翌朝。昨日と同じように時間を見計らって、小夏が優真の体で自分の家を訪れた。
「入っても大丈夫?」
「ああ。よく来てくれたな、小夏」
小夏がそっと自分の家へ上がる。優真が小夏を自分の部屋まで導くと、静かにドアを閉める。
「フィオネは――昨日は、元気にしてたか」
「うん。優美ちゃんがすごく嬉しそうにしてて、寝るまでずっと遊んでくれてたって」
「そうか……それはよかった。本当に、よかった」
優真と小夏が向かい合う。二人の目はどちらも穏やかで、それでいて強い意志を秘めていて。昨日の一件を通して、小夏にも優真にも思う処があったようだ。互いの瞳を覗き込みながら、視線を交わらせる。
じっと見つめ合う二人。そこから先に口火を切ったのは――。
「小夏、ちょっといいかな」
名を呼んだ小夏の姿をした、優真だった。
「ごめん、小夏。許してくれなくたっていい、謝らせてくれ」
「今まで小夏に構ってもらいたくて、くだらないことばっかりして……本当に、俺が悪かった」
「ちょっかいを掛けられて嬉しいなんて、小夏が思うはずなんかなかったのに」
「小夏の言う通り、俺、頭悪いから、今になるまで考えられなかったんだ」
「なのに……なのに小夏は、体を張って俺とフィオネを護ってくれた」
「あの時、本当に怖かったんだ。もう二度と小夏を傷付けたくなんかないのに、また俺のせいでって、そう思って……怖くて怖くて、仕方なかった」
「――ありがとう、小夏。ありがとう」
昨日の夜更けから今日の夜明けまで、優真はずっと、小夏に伝える言葉を考えていた。あらん限りの知恵を絞って、たくさんの気持ちを尽くして、自分のありのままの気持ちを伝えるにはどうすればよいかを懸命に考えた。考えに考え抜いて辿り着いたのは、素直な、とても素直な、飾らないまっすぐな言葉だった。
ごめん、そして、ありがとう。その言葉こそが、自分が小夏に伝えなければならない言葉だと――優真は考えたのだった。
「優真、くん……」
優真からの言葉を、小夏が受け止める。澄んだ瞳の奥の映し出された自分の姿がじわりと滲んで、瞼に熱いものが浮かんでくる。
目の前にいる小夏の頬を伝って流れ落ちた涙を見た優真が、沈痛な面持ちで小夏にその手を伸ばす。
「ああ、小夏っ……! 俺、また勝手なこと言って、小夏のことを……っ」
「……違う、違うよ優真くん」
「小夏……?」
「すごいな、って。こんなこと、本当にあるんだって……わたし、胸がいっぱいになっちゃって」
「それって……小夏、もしかして」
「わたしもね、優真くんに『ごめんね』と『ありがとう』を言おうって、決めてたの」
両手を胸に当てて重ね合わせて、ゆっくりと瞼を閉じる。その小夏の目から、また一筋の涙がこぼれ落ちる。
「優真くん、ごめんね。遅くなっちゃったけど、でも、どうしても言わせてほしいの」
「昨日ひとりで考えて、あの時優真くんが海で溺れたわたしを助けてくれたおかげで、今ここにいられるんだって、やっと分かって」
「それなのにわたし、自分のことしか考えられなくて、頭でっかちになってて」
「『死んだ方がマシ』なんて、優真くんには絶対に言っちゃいけないようなことを言っちゃった」
「優真くんが怒るのなんて当然だよ。だって優真くんは、わたしに生きててほしいって思ってくれて、そのために助けてくれたのに」
「それに、昨日のことだって同じ。優真くんはいっぱい怖い目に遭って、それでもフィオネを護ってくれた。優真くんのおかげだよ」
「――ありがとう、優真くん。ありがとう」
ふたりで心と体を分け合っているからだろうか、あるいは自然な成り行きなのだろうか。小夏もまた昨日一晩思いを巡らせ続けて、優真に伝えるべき言葉を探していた。たくさんの思考を経て見つけ出したのは、やはりとてもシンプルな、何も付け足さない素朴な言葉だった。
ごめん、そして、ありがとう。その言葉こそが、自分が優真に伝えなければならない言葉だと――小夏は考えたのだった。
「小夏……っ」
「優真くん、泣かないで。わたしも涙出てきちゃう」
