家の庭に植えられた木に生っているモモンの実を、小夏が慣れた様子でもいでくる。台所へ戻ってさっと皮をむくと、下の戸棚を何やらもそもそと探って。
「すり鉢とすりこ木、優真くんの家にもあって助かったよ」
取り出したのは言葉通り、すり鉢とすりこ木のセットだった。モモンの実を手で軽くつぶしてすり鉢へ入れると、すりこ木で叩いてさらに細かく潰していく。大方平たくなったところで、すり鉢をごりごりと回してもっともっと細かくすり潰す。果実が半ばジュースのようになったところで、あらかじめ用意しておいたお椀に移していく。全部移し終わると、お椀に七分ほどすり潰されたモモンの実が盛られる形になった。
モモンの実をこうやってすり潰すことを考え出したのは、小夏の方だった。優真がシズクにしていた口移しからヒントを得て、シズクが木の実を食べやすくするにはどうすればいいかを思案した結果がこれである。小夏にしてみれば口移しよりもずっと楽になったし、シズクにとっても食べやすい。小夏は優真にこのことを話してみると、優真は笑ってこう小夏を誉めそやした。
「いいアイデアだな、やっぱ小夏は頭いいぜ」
というわけで、ピューレ状になったモモンの実をお椀にいれた小夏が、タオルケットに包まるシズクの元まで戻って来た。
「シズク、ご飯だよっ。いっしょに食べようね」
「みぃう♪」
小夏が座り込んでシズクを抱くと、スプーンを使ってモモンの実をすくう。シズクの方はもう口を開けて待っていて、小夏はそっとスプーンを中に入れてあげるだけでよかった。スプーンをぱくっとくわえると、しゅるり、とモモンの実がシズクの口の中へ落ちてゆく。口いっぱいに広がる甘味がたまらないとばかりに、シズクが目を細めてほほをほころばせる。おいしそうに食べている姿を見ていると、小夏も嬉しくなるばかりで。
こうしてシズクにモモンの実を食べさせてあげる小夏の傍らには、サイズの小さな哺乳瓶も置かれている。中には白い飲み物が半分ほど入っているのが見える。生まれたばかりのポケモンのために作られた、市販のミルクである。ずっと木の実ばかりでは栄養が偏ると思った小夏が優真と話してお小遣いで買ったものだ。お椀がすっかり空になったところで、小夏が哺乳瓶を手に取る。
「ミルクも飲もっか。ゆっくりでいいからね」
哺乳瓶をすっと口元へ持っていくと、シズクがまるで吸い付くように口で先っぽを捕まえる。ゆっくり、ごくゆっくりと上へ傾けると、シズクはちゅうちゅうと小さく音を立てながらミルクを吸いだした。気に入ってくれるかな、と小夏は不安だったものの、シズクはとてもおいしそうに飲んでくれている。やっぱりポケモンのために作られてるミルクは一味違う、と小夏は実感するばかりだ。
最近は食事時にぐずるようなこともなくなり、ご飯も素直に食べてくれるようになった。シズクはよくはしゃいでよく遊ぶ分食欲も旺盛で、用意したものはいつもきっちり全部食べてしまう。今日もモモンの実とミルクをペロリと平らげてしまうと、満足そうなニコニコ笑顔を小夏に向けた。
「今日もいっぱい食べたね。シズク、えらいえらい」
シズクの体を起こすと、背中を軽くなでてあげる。するとシズクが「けふっ」と小さくげっぷをして、それからまた穏やかな表情に戻った。これは優真の母親から教えてもらったことだ。赤ちゃんはご飯を食べさせてあげた後こうしてあげるといいらしい。母親は実際に優真を赤ちゃんからここまで育て上げたのだから、説得力が違った。
お腹がいっぱいになって喜ぶシズク。小夏はシズクを見ていると愛情を強く覚えて、シズクの頬にそっと顔を寄せる。水のようにひんやりした体が、夏の暑さで火照った頬を冷やしてくれる。小夏の肌を直に感じることができて、シズクも嬉しそうだ。
「いい子だね、シズク。あなたなら、きっと立派なフィオネになれるよ」
