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#30 最後の戦い! - 明鏡止水 -

八月十六日。

「よし。母さん、優美ちゃん。そろそろ行くよ」

「行きましょうか。優真の晴れ舞台だもの、遅れないようにしないとね」

「お兄ちゃん、応援してるー!」

いよいよ水泳大会当日。優真の姿をした小夏が、母と妹の優美を伴って家を出ていく。今日は優真の泳ぎを間近で見ることになっているのだ。早くも応援する気満々の優美をなでてやりながら、小夏はいつも通りの道をたどってバス停へ向かう。シズクは優真に預けている。きっと元気にしていてくれていることだろう。

バスがやってくるまでの間、小夏が腕まくりをして肩をぐるりと回す。コンディションは絶好調だった。体は思い通りに動くし、たっぷり眠ったおかげで体力も蓄えられている。今日は思いきり全力が出せそうだった。

大会会場はいつものポケモンジムだ。バスを降りて向かってみると、普段よりずっと多くの人が詰めかけているのが分かる。同じく大会に出ると言っていた宮沢くんたちのような同級生の姿もあちこちで見かけるし、違う小学校に通っていて名前も顔も知らない子供も多い。普段は並び立つことのない子たちと泳ぐ速さを競える場というのは、榁の子供たちにとっては貴重なものだったのだ。

母と優美を伴ってぐんぐん歩いていた小夏だったが、そこでふと足が止まる。瞳をキラキラ輝かせて、そこに立っていた者の姿をしっかりと捉える。

「小夏!」

「優真くん!」

立っていたのは小夏――もとい、優真だった。忙しい合間を縫って応援に駆け付けてくれたのだ。もちろん、シズクも一緒だ。

「応援しに来てくれたのか!」

「うん。泳ぎ方教えてもらったし、優真くんのカッコいいとこ見てみたいからね」

「みぅ! みぅ!」

「よしよし、シズクも元気そうで何よりだ。俺の泳ぎ、見ててくれよな」

「あっ! こなつおねーちゃんだ!」

「優美ちゃん、おはよっ。今日はお兄ちゃんの大会だね」

「そうだよーっ。優美も二階の席で応援するの」

「わたしたちみんなで一緒に見ててあげようね。優真くん、がんばれーっ、って!」

優真はまるで違和感なく小夏になりきっている。自分ならきっとこう言うに違いない、優真の振る舞いはまさしく小夏そのものだった。彼女の表情に険しさはまったくない。小夏を完全に信頼していて、自分に代わって立派に戦ってくれると疑うことなく信用している。優真が自分にすべてを任せてくれていることを、小夏はこの上なく嬉しく思ったのだった。

「そうだ、優真くん。ちょっといいかな」

「ああ。どうした?」

「こんな時に言うのも何だけどね、どうしても言いたくて」

胸に手を当てて少し息を吸ってから、優真は穏やかな調子の声で――

「小夏」

そして、いつもの口調に戻って、小夏にこう語りかけた。

「今日はせっかくの晴れ舞台だから、めいっぱい楽しんできてほしいんだ」

「もちろん、見てる人がいっぱいいて緊張はすると思う。それが普通なんだ。俺だって、毎年緊張しちまうからな」

「でも――人が多いってことは、小夏がすごいってところ、今までずっと努力してきたってことを、大勢に見せられるチャンスでもある」

「小夏が持てる全力を出し切って、思いっきり楽しんでくれれば――俺、悔いはないよ。どんな結果でも満足する。だから、胸を張って、行ってきてくれ」

もちろん、結果を出してもらいたいという気持ちはある、けれどそれよりももっと、小夏に今日という日を悔いのないものにしてほしい。美しい思い出の一ページにしてほしい。自分と同じ荷を背負う者として、優真が絞り出した精いっぱいの言葉。小夏の体を借りて発せられた優真の言葉を、優真の体を借りて小夏がしかと受け止める。優真の思いが理解できない小夏ではない。自分に未来を託してくれた優真には、ただ感謝の気持ちしかない。

小夏は深く――とても深くうなずいて、優真の言葉に応えたのだった。

 

開会式の後、早速ジュニア部門のタイム計測がスタートした。

「俺は――七番グループか」

グループごとに八人の選手が振り分けられて、全員が同じルールの下で泳ぐ。ジュニア部門は百メートルの自由形になる。小夏は全部で十グループあるうちの七番グループに割り当てられた。全グループの全選手が泳ぎ終わったのち、総合順位が明らかになる仕組みだ。ルールは事前に頭に叩き込んである。簡単な話、他人は気にせず全力を出し尽くせばそれでいい。

戦うべき相手は、自分なのだ。

ほどほどに準備運動をしながら、他の参加者の泳ぎを観戦する。何分街の広報誌にも載るような大きなイベントなので、夏休みの記念に参加したというノリの子が多かった。もちろん小夏のような泳ぎなどできるはずもない。だが、中には小夏と同じように、はっきりと「速く泳ぎ切る」という意識を持って競技に取り組んでいる者もいる。そういう子は決まってグループ内で目をみはるような速さでもってゴールして、あちこちでどよめく声がしたものだった。小夏にも引けを取らないと言ってよかった。

