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#31 最後の戦い! - 森羅万象 -

八月十七日。

「お父さん、行ってきます!」

「気を付けて行ってくるんだぞ。母さんもな」

「任せてちょうだい。さあなっちゃん、車を出すわ。ちょっと待ってて」

いよいよ全国学力テスト当日を迎えた。小夏の姿をした優真が、母を伴って家の門扉をくぐる。いつもと同じように、母が会場である学習塾まで送ってくれることになっていた。手慣れた様子で車庫から車を出す母を頼もしく見つめる。今日のシズクは優真の家にいる。きっと優美と仲良く遊んでいることだろう。

母の運転する車の助手席にいそいそと乗り込んで、シュッと素早くシートベルトを締める。コンディションは完璧と言ってよかった。朝から程よく頭が冴えていて、眠気はまるで感じない。いつもよりぐっすり眠れたくらいだ。もちろん朝ごはんだってしっかり食べた。全力をもってテストに臨めそうだった。

カバンの中を今一度確かめる。持ってきたのは小夏と一緒に作った学習ノートで、各教科の要点の詰まったまさにバイブルと言える一冊だ。テストの直前まで見返すことにしよう。車はすいすいと走って行って、滞りなく会場である学習塾の入ったビルまで辿り着いた。普段通り車を降りて、優真が母に笑顔を向ける。

「送ってくれてありがとう、お母さん。テスト、がんばってくるね!」

「行ってらっしゃい、なっちゃん。平常心で取り組めば、きっといい結果が出せるわ。行ってきなさい」

「うん! 平常心!」

母と軽く言葉を交わしてから、優真は学習塾へ向かった。

入口に立て掛けられた「全国学力テスト」の看板。間違いない、今日なのだ、全国学力テストがある日は。優真が今一度実感する。他の子供たちも続々と集まっているのが見えた。遠くには毬もいて、カバンを提げて歩いているのが見える。優真も気後れすることなく背筋を伸ばして、肩に掛けていたカバンを持ち直した時だった。向こうから歩いてくる人影を見つけて、優真がその目を大きく見開いた。

「優真くん!」

「小夏!」

やってきたのは優真――もとい、小夏だった。昨日大会を終えたばかりだというのに、応援に駆け付けてくれたのだ。もちろん、シズクも一緒だ。

「来てくれたんだ……!」

「当たり前じゃないか。小夏にはいっぱい勉強教えてもらって、世話になったからな」

「みぃぅっ!」

「あははっ、シズクも喜んでる。いよいよ本番だよ、全国学力テスト!」

「ああ、とうとうこの日が来たんだな。長かったようで……あっという間だったな」

「本当に……すごい速さで毎日が過ぎていった気がするよ。わたし、優真くんと一緒にここまで歩いてきたんだね」

小夏はもはや優真そのものと言ってよかった。この状況に置かれたら、自分はきっとこんな感じで話すだろうと考えた言葉が、小夏の口からすらすらと出て来る。表情も口ぶりも穏やかそのもので、優真を一片の曇りもなく信頼してくれている。すべてを自分に託してくれているということを実感して、優真が思わず拳に力を込める。小夏のために戦うことができる、その喜びをかみしめながら。

「なあ、小夏。少しだけ、話させてもらってもいいか」

「いいよ。なんでも言ってみて」

「昨日、俺に聞かせてくれたことじゃないんだけどさ」

目を細めた小夏は軽く息を吸って、それからまた目を大きく開いて――

「優真くん」

小夏としての語り口調に戻ったところで、優真にこう言葉を掛けた。

「全国学力テストは夏休みの一大イベント。全国でみんなが一斉に同じテストを受けるんだよ。すごいでしょ?」

「だから、やっぱり緊張はすると思う。難しい問題が出て、うわっ、ってなっちゃったりすることもあると思う。わたしだってそうだったもん」

「でもね――でもね、だからこそ、ちゃんと解けた時はすごく気持ちがいいの。自分の力で山場を乗り越えたって、そんな気持ちになれる」

「わたしも昨日の優真くんと同じ気持ち。優真くんが全力を出し切ってくれたら、もうそれで満足だよ。答案用紙の上で、思いっきり自分の腕を奮ってほしいな」

昨日掛けてくれた言葉と鏡映しになるような言葉を、今度は小夏が優真に対して掛ける番だった。できることなら結果を出してほしい、けれど自分は優真がここまでたくさんの努力と苦労を積み重ねてきたことを知っている。今日という日を悔いの残らないものに、すっきりした気持ちで終えられるようにしてくれればそれでいい。そうすれば、自ずと結果はついてくる。小夏のくれた言葉を、優真が一つも漏らさず心に刻み込む。

