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#28 父の妹

清音さんは家に上がり込むと、寝込んでいた母の元までまっすぐに向かっていった。

「こんちゃーっす。やぁやぁ義姉さん、お節介を焼かせてもらいに来たわよん」

「まあ、清音ちゃん。また心配かけちゃって、ごめんなさいね」

「いーのいーのっ。さ、起きてると体に毒だし、無理しないで横になってて。細かいことはウチに任せてちょーだい」

母とずいぶん親しげに話をしている。一体どんな関係なのだろうか、と小夏が密かに首をかしげる。職場の同僚……というにはちょっと親しすぎる気がするし、幼なじみ……にしては二人に年齢差があるように思う。とは言え、倒れた母を看病してくれるのは間違いなさそうだったから、小夏からしてみると助かる存在ではあった。鼻歌を歌いながら台所へ向かう清音さんを、小夏は遠巻きに見つめている。

ほとんど溶けてしまった氷のうを交換して、常温の水をいつでも飲めるように準備し、卵粥とすり下ろしリンゴをパッと作って食べさせる。実に手際が良かった。

「さあさあ、病人は寝て体力回復するのが仕事。義姉さん、寝て寝て」

清音のおかげで少し元気を取り戻した母が、その言葉に促されて再び床に就く。しばらくもしないうちに規則正しい寝息が聞こえてくると、清音さんがくるりと振り返る。シズクを抱いた小夏の姿が目に留まって、んー、と口元に指先を当てる。

「そうねぇ。食べ盛り育ち盛りの優真クンには、もうちょっとお腹に溜まるものがいるわよねぇ」

「えっ?」

「お腹空いてるでしょ? お昼、作ったげる」

事もなげに言ってのけると、清音は台所へと舞い戻り、冷蔵庫の中から食材を見つくろってお昼ご飯を作り始めた。

どん、と高菜チャーハンが大盛りになったお皿が小夏の前に置かれる。清音は小夏に出したそれより一回り小さく盛り付けたお皿を目の前に置いて、小夏と向かい合うようにして座った。

「ほい、お昼ご飯。たーんと召し上がれ」

終始あっけらかんとした態度の清音に戸惑いを隠しきれないながらも、小夏が「いただきます」と手を合わせる。れんげを使ってチャーハンをすくい、そのまま口に持っていく。一口食べてみて、小夏は思わず目を見開いた。おいしい、とてもおいしい。母が作ったチャーハンを食べたことは無かったものの、清音が作ったものを上回るかと言われれば微妙なところだった。それくらい、清音のチャーハンはよくできていたのだ。

食べるペースがどんどん早くなっていく小夏を見ながら、清音がうむうむとしきりにうなずく。そして、優真の隣に座っているシズクへ目を向ける。シズクがちょっと物欲しそうにしていたのを見逃さず、前から声をかけた。

「おいで、ちびっ子。ウチがいいものを食べさせたげよう」

半分残っていたリンゴを改めてすり下ろす。座っていたシズクをそっと抱き上げて、スプーンでゆっくり食べさせてやる。その手つきと言ったら、慣れている以外の言葉が出てこないくらい丁寧で、シズクも一瞬で清音さんに懐いてしまった。すべて食べさせてしまうと、シズクは満足して眠そうにし始めた。清音さんはこれまた上手い具合にあやして、そのままシズクを寝かしつけてしまった。どっか寝かせる場所ある? そう言われた小夏が、チャーハンを食べながら向こうのタオルケットに、と指差す。あいわかった、清音さんはすぐにそちらへ向かって、シズクを優しく包んでやった。

「ごちそうさまでした」

「お粗末さま。どんなもんよ、ウチの手料理。義姉さんにも負けないっしょ?」

食器を片付けながら、清音が勝ち誇ったように言う。見た感じの態度は軽いが、家事はかなり得意みたいだ。つかみどころのない性格の清音に翻弄されつつも、小夏は少しずつ彼女のキャラクターを理解していった。

食事を済ませて食器を片付けたあと、清音がおもむろに立ち上がる。エプロンを外して椅子に掛けると、ジーパンのポケットを何やらごそごそやっている。

「どっか行くの?」

「ん? ちょっくら一服してくるだけよ」

病人と赤子と子供のいるところじゃあ、おちおち煙草も吹かせないものね。清音はそう言い残して、勝手口から外へ出ていく。煙草吸うんだ、と小夏は思う。両親も祖父母も煙草はやらなかったから、小夏にとってはとても縁遠いものだった。口から煙を吐いて何がいいんだろう、そう純粋に不思議がるばかりだ。