自分に向けられる無垢な笑顔が嬉しくて、小夏もまた笑顔になる。するとシズクはますます喜んで、大きなヒマワリのような笑顔の花を咲かせてくれる。こういうのを「幸せ」って言うのかな、小夏がふとそんなことを考えた。シズクも幸せなら自分も幸せ、自分が嬉しいとシズクも嬉しい。それって、素晴らしいことだよね。小夏は思わずにはいられない。
思っていたよりもずっと遠回りになってしまったけど、ようやくシズクの気持ちを分かってあげられるようになった。小夏の心に、平穏が満ちていく。
「――シズクを見てたら、また元気が湧いてきたよ」
「夕方からのスイミングも、わたし、頑張っちゃうからね。シズク」
それは小夏の力になって、やり遂げると決めたことへの意志を強くしていくのだった。
*
「よーしシズク、水浴びの時間だぞ」
「みぅ! みぅみう!」
今日のシズクは小夏の家にいた。シズクを抱いた裸の優真が、お風呂場に足を踏み入れる。きちんとドアを閉めると、蛇口を軽くひねってシャワーから冷たい水を出した。
シャワーから流れる冷たい水を手のひらで受けてから、まずは軽くシズクの体をなでる。こうして体温を水温に馴染ませてやってから、改めてシャワーをシズクに浴びせてあげた。少しゆるめの勢いで放たれる水を全身で受けて、シズクはとても気持ちが良さそう。飛び散る水しぶきを体で受け止めつつ、優真がはしゃぐフィオネを微笑みながら見つめている。
「気持ちいいか? シズク」
「みぅ!」
「よしよし、いい感じだな」
シズクはこうして一日に二回、小夏と優真に水浴びをさせてもらっている。優真の家では庭でビニールプールに入れてもらうことが多かったが、庭のない小夏の家ではこうやってお風呂場で冷たいシャワーを浴びていた。初めはぎこちなかった優真もすっかり慣れて、冷たい水を浴びても平気な顔をしている。優真と一緒に水遊びができて、シズクはとてもうれしそうだ。
顔に水を浴びて、シズクがぷるぷると小さく首を振る。辺りに水を飛ばす姿が愛らしい、優真の頬が思わずほころんだ。水を払って目を開けたシズクが、目の前にいる優真の笑顔を見てつられて笑う。笑顔と笑顔が交わり合って、優しい空気が広がる。
「ちょっと体を洗ってやるからな」
優真がタオルを手に取ると、水で軽く濡らしてから石鹸を泡立てる。タオルがきめ細やかな泡に包まれたところでシャワーを止めて、優真がシズクの体にタオルをゆっくり押し当てた。割れ物を洗うようにそっとタオルをこすると、シズクがくすぐったそうに目を細めた。シズクの体が白い泡に包まれていく。まるでタンポポのわたほうしをまとったかのよう。
全身すっかり泡だらけになったところで、止めていたシャワーから再び水を出す。泡を水でくまなく洗い流してやると、シズクの綺麗な水色の体が露わになった。綺麗になったな、そう言う優真に、シズクは満面の笑みで応える。シズクの体は、その心のようにいつも綺麗にしてやりたい、優真の願いだった。
(母さんも、こんな気持ちで俺のこと抱いてくれてたのかな)
体を洗ってもらってばっちり綺麗になったシズクを抱いてやりながら、優真がふとそんなことを考える。赤ちゃんの頃のことなので当然記憶には無いものの、きっと同じような光景が繰り広げられていたのではないか。そう思わずにはいられない。
(俺も母さんと同じように、シズクを大切にしてやりたいって思うから)
シズクと目を合わせる。キラキラ輝く黄色の瞳はどこまでも透きとおっていて、吸い込まれそうになる感覚を覚える。何の疑いも持たず、自分のことを信頼している。ここまで来るのにずいぶん時間がかかってしまったけれど、辿り着けたのならばいいじゃないか。そう考えられるだけの余裕が、今の優真には生まれていた。
と、その時。腕の中に抱かれているシズクが体を小さく震わせる。あっ、と優真が気付いた直後、シズクがほんの少しだけ顔をしかめて。
「そっか、さっき水飲んだもんな」
太ももをちょろちょろと流れる透明な水を見ながら、優真が苦笑する。シズクはおしっこがしたくなったようだ。まあ、水を飲んだからには当然いつか外へ出ていくわけで、それが今だった……ということだ。気の抜けたシズクの顔を眺めながら、用を足し終えるのを待ってあげる。
