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#24 ふたりの家族たち

全国学力テストを十日後に控えたある日のこと。優真は母と共に、玄関先でひとりの家族を出迎えていた。

「お母さん。よく来てくれたわ」

「小梅おばあちゃん、いらっしゃい」

おばあちゃん、と呼ばれたのは、小夏の母方の祖母に当たる人だ。つまり、お母さんのお母さん、ということでもある。その名前を小梅さんという。

小夏のお母さんの故郷は豊縁の内地にある敷衍市で、お父さんの仕事の都合でここ榁へ引越して来たといういきさつがある。小夏が生まれたのはその後のことだから、小夏は生まれも育ちも榁だ。ちなみに、おばあちゃんもまた元々敷衍ではなく関東で生まれ育ったらしく、言葉遣いは完全に関東ことばのそれだ。お母さんは器用なもので、友達の前では豊縁ことば、家族の前では関東ことばを自然に使い分けていたという。そしておばあちゃんは敷衍市で今も変わらず暮らしていて、時折こうして遊びに来ることがあった。

「こんにちは。小春もこなちゃんも、元気そうでよかったわ」

「今日来てくれるって分かってたから、お休みを取っておいたの」

「まあ、ありがとうね。お出迎えまでしてもらって」

「いいのよ。また私たちも、敷衍の方まで遊びに行かせてもらうわ」

久々となる母との再会に、お母さんは声を弾ませてとてもうれしそう。それはおばあちゃんも同じで、顔はずっとニコニコしっぱなしだ。小夏とお母さんと同じように、お母さんとおばあちゃんも仲がいいんだな――なんてことを考えて感心しながら、隣にいる優真が二人を見ていた。

優真がおばあちゃんが両手に提げていた紙袋を受け取ると、おばあちゃんをリビングまで案内する。お母さんが冷たい飲み物を用意している間に、おばあちゃんが持ってきた紙袋をそっと広げてみた。中にはお菓子やら何やらがいっぱい詰まっている。お土産をたくさん持ってきてくれたようだ。わあ、と声を上げる優真だったが、その中にあるものを見つけて、その目をさらに大きく見開かせる。

「あっ、これ『フエンせんべい』!」

「うふふ。こなちゃん、このお煎餅好きだったものね。たくさん買ってきたのよ」

紙袋から取り出した「フエンせんべい」は、優真の大好物だった。お砂糖控えめお醤油強めの味付けでしっかり焼き上げられて、海苔がぴったりと隙間なく貼り付けられている、ごくシンプルなお煎餅。けれどそれゆえに飽きが来ず、「お煎餅を食べている」という感覚が得られる絶妙な歯ごたえも合わさって、一枚食べ始めるとやめられなくなってつい手が伸びてしまう。優真の中で、「フエンせんべい」はお煎餅・おかきの王様だった。

そしておばあちゃんの反応から、さりげなく小夏もこれが好きだということを知る。特に小夏に合わせたわけではなく自分の素直な気持ちの発露だったわけだけど、結果的に小夏と好みが一致していることが分かって、優真は少し嬉しくなった。今度遊びに来たらおやつにこれを出してあげよう、優真はそんなことを考える。

「おばあちゃん。お土産、こっちに置いとくね」

「ありがとね、こなちゃん。しばらく見ないうちに、また大きくなったわねえ」

「身長も伸びたんだよ。ほら」

「まあ。立派に育ってくれて、お母さんも喜んでるでしょう」

おばあちゃんと向かい合う。背丈はお母さんと同じくらいで結構高く、しゃんと背筋を伸ばしている。杖を使うことなく自分の足でしっかり立って、歩くスピードも優真やお母さんとほとんど変わらない。顔には皺が刻まれているが、髪は艶やかで黒々としているし、まだまだ若さが感じられる。一見おっとりしているようで、その実芯はしっかりしているというのが伝わってきて、小夏やお母さんに面影が色濃く受け継がれているのを感じることができた。

