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#13 Worthless as the Sun Above Clouds

中原さんと隆史さんのいた賑やかな会話の輪から外れて、一人暗がりの道を歩いていく。二人の声はすぐに聞こえなくなって、あとは風がやんわりと街路樹を揺らす音と、時折横を通り過ぎていく自動車の音だけが、僕の耳へ入ってくるようになった。僅かな間で、僕は今この瞬間一人きりで歩いていることを強く強く実感した。

(……結構、優しそうな人だったな)

そうしていると、僕は不意に強い寂寥感を覚えた。中原さんと隆史さんの和気藹々とした風景が幾度も脳裏を過る。僕がその風景に対して――とても楽しそうだと思ったし、いい父と娘の関係だと感じたし、お互いを信頼しているんだとも受け止められた。

けれど、それ以上に……羨ましくて仕方がなかった。

あの人は隆史さんほど若々しくはないし、性格も破天荒ではない。だから、隆史さんと同じようには行かないということくらいは僕にだって分かっている。だけど多分、一般的な「父親」像からそう外れてもいないと思う。一般的な父親のイメージを持つであろうあの人と僕がどういう関係か。言うまでもなく、関係が切れてしまっているに等しい。

少なくともあの人にとって、僕は息子でもなんでもないはずだ。

単純に血の繋がりのある関係者だからという理由だけで、僕はあの家に存在することを許されていると思っている。だからいつ何時出て行けと言われても、僕には逆らう権利なんてないし従うしかないと思っている。家を出たことで僕が行き場を失って野垂れ死のうとも、それは当然の成り行きだろう。

僕は、ここにいてはいけないのだから。

家へ帰り着く頃には、時計はもう八時を指そうとしていた。遅くはなったけど、あの人はまだ帰ってきていないはずだ。体を洗ってそのまま寝てしまおう。僕はすっかり疲れたこともあって、ぼんやりとそんなことを考えていた。カバンのポケットからスペアキーを取り出し、鍵穴へ差し込む。

ルーチンワークと化した家の解錠作業。鍵を右手に回せばがちゃりと引き金が引かれてドアが開く……そのはずだった。

(……鍵が、掛かってない……?)

鍵穴に差し込んだキーを回した僕は、何の手応えも感じられなかったことに気付いた。ロックが解除されている。朝はきちんと施錠して出て行ったはずだ。鍵を掛け忘れたなんてことは考えられない。じゃあ、どうして鍵が開いているんだ。僕は背筋に冷たいものを感じて、ぼんやりしていた意識が急激に明瞭になるのを感じた。

整わない呼吸を繰り返しながら、僕は震える手をドアノブに掛けた。僕以外にこの家の鍵を開けられるのは誰か。答えは思考を経ずともあまりに明白だった。扉を開けた先に何が待っているかを思うと、僕は身を固くせざるを得なかった。

さっき体育館でバド部の部室の扉を開けたときとは比較にならないほどの緊張を伴って、僕はドアノブを下ろした。

 

「帰ってきたのか、秀明」

「……!!」

 

扉の先には、あの人が立っていた。

玄関先に置かれたカバンと、身につけている私服を目の当たりにして、僕は瞬時に事情を察した。今日は仕事を早く切り上げて、僕より先に家へ帰ってきたのだと。そして、普段帰ってくる時刻をとうに過ぎても戻らない僕を、ここで待っていたのだとも。

僕はカッと目を見開いたまま、しばらく身動き一つ取れなかった。何を言えばいい、何をすればいい。あの人を突如として眼前に置いて、僕の思考回路は悲鳴を上げて停止した。何を言われる、何をされる。僕のすべきことも、あの人が成そうとしていることも、何一つ予想できなかった。考えなければならない、その一心がただ先走りして、何一つまともな思考を紡ぐことができなかった。

真正面から見合う僕とあの人。心臓が握り潰されるような心持ちだった。今にも取り殺されてもおかしくない。恐怖などという短く平易な言葉では到底言い尽くせない絶望的な感情が全身を支配して、身体がまるで言うことを利かなかった。僕の中に僅かに残された理性が、今すぐここから逃げろと激しく鉄の扉を叩いていた。ここから動かなければいけない、ここから離れなければいけない、ここから逃げなければいけない!

力づくで目を背け、僕はあの人と廊下の隙間目掛けて歩を進めた。廊下を抜けて階段を上れば、自分の部屋がある。そこへ行くことさえできればいい。ここにいてはいけない、ここにいてはいけない、ここにいてはいけない! あの人の目の前に立つ、それは僕が自分のしたことと正面から向かい合うことと同義だ。そんなこと、できるわけがない。未来永劫できるわけがない。できるわけがない!

階段に右足を掛けた直後だった。

「秀明、待ってくれ!」

振り向くな、振り向くな、振り向くな! 心中をすべてその言葉で埋め尽くして、僕は階段を一息に駆け上がった。呼吸することも忘れて無我夢中で部屋へ飛び込む。扉を閉めて中から鍵を掛けると、息をすることを忘れていたことに気付き、続けて全身が極度の疲労に包まれていることを思い出して、扉に背中をつけたまま力なく足を折った。その場にへたり込んで息をつく僕の額には、氷のように冷たい汗がびっしりと張り付いていた。

立ち上がることさえ適わない。持久走を終えた直後でもここまで圧倒的な疲労感に包まれることはないだろう。視界が明滅して、今僕がいる部屋の中が明るいのか暗いのかさえも判然としない。明かりを求めてよろよろと腕を伸ばして電灯のスイッチを入れると、蛍光灯の明るさが眼に沁みて眩暈が却って一層酷くなった。意識が薄れかけているのを明瞭な意識で自覚する。これが矛盾していることに気付かないほど、僕の思考は混濁していた。

頭を振ってどうにか意識の安定化を図った僕が、何の理由もなく目を向けた先に。

「……何を、見てるんだ」

「……」

「何が……言いたいんだ」

平時と何ら変わらぬ悲しげで物憂げな表情のカラカラが、少し距離を置いて僕のことをじっと見つめていた。大きな骨を両腕で抱えて、無骨な形状をした頭蓋骨のヘルメットの下から、悲愴な目をして僕を凝視している。何を言うでもなく何をするでもなく、ただ僕を見つめる。

――だめだ。また……こみ上げてきた。

「いい加減にしろ! 僕に何が言いたいんだ! 何故お前はここにいるんだ!」

「ただ見ているだけで、何かが解決すると思ってるのか!」

「はっきり言え! お前は僕にどうして欲しいんだ! 死んで欲しいのか! どうなんだ!!」

何もかもがない交ぜになった汚泥のような感情を吐き出すと、僕はがくりと肩を落とした。何もする気力が起きない。何もできる気がしない。全身に纏わりつく性質の悪い寒気が引くことを待って、僕はぐったりと全身を脱力させた。

五分ほど何もせずに蹲って、僕はようやく少しだけ体の自由を取り戻すことができた。よろけながら立ち上って、まるで覚束ない足取りのままどうにかベッドまで歩いて、そのまま倒れ込んだ。急速に意識が溶かされていく。不明瞭な意識が全身を包み込んでいく。

そうしていると――無意識のうちに言葉が漏れ出す。

「……僕がいなければよかったんだ」

そう。僕がいなければよかった。

「僕がいなければ、二人を不幸にすることもなかったんだ」

そう。僕がいなければ、二人を不幸にすることもなかった。

「僕が、生まれてこなければ――」

そう。僕が生まれてこなければ。

 

「母さんは、死なずに済んだんだ」

 

――母さんは、死なずに済んだんだ。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。