迎えた翌朝。優真はもどかしい気持ちを抱えながら、リビングにいる母の様子をさりげなくうかがっていた。
(今日は仕事が休みだったなんてな……小夏には伝えたけど、出ていくのは昼になっちまいそうだ)
両親が仕事に出かけた合間を縫って家を出ようと画策していたけれど。あいにく今日はお母さんの仕事が休みだったのだ。掃除機をかけたり洗濯をしたりと、テキパキと家事をこなしているのが見える。優真も時折手伝いつつ、お母さんが外出するそぶりを見せないか様子を見ている。あの大きなリュックを持って家を出ようとすれば、きっと理由を訊ねられるに違いない。だからこそ、家にいない時を狙いたかったのだ。
さらに間が悪いことに、今日は自分の母親、つまり優真のお母さんもまた非番の日だったらしい。小夏の方も家を出るまでに手こずっていて、港で落ち合うという最初のポイントまでなかなかたどり着けそうにない。小夏の方はシズクも連れて来なければならないから、優美の目もあって自分に輪を掛けて大変だろう。今は小夏の利発さを信じるほかなかった。
(できるだけ早いうちに出て、必要なものが揃ってるか小夏と確認したかったんだけどな)
この分だと、準備が整っているか確かめる猶予は無さそうだ。合流し次第来た船に飛び乗って海凪市を目指すしかない。ともかくここを出なければ、いつエーテル財団と案件管理局に挟撃されるか分からない。今やこの榁の地は安全ではなく、いつ自分たちとシズクが捕まってもおかしくない危険地帯と化していたのだ。
家出することばかり考えているとはつゆ知らず、母はいつものようにふんわりとした口調で、小夏の姿をした優真に優しく接してくれて。
「なっちゃん、お掃除が済んだから、ちょっとお菓子でも食べましょう。チョコレートクッキーを買ってきたのよ」
「う、うん。今行くよ」
小夏のお母さんは相変わらず優しくて、家事が済むと一緒にお菓子を食べようと飲み物を用意してくれる。お母さんには何の不満もない、むしろ感謝の気持ちしかないというのに、これから自分は彼女を苦しませるようなことをしようとしている。そのことを自覚しない優真じゃない。もちろん、とても気が咎めている。良心の呵責を覚えている、というやつだ。できることなら小夏のお母さんを悲しませたくはない、その気持ちはもちろん抱いている。
けれど、こうするしかないのだ。小夏とシズク、二人と共に在るためには、小夏の家を、榁の地を離れないといけない。優真はギリギリと締め付けられるような胸の痛みを懸命に抑え込んで、お母さんが家を空けるタイミングを見計らっていた。
ところがその最中、優真が予想もしなかった出来事が起きた。
「あら、電話だわ」
「えっ!? あっ、お母さんっ、わたしが……」
この時間、普段ならまず鳴ることのない電話のベルが鳴ったのだ。スッ、と立ち上がるお母さん。しまった! 一瞬出遅れた優真が慌てて取りに行こうとするものの、お母さんが先に親機の所まで到達してしまった。あら、川村くんの番号ね、確かにそう言いながら、お母さんは受話器を上げて電話に出てしまった。
川村くんの番号。お母さんの一言だけで優真はすべてを察してしまった。小夏が電話をかけてきたのだ。向こうでも何かトラブルが起きているのではないか、そうとしか思えない状況だ。テーブルの上へ置いていたスマートフォンに目を向けると、こちらには特に着信があった形跡がない。なぜこちらに掛けて来なかったのか、いや、掛けられる状況ではなかったのか――あらゆる可能性が頭を駆け巡って、優真は逆に身動きが取れなくなってしまう。
「もしもし? あら、みーちゃんじゃない。どうしたの?」
みーちゃんという呼び方に砕けた口調。電話をかけてきたのは小夏じゃない、母さんだ。まさか、家出することがバレてしまったのでは? そう思っても仕方のない状況だった。自分と小夏が家出を企てていることが母親にバレて、二人を呼び出して話をしようというのではないか。優真が思わず背筋を凍らせる。このままではすべてが水の泡だ、なんとかしなければ――。
「……みーちゃんの家に? なっちゃんも呼んでほしいって、またどうして……」
「事情は分からないけれど、これからすぐになっちゃんとそっちへ行くわ。少しだけ待つように伝えてちょうだい」
「ええ、よろしくね。それじゃあ」