(けど、シズクは俺といると安心できるってことだもんな)
優真の側が落ち着いて安心できる、何よりの証拠。
その思いに応えてやりたい。優真は改めてそう思いながら、もう一度洗ってあげなきゃな、と泡が付いたままのタオルを再び手に取った。
*
それからまたしばらくして、いつも通り優真が――中身は小夏なのだが、小夏の家を訪れた。普段なら家にいるのは二人だけなのだが、今日は少し勝手が違っていて。
「川村くん。いらっしゃい」
お母さんの姿があった。仕事が休みだったようで、家事をして過ごしていた。今の自分は優真であることを意識しながら、小夏が他人行儀に「お邪魔します」と言って中に足を踏み入れる。もちろん、お母さんは小夏と優真が入れ替わっていることになんて気付いていない。自分のお母さんと赤の他人のように接することへのこそばゆさを感じながら、小夏は優真がいるだろう自分の部屋へ向かう。
「あっ、優真くん。おはよう」
「よう小夏。勉強してたんだな」
側に小夏のお母さんがいることを意識して、優真と小夏が自然と小夏らしく・優真らしく振る舞う。中身が優真の小夏は、シズクを抱いて椅子に座っていた。中身が小夏の優真が来る前から既に勉強を始めていて、シズクが構ってほしいと言ったのでちょっと休憩して遊んであげていた、そんなところだろう。
「シズクも元気そうだな。よかったよかった」
「なっちゃん、シズクって、もしかしてフィオネの名前?」
「そうだよ。わたしと優真くんで付けてあげたの」
「水滴みたいな形してますし、男の子でも女の子でもいい感じの名前になるな、って思って」
「いい名前じゃない、素敵だわ。私もフィオネにぴったりだと思うわ」
フィオネにシズクという名前を付けたことをお母さんに話すと、お母さんも「いい名前だ」と言って褒めてくれた。それを聞いた小夏は嬉しくなったし、シズクを抱いている優真もまた、自分のことのように喜んでいる。自分は小夏なんだ、その自覚が強く芽生えてきている証だ。
そうだ、と優真が声を上げる。椅子からそっと降りて立ち上がると、部屋の隅に立っていたお母さんの元まで歩いていく。
「お母さん。シズクのこと、抱っこしてあげてよ」
「いいのかしら? それじゃあ――」
優真がシズクをお母さんに預けて、その様子を間近で見守る。お母さんは柔らかな手つきでシズクを抱き上げると、そっと胸へ体を寄せた。シズクは少しも嫌がらず、怯えたり怖がったりする様子も見せずに、お母さんにその身をすっかり委ねていた。腕の中にシズクを抱いたお母さんの表情が、糸がほぐれるようにほころんでいく。
「誰かに抱っこされるのに慣れてるみたいね。よく懐いてるわ。なっちゃんと川村くんのおかげね」
「さすがお母さん! お母さんは、お母さん歴十年だもんね。わたしの大先輩だもん」
「もう、なっちゃんったら。口がよく回るのは、誰に似たのかしら」
「成長日記だって、交換しながらちゃんと付けてるよ。これで自由研究もバッチリだね」
「ポケモンの生態について調べた、立派な共同研究だわ。きっと担任の先生もビックリしちゃうわね」
無邪気に喜ぶシズク、同じく嬉しそうなお母さん。優真としてこの場所にいる小夏も、胸がぽっと熱くなるのを感じた。「小夏」本人としてお母さんの言葉を聞けないのは少し残念だったが、代わりに優真が自分を完璧に演じて、自分ならこう言うだろうと思った言葉を口にしてくれていた。もう優真は小夏として振る舞うことに違和感を覚えていなかったし、小夏らしくあるにはどうすればいいかをきちんと理解しているようだった。
シズクを抱いたままふっと瞼を下ろして、しばし物思いにふけってから、お母さんがゆっくりと口を開く。
「なっちゃんはもう、すっかりお母さんね。立派になったわ」
「私の方が、なっちゃんのことを子供だって思い込んでただけみたい」