「だって、小夏からそんな風に言ってもらえるなんて思ってなくて、俺、俺っ……!」
ぽろぽろと落涙する優真の目元に小夏がそっと指先を当てて、落ちようとする涙をすくい取る。彼女の心遣いがうれしくて、優真は胸に熱いものがこみ上げてくるのを覚えて、そしてまた瞳を潤ませてしまう。自分の言葉を小夏が受け入れてくれたこと、小夏もまた自分に同じ思いを抱いていたこと、心の奥底で願っていた「そうなってほしい」という願いが見事に成就して、小夏の優しさに触れた優真は感極まって、ただただ泣き続けた。
それは小夏も同じだった。優真に負けないくらいたくさんの涙をあふれさせながら、それでも優真の涙をぬぐい続ける。イタズラ好きでちょっかいばかり出してくる困った男子だったが、自分やフィオネを助けるために全力で危機に立ち向かう勇気は紛れもなく本物だった。優真の勇気にお礼を言いたい、優真はその思いを受け止めてくれた。ずいぶん遠回りになってしまった、でも、優真と確かに心を通わせることができた。小夏はそう感じずにはいられない。
「ああ……俺、やっと素直になれた。やっと本当の気持ちを伝えられたんだ」
「わたしも同じだよ。ずっと胸の奥につかえてたものが、すっと取れたみたい」
小夏と優真、優真と小夏。ふたりが手を取り合う。未だ涙は止まるところを知らなかったけれど、ふたりの表情は希望に満ち満ちている。いがみ合って、ぶつかり合って、ずっとちぐはぐだったふたり。今はその手を繋ぎ合って、同じものを見ている。同じところに向かって歩き出そうとしている。
「いい顔してるよ、優真くん。見違えたみたい」
「小夏だって。もし俺と体が入れ替わってなかったら、今みたいな顔をしてるはずだぜ」
満面の笑みを浮かべるふたり。すると、そこへ。
「みぅ!」
「フィオネ、ずいぶん嬉しそうだな。いい顔してるぞ」
「きっと、わたしたちに混ざりたくなったんだね。いいよ、おいでおいで」
フィオネが間に入り込むと、優真と小夏が互いに両手を差し伸べてフィオネを抱き上げる。四つの手に抱かれたフィオネが、目を糸のように細めて喜んでいる。とても喜んでいる。
ふたりが今まで見たことがないくらい、フィオネは喜んでいた。
「あのね、優真くん。ちょっといいかな」
「ああ、聞かせてくれ」
「昨日の夜にね、もう一つ考えてたことがあるの」
「ひょっとして……フィオネのことか?」
優真の言葉を耳にした小夏は驚きつつも、すぐに納得したようにしきりにうなずく。
「すごい、分かっちゃうんだ。そうだよ、優真くんの言う通り。フィオネのことだよ」
「俺も、少し考えてたんだ。昨日小夏の母さんと話して、小夏をどんな気持ちで育てたかを、親として聞かせてもらって」
「わたしも同じ! 夜にね、優真くんのお母さんと話したんだ。親としての心構えとか、そういうことをね」
「こういうことってあるものなのか……昔からの友達同士だって言ってたけど、俺の母さんと小夏の母さん、よっぽど気が合うみたいだな」
小夏は優真の母親から、優真は小夏の母親から、それぞれ親としての立場から話を聞かせてもらっていた。それは二人に強い影響を与えたようで、今まさに「子供」として育てているフィオネへの自分たちの在り方を改めるきっかけにもなったようで。
「それでね、優真くん。わたし、考えたんだけど」
息を大きく吸って、呼吸を整えてから、小夏が優真に語り掛けた。
「わたしたちで――ちゃんと、この子のお父さんとお母さんになろう、って。そう思ったんだ」
優真の瞳は輝いている。まるで、小夏の言葉を待っていたかのような、小夏がそう言うと確信していたかのような、何の戸惑いも感じさせない無垢な目をしていた。大きく首を縦に振って、小夏の言葉に同意して見せた。
「――ああ、いい考えだな、小夏。俺も同じことを考えてた」
「優真くん……!」
「俺、こいつの父さんになる。もう逃げたりなんかしない、約束するぞ」
「ありがとう、優真くん。わたしだって、立派なお母さんになってみせるよ」