それなりに時間が経ってから、清音が戻ってきた。壁に掛かった時計を一瞥して、椅子に座っていた小夏に声をかける。

「あら、もうこんな時間じゃん。優真クン、そろそろ出かけるんでしょ?」

「あ、うん。俺、スイミング行かないと」

「プールがあるのって、あのイケメンサーファーさんのいるジムだったわよねぇ。いい顔してるって思わない?」

「ト、トウキさんはそんなナンパな人じゃねえよ」

小夏は水泳の練習中、時折ジムリーダーであるトウキの姿を見かけることがあった。ごく手短にだけど、言葉を交わしたこともある。清音の口にした言葉通りとてもいい顔をしていて、それが理由でトウキが好きだという人を何人も見てきた。けれど小夏からすると、カッコいいイケメンという見た目の印象よりも、トウキの内側からにじみ出るジムリーダーとしての気迫・風格に圧倒されることが多くて、心身ともに鍛え上げられたプロフェッショナルというイメージの方がずっと強かった。だから、清音の言葉もまた正しいとは思ってはいたが、内面を知っているゆえに、多少なりとも反発せずにはいられなかったのだ。そしてきっと、優真も同じように言い返すに違いなかった。

けれど清音はにやりと笑って、詰まることなく小夏にこう切り返して見せた。

「ただ見てくれがいいだけの男なんて星の数ほどいる。けどね、そーいうのじゃなくてさぁ」

「えっ?」

「いい顔してるってのは、見た目だけじゃなくて心もイケメンってこと。骨があるって言えばいい? 分かるっしょ?」

「ああ、うん……まあ」

「ウチだってこう見えて二十ン年間もイケメンと一つ屋根の下で暮らしてたんだから、性根がいいか悪いかなんて見りゃ分かりますって」

人を見る目はどう考えても人生経験豊富な清音の方が優れている。その清音にこう言われてしまっては、まだ子供の小夏としては返す言葉がなくて。

「ほら、行ってきな。義姉さんとちびっ子はウチが面倒見ててやるからサ」

清音に促されて椅子から立ち上がると、小夏はプールバッグをぶら下げてひとり家を出ていくのだった。

 

プールでいつものように練習に励む。優真の体は完全に馴染んでいて、戸惑うようなことも無くなった。優真が目指していたというタイムを目標に据えて、小夏はひたすら泳ぎ続けた。

と、身体の方はきちんと動いていたものの、頭の方はちょっとそうでもないようで。

(あの清音さんって人、誰なんだろ?)

気になっているのは、やはり清音だった。いきなり家へやってきたかと思うと母の看病をして、ついでに自分とシズクの昼食まで作ってくれた。親切な人なのは間違いない。ねえさん、と言っていたことを考えると、叔母さんに当たる人なのだろう。それでいて、顔立ちはお母さんとは似ても似つかない。だとすると。

(やっぱり、お父さんの方の妹さん……なのかな)

父の妹、優真から見ると叔母に当たる人。消去法ではあるものの、結局そう考えるのが一番自然だと思えた。優真の母親に比べてずいぶん若く見えるから、いくぶん歳の離れた妹なのかも知れない。母が倒れていてもまるで驚いた様子を見せなかったことから、ああしてちょくちょく家に来てくれているのかもしれない。

いきなり家へやってきた清音についてあれこれ考えている内に端まで辿り着いて、小夏は一度プールサイドへ上がる。するとそこで、見知った顔の少女の姿を見かけた。

「こんにちは、沙絵さん」

「あっ、優真くん」

沙絵は小夏の近くまでとてとて駆け寄ってくると、前に立ってにっこり微笑んで見せた。

「見てたよ、優真くん。しばらく見ないうちに、すっかり元通りになったみたいだね」

「はい。先生たちのおかげで、また泳げるようになりました」

「よかったぁ。実はね、私ちょっと心配してたんだ。なんだか人が変わったみたいだったから」

練習している最中、沙絵がときどき自分に声をかけてくれることがあった。いきなりカナヅチになってしまったことをかなり心配していたようで、励ましの言葉をもらうことも少なくなかったのだ。小夏は沙絵の気配りに感謝していて、優真として完全復活を遂げてさらなる成長の段階へ入った今、沙絵にきちんとお礼を言っておきたいと思ったのだ。沙絵はすっかり安堵した様子で、優真のことをにこにこしながら眺めている。