「もう悲しい思いをしたくないからって、なっちゃんをここに閉じ込めようとしていたんだわ。なっちゃんはしっかり自分の足で立って歩ける、元気な子なのに」
「子がいつか親離れをするように、親もいずれ子離れをする。だんだん、その時が近付いてきているのね。お母さんも、心の準備ができてきたわ」
伏せていた顔をぐっと上げて、お母さんが小夏に面と向かって語りかける。
「けれどもね、なっちゃん。独り立ちしても、お母さんは変わらずなっちゃんのお母さんのままよ」
「もし何かあって、お母さんの助けが必要になったら、いつでも言ってちょうだい」
小夏を束縛するつもりはない、けれど母としての役割は決して放棄しない。助力が必要なら遠慮せずに声をかけてほしい。お母さんの言葉を聞いた優真は力強く、しっかりと首を縦に振る。それは小夏が返したいと思った反応そのもので、小夏そのものの素振りで。
目の前にいるのは、他でもない「小夏」そのものだった。
(……ありがとう、お母さん。わたしもちゃんと聞いてるよ)
(どんなに離れてたって、お母さんはお母さんだから)
お母さんへの感謝の言葉を胸の中で解き放って、小夏は小さくうなずいた。
次の日のこと。いつもなら小夏が自分の家へ向かうところを、今日は優真が自分の家へ赴いた。勉強に必要なものと水着を一式すべて揃えて、我が家に足を踏み入れる。
「よう小夏。さあ、上がってくれ」
「あっ、こなつお姉ちゃんだ!」
「おはよ、優美ちゃん。お邪魔するね」
小夏と優美が揃って出迎える。優美はよく通るはきはきした声を上げて、優真の来訪を喜んでくれた。実は中身が自分のお兄ちゃんだとは気付いていないけれど、年上の小夏を元気よく出迎える様子はとても微笑ましかった。小夏はすっかりお兄ちゃんが板についたようで、はしゃぐ優美を目を細めながら見ている。
勉強を始める前にちょっと一息入れようと和室へ向かうと、お気に入りのタオルケットにくるまっていたシズクがぴょんと跳ねて飛び起きた。優真がやってきたことに気付いたのだ。相変わらず元気いっぱいのシズクを、優真が優しくなでてやる。間もなく優美と小夏も入ってきて、シズクを取り囲む形になった。
「シズクちゃん、こなつお姉ちゃんが来てくれてうれしそう」
「家にいる時はいつもシズクの遊び相手になってくれてるんだぜ。な? 優美ちゃん」
「えへへ。優美ねー、シズクちゃんと遊ぶのだーいすき!」
兄に扮した小夏から肩にポンと手を置かれて、優美が喜びを全身でアピールする。妹が心から楽しそうにしているのを目にして、優真は穏やかな気持ちになるのを感じた。小夏は兄として堂々と振る舞いながら、優美をとても可愛がってあげている。今の小夏はどこから見ても自分そのもので、女子っぽさを感じるようなことはまったくない。自分自身が動いているのを見ているかのようだ。
翻って自分のことを思い出してみると、自分は少し優美に優しくないところがあった。今さらながら反省するほかない。遊ぼうと言われても追い払ってしまうことがしばしばあったし、家ではいつも「優美」と呼び捨てにしていた。優美が寂しそうな顔をしているのを見たのは一度や二度ではない。優美は、それでもそんな自分を兄として慕ってくれていた。小夏に懐いている優美を見ながら、優真は自省を繰り返すばかりだ。
「シズクのこと、優美ちゃんがいつもお世話してくれてるんだよね。どうもありがとう」
「わーい! こなつお姉ちゃんにほめられた!」
今は小夏として、優美と心を通わせよう。心構えをしっかり持って、優真は優美に小夏として声をかけた。
「シズクちゃんねー、見るたびにおっきくなってるの。いいなー、優美ももっとおっきくなりたいよー」
「最初はもっとちっちゃかったもんね。元気に育ってくれてうれしいよ」
「俺と小夏で成長日記付けてるけど、最初に比べるとホントに大きくなったな。倍くらいになってるんじゃないか?」