優真は父に、小夏は母に。単に面倒を見ていただけという立場から、「親」へと変わる。ふたりの強い決意をもって発せられた言葉を、フィオネは幼いながらも一言も聞き逃すまいと全身全霊で受け止めていた。
「いいことなんだけどさ、俺の顔でそんな風に言われると、ちょっとこそばゆくなっちまうな」
「あははっ。今の優真くんだって、どちらかと言うとお母さんだけどね」
「ホント、言えてるな」
「お互い様だよね」
二人して大笑いしてから、フィオネの顔をまじまじと見つめる。フィオネは二人がいい顔をしているのを目にすると、思わず頬をほころばせた。フィオネは二人の変化を祝福してくれている、そう受け止めることができる表情だった。
「へへっ。シズクも嬉しそうでよかったぜ」
「シズクだって、わたしたちが笑ってる方がいいに決まってるよ――あれ?」
「……えっ?」
シズク。自然と零れ落ちた、文字通り雫が落ちたかのような口ぶりで、優真と小夏が同時に言葉を発する。それに気が付いて、ふたりが揃って顔を見合わせる。
「優真くん、今フィオネのこと『シズク』って呼んだ?」
「小夏の方こそ『シズク』って……」
「あれあれ、あれれ? わたし、『シズク』って口に出して言っちゃってたの?」
「俺さ、親になるんだから、しっかりした名前で呼んであげないとなって思ってさ、こう、『シズク』って名前はどうだろうって、それで」
「えっ、えっ、優真くんも? わたしもフィオネにぴったりの名前を考えてあげたくて、ふっと思いついたのが『シズク』で……」
「いやいやいや、冗談じゃないよな? 小夏のことだから、本気なんだよな? 俺は本気だぞ、イタズラなんかじゃない、本気の本気だぞ」
「わ、わ、ホントに? ホントに? あるの? こんなことってホントにあるの?」
シズク。水滴を思わせるフォルムを持つフィオネにはお似合いの名前と言える。フィオネが男の子でも女の子でも、あるいはそのどちらでもなかったとしても自然に聞こえる名前だろう。けれど名前の良さはともかくとして、優真と小夏がお互いに同じことを考えていたとは毛ほども思わなかったようだ。気が緩んだ拍子に考えていた名前でフィオネを呼んで、そしてその事実に気が付いた。
小夏も優真もただ目をまん丸くして、相手とフィオネ――もといシズクを交互に見つめるばかりだ。
「やっぱり、今の俺たちは心が繋がってるんだ。同じこと考えてたわけだからさ」
「すごいよね、こういうのが以心伝心って言うのかな。わたし今すっごく嬉しいよ」
「俺だって同じさ。やっと歯車が回ってきた感じがするな」
「歯車がうまくかみ合えば、前に進む力が生まれるもんね」
名前を、シズクと言う名前をもらったフィオネは、ぴょんぴょん飛び跳ねて全身で喜びを表現している。シズクというのが自分の「名前」だとしっかり理解していて、シズクと呼ばれることをとてもうれしく思っている。シズクの喜ぶ様子を、優真も小夏も目を細めて見守っていた。
喜びのままに自由に飛び回るシズクをしっかりと見つめながら、小夏がごく穏やかな口調で告げる。
「優真くん。わたし、昨日お風呂で顔を浸けられたんだ」
「小夏……!」
「まだまだうんとたくさん練習しなきゃいけないけど、でも、少しずつ、水と仲直りができそうな気がしてきたよ」
ずっと抱いていた水中に潜ることへの恐怖心を、小夏が克服しつつある。その様子を見て取った優真が何度もうなずきながら、自分も、とばかりに身を乗り出す。
「俺もさ、昨日の夜に算数のワークを四ページ進められたんだ」
「四ページも!? 優真くん、やればできるじゃない!」
「小夏みたいに勉強ができるようになったら、もっといいんじゃないかって思ってさ」
小夏は優真として、優真は小夏として。
「俺はやってやるぞ、小夏」
「わたしだって、全力だよ」
心をひとつにしたふたりが、共に手を取り合って歩きはじめる時が来た。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。