分かった、任せてくれ。優真はそう言い残すと、見送る小夏に手を振って、足取りも軽くビルの中へ入っていった。

 

いつもと同じ教室に入り、いつもと同じ席を目指す。同じことを考えている者が多いのか、ほとんどの子は優真と同じように定位置に座っていた。やはり慣れている場所の方が本領を発揮できる。優真は「自分の席」が空いていたことに感謝しつつ、椅子を引いて静かに腰かけた。

「あと十分、かな」

試験は九時三十分から始まる。手洗いは済ませた、他にすることは何もない。カバンからサッとノートを取り出し、これまでまとめてきた内容を振り返る。何度も見返した、穴が開くほど見返したノート。書かれたことひとつひとつが頭にしっかり記憶されていることを実感する。目を閉じても内容を精緻に思い出せるくらいだ。知識が整理されて、あるべきところに収まっている。必要な時にいつでも取り出すことができる。

全国学力テストは他の塾生たちとの戦いではない。自分の頭との、知識と記憶力との闘いなのだ。

ノートを開いたまま、優真が何気なく辺りの様子を確かめる。皆自分と同じようにやる気になっていて、テキストやノートを開いて直前まで知識を得ることに余念がない。小夏と同じように、このテストに特別な意味がある子も少なくないだろう。テストはあくまで個人の実力を確かめるもの、そうと理解していても、周りの同級生たちがどのようにしているか、気にならない優真ではなかった。

試験監督を担当する先生が教室に入ってきて、試験に関する簡単な説明がなされた。それが終わったところで、問題と答案用紙が全員に配られる。テストはマークシート方式で、一部に論述のためのスペースが用意されている。開始までもうあと三分を切った。しんと静まり返った教室で、優真が胸の高鳴りを覚える。

(流れが分かってても、やっぱり緊張しちまうな……)

もうすぐテストが始まる。小夏の未来をかけた大事な試験だ。万が一、ここで自分がドジを踏むようなことをすれば、小夏はポケモントレーナーになるという夢を断たれてしまう。自分のせいで小夏の夢を潰してしまうことになるのだ。そんなことは絶対にしたくない、必ずいい点数を取らなければ。胸に小さく痛みを覚えて顔をしかめる優真だったが、無意識のうちに、つい先程小夏に言われたことが脳裏に浮かぶ。

(『わたしも昨日の優真くんと同じ気持ち。優真くんが全力を出し切ってくれたら、もうそれで満足だよ。答案用紙の上で、思いっきり自分の腕を奮ってほしいな』)

自分はどう思っていただろう、小夏が一位を取れなければ許さないなんて考えていただろうか。そんなことはない、小夏が全力を発揮してくれればもうそれで十分だった。結果がどうあれ、小夏に悔いが残らなければ心から満足できた。小夏は自分もまた同じ気持ちだと伝えたかったのではないか。そう考えた優真の表情から緊張が取れて、自然体の、ありのままの顔つきに代わる。

優真は小夏に代わって、勉強漬けの日々を過ごしてきた。いつもなら学校の宿題を片付けるだけでやっとだというのに、そこに塾の講義と課題まで加わって、それはもう目の回るような大変さだった。けれど小夏の懇切丁寧な教えを受けて、少しずつ苦手意識を克服していった。今は勉強そのものを苦にしなくなって、新しい知識を得られることに喜びさえ感じている。リラックスした優真は、むしろ今の方が頭が冴えていることを実感して、平常心を完全に取り戻した。

(俺なら――)

いつものようにそう始めようとして、優真が言葉を切る。今の自分は誰なのか、知れたことではないか。

(……ううん、わたしならやれる)

(わたしは、皆口小夏だから!)