「ありがとうございます。俺、緊張しすぎちゃってたみたいで」

「おおー! スランプを乗り越えた優真くん、一気に大物感が出てるー! かっこいいよー!」

「沙絵さんが励ましてくれたおかげです。俺、もっと泳げるようになって見せますから」

「うんうん。優真くんのこと、これからも応援してるよ。練習、がんばってね」

沙絵に背中を押されて、小夏が再びトレーニングへ戻るのだった。

 

「ねえ優真クン。ウチさぁ、お昼も思ったんだけど」

「何?」

「いやぁ、やっぱりよく食べるわねぇって。わんぱく坊主って感じだわ」

スイミングスクールから帰ってきた小夏を清音が出迎える。あれから母とシズクの面倒をずっと見てくれていただけでなく、小夏が帰ってくるのに合わせて夕飯の支度まで済ませていた。帰ってきてしばらくもしないうちに、盛り付けまで終わらせてしまう。ひょうひょうとしているように見えて、非常に手際がいいと思わずにはいられない。

夕飯に出てきたのは夏野菜のカレーだった。湯気を立てるそれを目にした小夏が、優真と入れ替わる少し前に家で同じものを食べたことを思い出す。一口食べてみて、自分の母親が作るカレーとはずいぶん味が違うと思いながら、これはこれでおいしい、と小夏は食べる手を止めない。あっという間にお皿を空にして、ついでにおかわりももらう様子を見た清音が嬉しそうに笑って見せる。自分の作ったものをおいしそうに食べてもらって喜ばない人はいまい。二杯目のカレーを口へ運びながら、小夏が清音の顔を見た。

何か思うところがあったのか、清音がおもむろに口を開いた。

「まあ、当たり前っちゃ当たり前なんだろうけどさ。優真クンの食べっぷり、兄貴にそっくりだわ。こういうところまで似るものなのねぇ、子供ってもんはサ」

ウチは父さんにも母さんにも似なかった気がするんだけど、なんてことを言いながら、清音は幾分ゆっくりカレーを食べる。

「しっかしまあ、よくあのぶきっちょな兄貴が義姉さんを落とせたもんだわ」

「ぶきっちょって、そりゃないだろ」

「ああ、ゴメンゴメン。優真クン兄貴のこと尊敬してたもんね。悪い意味じゃないのよ、ホントにぶきっちょだったから」

兄貴、というのは間違いなく優真の父親を指しているはず。清音さんはやっぱり叔母さんだったんだ、小夏が密かに納得する。

「義姉さんも見ての通りドのつくマジメちゃんだから、かも知れないけどね」

「父さんと母さん、似た者同士……ってことかな」

「そういうコト。ぶきっちょな兄貴とマジメな義姉さんから生まれた優真クンのキャラクターは、そりゃあもう推して知るべしってヤツよ」

清音はちょっと遠回しながら、優真を真面目な人間だと評した。以前の小夏なら信じられなかっただろう、イタズラばかりするわんぱく坊主にしか見えなかったのだから。けれど彼の体を借りて優真として生活するうちに、彼が熱心に水泳の練習に打ち込んでいること、そして家族を護るために強くなろうとしていることを知った。これが真面目でないとするなら、どう表現すればいいのか。よく回る小夏の頭をもってしても、代わりの言葉は思いつかなかった。

「兄貴のくせに、いい嫁さん貰いやがってって思ったもんだわ。ウチだって一応妹とかいうヤツだからサ、普通兄貴を取り上げられたってしょーもない嫉妬の一つや二つしそうなもんなんだけど、ちっとも思わなかったもの。あ、この人なら絶対兄貴幸せにしてくれるわ、って安心感が凄いの。安心感が」

清音は和室で眠っている母に目を向けながら、よどみない調子で言ってのけた。義姉のことをよっぽど信頼していないとあんな言葉は出てこない。ちょっと変わった関係なんだ、小夏はそう思うばかりだ。

