清音の運転するミニバンが、すっかり回復した母親を載せて仕事場まで走っていく。それを見送ってから、小夏がいつものように自分の家へ向かう。その足取りは軽い、とても軽い。昨日清音さんから聞いた話をすべて飲み込んで、小夏は決意に満ちた瞳を見せていた。情熱を燃やしていると言ってもいい。優真がとても大きなものを背負っていること、自分はその事に強い衝撃を受けたこと、けれど今は小夏自身が優真であること。小夏は自分の頑張りが優真の未来に繋がっていることを自覚して、心地よい緊張感と責任感、そしてそれ以上に嬉しさを感じている。
迷いなんてどこにもなかった。優真がどれだけ優しいか、自分の身を犠牲にしてまで他人を救おうという潔い心を持っているかは、この夏の出来事を通して身に染みて理解できた。海で溺れた自分を助けてくれた、トレーナーに襲われたシズクを必死で庇ってくれた。そして今は皆口小夏として、自分の夢を護るために戦ってくれている。優真にはどれほど感謝しても足りない。ひたむきな優真の姿にどれほど勇気付けられたか、まったく計り知れない。
(優真くんのことを考えたら、胸がどきどきしちゃう)
心が入れ替わるという特別な状況にあって、苦手意識を持っていた優真と否が応でも付き合わざるを得なくなった。あんなに嫌だったはずなのに、もうそんな気持ちは微塵もない。そればかりか、自分自身が優真として大きな試練に立ち向かえるということに、例えようもない喜びさえ感じている。この感情はどこから湧いてくるものなのだろう。小夏は不思議だとは思っていても、困惑することはまるでなかった。心の高揚をそうあるべきものと考えていて、不自然なことだとはちっとも思わなかった。
(この気持ち、もしかして)
ふと、同じ塾に通っている同級生の山手くんをいつも見ていたことを思い出す。勉強がよくできる、ポケモンの知識もある、見た目もカッコいい、言葉遣いだって丁寧だ。そんな山手くんを見ていると嬉しくなって、楽しくなって、気分がよくなってくる。だからそれが、俗に言う「スキ」の気持ちなんだ。ただ心地よくて、ただポカポカして、ただウキウキする。そういう分かりやすい感情が「スキ」なんだ。小夏はそう考えていた。だから、山手くんと一緒にいられたら、つまり付き合うことができたなら、なんとなく楽しいに違いないと思っていた。
この瞬間優真に抱いている感情は、今まで感じたことのない強いもの。もちろん、山手くんを見ていて感じたものとは全然違う。優真のことを想うと、胸がキュンとする。痛みにも似た、けれど大切にしたい感触。切実で、切迫した気持ち。ただぼんやりと明るいだけでは済まされない、刺々しささえ覚える強い光の感情。優真のためなら全力を尽くしたい、持てる力を出し切りたい、そんな強い情動が自分を突き動かすのを感じる。イタズラばかりして苦手だったはずの優真が、かけがえのない人に思えてならない。自分のことを誰よりも考えてくれていると分かっているから。
だから、小夏は思う。
(――『スキ』の気持ち、なのかな)
自分は、優真のことを「スキ」になっているのではないか、と。
会社へ向かう父と母をしっかり見送ってから、優真は小夏の部屋に戻る。夏休みの宿題も塾の課題もとうに片付いていて、今日の講義に向けた予習に取り組んでいる。テキストを射抜くように見つめて、しきりにノートへメモ書きをしていく。自分の手で書き付けることで、知識を体に覚え込ませる。得た知識を整理整頓して、必要なときにいつでも使えるようにする。頭は驚くほど冴えていて、その表情は晴れ渡った空のように清々しい。
昨日、小夏の父親と言葉を交わしたことを思い出す。小夏に降りかかった悲しい過去を、小夏が目指している希望の未来を、優真は心に刻み込んだ。小夏は自分の夢を叶えるためにたくさんの努力を重ねて、妹を亡くした経験があるのに嫌な顔一つせず優美のことを可愛がってくれて、果ては自分の未来のために苦手だった水泳に打ち込んでくれている。とても強い意志を持っていて、限りない優しさに満ちている。そんな彼女を尊敬せずにいられようか。
(そんな小夏のために俺が頑張れるんだぞ、ちくしょう、最高じゃねえか)