最初は両手の手のひらにちょこんと乗るくらいだったシズクは、今やしっかり腕を使って抱きかかえないといけないくらい大きくなっている。生まれてからまだひと月も経っていないのに、ずいぶんと育つのが早い。まだまだ子供っぽい、幼い部分も多かったけど、生まれたばかりの赤ちゃんのような振る舞いはだんだん少なくなってきている。着実に成長していくシズクを、優真も小夏も、そして一緒に遊んでくれる優美もしっかりと見てあげていた。
「優美ちゃんは将来、エーテル財団の職員になるんだよな」
「うん! 優美ねー、いっぱいシズクちゃんのお世話して、ポケモンを助ける人になるんだー!」
「いい夢だね。大きくなっても、その夢、大事にしてほしいな」
将来はエーテル財団の職員になって、傷付いたポケモンたちを保護する仕事がしたい。自分の夢を口にする優美を、優真がこの目でしっかりと見据える。右も左も分からない幼い妹だとばかり思っていたけど、いつの間にか自分にも負けないくらいの強い意志を持つくらいにまで大きくなっていた。兄として直に接することができないのが惜しまれたが、優美が成長していることが分かっただけでも嬉しかった。
ちょっと麦茶入れて持ってくるからな、そう言って小夏が台所へ行った時、優真と優美が二人きりになる。シズクと遊んでくれている優美を眺めながら、優真が優美のすぐ近くまでそっと歩いていく。
「優美ちゃん、ちょっといいかな」
「こなつお姉ちゃん。どうしたの?」
「えっとね、この間優真くんと泳いでた時なんだけど」
「うん」
「『これからはもっと優美ちゃんと遊ぶようにしたい』って、そう言ってたよ」
小夏の体を借りて、優美を大切にしてやりたいという自分の思いを伝える。
「ホントに!? わーい!」
「このこと、優真くんにはナイショだよ。面と向かって言うと、恥ずかしがっちゃうから」
「うん! 分かった! こなつお姉ちゃん、ありがとう!」
元の体に戻って優美に兄として接することになったら、もっと優しくなろう。
今の優真は、心からそう思うばかりだった。
*
「いいぞ川村! すっかり本調子に戻って来たみたいだな」
プールの上に引かれたレーンを、優真がまっすぐにグングン進んでいく。その様子を、プールサイドから先生が熱心に見つめている。ここしばらくまともに泳ぐこともできなかった優真が、ようやく泳ぐコツを取り戻してきたことを心から喜んでいる。隣のレーンを泳ぐ別の子にも速さで負けていない。まだ全盛期にはわずかに及ばないものの、優真は確実に復活を遂げつつあった。
実際には――復活と言うより、成長と言う方が正しかったのだけど。
(水に入るのが怖くなくなったからかな、優真くんの体がすごくよく馴染んでる)
中に入っているのは、相変わらず小夏のままだ。けれど練習を重ねて、優真であることを意識し続けたおかげで、小夏は優真の体をかなり上手に使いこなせるようになっていた。思ったように腕や脚を動かせるようになって、そしてそれだけでスイスイ前へ泳いでいくことができる。あまり気持ちよく泳げるものだからますます楽しくなって、みるみるうちに速さを増していく。まるで別人のような動きだ。
五十メートルを泳ぎ切り、コースから上がって悠々とプールサイドを歩いていると、遅れて上がってきた同級生たちのおしゃべりが聞こえてきて。
「ちぇっ、川村が不調なうちに差をつけようと思ったのになぁ」
「あのまま泳げないままだったら、俺にもチャンスあったんだけどなー」
不調だった優真が本調子を取り戻しつつあることを、彼らは快く思っていない様子。
(ま、そういう気持ちにだってなるよね。優真くんには前から誰も敵わなかったみたいだし)
意外と言うべきか、小夏はどこ吹く風だ。もちろん彼らの発言は気持ちのいいものではなかったものの、口にした背景や意図は理解はできたからだ。当の小夏だって、似たような思いを抱いたことはあった。競争相手が奮わないなら自分が躍進できるチャンスが生まれるわけで、それは誰にとっても同じこと。小夏だって、塾のテストでライバルが実力を発揮できずにトップを取れたことが何度かある。それでもトップはトップで、別に小夏が何かズルをしたわけではない。正々堂々挑んで勝ち取った成果だ。
