いっぱいだったのよ」

目の前にいるのは、他ならぬ小夏のお母さんだ。ここまで小夏を育ててきた紛れもない「母親」。母としての役割をきちんと果たしてきた人の言う言葉だからこそ、優真は確かな重みをもって受け止めることができた、納得することができた。疑うところなんて何もなくて、本心からその通りだと感じられてならなかった。

また赤信号で車が停まる。母が小夏に目を向けると、感慨をもって言葉を紡ぐ。

「まだまだ小さな子供だとばかり思っていたけれど……そうね、なっちゃんはもうすぐ、大人になるのね」

「心も体も独り立ちして、より大きく、もっと強くなっていく」

「なっちゃんもまた、私の手を離れる時が来る。遠くへ旅立つ時が来る。寂しい気持ちはもちろんあるわ、でもそれ以上に、親として誇らしく思うわ」

「ここまでずっと、一緒に歩いてくることができたのだから」

前を向いた母が、丁寧に車を発進させる。

「今日は大変だったと思うわ。でも、いい経験になったんじゃないかしら」

「……うん。いろいろ考えるきっかけになったよ、本当に」

「でしょうね。それに、良くないトレーナーを間近で見る機会にもなった」

「あんな人がいるんだって、驚いちゃったよ」

「ええ。けれどなっちゃんは、これからも正しい道を歩いてくれると信じているわ。他でもない、私たちの子だから」

車はそのまま走り続けて、小夏の家の前まで辿り着いた。ガレージへサッと車を入れると、母がエンジンを切る。

「肘の傷を見た時は、心配になっちゃったわ。誰かから苛められたんじゃないかって思っちゃって」

「心配かけてごめんね、お母さん」

「いいのよ。フィオネを守ったときにできた名誉の負傷だって分かったら、お母さん嬉しくなっちゃったもの」

茶目っ気を込めて笑うお母さんを見て、優真もつられて笑うのだった。

 

お風呂から上がった後お母さんに髪を乾かしてもらい、優真が小夏の部屋に向かう。いつもならここですぐに眠ってしまう優真だったが、今日に限ってはなぜだかベッドに入る気になれなくて、自然と足が学習机に向いた。椅子を引いて静かに腰かけると、ふう、と小さく息をついた。

今日はずいぶんといろいろなことがあった。フィオネはなんとか自分たちのところへ戻ってきてくれたけれど、遠くへ飛んで行ってしまったときは頭が真っ白になってしまった。けれど今こうして落ち着いてから、改めてあの時のフィオネの立場になってみれば、自分と小夏がケンカをしている光景なんて見たくないに違いないと冷静に考えることができる。昼間はそれができないくらい、気持ちがぐちゃぐちゃになっていたのだ。

バラバラになって乱れた心を一つずつ整理整頓しながら、優真が胸に手を当てて、塾に行く前からずっと心の中でくすぶっていた思いを紐解く。

(もし――もし、港で小夏が助けに来なかったら、俺、どうなってたんだろう)

港での一件は、優真に強い、とても強い衝撃を与えるものだった。トレーナーが自分に向けていた目を、あのぎらついた眼光を思い出すたびに、かたかたと小さく体が震えるのを感じる。今はもう大丈夫、自分は安全な場所にいるのだと言い聞かせても、恐怖を拭い去るには至らない。万が一、小夏とシラセがあの場に居合わせなかったら、自分はきっと酷い目に遭わされていたに違いなかった。

それこそ、言葉にすることもためらうような、むごたらしいことが起きていたとしか思えない。

「小夏は俺を助けてくれて……怯えてた俺に『大丈夫』って言ってくれた」

小夏は、港からの帰り道で泣いていた自分を優しく慰めて、包み込むように抱きしめてくれた。今も蘇りそうになる恐怖を、小夏が与えてくれた安心感が抑え込んでくれている。今の優真は、ただ小夏に感謝するほかなかった。小夏への感謝の気持ちで、胸がいっぱいに満たされていた。

(砂浜であんなことをした俺を、小夏は……)

だからこそ、優真は深く悔やんでいた。佐々木くんと山手くんが去ってから砂浜でケンカをした際に、優真は小夏の「死んだ方がマシ」という言葉に気持ちがカッとなって、思わず小夏の頬を引っ叩いてしまった。暴力を振るうつもりなんてなかった、小夏の言葉をどうしても許せなかった――確かに理由はあるかも知れない。だが、小夏に暴力を振るってしまったというのは紛れもない事実だった。