「おや、こなちゃん。おばあちゃんの顔に何か付いてるかしら?」

「あっ、ううん。大丈夫だよ。久しぶりだから、元気にしてたかな、って」

「おかげさまで、元気に暮らさせてもらってるわ。こなちゃんたちのおかげよ」

おばあちゃんに興味を持ってしげしげと見つめていた優真に、おばあちゃんがニコニコしながら小首を傾げて見せる。その問いに優真は「久しぶりだから」と答えて返した。口からとっさに出た言葉だったものの、会話の流れにはうまくハマっていたようだ。優真ももう慣れたもので、ヒヤリとするようなことはなかった。自分は今小夏なんだ、その自覚は無意識のレベルにまで達しつつあった。

と、優真とおばあちゃんが談笑していた横から、ふわふわと小さな影がひょっこり姿を現す。

「みぅ?」

「シズク。起きたんだね」

「あら、かわいらしい。物の怪の子かしら?」

シズクを見たおばあちゃんが「物の怪」という言葉を口にする。優真はこの言葉の意味を知っていた。まだ「ポケモン」という言葉が世界中に広まる前、昔の人は不思議な生き物である彼らを指して「物の怪」と呼んでいたのだ。ちょうどおばあちゃんたちの世代くらいまでがそうで、慣れ親しんだこの呼称を使う人は今なお少なくない。優真のおばあちゃんは早くに亡くなったが、彼女もまたポケモン全般を「物の怪」と呼んでいたことを、優真は記憶に留めていた。

「フィオネのシズクだよ。わたしと優真くんの二人でお世話してるの」

「あら、あの優真くんと? いつもやんちゃしてるって聞いてたけれど、案外しっかりしたところもあるのね」

「やんちゃなのは相変わらずだけどね。シズクのことはしっかり見てくれてるよ」

自分のことをどんなふうに言っていたのかが伝わってきて、優真が心の中で苦笑する。もうやんちゃはしないと決めていたものの、今は小夏のおばあちゃんが抱いている「やんちゃな優真くん」像を変えないことにした。

「二人とも、シズクちゃんを大切にしてあげてるのね。よく懐いてるわ」

「わかる?」

「ええ。シズクちゃんもこなちゃんも、いい顔をしているもの」

シズクを見つめてから、すっと視線を動かして優真に目を向ける。なんということは無く、おばあちゃんと目を合わせあっていた優真。

「こなちゃん」

――だったのだけど。

 

「何かあったみたいね。人が違うみたいよ」

「――えっ!?」

 

優真の目を見たおばあちゃんは、先ほどまでと変わらない柔らかな口調で、けれどはっきりと「人が違う」と言った。これにはさすがに優真も面食らってしまって、返す言葉が見つからなかった。おばあちゃんの口ぶりはしっかりしていて、おかしなことを口走っているという様子では決してなかった。そうではなく明確な意志を持って、小夏――もとい、優真の本質をその目でしっかり見据えている。

今の小夏は小夏ではなく、まったくの別人である――そのことを看破しているようにしか見えなかった。

「どうやら、間違ってはいないみたい。まだ私の眼は曇っていないみたいで良かったわ」

目の前にいる小夏は、小夏本人ではない。自分の見たものと孫のふりをしている者の反応を天秤にかけて、その釣り合いが取れたことに納得しているようだった。

対する優真の方は戸惑うばかりだ。まさか、こんなところで自分の正体を見破られるとは思うはずもない。もしこのことをお母さんに伝えられでもしたら、一大事だ。自分の母親の言うことなら、お母さんだって耳を傾けるだろう。そこからどんな混乱が引き起こされるかなんて、考えるまでもなかった。どうにかこのことを秘密にしておいてもらいたい、優真が一歩前に出ておばあちゃんに声をかけようとする。

「いいの、いいの。そんなに焦らなくたって」

「お、おばあちゃん……」

「貴方がこなちゃんに悪いことをするつもりはない。その眼を視ていれば分かるもの。ちゃあんと、お見通しよ」

だが、おばあちゃんの反応は意外なものだった。自分の孫が別人になっているというのにカケラも取り乱したりすることはなく、むしろ優しい笑みさえ浮かべて見せている。するとこれまた不思議なことに、優真も焦りや戸惑いの感情が引いていくのを実感する。おばあちゃんは信頼できる人だ、その思いが優真の心を落ち着かせていく。