周囲の環境やコンディション――それもすべて踏まえての「競争」なのだから。
「おいお前たち、泳ぐのは自分だぞ」
「うっ、先生」
「川村が出なくたって、もっと早いやつが出てくれば勝てないのは同じなんだ。他人のことより、自分を鍛えることに専念するんだな」
とは言え、相手の不調を願うだけでは勝つことはできない。最後は自分自身との戦いになるのだから。小夏はそこまできちんと理解していたからこそ、二人の言葉にあえて突っかかることをしなかった。それよりも自分を鍛えることに専念したいという思いの方が強かった。まさしく先生の言った通りだった。
(優真くんが水泳に打ち込んでた気持ち、今のわたしなら分かる気がするよ)
本番の水泳大会まで、もうあと二週間を切った。かつての優真のようなキレを取り戻さなければと、小夏が決意を新たにする。
その後も小夏はひたすら泳ぎ続けて、今日の練習を終えたのだった。
「えっ!? 夏休みの宿題、全部終わらせちゃったの!?」
「答え合わせもきっちり済ませたぜ。やってみると案外何とかなるもんだな」
翌日。自分の家を訪れた小夏が待っていた優真から聞かされたのは、夏休みの宿題を自由研究以外すべて終わらせてしまった。というショッキングな一言だった。もちろん小夏の方はもっと前に終わらせていたものの、優真がこんなにも早く片付けてしまうとは思っていなかったからだ。当の優真はケロリとしていて、小夏が来るよりも前に塾のテキストを開いて予習を始めていた。
小夏が夏休みのワークを見てみる。見ると八割がた正解で、ごく一部間違いがある程度。算数ワークには検算の跡があちこちに残っているし、国語のワークには問題文に線を引っ張ったりとよく読みこんだ形跡がある。答えを写したわけではなくきちんと自分で問題を解いたのは明白だ。一通りワークを眺めてから、小夏が驚きに満ちた顔で優真を見る。
「すごいよ、優真くん。わたしビックリしちゃった」
「まだまだ小夏には及ばないけど、でも……あれだ、勉強って分かると楽しいもんなんだな」
「分かると楽しい……そうだよ優真くん! その通りだよ!」
「問題を見て『こう解けばいいのか』って分かると楽しいし、分からない問題の解き方を教えてもらうのも楽しい。そうだよな」
「うん、うん! 分かるよ、すっごく分かる!」
優真の言葉ひとつひとつに何度もうなずいて、小夏が「分かる分かる」と興奮した様子で繰り返す。
「夏休みの宿題を自分で解いたら自信が出てきて、塾の勉強にもちゃんと着いていけるようになったんだ」
「優真くん……!」
「なんていうか、水泳と同じだよな。泳法が分かるとやる気が出て、もっと練習したくなる。遅くなったけど、やっと理解できたぜ」
きちんと足を閉じて椅子に座る優真が、照れくさそうにしながら小夏に語る。瞳をキラキラ輝かせながら、小夏は大きく身を乗り出した。
「そう! そうだよ優真くん! ホントに優真くんの言う通り。わたし嬉しいよ! わたしだって同じだったもん!」
「ひょっとして、小夏も……」
「わたしもね、水に顔を浸けるのが怖くなくなって、それからね、急に泳げるようになったの! クロールも平泳ぎも、背泳ぎも!」
「おおっ、やるじゃん小夏! すげえじゃねえか!」
「今は優真くんほど速く泳げないけど、でも、今わたしは優真くんだからね。いっぱい練習して、もっと速くなって見せるよ」
見違えたように泳げるようになったと聞き、優真が目を大きく見開く。自信をつけた様子の小夏が、その言葉に何よりも強い説得力を持たせていた。二人が互いに相手を見つめて、本領を発揮し始めたことへの喜びを隠さない。
歯車は、力強く回り始めていた。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。