自分ならきっと小夏の期待に応えられる。なぜなら自分は他でもない、皆口小夏なのだから。

テスト開始まで一分を切った。優真は時計の針が進むのを見ながら、どのように動くかをシミュレーションする。緊張するのは問題用紙をめくる一番最初の瞬間、ここで気圧されないように、少し余裕をもって始めるべきだ。時間はたっぷりあるのだから、それをいかにうまく使うかがカギと言える。この夏ですっかり見慣れた教室の風景、加えて座った座席はいつもの場所。これが見知らぬ場所だったらもっと緊張していたに違いなかっただけに、場所のアドバンテージは大きかった。無駄な力を抜いた状態で、しゃんと背筋を伸ばして、時が来るのを待つ。

今の自分なら何だって分かりそうな気がする。森羅万象が自分の中にある、そんな思いだ。国語の時間に学んだ四字熟語がすんなり出てくるくらい、優真は落ち着き払っていた。塾で毎日受けていたミニテストのことを思い出して、これからのテストだって同じ気持ちで受ければいい、と心に余裕を持つ。ミニテストの時だって毎回全力を尽くしてきたじゃないか。今日もまた同じように、気楽な心持ちでフルパワーを発揮すればそれでいいのだ。

「では、始めてください」

試験監督の声が教室に響く。皆が一斉に問題用紙をめくる中、優真はあえて一呼吸おいて、慌てることなくゆっくりとそれを表返した。

優真が真っ先に手を付けたのは、答案用紙の上にある名前を書く欄だった。自分の名前を丁寧に書き、塾の在籍者番号をしっかりとマークする。どれだけ優れた答案であろうと、百点満点の回答であろうと、名前や在籍者番号が抜けていればそれだけでゼロ点だ。まずは足元をしっかり固めてから問題に臨む、優真は至って平常心だ。辺りが静かになったところで問題用紙にさっと目を通し、どの問題から解くか素早く戦略を立てる。今回は論述が少ないことに着目して、優真はそこから取り掛かった。

シャープペンシルがすらすらと動いていく。かつては見ているだけで頭痛のしてきたテストの答案用紙と、今は手を繋いで遊んでいるかのような気持ちだ。決して慢心することなく、さりとて肩肘張るわけでもなく。優真は冴えに冴えた頭で、詰まることなく次々に問題を解いていった。隣で小夏が見守ってくれているかのような心境だった。この夏ずっと一緒にいた小夏、そして今は自分が小夏の体を借りている。そう、自分は小夏なのだ。これ以上自分を勇気付けてくれることがあるものか!

簡単な問題は機械的に、複雑な問題はしっかり頭を使って、優真は答案用紙を埋めていく。今日は国語・算数・理科・社会のテストが行われる。かなりの長丁場だ。すべての教科で全力を出せるようにしっかりと立ち回りを考えてきた。国語の論述、算数の証明、理科の化学式、社会の年号が山場になると踏んでいて、事前に厚く復讐をしておいたのだが、その予感はピタリと的中していた。もちろん、解き終えた後最後まで見直しを重ねることも忘れない。もっと勉強ができるようになれば、そう考えていた優真だったが、今はその願い通りになっている。小夏が自分の夢を叶えてくれたと言っていいだろう。

最後の教科である社会。その答案用紙をすべて埋めてから、二度目の見直しを終えて少し休もうと考えた優真が顔を上げると、教室の壁に張り出されたテストの点数ランキングが目に飛び込んでくる。

(小夏)

皆口小夏。その名前と共に、クラス内でトップの成績を取っている高々と伸びた棒グラフが見える。小夏は素晴らしい能力を持っていて、自分は今その小夏なのだ。自信をもって、がんばって――小夏が応援してくれているように感じて、優真は気持ちが奮い立った。

絶対に負けない、テストでてっぺんを取って見せる、小夏のいるところまで駆け昇って見せる。

(見ててくれ、小夏! 俺が、小夏の夢まで辿り着いてやるんだ!)

瞬時に答案用紙へ目線を戻すと、優真が最後の見直しを始めた。

「――そこまで! 答案用紙を置いて、顔を上げてください」

優真が最後の見直しを終えたと同時に、試験監督が終了の合図を出す。全国学力テストが終わったのだ。

(――やったぞ、小夏)

(俺は、最後までやり抜いたぞ! 全力で立ち向かったからな!)

一切の心残りのない、ひとつの悔いだって残さない、さながら太陽のように晴れ晴れとした表情で、優真は天井を仰いだのだった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。