小夏として試験を受けられることが誇らしかった。この壁を突破すれば、小夏は外の世界へ旅立つことができる。ポケモンにまつわる情報を本を読んでたくさん得ているように、小夏はとても知識欲旺盛だ。榁を飛び出して冒険の旅に出るのは、ずっと願っていた夢に違いない。そんな小夏の大切な夢に、自分が貢献することができる。もちろん緊張はしている、責任だって感じている。だがそれはすべて、優真に前向きな「やってやる」という気持ちをもたらしてくれた。
(俺、意地張ってたんだな。小夏のこと、本当はずっと気になってたのに)
優真は自分の気持ちを受け入れた。小夏にちょっかいを出していたのは、彼女のことが気になっていたから。彼女に苦手意識を持っていたのは、見ていると自分の気持ちが露わになってしまいそうだったから。自分に素直になってみれば、言葉にするのはとても簡単だった。小夏に幸せになってほしい、小夏に笑っていてほしい。ただそれだけが、小夏に対する自分の願いだった。
誰かの幸せを願う心。今はいない父親も、自分たち家族の幸せを願って戦っていたに違いない。だから、優真には父の気持ちがよく分かった。小夏を笑顔にしたい、幸福になってもらいたい。そのためならなんだってやってみせる、どんな困難だって乗り越えてみせる。
だから、優真は思う。
(――小夏が笑ってくれるなら、俺は……それが一番幸せだ)
小夏が望むように生きてくれることこそが、自分自身の幸福なのだ、と。
「よく来たな小夏、上がってくれ」
「うん。お邪魔します」
小夏が自分の家へ上がる。他人行儀に一言断って自宅へ入るというこの行いも、小夏はもうすっかり慣れていた。優真に出迎えられて、その向こうにはシズクの姿も見える。
「シズク! 元気してた?」
「みぅ!」
「よしよし。こうやって小夏が家に来てくれて、喜んでるみたいだな」
「ほら、やっぱり二人揃ってる方が、シズクだって安心するんだよ」
二人で夢中になってお世話をしていたからか、今になって気付いたのだけど、シズクは生まれた頃に比べて幾分体が大きくなっているように見えた。ぐずって泣く回数もすっかり減ってしまったし、自分たちの言葉を理解して言うことを聞いてくれているように思う。ポケモンは人に比べて成長が早いとはよく聞くが、シズクもまたその例に漏れないようだ。それでも、二人の姿を見て無邪気に笑う「子供」であることに変わりはない。
さながら、小夏と優真の「子供」のように。
優真と小夏、それからシズクが家に上がって、小夏の部屋に向かう。麦茶の入ったグラスを三つ持ってきた優真が学習机の椅子に座って、小夏はベッドに腰かけた。定位置に付く形。その直後、優真と小夏の視線が交錯する。互いの瞳をまっすぐに見つめて、奥にあるものを一直線に見据えて。
「優真くん」
「小夏」
どちらも、何かを察したようだった。
「塾の宿題、もう全部終わってるみたいだね」
「ああ。答え合わせだってバッチリさ。今日やるところの予習と、テスト対策の問題を解いてたんだ」
「さっすがぁ! もうわたしがあれこれ教えなくても、優真くんなら大丈夫だね。ひょっとしたら、わたしよりよくできちゃうかも」
「いやいやいや、みんな小夏のおかげだって。小夏の頭が抜群に良かったから、俺でもなんとかなってるんだよ」
それに、と優真が前置きして。
「俺が頑張れば、小夏の夢が叶う。そう思ったら、いくらでもやる気が出てくるんだ」
ひそやかな、けれど決意を込めた口調で、小夏にはっきり告げた。
「小夏、大事な話があるんだ。勉強始める前に、ちょっと聞いてくれないか」
「いいよ。言ってみてほしいな」
小夏の表情は穏やかだ。優真が何を話そうとしているのか、もうあらかじめ分かっているかのよう。
「それは多分、わたしがビックリしちゃうような事じゃなくて、いつかは知る時が来ることだと思うから」
何もかも受け入れてくれる様子を見た優真が、丁寧に言葉を選んで語り始める。
「小夏は、ポケモントレーナーになりたいんだよな。外の世界に出て、いろんなポケモンと触れ合ってみたいから」
「そのために勉強してて、テストでいい点数を取るんだってお母さんと約束した。そうだよな」
