冷たい感触がして目が覚めた。目を開こうとするとひどく痛くて、そのままもう一度眠りについてしまえばどれだけ楽だろうかと思わずには居られなかった。
それでも僕は自分の身体に鞭打って身を起こし、今一度自分の置かれている状況を確認する。床に投げ出されたままのカバン、固く閉じられた部屋のドア、煌々と灯った部屋の明かり、そして身に付けたままの制服。僕は帰ってくるなりあの人と顔を合わせて、何も言わずに部屋へ逃げ込んで、そのままベッドへ身を投げてしまったわけだ。一つ一つ思い起こして、昨日僕の身に起きた出来事を整理した。
目覚めは最悪だった。酷い虚脱感が全身を包み込んでいる。体を起こして足をベッドの外へ投げ出してから、僕は暫く何もする気になれなかった。昨日の夜は帰ってくるなりそのまま寝てしまったわけだから、シャワーくらいは浴びておかなきゃいけない。制服を着っぱなしのまま寝たから、洗濯してあるもう一着の方に着替えないといけない。しなきゃいけないことはいくらでもある。いつまでもこうしているわけにはいかない。
重い体を引き摺るように起こして立ち上がる。部屋の鍵を開けることを一瞬躊躇して、それでも外へ出なきゃいけないと言い聞かせてロックを解除した。静かにドアを開けて外に出る。急な落差のある階段を、一歩一歩着実に下りていく。
階段を下りる、単調でしかし気の抜けない作業を続けながら、僕は頭の中で少し前まで見ていた夢の記憶をかき集めていた。
昨日見た夢には、明らかに中原さんと分かる――いや、あれは中原さんと言っていいだろう。僕は夢の中であの女の子を「中原さん」と認識していたのだから、あれは僕の意識の中にある「中原さん」と言って差し支えないはずだ。中原さんが姿を見せた。今までにも曖昧な夢の光景に中原さんを見ることはあったけれど、そういう時はたいてい、中原さんの形をした別の存在で、僕は夢の中で「中原さんではない別の存在」として認識していた。昨日の夢は、姿形も僕の認識も「中原さん」でピタリと一致していたという点で、普段の夢とは異なる様相を見せていた。
夢は、非常に後味の悪い内容だった。
そこにいたのは僕と中原さんだけで、他の人の姿は影も形もなかった。場所はどことも言えない得体の知れない空間だったけれど、僕はそこを「部屋」と認識していた。僕は夢の中の「僕」を俯瞰的に見る形になっていた――つまり第三者の視点で物事を見る形になっていたけれど、僕の意識そのものは僕に見られている「僕」、即ち夢の映像の中でカタチを持つ「僕」にあった。ラジコンで自分を動かしているような感触とでも言えばいいのだろうか。意識のある今思い返すと奇妙そのものだけど、夢の中ではそれを奇妙だと認識することはなかった。夢とはそういうものだ。
僕が傍観者のように見た「部屋」の中の「僕」と「中原さん」は、一糸纏わぬ裸体だった。裸のままの中原さんは、僕のすぐ側で蹲って、泣いていた。時折声を詰まらせながら、繰り返し繰り返し何度も何度も「生きていてごめんなさい」と謝り続けていた。誰かに謝罪し続ける中原さんを前にして、僕は凍りついたように何もできず、ただひたすらに、圧倒的で抗いようのない無力感に苛まれ続けていた。夢の中の感情は制御できずに無秩序に大きくなる。無力感は止め処なく肥大化して、僕を押し潰さんばかりになっていた。
贖罪を続ける中原さんを見続けていた僕は、いつからだろうか、彼女にカラカラの姿が重なり合うように思えてきた。泣くのをやめない中原さん、寂しい目をしていつも自分の側にいるカラカラ。二人の姿が不明瞭に重なり合っていく。不意にかつての光景がフラッシュバックした。狭い部屋の中で僕を見つめるカラカラ、何かあると不安げな目をこちらに向けるカラカラ、僕の足に隠れてばかりのカラカラ。どれをとっても、カラカラの表情は悲愴でしかなかった。
苛立った。何も言わずに視線だけを向け続けるカラカラに、カラカラを思わせる仕草をする中原さんに、訳もなく苛立った。僕にどうしろって言うんだ。僕は一体、お前に何をすればいいんだ。声の限り叫ぼうとして、僕は微かな声でうわ言を呟くことしかできなかった。
僕は膨れ上がる苛立ちを抑えきれずに、蹲る中原さんの二つ結びを引っつかんで――滅茶苦茶にした。
何もかも汚してやらないと気が済まなかった。自分が生まれたことに、自分が生きていることに謝り続ける中原さんがどうしても許せなくて、何が何でも徹底的に穢さなきゃいけないと思った。
なぜなら、それは――僕自身の投影だったから。
力づくで組み伏せられて、光を失った虚ろな目で僕を見る中原さんの顔が眼前に現れた直後に、僕は目を覚ました。覚醒した直後、僕は今までの光景が夢であったことに安堵し、その次の瞬間には底なしの自己嫌悪と虚脱感に包まれていた。
自分の罪悪感をカラカラというポケモンに逃避させて、あまつさえカラカラと中原さんを似通っていると並べ立てて勝手に苛立って、僕は何をしているんだ。それだけでも度し難いほど自己本位だっていうのに、僕はあまつさえ彼女を――