「こなちゃんのこと、お母さんはまだ知らないみたいね」

「……うん」

「それなら、内緒にしておくわね。おばあちゃんと違って、お母さんの眼は普通の目みたいだから」

原理は分からないが、小夏のおばあちゃんは特別な目を持っていて、目には見えないものを見通す力があるらしい。おばあちゃんには今、小夏の体に宿っている優真の姿が見えているのかも知れなかった。

おばあちゃんが優真の隣にいるシズクを見やる。シズクがきょとんとした顔をして首をかしげると、おばあちゃんは納得したような表情を見せる。

「シズクちゃんは、縁結びをしてくれる海神様の子。それが側に居るということは、優真くんと一緒にお世話をしてあげているということは……」

「……きっとこなちゃんは今、優真くんのところにいるのね。元気にしているかしら?」

優真が黙ったままうなずく。小夏は自分の体に宿って、川村優真として精いっぱい生きている。今自分がこうして皆口小夏として奮闘しているのと、まったく同じように。元気にしているのは間違いなかった。

「そう。それなら、心配することは無さそうね。こなちゃんはしっかりした子だから、きっとうまくやっているわ」

「おばあちゃん」

「こなちゃんの代わりをする貴方も大変だと思うけれど、仲良くしてあげてちょうだいね」

背筋を伸ばして姿勢を改めた優真が、深く、深くうなずいて見えた。本心からの想い。これもきっと、おばあちゃんには見通されていることだろう。

「ふふふ、貴方が優しい子で良かったわ。シズクちゃんの顔にも表れているもの。やんちゃはもう卒業したみたいね」

二人がこうして話をしていると、お母さんが戻ってきて台所へ入るのが見えた。時刻はもうすぐ十二時を指そうとしているから、お昼の支度を始めるのだろう。

「さあ――こなちゃん。私たちもお母さんのお手伝いをしましょう」

「うん!」

優真はおばあちゃんの手を取ると、台所までそっと引いていく。優しいねえ、と頬をほころばせるおばあちゃんを見ながら、優真は胸が熱くなるのを感じる。先ほども述べた通り、優真のおばあちゃんはどちらも早くに亡くなっていたから、元気にしている小夏のおばあちゃんを見ると嬉しくなってしまう。今はもう会えない自分のおばあちゃんの代わりに、小夏のおばあちゃんを大事にしてあげたい。

今の自分は、他でもない皆口小夏なのだから。

 

買い物に出かけるという母を玄関まで見送って、優真がソファでくつろいでいるおばあちゃんの元まで戻る。今の自分は皆口小夏だから、あくまで小夏として振る舞うよ。優真はそうおばあちゃんに告げると、隣にぽふっと腰かけた。優真の様子を、おばあちゃんは相変わらずニコニコしながら見つめている。

「すっかりこなちゃんが板に付いてるわね。こなちゃんの方もどうしてるか見てみたいわ」

「今日は妹と遊んでくれてるはずだよ。海に出かける、って言ってたから」

シズクがふよふよと近付いてきて、おばあちゃんと小夏の間にすとんと座る。大きな目を開いて上を見ると、微笑んだおばあちゃんの顔がその瞳に映りこんだ。

「まあ、ずいぶん綺麗な眼をしているわ。この子は少し特別みたいね」

「やっぱり、おばあちゃんが見れば分かっちゃうの?」

「なんとなく、だけれどもね。歳には勝てないわ。昔はもう少し、深くものが見えたのだけど」

おばあちゃんによると、シズクの目は驚くほど美しいらしい。宝石の「シトリン」のような澄んだ黄色をしていて、確かに綺麗だと優真も思う。物腰柔らかなおばあちゃんのことが気に入ったのか、シズクはおばあちゃんの元へ寄って行って、その膝の上へそっと乗っかってみせる。おばあちゃんは両手を回してシズクを抱くと、なんとも穏やかな手つきでもって、その小さな体をなでてあげる。