お母さんの話ぶりを聞いていると、いつになく真剣な口調だ。ただ、不安がっていたり怒っていたりする様子はない。お母さんの声色は、不自然に感じているときのそれだ。それに「待つように伝えてほしい」というのはどういうことだろう。誰か他に家へ来ているのだろうか。それで、優真の母親がその人たちを待たせている。ごくごく断片的な情報から、必死に状況を推測する。まさか、小夏とシズクに何かあったのか。嫌な考えばかりが浮かんできて、優真は思わず顔をしかめた。
受話器を置いた母が早足でこちらへ戻ってくる。お母さん、と優真が声を上げると、母は優真を真剣なまなざしで見つめてきて、そして静かにこう告げた。
「川村くんのお母さんからよ。これからすぐ、家へ来てほしいんですって」
「なっちゃん、一緒に行きましょう」
お母さんと二人、自転車に乗って優真の家までやってきた。庭に自転車を止めると、扉をノックして中に入る。
「小夏、それに小夏の母さん。よく来てくれた、上がってくれ」
玄関では優真の姿をした小夏が出迎える。下を見ると、見覚えのない靴が三つ並んでいるのが見えた。誰か他にも川村家へ来ているようだ。優真が小夏に目くばせすると、小夏が不安げに小さくうなずく。状況はかなりまずい、それだけは理解した。二人は怪しまれないように出来る限り自然体を装うと、小夏が先導する形で茶の間に入る。
そこで優真が目の当たりにしたのは――まず間違いなく、今もっとも目にしたくない顔ぶれで。
「ご足労をかけました、皆口さん」
「貴方は――」
「案件管理局の佐藤というものです。こちらは本田局員」
「皆口さん。よろしくお願いいたします」
案件管理局の佐藤さん、本田さん、そして。
「来たのね、こなっちゃん」
同じクラスで机を並べて勉強している、
「もしくは……こなっちゃんの見た目をした誰かさん」
毬の、東原毬の姿があった。
物々しい空気に満ちた茶の間に、同席していた優美は完全に表情を強張らせている。その優美を安心させようと、シズクがそっと肩に手を置いている。局の面々はシズクには興味がないらしい。シズクにはまるで一瞥もくれることなく、その眼差しは優真と小夏にだけ注がれているのが分かる。優真の母親は口を真一文字に閉じて、局員二人と毬に正面から対峙する形で座っていた。こちらも退く気配は無さそうだ。
先を越された、優真はそう思わざるを得なかった。案件管理局の裏をかいて榁から逃げ出すはずが、先んじて向こうから素早く仕掛けてきたのだ。彼らがここへ、川村家へ来た目的なんて分かりきっている。小夏と優真を収容するためだ。そして毬は重要参考人として同行してきた。二人の母親を呼び寄せて、夏休みに入ってからの優真と小夏がいかに不審かを伝えるつもりに違いなかった。佐藤さんと本田さんを連れてきたのも、恐らく毬が主導してのことだろう。
(東原のやつ、厄介なことをしやがる)
心の中で毒づいたところで、こうなってしまってはもうどうしようもない。優真と小夏が敷かれた座布団に隣り合って座り、それぞれの母親が隣に付く形で座る。四対三の構図ができあがった。本田さんと佐藤さんの間、中央に座った毬が、早速口火を切った。
「ここへ来てもらったのは他でもないわ、こなっちゃんと川村の様子がおかしいってこと、お母さんたちにも伝えたかったからよ」
「なっちゃんの様子がおかしい……? 東原さん、それはどういうことなの?」
「お母さんの前ではうまく化けてるみたいね。けど、こっちはちゃんとお見通しよ」
「東原さん、聞かせてください。優真のどこがおかしいというのですか」
小夏と優真の母親が、腕組みをして険しい表情をした毬に問い掛ける。
「わからない? うちから見れば、どっちも別人みたいだわ」
「東原さん、具体的な事例を話してあげてください。そうすれば、お二方にも伝わりますよ」
「そうね……こなっちゃんは喋り方がおかしくて、男の子みたいだって思うことがしょっちゅうあったし」
「まるで対象――いえ、川村さんのようであったと伺っています」
「川村は川村で、いきなりうちの神社まで来て話しかけてきたり。まるでこなっちゃんみたいだったわ。それまで口聞いたこともなかったのに、ヘンだと思ったのよ」
「シズクちゃんを捜しているときの出来事、でしたね。川村くんが星宮神社まで出向いて、東原さんにシズクちゃんのことを訊ねたとのことです」
毬を正面から捉えている小夏と優真は、身体をわなわなとふるわせて狼狽していた。毬はもう自分たちに起きたことに気付きかけている、かなりの確信をもって、自分たちに証拠を突き付けている。二人の間でだけ共有されている秘密――心が入れ替わったことを、毬は今にも見抜こうとしているのだ。