首を縦に振るのが見えた。それで全部正しい、何も間違っていないというサイン。優真が自分の夢を知っていることにも、小夏は動じない。優真には知ってもらってもいい、いや、知ってもらいたいとさえ思っていたから。
「俺さ、それ聞いてすっげえビックリした。勉強が得意で本を読むのが好きな小夏が、トレーナーになって外に出ていくことを考えてたんだ――って」
「けど……それと同じくらい、立派だと思ったんだ。自分のやりたいことしっかり見つけて、それにまっすぐ向かって行くなんて、さ」
「眩しかった。小夏は自分の力でしっかり立って、人生にまっすぐ向き合ってる。ハッとさせられたって言えばいいのかな、そういう気持ちになったんだ」
「だから俺、やってやるぞって気持ちになった。学力テストでてっぺんを取ってやるんだって、やる気がどんどんあふれてきて」
「小夏の大切な夢を台無しになんてしたくないんだ。もう絶対泣かせたりしない、そう約束したからな」
ああ、なんか俺、こっぱずかしいこと言ってるな。頬を朱に染めながら苦笑いする優真を、小夏は優しく微笑みながら見つめていて。しきりにうなずいては、優真の言葉に同意する。小夏の仕草を見た優真が、自分の思いが彼女に伝わっていることを実感して、苦笑いが心からの笑みに変わっていく。
「それと――父さんから聞いたんだ。小雪ちゃんのこと」
小雪。その名前を耳にした小夏が、ほんの少しだけ表情に陰を覗かせる。強い意志を秘めた瞳で優真を捉えて、よりいっそう深くうなずく。
「小夏も、家族を亡くしてたんだな。知らなかったんだ、俺。一応、小さい頃からの顔見知りだってのにな」
「それなのに、優美のこと大切にしてくれて、俺よりずっと立派な兄貴でいてくれてる。感謝したって、しきれないくらいだ」
本当に、小夏にはもう頭が上がらないよ。穏やかな口ぶりで感謝の言葉をつむぐ優真と、その言葉を余さず受け取る小夏。小夏が優真の手のひらに自分の手のひらを柔らかく重ねると、優真がふっと顔を上げた。
「よし。おしゃべりはこれくらいにしとこうか。今日もビシビシやってくれよな」
「――うんっ。大丈夫。わたしが付いてるからね、優真くん」
テキストを広げた優真に、小夏が顔を近づけて寄り添う。
きっかり一時間、二人の勉強は続いたのだった。
優真の勉強が終わったら、次は小夏の水泳だ。小夏はもう自由自在に泳げるようになっていたから、優真はより速く泳ぐためのテクニックを伝授する立場にあった。海辺で好きなように遊んでいるシズクの相手をしてやりつつ、小夏の様子を見守っている。
「うん、フォームはもうバッチリだな。泳ぎ回っても疲れた様子もないし、最高のコンディションだ」
「いくら泳いでも飽きないよ。ずっと水の中に居たいくらい。速くなればなるほど、泳ぐのが楽しくなってくるね」
「頼もしいぜ、小夏。俺がどうこう言うより、小夏が自分の得意なやり方で泳ぐ方がいいな。こりゃあ、俺より素質あるんじゃないか?」
「もう、冗談きついよ優真くん。優真くんの鍛えた体と指導があったから、カナヅチのわたしでもここまで来られたんだよ」
それにね――。小夏が一呼吸置いてから、しっかりと立って優真を見つめる。
「優真くんが背負ってるもの、わたしも支えてあげたい。そう思うと、強くなれる気がするから」
隣に立つ優真がふっと表情を緩める。優真がシズクを抱き上げて、小夏の言葉を待つ。
「ねえ、優真くん。聞いてくれる? さっき話してくれたみたいに、わたしも話したいことがあるの」
「分かった。小夏の思うように、話して聞かせてほしい」
先程とは逆に、優真が小夏の話を聞く形になる。
「本当は、俺の方からちゃんと話したほうがよかったのかも知れないけど、小夏は頭が切れて察しがいいもんな」
優真はとてもリラックスしていて、何を言われても動じることなどない、そう思わせる顔つきをしていた。
「優真くんは、水泳選手になろうとしてる。プロの選手になって、それでお金を稼げるようになりたいって思ってる。お母さんと優美ちゃんを護りたいから」
「身体の弱いお母さんに無理をさせたくないから、だから、自分が何とかしようって。そうだよね?」
深く、とても深くうなずいて、優真は小夏から掛けられた言葉を肯定する。一言の言葉を交わさずとも、お互いすべてが分かっている。今の小夏は、小夏でもあり優真でもあり、そして今の優真は、優真でもあり小夏でもあったから。だから優真は、自分の秘密を小夏に知られても、なんら気にすることなどなかったのだ。
