「それじゃああなた、これからお風呂に入ってくるわ」
「ああ。ゆっくり温まってきてくれ」
読んでいた雑誌を静かに閉じて、母が椅子から立ち上がる。母から受け取った雑誌を近くの棚へ丁寧に入れ直すと、父が母の背中をしばし見送る。洗面所へつながる引き戸が閉められると、父は隣の分厚いハードカバーの本を開いて読みはじめる。読んでいるのは宮城谷昌光の「草原の風」、どうやら中国の皇帝を主人公にした歴史モノの小説らしい。父がいない間に上巻をちょっとばかり読んでみたものの、小難しい言い回しが多くてなかなか内容が頭に入ってこなかった。
こういう本を自分から進んで読んでいるのを目にすると、大人だなと思う。もっと言うなら、父親だな、と思う。
(雰囲気、小夏に似てるんだよな)
小夏の父親は、小夏にどこか似た雰囲気を持っていた。小夏は大人しい部分と意外と大胆な部分を併せ持っているが、大胆な部分は母親から受け継いだのだと思う。そして大人しい部分を父親から受け継いだ、優真にはそう感じられてならなかった。小夏と入れ替わる前日から長期出張でずっと家を空けていたから、優真にしてみれば初めて対面する形だ。
だから、本音を言うと少し緊張していた。けれど幸いそれは杞憂に終わった。清潔感のある見た目、母や娘への柔和で節度ある態度。一目見てよくできた父だと感じるに至った。出張で疲れているだろうにも関わらず、自ら率先して配膳や皿洗いをするところなどは、小夏に通じるものがあった。ただ、それはそれとして、優真は少し居心地の悪さを感じていた。理由は父の人柄などではない。
他でもない優真自身が、「父親」と話をするのが久しぶりだったからだ。
口数は少ないけど筋を通す人、だから結婚したの。かつて母親が言っていた記憶がある。母の言葉は優真の中で形成された父のイメージにピタリと当てはまっていて、何一つとして外れるところがなかった。どんな事にも全力で、いかなる事にも正直で。優真は子供ながら、この人の前では決して悪いことはできない――という思いを抱いていた。畏敬の念と言っていい。最後まで言葉に表すことはなかったが、優真は父を尊敬していた。
いや、今も尊敬している。その方が、正しい。
父は優真に対してあまり干渉しなかった。口うるさく何かを言われたことは無いと言っていい。テストで悪い点数を取っても頭ごなしに叱りつけるようなことはなかったし、友達と取っ組み合い殴り合いの喧嘩をしようと、それが一方的に相手を虐めるものでない、互いにやり合うものである限り何も言わなかった。以前叔母の清音から聞いたことだが、昔は父も勉強が苦手だったり喧嘩に明け暮れたりと、今の優真によく似た日々を過ごしていたらしい。だからきっと、優真クンの気持ちが分かるのよ。清音の言葉が、今も胸に張り付いて剥がれない。
無論、干渉しないということは放置していたということとイコールではない。言葉は少なかったが、父はいつも家族を、母と子供たちを気に掛けていた。幼稚園や学校で行事があれば必ずと言っていいほど参加していたし、家では病気がちな母に代わって様々な家事をこなしていた。具合を悪くして布団で横になる母に向けていた優しい目は忘れらない。父と母が言い争いをするところはついに見たことが無かった。そればかりか、一方が一方の振る舞いに文句をつけるところすら最後まで目にしないままだった。母は父を愛している、父は母を愛している、そして二人は優真と優美を愛している。ただそれだけだ。
それだけで、他には何もいらなかったのだ。
海が凪いでいた日、優真は父と二人で朝から釣りに出かけたことを覚えている。釣りそのものも楽しみにしていたし、父と二人で居られることが何よりも嬉しかった。仕事の都合で家を空けがちで、家にいてもいつも家事に精を出している。父と言葉を交わす機会は多くなかった、少なかった。だから優真は、父と話ができることをとても喜んだ。
通い始めた小学校のこと、新しくできた友達のこと、スイミングで進級したこと、ポケモンバトルを見た時のこと、いつも自分の後ろから付いてくる優美のこと――心に浮かんだことを全部話した。父は決して話をさえぎらなかった。口出しすることもなかった。勢いよく流れる水のように出て来る言葉を、とても大きな箱を用意して一滴残らず受け止めてくれた。
何から何まで言葉にして満足した優真に向けて、父はこう問い掛けた。
「優真は、何をしているときが一番夢中になれるんだ」