もしこの場ですべてがつまびらかにされてしまえば、案件管理局への収容は免れないだろう。体はそのまま心が入れ替わるなんて、イレギュラーで非日常的な現象に他ならない。案件管理局がターゲットにしているのはまさしくそんな事案・事象・事故だ。自分たちがどれだけ取り繕って言い訳をしたところで、連れて行かれることは避けられないだろう。そうなってしまえばもうおしまいだ。
「皆口さん。先程川村さんにはお伝えしましたが、貴女方のご子息には、社会潜伏系アノマリーであるという疑義が掛けられています」
「一体なんなんですか、その社会潜伏系アノマリーというのは。なっちゃんに……いえ、小夏がどうしたというのですか」
「人間社会に溶け込み擬態する潜在的脅威です。ご子息は何らかの超常現象の影響下にあるか、或いはご子息に成りすました別の存在である虞があります」
本田さんがメガネを直しながら、温度を感じさせない無機質な言葉で説明を続ける。その説明は今の二人を見事に言い表していた。精神が交換されるという超常現象の影響下にあることは間違いなかったし、小夏は優真に、優真は小夏に成りすましている。優真も小夏も、口から一切の言葉が出てこなかった。冷たい汗をかいて、ただ体をカタカタと震わせるほかなかった。
これではきっと、母は自分たちを案件管理局へ連れて行くことに同意してしまう。なんとかしてこの場を切り抜けなければ、けれどどうやって? 毬も本田さんも核心を突いていて、ちょっとやそっとじゃ言い逃れなんてできっこない。二人は懸命に頭を回転させるが、ただただ空回りするばかりで一向に妙案は浮かんでこない。このままではいけない、このままでは……。
縋るような思いで二人が瞼をキュッと閉じた――次の瞬間だった。
「優真は優真です。なんと言われようと、優真は優真です。大切な私の子供です」
はっとして顔を上げた小夏が反射的に右手に目を向ける。小夏の隣に座っていた母が、背筋をしゃんと伸ばして、本田さんに向けて決然と言い放った。
優真は優真だ、私の子供だ、と。
母は小夏に優しい目を向けると、それから再び正面へ向き直って。
「証拠というのはそれだけですか。遠くへ行ってしまったシズクちゃんを探して、フィオネを育てていると聞いた東原さんを頼った。ただそれだけのことではないですか」
「我が子を護ろうとする親の必死さが、そんなにも不自然だというのですか」
「貴女たちにとって不自然であろうと関係ありません。私は何があっても、優真を護ります。決して連れて行かせはしません」
見たこともないほどの強いまなざしを本田さんにぶつけて、一歩たりとも退くまいという姿勢を露わにした。まさか、という顔をして、本田さんと毬が口を開けているのが見える。
「話はそれだけですか。それなら返す言葉は一つだけ。小夏は小夏です」
「何か気になることがあったとして、それが社会を、誰かを脅かしているというのですか」
「例え小夏の在り方が変わろうとも――小夏が、私の娘であること、私の子供であることに、些かの変わりもありません」
今度は優真が母の顔を見る番だった。母の横顔はとても凛々しくて、普段の柔和な姿勢からは想像さえできないほどの強さで満たされている。我が子と引き離されてなるものか、なんとしても護り抜いて見せる。言葉にせずともすべてが伝わってくるかのよう。
二人の母親を説得して速やかに収容する、そのシナリオを描いていた本田さんにとっては、ここまで明確に対峙する姿勢を見せられてしまって、却って戸惑ってしまったようだ。続く言葉を紡ぐことができずに、二人の母親の目を代わる代わる見つめるばかり。対する小夏の母と優真の母は身じろぎ一つせず、自分たちから我が子を奪おうとする本田さんに、この上なく刺々しい目を向けていた。
(お母さん……)
(母さん……)
小夏と優真が、相手の母の目を――今は自分の母の目を見つめながら、まるで呼応するかのように胸へ手を当てた。
本当は毬と本田さんの言っていることが正しい。自分たちは心が入れ替えられていて、まったくもって普通の存在ではない。普通の存在ではないから、収容されたとしてもおかしくなどない。優真は自分を小夏だと言っていて、小夏は自分を優真だと言っている。疑いの余地なんてどこにも無く、自分たちは母を欺いているのだ。懸命に自分たちを護ろうとしている母を、知らないふりをして裏切っているようなものだ。良心の呵責を覚えずにおられようか、胸の痛みを感じずにいられようか。