シズクを優しくあやしてあげながら、優真に向けておばあちゃんが語り掛ける。

「海神様は、人の心を繋ぐ力を持っているのよ。こうして優真くんがこなちゃんになっているのも、海神様の思し召しだわ」

「ということは……フィオネにはみんな、人の心を入れ替える力があるのかな?」

「そういうわけでもないみたいね。ほんの一握りの子が、時々そんな力を持って生まれて来ると聞いたかしら」

「じゃあ、シズクは他のフィオネと何か違うのかも」

「ええ。眼から強い力を感じるわ。輝いていて――光を抱いているかのよう。生を授かってから今日までずっと、濁りのない清水に囲まれて暮らしてきたみたいだわ」

海神様の子は――フィオネは、清らかな心を持つ人の前にだけ姿を現して、穢れのない心を持つ人の所にだけ住み着くと言う。シズクは優真と小夏の心を美しいと認めているからこそ、二人の側から離れようとしないのだと、おばあちゃんは語った。

「小夏はともかくとして、わたしはそんなに綺麗なのかな? お金がほしいとか、そういうこと考えることよくあるけど」

「お金をどんな風に使いたいか、そこが大事よ。もしお金があったら、どう使ってみたい?」

「お母さんにマッサージチェアを買ってあげたいのと、妹の優美をトレーナーズスクールに通わせてあげたいかな」

「まあ……お母さんや妹さんのために。優真くんはどうかしら?」

「うーん、あんまり考えたことなかったよ。お金もらったら大体貯金してたし、使ってもたまに本を買ったり、あとはアイス食べたりするくらいだったし」

「あらあら、まあまあ。シズクちゃんが優真くんに懐くのも道理だわ。見ていて眩しいくらいだもの」

そうかな? と首をかしげる優真に、おばあちゃんが何度も首を縦に振って太鼓判を押す。そして手元にあったバッグからおもむろにお財布を取り出すと、中からお札を三枚ほど抜き取って。

「心が綺麗なのは素敵よ。でも今の世の中、お金の遣い方もちゃんと勉強した方がいいわ。はいこれ、お小遣い」

「えっ!? いやいやいや、いいよそんな。なんか、わたしがお金をねだっちゃったみたいだし……」

「この歳になると、孫にお小遣いをあげるのが楽しみになっちゃうのよ。ほら、老い先短いおばあちゃんを喜ばせると思って、ね?」

「おばあちゃん、絶対まだまだ長生きしそうだけどなぁ……」

そう力強く言われた優真はちょっと気が引けつつ、差し出された三千円をしっかり受け取る。

「ありがとう、おばあちゃん。大事に使うね」

「いいのよ。こなちゃんとしてがんばってるご褒美でもあるわ。大変でしょうけど、しっかりね」

お茶目なおばあちゃんを見ていると、なんだか甘えたくなってくる。優真がほほをほころばせておばあちゃんに寄り掛かると、おばあちゃんは優真を柔らかな手つきでなでてくれた。

「おばあちゃん」

「うん、うん。いい子いい子」

今日はおばあちゃんにたっぷり甘えさせてもらおう。あたたかな気持ちに包まれながら、優真はそんなことを思うのだった。

 

 

今日も海は穏やかに凪いでいる。気持ちよく泳ぎ回るにはピッタリの天候だった。

「お兄ちゃんはこの辺りで泳いでるから、何かあったら言ってくれよな」

「うん! 優美、シズクちゃんと遊んでるね」

海へやってきたのは、小夏と優美のふたり。今日はスイミングスクールがお休みの日なのだが、今やすっかり優真の体に慣れ親しんでしまった小夏は体力とやる気を持て余してしまっていて、どこかで泳ぎたくて仕方なかった。そこへ優美が「海へ遊びに行きたい」と言ってきたものだから、これ幸いとばかりに二人で海へ繰り出したという寸法である。もちろん、海が大好きなシズクも一緒にだ。十分に準備運動をして体をほぐし温めてから、小夏が海へ入っていく。

プールの静かな水面を泳ぐのはいかにも「競技」という感じで胸がワクワクするけれど、こうやって海で小さな波に揉まれながら泳ぐのはまた違った面白さがあって、自然とじゃれ合っているとでも言うべき感覚がした。今まで優真から教わったことをひとつひとつ思い返して、海の中で実践する。