優真は胸が締め付けられるような痛みを覚えて、思わずキュッと目を閉じる。小夏に手を上げた自分が、あのトレーナーから晒された暴力に今もこうして怯え続けているのだから、どうしようもない。自分のしでかしたことがどれだけ愚かだったか、嫌と言うほど思い知らされる。

(それに、小夏の言う通りかもしれない)

(小夏とキスをしたから、フィオネが生まれて、俺たちの心が入れ替わったのかもしれないんだ)

息を吹き返させるためのただ一つの手段。あの時はああする以外に小夏を助ける手立てはなかったとは言え、今こうして自分たちの在り方を振り返ってみると――あの時交わした口づけが、小夏とキスをしたことが、自分たちを強く結びつけてしまうきっかけになってしまったのではないか。優真はずっと押し隠していたこの思いを、重石を退けて思考の中心に置く。

優真も小夏も、もう間もなく思春期を迎えようかという歳だ。子供がどのようにして生まれて来るのか、もっと言えば子供はどのようにしてこの世に生を受けるのか、まったく知らないわけではない。男性と女性が一つになることで、新しい命の芽生える。正確ではなくても、これくらいの理解はあった。

あの日見た夢は、溺れた小夏を助けた日の夜に見た夢は、小夏が海底神殿で水色のタマゴを見つける夢は――自分たちが、フィオネと言う子供を授かったことを示していたのではないだろうか。

(俺がしたことのせいで、小夏を大変なことに巻き込んでしまった)

言い争いになった時に言われた言葉を、今でも明瞭に思い出すことができる。「好きでもない人からいきなりキスされたんだよ」、小夏は確かにそう言っていた。小夏のありのままの思い、むき出しの感情、嘘偽りの無い言葉。小夏にとって優真は、決して「好きでもない人」なのだ。そんな人間から一方的に結び付きを持たれたら、果たして快い気持ちでいられるだろうか。

あり得ない、決してそんなはずはない。今日フィオネを護ろうとした一件で分かったではないか。よい感情を抱いていない人間からあのように迫られた時の嫌悪感が、恐怖心が、どれほど強く大きいものかということを。あの時自分が感じたネガティブな感情を、かつての自分は小夏にもたらしてしまったのではないか。深い罪悪感に囚われて、優真が沈痛な面持ちで目を伏せる。

そんな自分を――小夏は赦し、受け入れてくれたのだ。

(自分たちが元に戻れるまでの間は、小夏と一緒にいなきゃいけない)

(ならせめてこれからは、小夏が笑っていられるようにしてやりたい)

もう二度と小夏に手を上げることはしない、決して小夏を傷付けるようなことはしまい。優真が固く心に誓う。

(それだけじゃ足りない。もっと変わらなきゃいけない)

変わらなければ、いや、変わりたい。その気持ちが、優真を熱く燃え上がらせる。ほっぺに熱を帯びるのを感じながら、優真がスッと顔を上げた。

(俺も小夏みたいに頭が良くなれれば、小夏に迷惑を掛けなくて済むはずなんだ)

机の上に置いてあった夏休みの学習ワークをおもむろに手に取る。中ほどのページを開くと、優真は早速問題に取り掛かった。小夏から自力で解いてほしいと言われたあの学習ワークだ。すっかり冴えた頭をフルに回転させて、優真が今まで見たこともないほどのスピードで空欄を埋めていく。次々に情報を処理していく感覚が新鮮で心地よくて、あっという間にページ内の問題をすべて解いてしまった。

ページをめくって次の問題に立ち向かおうとしたとき、ふと、右隣に置かれていた鏡が目に飛び込んできた。

(――小夏)

そこには、真剣な顔をした小夏の顔があった。優真と同じように学習ワークに向かい合って、共に競い合っているかのよう。

小夏が自分を見てくれている、自分を信じて隣にいてくれている。ならばその期待に全力を以って応えるのが、最高の返礼ではないか。鏡の向こうにいる小夏は、その通りだと言わんばかりの顔をしていた。

「やって見せるぜ、小夏。俺は、絶対にやり遂げる」

もう、本気になるのが遅いよ。小夏が自分にそう言ってくれた気がした。今から取り戻して見せるぜ、優真がそう意気込んで、再び机に向かう。

「見ててくれよ、小夏。お前みたいに、どんな問題もすらすら解けるようになって見せるからな!」

優真の心は――はっきりと、変わり始めていた。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。