だが、母の愛は本物だ。純粋でただただまっすぐで、子を護るという意志に、愛に満ちている。例え何があろうと関係ない、圧倒的な強さを湛えている。
親が子を護ろうとする、それはシズクを護ろうとした自分たちと同じではないか。子を全力で庇護しようとする親がいる、ただ――それだけのことだ。
(俺は、小夏として)
(わたしは、優真くんとして)
二人は思う。二人は誓う。
(わたしは……皆口小夏)
(俺は――川村優真)
この先何があろうと、小夏として振る舞おうと、優真として生きよう、と。
「優真。何か、気になることはある? あるならなんでも話してちょうだい」
「小夏……ううん、なっちゃん。安心して、お母さんはなっちゃんの味方よ」
問い掛けられた二人は、すべてを吹っ切った顔で、堂々と答えて見せた。
「大丈夫だよ、母さん。俺は他の誰でもない、川村優真だ」
「お母さん、心配しないで。わたしは小夏、皆口小夏だよ」
小夏は「優真だ」と、優真は「小夏だ」と。
もう二度と、母を裏切るようなことはしないと心に決めて。
「こなっちゃん……川村……」
迷いのない小夏と優真の様子と、二人を護り抜く姿勢を貫き通した母の姿を見た毬が、ふっとその目を伏せる。何か思う処があったのか、先ほどまでの二人を問い詰めるような姿勢はすっかり消え失せて、視線の持っていき場所に困っているのがありありと見て取れる。
逡巡して、言うべき言葉を探しあぐねて。けれどいずれ自分が何か言わねばならないとは分かっていて。がっくりとうなだれた毬はずいぶん気まずそうにしながら、その頭をずいぶん重たげに上げた。
「……なんだろう、うち。こんなことに必死になっちゃって」
「今見たら、全部勘違いとか、うちの思い過ごしとか思い込みとか、そんなのばっかりじゃない」
「どう見たって――川村は川村だし、こなっちゃんはこなっちゃんだった」
「おかしくなってたのは二人じゃなくて、自分の方だったんだ」
毬の言葉を受けた優真と小夏、そして二人の母が一斉に目を見開く。状況が大きく変わったからだ。
「お母さんから聞いた海神様の伝承はホントにあったんだ、きっと二人が選ばれたんだ、そうに違いないんだって、うちが勝手に考えて」
「だったらうちがなんとかしなきゃ、二人を元に戻さなきゃ、お父さんの所に連れてかなきゃって、ただそれしか思い浮かばなくなって」
「あんな御伽噺みたいなこと、あるわけないのに……お母さんがしてくれた話だから本当だって思いたくて、信じたくて」
「ちょっとした仕草にいちいち敏感になって、どっちもおかしいんだって思い込んでたんだ」
「こなっちゃん、それに川村。どっちもごめんね、ごめんねってしか言えないよ。こんなつまんないことに巻き込んじゃって」
「お母さんたちにも、いっぱい迷惑かけちゃって……本当にごめんなさい」
消え入りそうな声で、毬はここへ集まった四人に謝罪の言葉を述べた。毬はすべて言い終えるととてもとても大きなため息をついて、再びその顔を伏せてしまった。彼女の様子を確かめて、今まで黙っていた佐藤さんがおもむろにその口を開いた。
「東原さんは少し疲れていらっしゃるようですね。無理もありません、夏はどうしても気が張りつめてしまいますから。心中お察しいたします」
「局長にもたまには家族に顔を見せるよう、私からそれとなく上申しておきましょう。もちろん、今回の件は伏せておきますよ」
「川村さん、皆口さん。どうか、東原さんを責めないであげてください。彼女は心配事を我々に相談してくださった、善良な一人の市民なのです」
「とは言え皆さんに大変なご迷惑をおかけしたのも、また揺るがぬ事実です。局を代表して、私からお詫びをさせていただきます。申し訳ございません」
深々と頭を下げる佐藤さんを見た二人の母親が顔を見合わせあって、ホッと胸をなでおろすのが見えた。
「もし必要であれば、公的な書面も作成させていただきます」
「いいえ、もう充分です。局の皆さんは、するべきお仕事をされているだけですから」
「分かっていただけたなら、これ以上私たちからお願いすることはありません」
佐藤さんが顔を上げて、毬を挟んで右手にいる本田さんに目を向けた。
「皆口さん……川村さん。このたびは、大変なご迷惑をおかけいたしました。申し訳ございません」
上司である佐藤さんに頭を下げさせてしまったこと、そして何より二人とその家族に無遠慮な言葉をかけてしまったことを強く恥じて悔やみ、本田さんは佐藤さん以上に深く頭を垂れた。