(優真くんは優真くんで、ちゃんと考えてくれてたんだ)

以前は無茶苦茶なことを言っていると思っていたことも、泳ぐことに慣れてから振り返ると驚くほど正確で筋の通ったものだということに気が付く。優真も同じように、自分になんとしても水泳大会で優勝してもらいたいと思っているのだろう。優真の期待に応えねば、そう考えた小夏の手が大きく水をかいて、ぐんと前へ進む。

小夏は海を自由に泳ぎ回りながらも、時折海に体を浮かせてその場に止まると、海岸近くの浅瀬で遊んでいる優美に目を向ける。シズクと水をかけあったり、砂浜を走り回ったりして、どちらもとても楽しそうだ。優美ちゃんも楽しそうでよかった、そう思うと共に、ふとこんな考えがわいてきて。

(……優美ちゃんは、わたしが守ってあげなきゃ。大切な妹なんだから)

知っての通り、今の小夏は一人っ子だ。他には兄妹も姉妹もおらず、両親と小夏の三人で暮らしている。いとこのお兄ちゃんやお姉ちゃん、甥っ子や姪っ子もいない。優美はお兄ちゃんに似て元気いっぱいだが、自分から進んでシズクのお世話をしてくれたりする真面目ないい子だ。すっかりトゲの取れた今の優真とそっくりとも言える。こういうところはやはり血のつながりのある兄妹なのだろう。

妹かぁ、と小さな声でこぼす。その瞳は海辺ではしゃぎまわる優美をしっかりと捉えていて、けれど同時に何か別のものを映し出しているようにも見受けられる。小夏はしばし泳ぐことを忘れて、シズクとふれあう優美に目を向け続けた。

海へ来てから一時間と少しくらい経った頃。優真も優美も、それからシズクもたっぷり海で遊んで、そろそろ帰ろうか、と声をかけあう。

「よし。帰ってお昼にしような、優美ちゃん」

「うん! 優美おなかすいちゃった。いっしょに焼きうどん作ろうね」

「野菜はもう切ってあるから、あとは炒めるだけだな」

岩陰でさっと着替えを済ませると、小夏と優美が荷物を持って家へ帰ろうとする。帰ったらすぐにお昼の支度をしよう、焼きうどんを作って一緒に食べよう――なんて、気楽な調子で会話をしていた二人だったのだが。

「……あれ? お兄ちゃん、ちょっと待って」

「ん? どうかしたのか?」

「むこう。ほら、むこう見てみて、何かいるよ」

優美が不意に立ち止まったかと思うと、少しばかり遠くを指さして見せる。小夏が目を凝らして優美の視線の先を追いかけると、確かに何か小さな生き物の姿が見える。ポケモンだろうか、小夏が思案していると、優美が先にそちらに向かって走り出した。間髪入れず、小夏がシズクを抱いて後から駆けていく。

走ってきた先にいたのは、小夏が見立てた通り、ポケモンだった。

「お、お兄ちゃん! 大変だよ! ウデッポウが、ウデッポウが……!」

「これは……ひどいケガじゃないか、他のポケモンにやられたのか」

ポケモンはウデッポウ、しかしその状態はかなり酷く、全身に無数の傷が付いて、辺りに真っ赤な血を漂わせている。それでもまだ息も意識もあるようで、近付いてきた小夏たちを見て怯えて遠ざかろうとしている。けれどそれすらもうまく行かず、ただ傷だらけの体を弱々しくよじることしかできていない。痛々しいことこの上ない有様で、小夏は絶句するばかりだ。

先に動いたのは優美の方だった。後ずさろうとするウデッポウの元までさっと駆け寄ると、しっかりして、と言いながら両手を目いっぱい伸ばして差し出して、傷付いたウデッポウを抱き上げようとする。

「……!」

「……いたっ!」

けれど、ウデッポウは警戒を解くことをせず、優美が差し伸べた手を拒絶した。まだかろうじて動く右のハサミで、優美の腕をばしっと挟んだのだ。ウデッポウは小さな体格だがその力は大変強く、ハサミで思いっきり挟まれれば大人だって飛び上がるほどの痛さだ。痛みに顔をしかめる優美に、小夏が「優美ちゃん!」と声を上げる。ハサミをつかんで、すぐに優美の腕を離させようとする。