汚れた下着と、着たままだったシャツを洗濯機へ放り込みながら、僕は再び襲い掛かってきた自己嫌悪に成すすべなく押し潰されるしかなかった。
シャワーを浴びて髪を乾かしてから、僕は替えの制服に袖を通してリビングへ向かった。部屋を出た直後から人気が感じられなくて、ここにいるのは僕だけに違いない、即ちあの人はもう外へ出て行ったに違いないと直感的に思っていたけれど、その僕の予想は当たっていた。あの人の姿はどこにもなく、家には僕だけが残された形になっていた。僕はほう、と大きく息をついて、ソファに深く腰掛けた。時計を見ると、いつも家を出て学校へ行く時刻にはまだ三十分ほど時間の余裕がある。急ぐ必要はないことを確認すると、僕は少し休息をとることにした。夜からずっと感情がいろいろな形で乱れていて、少しでも休憩を入れないといけないほど消耗しきっていた。
落ち着きを取り戻したところで、僕が真っ先に思いを馳せたのは、やはり中原さんだった。
(中原さんは、「自分がいてごめんなさい」と言っていた)
体育館で眠ってしまった中原さん。そして僕は、彼女が寝言で「自分がいてごめんなさい」「自分だけ生きていてごめんなさい」と呟いているのを見てしまった。何の意味もないただの寝言とはとても思えない。あまりにも意味深で、そして、僕にとって強く響く言葉。理由は言うまでもない。僕も、まったく同じ思いを抱いているからだ。
あれが、ただ夢を見ていて出てくるような寝言とは思えない。普段からずっと同じ思いを抱いていて、それが寝言という形で表に出てきた解釈した方がしっくり来る。「自分だけ生きていてごめんなさい」なんて、はっきり言って尋常な寝言じゃない。
だけど、どうしても腑に落ちない。僕と違って、中原さんには父親も母親もいる。朝美さんと隆史さんだ。僕は二人のどちらにも会って、娘を大切にする優しい人だと感じた。実際、朝美さんも隆史さんも中原さんを大事にしていたじゃないか。だから、彼女が誰に対して謝っているのかが分からずにいた。
それを踏まえて、僕はいや、少し待てと立ち止まる。中原さんが前に朝美さんについて話してくれた折、どうにも引っ掛かる言い方をしていたことを思い出した。
(うん……そうだよ、それで合ってる。お母さん、わたしのことずっと大切にしてくれてるよ)
(……こんな、わたしなんかのことを)
聞いた直後は大して気にも留めていなかった。けれど、今こうして立ち止まって再考してみると、どこか違和感を感じざるを得ない言い方だと思うに至った。「わたしなんか」という言い方は、自分は本来大切にしてもらえるはずがないとか、自分には大切にされる価値がないとか、そういう極端なネガティブなニュアンスを含んでいる。
中原さんに、一体何があったのだろう。過去に何か辛い出来事があって、自分を大切にしなくなった? 寝言だとか言い回しの一つや二つだとかの断片的な情報だけを集めて、ずいぶん突拍子もないことを想像しているという思いも少なからずある。僕の思い込みや妄想の類に過ぎない、そう切って捨ててしまうのが手っ取り早いのかも知れない。
仮に――チェリンボがいなければ、僕はそうやってあっさり結論を出していただろう。
中原さんにはポケモンのチェリンボがいる。ポケモンが悩みや苦しみの具象化だという弘前さんの言葉に、中原さんも同調していた。どこか思い当たる節があるとしか思えない。側にチェリンボがいる、即ち中原さんは人知れず何か苦しみを抱えている。
そうして抱えている苦しみが、昨日の「自分だけ生きていてごめんなさい」につながっている。そう考えることだってできるはずだ。
(いつか、中原さんの方から言い出せるようになればいいんだけどな)
それにはまだもう少し、時間が必要そうだった。
時計を見ると、ちょうど普段家を出ている時刻になっていた。まだ疲れは取れないけど、いつまでもだらだらしてちゃいけない。学校へ行こう。ソファの近くに立てかけておいたカバンを取って、僕は立ち上がる。
リビングを出て玄関へ向かう途中、僕は台所の前で足を止めた。
(……………………)
テーブルの上には、焼かれたパンと逆さにしたガラスのコップが置かれ、そして――二つに折りたたまれた小さな紙片が添えてあった。
誰が用意したのかは明白だった。誰のために用意したかも、また明白だった。
僕は一歩前に出て、読まれることを待っているかのような紙片に手を伸ばし掛けて……
(……ダメだ。怖い、僕にはできない)
……怖気づいてしまって、ここでも僕は手を伸ばしきることができなかった。手紙に何が書かれているかを想像するだけで、僕の手はカクカクと怯えに震え、前へ出ようとする気が根こそぎ失われてしまう。僕は許されない。その言葉が体内で乱反射して、すべての行動を止めてしまう。
希望を持っちゃいけない。僕は、本当はここにいてはいけないんだ。
前へ出した手をやるせない気持ちのまま引っ込めると、テーブルと置かれた手紙に背を向けて、僕は逃げるように家から飛び出した。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。