「夢中になれること? やっぱり、泳いでるときが一番楽しいかな」
水泳は好きだった。水に自分の体を預けて、ぐんぐん前に進んでいく感覚が気持ちよかった。もちろん、練習で疲れることはあったが、それを辛いと思うことは無かった。疲れたら休んでまた泳げばいい、それくらいにしか考えていなかった。
「俺、水泳選手になりたい。すっげー早く泳いで、一番になりたいんだ」
優真の言葉を父は否定しなかった。釣竿を海に垂らしたまま、深くうなずくのが見えた。
「がんばれ、優真。俺はお前の味方だ」
これ以上の励ましはなかった。尊敬する父が、はっきりと味方だと言ってくれたのだ。釣竿を持つ手が小さく震えたのを覚えている、胸がどくどくと高鳴っていたのを記憶している、絶対に成し遂げるんだという思いが止め処なくあふれ出てきたことを忘れられずにいる。
父がいつも側に着いてくれている。それを超える心の支えなど、その時の優真には考えもつかなかった。そしてそれは、今もなお変わることなどあり得ずにいる。
夕暮れ時を迎えて、そろそろ帰ろうかという時間になった。釣り道具を片付けた父が、やはり凪いでいる海をじっと見つめながら、優真にそっと語り掛けた。
「優真は俺によく似ている。俺もそう思うし、母さんもいつも言っている」
「だから、優真。お前に一つ頼みたいことがある」
「もし、俺に何かあったら、母さんと優美を護ってやってくれ」
父からの自分への頼まれごと――母と優美を護ってほしい。子供だった優真にはそれが大変名誉なことに思えて、無邪気に何度もうなずいた。繰り返しうなずいて、俺が母さんと優美を護ってやるんだ、父にそうはっきりと宣言した。
優真が父から何かを頼まれたのは、それが最初で最後だった。
「あのフィオネは、シズクって名前なんだな」
「……うん。優真くんと二人で考えて付けた名前だよ。今日は優真くんの家にいるの」
「そうか。もういろんな人に言われているだろうけど、いい名前だな」
小夏として、小夏の父と交わす取り留めもない会話。父と話をするということ、それが自分の中でどれだけ特別なことになっていたか、今さらながらに実感する。ここに至るまでずっと持てずにいた実感が、じわじわと形を成していくのを理解する。
「川村くんと二人で面倒を見ているのかい?」
「そうだよ。優真くんの妹、優美ちゃんって言うんだけど、優美ちゃんも一緒に」
「そうか。川村くんの妹さんとも仲良くしてやっているんだな」
自然と優美の顔が思い浮かぶ。自分の大切な妹、母と共に父から託された、自分が護るべき家族。元の体に戻ったら、優美とも遊んでやらないとな――優真がそんなことを考えていた最中、父の口から思いもよらぬ言葉が飛び出す。
「――きっと、天国の小雪も喜んでいるよ」
本当に、思いもよらない言葉だった。
小雪――? 優真は思わず言葉を失った。聞いたことのない名前、初めて耳にする存在。もちろん思い当たる節などない。小夏は一人っ子で、妹なんていない。いるという話も聞いたことなどない。
「小雪が向こうへ行ってしまって、もう四年も経つのか」
「死んだ子の歳を数えるな、なんて人は言うが、そうそう綺麗に忘れられるものでもないな」
「みんな、小雪が来るのを待っていたんだから」
けれどそれは、かつて小夏に妹がいたことを否定するものではなく。
(小夏、だから優美のことをあんなに……)
今にして思えば――優美に対する小夏の姿勢は、小夏が既に妹というものがどういう存在かを知っているとしか思えないものだった。一言も話さなかったけれど、かつて小夏には小雪という妹がいたのだ。そして父親の口ぶりから察するに――小雪はおそらく、生まれる前にこの世を去ったのだろう。優真は察した、そこまで察してしまったと言ってもよかった。
無邪気な優美と楽しそうに遊ぶ小夏の姿を思い出して、優真の胸が締め付けられるように痛む。小雪のことを思い出して辛かったろうに、小夏は自分の代わりに妹を愛してくれているのだ。
そして、優真は気が付いた。
(だからか。だから小夏は、シズクを責任もって育てようって決めたのか)
小夏もまた、自分と同じ痛みを抱えていたのだということに。
(同じだったんだ。シズクが遠くへ行っちまうことが怖かったのも、俺と同じだったんだ)