「だ、だいじょうぶ。お兄ちゃん、だいじょうぶだから……!」

「優美ちゃん……」

その小夏を制止したのは、他ならぬ優美本人だった。腕を強く挟まれて、痛みで半泣きになりつつも、決して声を上げようとはしない。優美の瞳はウデッポウだけをじっと見つめていて、他のものは何も映っていないかのよう。自分のことを信じてほしい、必ずあなたを助けて見せるから。その気持ちを伝えたくて、優美は痛みをこらえながらウデッポウを見守り続けた。

「だいじょうぶだよ、こっちに来て」

優美がそう言うのと、ウデッポウが右のハサミから力を抜くのとは、ほとんど同時だった。先ほどまでの怖がりようが嘘のようにパッと腕を離すと、弱った体を優美の元へ近付けようとする。警戒を解いてくれたのだ。優美の顔がぱあっと明るくなった。これでウデッポウを助けてあげられる、そう言って喜ぶ優美に、小夏は胸を打たれる思いだった。自分を助けてくれた優真と寸分違わぬ姿勢、自分の身を危険にさらすこともいとわない勇気。

やっぱり、優美ちゃんは優真くんの妹だ。小夏は改めてそう思わずにはいられなかった。

よしっ、と声を上げて小夏がカバンから大きなタオルを取り出すと、血まみれになったウデッポウを丁寧に包んで抱き上げる。ウデッポウを確保すると、さっきまでハサミで挟まれていた優美の腕を見てやる。幸い腕に傷はなく、ちょっと赤くなって跡が付いたくらいのものだった。これなら心配はいらなさそうだ。

「優美ちゃん、よくがんばったな。急いでポケモンセンターに行こう」

「うんっ!」

傷付いたポケモンはポケモンセンターまで運ぶ。小夏も優美もよく知っていることだった。二人がそろって走り出し、砂浜から海岸沿いの道へ出る。包まれたタオルから僅かに顔をのぞかせるウデッポウの側にシズクが付いて、見守ることで励ましてやる。ウデッポウはシズクの目を見て、少しだけ安心したような表情を見せた。

 

ポケモンセンターには十分ほどで到着した。空いていたカウンターへ滑り込むと、小夏が声を張り上げる。

「すみません! ケガをしたポケモンを保護したんですが……!」

「分かりました。こちらへどうぞ」

小夏の応対に当たった受付の人は落ち着いた調子で、ポケモンを見せてくれるよう促す。巻いていたタオルを取ってウデッポウを見せると、すぐに容体が思わしくないことを理解したようだ。ただちに治療に入ります、そう言ってウデッポウを引き取る。そのまま緊急用のモンスターボールへ格納されると、奥の部屋へと運ばれていった。小夏と優美が顔を合わせあって、共に不安げな表情を浮かべる。

二人が空いていたベンチに腰かける。あちこちに血の付いたタオルを丁寧に折りたたんでプールバッグへ入れながら、ウデッポウの処置が終わるのを待つ。

「ウデッポウちゃん、だいじょうぶかな」

沈んだ声でこぼす優美。その様子に心を痛めた小夏が、優美の手をそっと取り上げる。

「大丈夫さ。ポケモンセンターはポケモンを元気にするプロが集まった場所だからな。きっとウデッポウも元気になる」

「お兄ちゃん」

「今は、ウデッポウと職員の人たちを信じてあげるんだ」

優美に力強く言葉をかけて励ましてやると、優美は少し元気を取り戻したようで、大きく首を縦に振って応じたのだった。

ウデッポウが出てくるまではしばらく掛かりそうだった。じっと黙っているのも落ち着かなくて、小夏が何となく優美の方を見る。優美はというと、天井に取り付けられているテレビを熱心に見ていた。何かアニメでも流してるのかな、そう思って小夏が視線を上げてみると、意外なことに流れていたのはニュース番組だった。