そうして夕飯をつつがなく食べ終えた後のことだ。清音がほんの一瞬和室へ引っ込んだかと思うと、またすぐ台所へ戻って来た。見るとその手に何やらでっかい瓶をぶら下げているではないか。

「ぃよーし、今日は飲むわよー」

「な、なんだよそれ。お酒か?」

「見ての通り、焼酎よ焼酎。敷衍仕込みの芋焼酎ってワケ」

「おいおい、何しに俺ん家来たんだよ。母さんの看病しに来たんだろ?」

「まーまーそうカタいこと言わない言わない。そんなトコまで兄貴そっくりなんだから。義姉さんの熱はもう下がったし、ちびっ子もぐっすり寝てるし」

小夏のツッコミをさらりと受け流しつつ、清音は焼酎の封を開けて、グラスへ氷と共に注ぎこんだ。今日は自分の家に帰らないつもりなのだろう。煙草にお酒にと、清音さんは奔放に生きている感じがすごい。小夏は心の中でひそかにため息をついていたのだけれど。

「死んだ人の歳を数えるな。んー、そうは言うけどさ、でももう四年かぁ。いやあ、早い早い。早いわねぇ」

「――えっ」

ぐいっ、と焼酎を一杯あおってから清音が呟いた言葉は、ことのほか重たくて、小夏の意識を向けさせるには十分なもので。

(死んだ人、って……)

清音の言う「死んだ人」が誰なのか――小夏はうすうす感付いていた。感付いてはいたけれどそれとは別にショックで、鼓動が早くなるのを感じる。まさか、優真くんも。その感情が全身を駆け巡る。

「ああ……ゴメンね優真クン。またこの話しちゃって。けど優真クン、いつも黙って聞いてくれるから。ヘタなダチと呑むより旨いのよ、お酒がサ」

二杯目をグラスに注いで、清音は口元に笑みをこぼす。小夏はこれまでとは違う清音の雰囲気に呑まれつつ、彼女の話を聞かなければならないという思いになっていた。

自分が優真として振る舞う以上、知っておかなければならないことだと思ったから。

「義姉さんとサシでやるには重すぎるし、そもそも義姉さんお酒飲めないから。代わりってわけじゃないけど、優真クン飲む? どーせ飲んだってバレないっしょ」

「俺はいいよ。まだ子供だし」

「ははっ、やっぱり兄貴そっくり。そこらの大人顔負けの覚悟持って生きてるくせに、自分はまだ子供だって謙遜する。見てて懐かしくなっちゃうわ」

今度は半分ほどグラスを空ける。ことん、と丁寧にテーブルへ置いてから、清音が口を開いた。

「あんなにひどい雨だったんだからさ、自分のことだけ考えるのがジョーシキだっていうのに」

「消防士だからってさ、逃げ遅れた人を助けなきゃってさ。そう言ってあっちこっち走り回って、いっぱい人助けして」

「そんでもって自分はどっか行ったきりなんだから、本当にぶきっちょな兄貴だよ」

「素敵な嫁さんに、可愛いがきんちょ二人も遺してさ。不器用すぎて、涙が出るくらい」

小夏が軽く胸を押さえて、そっと顔を俯けさせる。堪えられずに目を伏せる。

(――優真くんのお父さんは、死んじゃったんだ)

察した、察してしまった。何もかも、何もかも。

思えばこの家に父親の姿はどこにも無かった。いるのは母と優美、それから自分の三人だけ。台所の椅子は四つあるのに、それがすべて埋まることは決して無かった。自分の父親が出張で家を空けがちだったから、優真の父親もそうではないかと考えていた。けれど違う、違ったのだ。優真の父親はもうどこにも居ない。この世の人ではなかったのだ。

優真が家族を護ると母に語っていたのは、父という拠所を、大黒柱を喪っていたからに他ならなかった。

(優真くん……)

目を開けた小夏が、語ることを止めない清音をじっと見つめる。清音にとっては兄、母にとっては夫。そして自分にとっては父に当たる、今は亡き人の思い出を、清音は語り続けている。そのひとつひとつに耳を傾けながら、小夏の心は、それとは別のことを思い浮かべていた。

生まれてくるはずだった命のことを。今は喪われてしまった命のことを。

(……同じだったんだ、わたしと)

(小雪と手を繋いであげられなかった、わたしと……)

 