六番グループのタイム計測が始まった。これが終わればいよいよ小夏の出番だ。

(ああ、そろそろわたしの番だ……うまくやらなきゃ)

優真から託してもらった未来を、優真の背負っているものを思い出して、小夏が責任を感じて緊張する。鼓動が早くなるのを感じる。もし、自分がトップを取れなければ、水泳選手になるという優真の未来を閉ざしてしまうことになるのだ。それだけは、それだけは絶対に嫌だった。何が何でも一番にならなければ、そう思ってぐっと身を固くしていた小夏だったけれど、ふと、さっき優真から掛けてもらった言葉が蘇ってきて。

(『小夏が持てる全力を出し切って、思いっきり楽しんでくれれば――俺、悔いはないよ。どんな結果でも満足する。だから、胸を張って、行ってきてくれ』)

全力を発揮して、楽しんできてほしい。優真は自分にそう言ってくれたことを思い出す。すると、小夏の体から緊張が解けていく。自然体でいられるようになって、心臓のドキドキも収まってきた。

小夏はこの夏休みの間、ずっと水泳の練習をしてきた。海で、プールで、お風呂場で――あらゆる場所で、水と仲良くなるために努力を重ねてきた。辛かった練習がいつしか苦にならなくなって、気が付くと楽しくて仕方なくなっていた。引き締まった体は鍛錬の証、イメージするのは水中を弾丸のように駆け抜けていく自分の姿。小夏を満たしていくのは自信、それもしっかりとした根拠のある自信。すっかり平静さを取り戻した小夏の口元には、笑みさえ浮かんでいた。

(わたしなら――)

そう思い掛けて、小夏が軽くかぶりを振る。

(……いや、俺ならやれる)

(俺は――川村優真なんだ!)

自分ならきっと優真の期待に応えられる、なぜなら自分は他でもない、川村優真なのだから。

六番グループの計測が終わって少ししてから、いよいよ七番グループのメンバーが呼び出される。小夏は他の参加者に先んじて二番レーンに立った。このレーンはスイミングスクールでいつも使っているレーン。何度往復してきたか分からない。端から端までどんな場所か熟知している。通いなれた榁のポケモンジムで、泳ぎなれた二番レーンを使える。今の小夏は完全なるホームにいた。アドバンテージは計り知れない。小夏は悠々と飛び込み台の上に立ち、大きく胸を張る、

まったくもって不思議なくらい、心が落ち着いていた。完全に凪いだ海のようだ。こういう心境を「明鏡止水」というのかな、こんなことを考える余裕さえもある。小夏が大きく息を吸うと、周りの歓声が消えていくのを感じる。さらに意識を統一すると、左右のレーンにいるライバルたちもまた姿を消す。この空間にいるのは自分だけ。これは文字通り、自分との闘いなのだ。

「――!」

耳を澄ませていた小夏は、スタートのホイッスルが鳴るのを聞き逃さなかった。瞬時に体が跳ねて、水へと飛び込む。

水中で優真から教わったことを一気に思い出す。そのすべてを体に伝えて、完璧なフォームで、まったく無駄のない動きで、水を切って泳いでいく。抵抗というものがまるで感じられない。水が自分から身を引いて小夏のために道を開けてくれるかのような感覚さえ覚えた。どこまで行っても小夏は平静で、昨日までずっと繰り返していたことを完全に再現するだけだった。

水と仲良くなっていることを実感する。一度は自分の命を奪おうとした水という存在に、今は大いなる友情さえ感じている。もう恐れるものなんか何もない、怖がることなんてひとつもない。小夏は隣に優真が付き添って一緒に泳いでくれているような心境だった。この夏ずっと一緒にいた優真、そして今は自分が優真の体を借りている。そう、自分は優真なのだ。これ以上自分を勇気付けてくれることがあるものか!

恐るべき速さで三度目のターンを迎える。強い力で壁を蹴り、最後の復路に挑む。以前は二十五メートルを泳ぐのがやっとだったのに、今はとても、とても短い距離のように思う。自由に泳げるようになりたい、その願いがかなったと言えるかもしれない。心と体を入れ替えた優真のおかげで、小夏は夢をひとつ叶えることができたのだ。

息継ぎのために一度だけ顔を上げたその一瞬、小夏は二階の観覧席で立っている優真とシズクの姿をとらえた。

(優真くん)

彼の――彼女の目は真剣そのもので、自分のことを片時も離さず見守っていて。けれどそこに険しさはなく、ただ優しさを一杯にたたえていた。小夏が緊張することなく、己の能力を思う存分奮っている様を見て安心している。全幅の信頼を置いてくれているのを感じた。

行くよ、優真くんのところまで。優真くんの目指した未来へ。

(見ててっ、優真くん! わたしっ、ありったけの根性で泳ぐから!)

体に残る力のすべてを出し尽くして、小夏は水中を突っ切った。

「――っはっ!」

その手が壁に、ゴールに触れたことを確かめて、小夏が水中から顔を出す。

(――やったよ、優真くん)

(わたし……やりきったよ! 全力、出し切ったから!)

一切の心残りのない、ひとつの悔いだって残さない、さながら太陽のように晴れ晴れとした表情で、小夏は天井を仰いだのだった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。