けれど、誰も本田さんを責めようとはしなかった。彼女もまた、案件管理局の局員としてなすべき職務を、課せられた責務を忠実に果たそうとしただけだと、きちんと理解していたから。善き市民である毬の声に耳を傾け、その力になろうとしただけだと分かっていたから。
「本田局員。本件は取り下げの方向で動きます。拠点に戻り次第、私が必要な手続きを進めておきましょう。異論はありませんか?」
「……異論ありません。あの、佐藤部代。お手数をおかけしました、申し訳ございません」
「このような事例は、案件管理局で働く上では決して珍しいことではありません。本田局員、貴女のためにもなったでしょう」
「はい、佐藤部代。以後、注意を払わせていただきます」
「その姿勢が大事です。では、本田局員はこれから直ちにエリア#119622の保全へ向かってください。機材は撤去されましたが、またいつ放送が行われるか分かりません。こちらも注意を要する重要事案です、任せましたよ」
「承知いたしました」
失礼いたしました、最後にもう一度深く礼をして、先んじて本田さんが川村家を後にする。私たちもお暇しましょう、そう毬に告げて佐藤さんが立ち上がると、ほどなくして佐藤さんと毬も家から出ていく。あとに残されたのは、二人の母親、優美とシズク、そして渦中にあった優真と小夏。
「ああ、良かったわ。なっちゃんも川村くんも、連れて行かれたりせずに済んで」
「あの人たちが家に来た時は、本当にどうなっちゃうのかって……小春ちゃんが来てくれたおかげで、勇気が出たもの」
「おかあさん、おかあさん。お兄ちゃんとこなつお姉ちゃん、つれていかれない? 家にいてくれる?」
「もう大丈夫よ、優美。安心して。心配かけちゃったわね」
安堵する家族たちを順繰りに眺めてから、小夏と優真が見つめ合う。もう言葉はいらない、ただ互いの目を見るだけで良かった。元に戻るまで――それがいつになろうと、優真は小夏として、小夏は優真としてあり続けよう。二人の決意は揺らがなかった。
脅威が去ったことを実感した二人が安らかな表情を浮かべる。これでもう家出する必要はなさそうだ。もう母を悲しませるようなことはすまい、どちらも揃ってそう考えて、今はただ安らかな時間を過ごす――。
だが、その時はあっさりと破られて。
「あっ、電話っ」
「待ってて、お母さんが出て来るわ」
今度は優真の家の電話が鳴った。今度はいったい誰だ、怪訝な顔をする優真と小夏。その答えは、まもなくもたらされて。
「優真、宮沢くんから電話よ」
「宮沢――」
呼び鈴を鳴らしたのは宮沢。小夏にとってごく最近聞いたばかりの……いや、そんなことでは済まされない苗字だった。おととい、エーテル財団の女性職員を隣に連れて自分に声をかけてきた、シズクは今どこにいると問うてきた、シズクを保護しないといけないかも知れないと言ってきた、あのクラスメートだ。
今行くよ、そう応えつつ、優真に目くばせしてから小夏が立ち上がる。宮沢くんがこんな時間に電話を掛けて来るとは普通のことではない。必ずシズクに関わることに違いなかった。あるいはもっと直接的に、エーテル財団の施設まで来てほしいなどと言ってくるかもしれない。丁重にお断りせねば。自分が優真の母に守ってもらったように、己もまたシズクを護らねばならぬのだ。
緊張した顔つきで小夏が母から受話器を受け取る。努めて冷静を装って、できるだけすぐに電話を切る準備をして、喉の奥から声を出す。
「……もしもし」
「あっ、川村くん? 僕だよ、宮沢」
「なんだよ、こんな時間に」
「聞いてほしいんだ、すぐ海岸まで来てほしいんだ」
「海岸に? 断る。そう言ってシズクをエーテル財団に連れてって……」
「違うっ、そうじゃないんだ! そんなことじゃないんだ!」
「じゃあ……一体なんだって言うんだよ」
エーテル財団とは関係ない、宮沢くんがそう叫んでいる。宮沢くんはウソをつく性格ではないと小夏も知っていたから、本当のことを言っているように思える。どうも思っていた展開とは違うと首をかしげつつ、宮沢くんの言葉に耳を傾けた。電話越しの宮沢くんはひどく興奮していて、何か尋常ではないものを目にしたかのようだ。
そして……次に彼が発した言葉を耳にした小夏は、思わずその目を見開いた。
「――ものすごい数のフィオネが、フィオネの群れが、海岸に押し寄せてるんだよ!」
「榁にいる仲間を探してるって……みんなそう言ってるんだ!」
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。