小夏には、年下のきょうだいが生まれてくるはずだった。

あれは、小夏が六つの時のことだ。母が子供を身ごもって、少しずつお腹が大きくなりはじめた。ふくらんだお腹を目をまん丸くして見つめる小夏に、母は小夏にこう言って聞かせた。

「お母さんの中に、赤ちゃんがいるのよ。生まれてくるための準備をしているの」

女の人が子供を産むということを知ったのはその時だった。自分もかつてはお母さんの中にいたと知った小夏はとてもビックリして、思わず自分のお腹をさすったことを覚えている。いつか自分も、赤ちゃんを産むことになるのだ――そう考えた小夏は、まるで海をゆらゆら浮かぶような、不思議で現実味のない感触を覚えたものだ。けれどそれと同時に、今のお母さんは自分の命だけでなく、赤ちゃんの命も守っているのだということにも気が付いて。

「お母さん! 小夏、いいお姉ちゃんになる! お母さんのお手伝いする!」

長女として、お姉ちゃんとして、お母さんと赤ちゃんを助けてあげなければ、子供ながらにそう考えたのだった。

父も、母も、もちろん小夏も、新しい命が生まれてくることを心待ちにしていた。検査で赤ちゃんは女の子だと分かって、小夏には妹ができることになった。妹と一緒に遊ぶ自分の姿を思い浮かべて、小夏は胸がわくわくしたものだ。どこへ連れて行ってあげようか、何をして遊んであげようか、勉強だって教えてあげたい、図書館へ行くのもいいだろう、ポケモンたちとも遊ばせてあげたい――小夏は姉になることを楽しみにしていたのだ。

けれど、それはみんな、ひとつ残らず、叶うことは無くて。

(急にお母さんの具合が悪くなって、わたしが泣きながら救急車を呼んで)

母の容体が急変したのは、妊娠して七か月目を迎えたすぐ後の頃だった。苦しそうにうめく母親、ただ涙を流すことしかできない自分、難しい顔をした救急隊員たち、カチャカチャと音を立てながら手術室へ運ばれていく担架、薬の匂いがする病院の待合室、スーツ姿のまま病院へ駆けこんで来たお父さん、泣き疲れて父の膝枕で眠ってしまったところで、一度記憶がぷつりと途切れてしまって。

次に目覚めた時、小夏は母がベッドの上に横たわって、声を殺して泣いていたのを目にした。

(あんなに泣いてるお母さんの姿は、見たこともなかった。あれからも一度だって見たことない)

母はなぜ泣いているのか、無事に一命を取り留めたというのに、どうして泣いているのか。小夏は分からなかった。分からなかったけれども、泣いているお母さんを見るのはとても辛くて、持っていたハンカチでお母さんの涙をぬぐった。ありがとう、小夏、掠れた声で言うお母さんは信じられないくらい弱っていて、小夏はその手を取り上げてぎゅっと握りしめた。

お母さんはちゃんと生きてるんだよ、もう大丈夫だよ。そう言った記憶がある。するとお母さんはまた泣いてしまって、小夏もまた悲しい気持ちになってしまう。ベッドに顔を埋めて泣きじゃくる小夏の背中を、お父さんがポンポンと叩いてくれた。今はそっとしておいてあげてるんだ、お父さんに言われて、お母さんのいる病室を後にする。

(確かに、お母さんは生きてた。お母さんは――)

入院していたお母さんが家に帰ってきて、それから少し間を置いてからのことだ、小夏は両親と共にテーブルについていた。大事な話がある、いつになく真剣な面持ちで言うお父さんを前にして、小夏はぞっとする思いがした。

「小夏、聞いてほしい。母さんから大事な話があるんだ」

誰かに言われるまでもなく、自分たち家族に何が起きたのか、すべてを理解して。

「赤ちゃんは……あなたの妹は」

何かとても大切なものが喪われてしまったのだと、小夏は直感して。

「生まれてくることが、できなかったの」

命の灯が消えるビジョンが、小夏の脳裏に浮かんで、そして深く深く、とても深く根を張った。

(わたしの妹は、生まれて来られなかった)

死産。この言葉の意味を知ったのは、間違いなくあの時だ。小夏はもうたくさんの本を読むようになっていたから、漢字だって読むことができるようになっていた。死/産。相反する言葉をただ一文字ずつ繋げたこの言葉に、小夏は例えようもない恐怖を、受け入れようもない絶望を感じたことを憶えている。死が産まれる、死して産まれる。妹になるはずだった小さな命は、死に魅入られてしまったのだ。