シズクを護りたいという気持ちがどこから来ていたのか、優真は自らの心のうちに答えを見つけ出していた。自分たちの手の中で生まれた、か弱くもろい幼子。手を離せば壊れてしまいそう、かつて自分たちの前から去って行った人たちのように。だからこの手で、シズクを護らねば。優真は知らず知らずのうちに、その念に突き動かされていたのだ。
父から託された母と妹を護ってほしいという願いを、今一度なぞるかのように。
「しばらく見ないうちに、小夏はずいぶん大きくなったな」
「うん。身長だって伸びたよ、ほら」
「本当にな。今に母さんに並びそうだ。もっと家にいてやれれば良かったと思うよ」
「お仕事をしてくれてるって知ってるから、気にしてないよ。わたしたちのためだもんね」
小夏ならきっとこう言ったに違いない。優真はそう信じて、外で働いてくれている父をねぎらった。小夏の体を借りて、優真は父に感謝の言葉を伝える。自分は小夏で、目の前にいるのは小夏のお父さんだけれど、父と子という関係そのものは、何も変わらなかったから。
「子供が子供でいる時間というのは、本当に短いものだな」
たくさんの感慨を込めて、父はそう返した。
「お母さんと約束したんだろう? 今度のテストでいい点数を取ったら、ポケモントレーナーになるって」
「うん。今日もね、塾の帰りにその話をしたんだ」
「小夏の決めたことだ。お父さんは賛成するぞ。小夏にとってもきっといい経験になるはずだ」
「ありがとう、お父さん」
「ああ。初めにどの子をパートナーにするか決めたら、またお父さんに教えてくれ。ちょっと古くなってるかもしれないが、父さんの知っていることを教えさせてほしい」
小夏の父親はかつてポケモントレーナーとして活動していたことがあるらしい。あるいは、小夏は父の背中を見て、自分もまた外に出ていくことを考え始めたのかもしれないと、優真はひとり考える。
それこそ、自分が父と母の姿を目にして、家族を護るという意志を強くしたのと同じように。
「参考にするかしないかは、小夏が決めればいい。小夏の頭がよく回るのは、父さんだって知ってるからな」
父さんだ、と優真が感じる。ちょっと言葉足らずで、何かと照れ隠しをしようとする。それでいて、気遣いに溢れているところは小夏そっくりだ。不器用だけれどまっすぐ、こういうところは、自分の父親に通じるものがあった。あまり喋らなかったし、母さんに比べて口も回らなかったっけ。それでもかつて耳にした言葉の一つ一つを今も覚えているのは、父が心を尽くして言葉をつむいだからに違いなかった。
もうぎこちなさは感じなかった。父親とはそういうものなのだと思うと、優真は自然体でいられた。小夏として小夏の父親に接する。まあ、くすぐったいことこの上ない。考えてみればずいぶん可笑しな光景だからだ。でも、悪くない。決して悪いものではなかった。娘を想う父の心に触れて、「いいお父さん」というのは結局みんな似たような存在なのだということが分かったから。
「お父さん。久しぶりに帰ってきたんだし、肩、叩いたげるよ」
「ははっ、いいのか小夏。ありがとう」
父の背中に回り込んで、優真が肩をトントンと叩きはじめる。小夏の父の背中は、とても広かった。かつて目にした自分の父親と、同じくらいに。
(俺も昔は、こんなことしてたっけ)
瞼の裏によみがえる光景。父の背中を見ながら肩を叩く自分の姿。懐かしい記憶が鮮烈によみがえってきて、優真は胸に熱いものがこみあげてくるのを感じる。もう一度父親の肩叩きができるなんて、優真は高ぶる気持ちを落ち着けながら、父の労をねぎらい続ける。
(……小夏の夢を諦めさせちゃダメだ。俺が、絶対に叶えてやる。もう二度と小夏を泣かせたりなんかしないって、俺は決めたんだ)
(明日小夏に会ったら、トレーナーになりたいってこと、妹がいるはずだったってこと……全部聞いたって、ちゃんと正直に言わないとな)
こんなことを言ったら小夏は怒るだろうか、いや、そうは思わない。今の自分たちなら、きっと受け入れられる。小夏は自分にすべて任せてくれる。
なら――小夏として、持てる力を出し尽くすだけのことだ。優真の目に曇りは無い。己の手でかけがえのない人の試練を攻略することができるなんて、夢のようじゃないか。遠慮せずにフルパワーでぶつかって、壁をぶち破ってやればいい。小夏が喜んでくれるなら、やり遂げるだけの価値は絶対にある。
未来を見据えた優真が、その瞳に決意を滾らせた。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。