(『エーテル財団代表グラジオ氏、保護していたラティオスを野生に帰したと発表』……エーテル財団、かぁ)

そう言えば、優美はエーテル財団で働きたい、というようなことを言っていた記憶がある。今日ウデッポウに対して見せた姿勢も、エーテル財団で働く職員のようにポケモンを護りたいという気持ちから生じたものに違いなかった。しかし、どうして優美はエーテル財団に憧れているのだろう。ふとその事が知りたくなって、小夏はニュース番組が別の話題に切り替わるのを見てからさりげなく声をかけた。

「なあ、優美ちゃん。前にさ、エーテル財団で働きたいって言ってたよな」

「そうだよ。大きくなったらね、優美、エーテル財団に入るの」

「兄ちゃん、もしかしたら前にも聞いたかも知れないけどさ、どうしてなんだ?」

小夏から訊ねられた優美が目をパッと開いて、「それを聞いてほしかった」とでも言いたげな顔をして見せた。

「うーんとね、ときどき家に遊びに来て、モモンのみを食べてくスバメいるでしょ」

「あのスバメか。それなら兄ちゃんも知ってるぞ」

「そうだよ。その子ね、去年の夏ぐらいに、ケガをして道路に倒れてたの」

「へえ、そんなことがあったのか」

「優美が見つけたんだけど、どうしたらいいのか分かんなくて、スバメが死んじゃうって泣いてたの。そうしたら、近くをエーテル財団の人が通って、スバメを元気にしてくれたんだ」

なるほど、そういうことか、と小夏は合点がいった。傷付いたスバメを助けてくれたのを見て、自分も同じことをしたいと思うようになった。ポケモンが好きな優美らしい、納得できる理由だ。

つくづくしっかりした妹だと思うばかりだ。自分なりにしっかり目標をもって、なりたいものを見つけて、それに近付けるように日ごろから振る舞いを意識する。水泳の練習を欠かさない優真そっくりだと言っていいだろう。すっかり感心した小夏が微笑みを浮かべて、優美の頭をそっとなでてあげる。

「えらいな、優美ちゃんは。きっと立派な財団の職員さんになれるさ」

「えへへ……うんっ」

尊敬している兄に褒めそやされて、優美は弾けんばかりの笑顔を見せる。将来の夢を語る姿はとても嬉しそうで、見ている方まで幸せな気持ちになってくる。

「お兄ちゃん」

「……優美ちゃん?」

ところがその直後、優美がふと真顔になって、小夏の目をじいっと覗き込む。

「お兄ちゃん、消防士さんにはならないよね?」

「消防士? ならないぞ、水泳選手を目指してるからな」

「よかった、お兄ちゃんは水泳の選手になるんだね。消防士さんにはならないんだ」

なんでまた急にこんなことを、と小夏はちょっと不思議に思うものの、それきりまた優美が嬉しそうに足をパタパタさせているのを見ている内に気にならなくなって、いつしか小夏の頭から優美の質問のことは消えていった。

ウデッポウを預けてからおよそ一時間後。担当に当たった職員さんが奥の部屋から出てきて、小夏と優美の元までまっすぐに歩いてきた。

「川村さん、お待たせしました」

「あっ、はい。あの、ウデッポウは……」

職員さんは穏やかな目を向けて、そして二人に告げる。

「しばらく安静にする必要はありますが、命に別条はありません。三日もすれば元気になると思いますよ」

「ホントに? お兄ちゃんっ、ウデッポウ元気になるんだって!」

胸をなでおろす小夏と、ぴょんぴょん飛び跳ねて喜ぶ優美。優美の側にいたシズクもうれしそうだ。

「お兄ちゃん、ありがとう」

「優美ちゃんがウデッポウを見つけたからだよ。助けたいって思いが、ウデッポウにも伝わったんだ」

嬉しさのあまり抱き付いてくる優美をしっかり受け止めて抱き返してやりながら、小夏が幸せな気持ちを胸に抱く。

(やっぱり、優美ちゃんが笑ってくれると、わたしもうれしいな)

二人の姿は、どこからどう見ても仲のいい兄と妹、そのもので。

いつしか小夏は、優美を自分の妹のように感じていたのだった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。