(小雪。名前だってもう考えてた。わたしそっくりで、素敵な名前だって言って)

妹には――小雪、という名前を付けるつもりだったと聞かされたのは、それからしばらく経ってからだった。小雪、綺麗な名前だと思う、ぴったりの名前だと思う。小雪が無事に生まれてきてくれていたら、きっといい姉妹になれたに違いない。だがそれは、もう二度と叶うことのない夢。さながら夏の雪のように、決してカタチになることのない夢。小雪は生まれてくることができなかった、その事実を受け入れるまでに、とても長い時間が掛かった。

今も小雪がいたなら、今の優美のふたつ下にあたる。優美を見る度に小雪の姿が重なって、無性に彼女のことを護ってあげたくなる。けれど優美はあくまで優美で、小雪ではない。今の自分の妹だけれど、自分の本当の妹はどこにもいない。

小雪はもうどこにもいない。優真の父親と同じように。

(優真くんも、家族を亡くしていたんだ)

優真には父がいない。小雪がいない自分と同じように。

 

「優真クンってさ、水泳選手目指してんだよね? それも単なる『ケーキ屋さんになりたい』とかの『しょうらいのゆめ』じゃなくて、しっかりした目標として」

そうだ、と小夏はうなずく。そのために日々トレーニングを積んで、大会に向けて力を蓄えている。そこで優勝すれば、具体的な道が見えて来るからだ。

「なるほど、なるほど。それは優真クンの得意分野ってのもあるけど、義姉さんと優美ちゃんを養える一番の近道だから」

「今やスポーツの分野にもポケモンがバンバン進出してきてて、人間のなり手が少なくなってきた」

「見栄えするから広告塔に使いたいのに人材がいない。そう考えれば、優真クンみたいなやる気のある子はお金出して育てたっていい。家族がお金の心配せずに済むくらい」

「優真クンはポケモントレーナーになって旅するとか、イケてる女の子とガッコで青春するとか、そういうの全部ぶん投げて、水泳に一生を捧げるつもりってわけだ」

優真の部屋にはほとんどモノが無かった。あるのは泳法の教本だとか、トレーニングのガイドブックだとか、プロ選手の自伝だとか、そういった本ばかりだった。優真は遊びなどではなく、自分の身を立てる術を得るために水泳に打ち込んでいる。清音さんの言う「一生を捧げるつもり」という言葉は大げさなものではなく、恐らくかつて優真の姿を見た清音さんが、本心から発したものだろう。

お父さんを亡くした優真は、それでも辛さと悲しさを乗り越えて、お父さんの代わりに自分が体の弱いお母さんと幼い優美を護るんだという決意を胸に秘めて、日々鍛錬に明け暮れていた。優真の背負っているものの重さを実感して、小夏は胸に針で刺されたような痛みを覚えた。優真の気持ちが分かりすぎて、自分を顧みずに大切な人を護ろうとする姿勢があまりに気高くて、瞼の裏に何度も彼の姿がよみがえってくる。

(優真くん、ひどいよ……もうわたしのこと泣かせないって約束したのに、こんなこと……)

(すごいよ、優真くん。本当に、立派すぎて……わたし、わたし……)

ずっと苦手で目を合わせるのもイヤだったはずの優真に、ただのイタズラ好きの男子だと思っていた優真に、とてつもない尊敬の念を抱いていることを実感する。自分の至らなさを自省すると共に、今は他ならぬ自分が優真なのだという事実が、小夏を勇気付ける。自分が精いっぱい頑張れば、優真くんの背負っているものを一緒に支えてあげられるんだ――胸の痛みが消えてゆき、燃え盛る炎のような情熱が湧き起ってくる。

そうして顔を上げた小夏が見たのは、グラスを空にして頭に手を当てる清音の姿で。

「はあぁー。優真クンったらさぁ、なんでそんなにバカなの、バカ真面目でバカ正直なの。バカみたいに一直線で一本気なの」

目を潤ませた清音が、ぼそりと小さな声でつぶやく。

「もうちょっと背丈があったりなんかしたら、惚れちゃってたわ。間違いなく」

清音さんだってお兄さんに負けず劣らず不器用だよ、と小夏が心の中で微笑む。素直になれないところが却っていじらしくて、清音というこの女性に「女の子」を見出すことができた気がした。