「昨日ね、清音さんが来てくれたんだ。いっぱい聞かせてくれたよ、優真くんのこと。かっこいいって褒めてた、いい男だって言ってくれた」
「かっこいい、わたしも同じ気持ちだったよ。お母さんと優美ちゃんのことを本気で護ろうとしてるんだって分かって、胸がきゅっとして、泣いちゃいそうだった」
「それに、わたしにはこのこと言わずに、ただ優勝してほしい、それだけ言ってくれたよね。わたしには重たいものを背負わせたくない、その気持ちも分かった」
「でも、わたし……わたしっ、優真くんの未来、一緒に背負いたいって思った。支えてあげたいって、心の底から思ったんだ」
「だからね、絶対負けらんない、めいっぱい力を出して、大会で一番になってやるんだって……だからわたし、頑張るぞって思ったの」
なんか、わたしらしくないね、こんなに熱くなっちゃって。照れくさそうにしている小夏を見た優真は、柔らかく微笑んでいる。熱っぽく語る小夏が本当に頼もしくて、自分のすべてを預けたって構わないと思っている。優真が瞳を輝かせているのを見た小夏が、一歩前に踏み込む。
「清音さんから聞いたよ。清音さんのお兄さん……優真くんのお父さんのこと。わたしたち、同じだったんだね」
清音が家を訪れたと聞いた時から、小夏からその話をされることは予測していたようだ。優真は動揺することなく、もう一度深くうなづく。
「立派なお父さんだったんだね。優真くんにそっくりだって思っちゃった」
「お母さんと優美ちゃんだけじゃなくて、わたしのことも気遣ってくれて、助けてくれて……優真くん、ありがとう」
ありがとう。そう言われた優真は目にうっすら涙を浮かべて、零れてしまう前に指先でそっと拭った。自分が背負っていたものを小夏にも理解してもらえたこと、小夏が自分の力になりたいと言ってくれていること。優真はこの上ないぬくもりに包まれて、感謝の涙をあふれさせる。小夏の目にもまた、熱い涙が浮かんでいた。
正直にすべてを打ち明けたふたりが、揃って相手の顔を見つめる。
「小夏ってすごいな。俺、外に出ていくなんて考えたこともなかった。外の世界へ飛び出そうとしてるんだな」
「優真くん、尊敬しちゃうよ。家族を護るなんてこと、わたし、今まで考えたこともなかったから」
「どうして学力テストでいい点数を取らなきゃいけないのか、ずいぶん遅くなったけど、やっと分かったよ」
「水泳大会で優勝しなきゃいけない理由もね。でも、今分かってよかったんじゃないかなって、わたし思うよ」
「そうだな。お互い相手の体に慣れて、こうやって本気を出せるようになったもんな」
「うん! それに、この間ひともんちゃくあって、どっちも一皮むけたしね」
「違いないや。まったく、小夏にはかなわないな」
優真の姿をした小夏が笑う、小夏の姿をした優真が笑う、ふたりが声を上げて笑う。その様子を、シズクがニコニコしながら見つめている。もう何も怖いものなんてない、目の前に立ち塞がるものはみんなぶっ飛ばして、夢見た未来へ駆け抜けていける。希望をその手に掴んでみせる。
一拍置いてから、優真はすっ、と大きく息を吸い込んで、おもむろにこう宣言した。
「――わたし、やるよ。絶対やってみせる」
その姿を見た小夏もまた深くうなずいて、同じように深呼吸をして。
「――俺もやってやる。必ずやり遂げるぞ」
優真は小夏に、小夏は優真に。心と体をシンクロさせて、目の前にいる相手――他ならぬ自分自身をの夢を目指すことを誓う。小夏は全国学力テストに、優真は水泳大会に向けて、よりいっそう努力することを誓う。
「わたしは皆口小夏。学年トップクラスの秀才だからね、どんな難問だって解いてみせるよ」
「俺は川村優真。水泳大会ジュニア部門の優勝候補なんだ、誰より速く泳ぎ切ってみせるさ」
ふたりが口の端へにやりと笑みを浮かべると、握り拳を作って軽くぶつけ合う。
「やるよ、優真くん」
「やるぜ、小夏」
本番まで、もうあと少しだ。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。