「ホントにさ、兄貴をなぞってるみたい。ほら、兄貴もガッコ出てすぐさま消防士になったから」

「親父が死んで母さんも倒れて、後は洟垂れ小僧のウチがいるだけ。そりゃあ、自分が何とかするっきゃないって思うわ」

「母さんをちゃんとした病院に入れて、毎日毎日休まず出かけてさ。愚痴ひとつ言わずに危ない仕事こなして、帰ってきたらご飯とか作ったりもしてくれるの。自分のことなんて二の次三の次なのに、疲れた顔なんて絶対見せない、見たことない。分かる? やべー兄貴でしょ? カッコよすぎじゃない?」

「でもね、ウチすっごいバカだったから。とんでもないバカだったから。親父がいない、母さんは面会謝絶、兄貴は仕事。つまりは独りでお留守番。みーんな自分を置いてどっか行ったんだって思い込んでさ、イジケてさ、ふて腐れてさ、つまんないこといっぱいしたもんよ」

「こーやっておっさんみたいに酒飲みになったのも、煙草で肺ん中真っ黒にしてるのも、そん時の名残り。いやー、悪いことは大体したって感じ。してないのは放火と盗みと殺しくらいじゃない? あー、あと詐欺もやってない。バカだったから頭回んなくてサ、ウチ。たくさん迷惑かけたね、申し訳ない気持ちでいっぱいだ」

しきりにうなづく。もし優真と入れ替わらず、ずっと小夏のまま生きていたとしたら、こんな話を聞く機会はきっと無かっただろう。清音さんの言葉には、自分の倍以上の時間を生きてきた人間だからこそ出せる重みがあった。決して褒められた中身ではないけれど、これもまた人生の一つのカタチ。清音さんがこれまでどんな思いを抱いて過ごしてきたか、小夏にもよく分かった。

「いやあ、優真クン。あんたはイイ男だよ、ホントに男前。できるんなら抱いてやりたいくらいだね。マジで、マジに」

「だからこう、サ。なんか人生つまづいてすっ転んだりしてもさ、ちゃんと前向いて歩いてちょうだい。ウチみたいな大人にはなっちゃダメだからね。清音さんとの約束だ」

「あ、ついでにも一つ。兄貴を見習うのは結構、存分に真似してちょうだい。兄貴がカッコいいのは間違いないから、生き様は全力で参考にしなさいな」

「けど、死に方だけは見習っちゃダメ。ましてや嫁さんと子供を遺してなんてとんでもない。それだけは絶対真似しない。いい? これも清音さんとの約束だかんね」

もし優真だったら、きっとこう返すだろう。

「分かってるよ、それくらい。父さんのこと尊敬してるけど、俺は俺だからな」

優真は、優真なのだと。

「よろしい。イイ男は誰かの背中ばっかり追いかけずに、いずれ自分の道を往くもんだ。ウチが見込んだだけのことはあるってもんよ」

今の自分は、紛れもなく優真なのだから。

清音のグラスが空いているのを見た小夏が酒瓶をすっと手に取って、清音にお酌をしてやる。

「おっ、気が利くじゃないのよ。空気読めてるわねぇ」

「いつかウチがお酌してさ、一緒に瓶を空けられる日が来るのを楽しみにしてるよ、優真クン」

「男前のあんたとは、旨い酒が呑めそうだから、ネ」

にやりと笑った清音が、ありがと、とグラスを軽く傾ける。

(もう泣かないよ、優真くん。わたし、もう絶対泣かない。優真くんの未来を、切りひらいてみせるから)

(明日優真くんに会ったら、全部話さなきゃ。水泳選手になるってこと、お父さんのこと、みんな聞いたよ、って)

今の優真なら、きっと自分にすべてを託してくれるだろう。それなら、自分はその期待に応えるだけのこと。大切な人を自分の力で助けてあげられるなら、これ以上素敵なことなんてないじゃないか。遮二無二突き進んで、優真として全力で頑張るだけのことだ。優真の未来をこの手で切り拓ける、そう考えただけで、拳に力が入る。

小夏は大胆不敵な笑みを浮かべて、眼前に立ちはだかる壁をまっすぐに見据えた。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。