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#15 The Mask Does Not Laugh

いつも通りの道、いつも通りの風景、いつも通りの朝。

僕は外に出て、代わり映えのしない朝の道に安堵していた。昨日の夜から収まらない心のざわめきも、止め処の無い考えも、朝の冷たい空気を吸い込めば和らいでいく気がした。単純に外の空気を吸って気分転換になったということもあるだろう。何にせよ、休息を入れられるのはいいことだと思った。

通い慣れた道を歩いていく僕の心は、暫しの間落ち着いていた。だけど道半ばに差し掛かった辺りで、それは前触れも無く再びざわつき始めた。

「あれ――中原さんじゃないか」

前を見通した先に見えたのは、赤いヘアゴムを使った二つ結びと少し低い背丈。背格好から見て、それは間違いなく中原さんだった。もちろんまだまだ余裕はあるけれど、いつもに比べてかなり遅い時間に登校しているなと思った。それにどこか、足取りに覇気が感じられない。肩を落として体を引き摺るように歩いている、遠目からでもそう見えた。

声を掛けようかと思って近付いてみる。けれど距離を詰めれば詰めるほど、声を掛けるのが躊躇う気持ちが強くなっていった。何かが普段と違う。言葉にはし難いぼんやりとした不安が、中原さんの全身を覆って包み込んでいる。何もかもをやんわりと拒絶するような黒いもやが掛かっている、そんな錯覚を覚えた。

曖昧な気持ちのままジリジリと距離を詰めて、どうすべきかと逡巡している僕の目に、思わず思考を止めてしまう光景が飛び込んできた。

(包帯……? それも、手首に……)

中原さんの左手首。ブレザーから僅かに覗く小さなそれに、白い包帯が巻き付けられているのが微かに見えた。見間違えかと思って何度か確認して、勘違いではなく確かに包帯だということが分かった。何の理由もなく包帯を巻くことなんて考えられなくて、可能性としては――怪我をしたとしか思えなかった。

胸騒ぎが抑えられなくなった僕は、意識が認識するよりも先に、本能が声を掛けていた。

「中原さん」

「……あっ、秀明くん……」

纏っていた雰囲気の比では無かった。振り向いた中原さんは明らかに憔悴しきっていて、虚ろな目にはほとんど光を宿していなかった。かろうじて僕のことは認識しているようだったけれど、異常であることに疑いの余地はなかった。

「朝から一体どうしたのさ、それに左手……」

「これ……? あはは、なんでもないよ……なんでも。ただ、いつもより少し刃止めが効かなかっただけだから」

どういう意味だ。”刃止め”って、どういう意味なんだ。表向きすら隠せていない作り笑顔で、一体何を隠そうとしているんだ。

「それ、どういう……」

「……ごめん、秀明くん。わたし、今ちょっと一緒にいられないの」

中原さんは僕から力づくで目線を外して、くるりと踵を返した。

「わたしなんかと一緒にいたら、秀明くんまでクズゴミになっちゃうから」

文字通り吐き捨てるように言って――吐き捨てた先は明らかに僕ではなく、彼女自身に向けて、だったけれど――、中原さんは早足でその場から去って行った。僕は中原さんのすべてを拒絶する姿勢に気圧され石のように固まったまま、少しの間その場から動けなかった。

一体、何があったんだ。

 

教室に入ってから、僕は中原さんに声を掛けようと幾度となく機会を窺った。クラスメートと言葉を交わす中原さんは、表向きいつもどおりの朗らかさを取り戻したかのようにも見える。実際、僕以外の同級生や教師には、中原さんは普段と何ら変わりなく見えているようだった。

だけど違う。他人と話を済ませてから一人になる瞬間を見ると、拭いきれない翳りが中原さんを包み込むのが見える。頬杖をついて物憂げに辺りを見回し、ため息が途切れる様子は一向に見えない。やっぱり何かがおかしい。僕はそう考えざるを得なかった。ここはどうにかして中原さんと話をしなきゃいけない。その思いは強くなるばかりだった。

何故あんな顔をしているのかを。そして何故、左手首に包帯を巻いているのかを。

やがて迎えたお昼休み。中原さんは周囲を確認してから、誰にも気付かれぬようにそっと席を立った。僕は彼女が教室から出て行くのを確認してから、外へ昼食を取りに行くふりをして同じく教室から出た。遥か向こうに中原さんの背中が見えることを確かめると、後を追って歩いていく。あの階段を上ったということは、彼女の行き先は――恐らく、あの場所に違いない。

中原さんを追う形で廊下を歩き、階段を上り、そして重い鉄扉を開けた先は、学校の屋上だった。

屋上へ出て僕が最初に見たものは、中原さんが僕に背を向ける形で空を見つめている姿だった。風雨に晒され続けてすっかり赤茶色に錆び付いた手摺りに身を預けて、晴れ渡った空をじっと見上げている。どう声を掛けようかと思案しながら、僕は彼女のほうに向かって歩いて行こうとした。

「――来てくれたんだね。秀明くん」

「中原、さん」

「チェリンボが教えてくれたよ。わたしの後ろに秀明くんがいる、って。だから、自分の目で見なくても分かるよ」

背中を見せたままぽつりぽつりと話す中原さんの足元には、確かにチェリンボの姿があった。中原さんとは対照的にチェリンボはこちらをしっかり見ていて、赤く小さな瞳をブレさせることなく僕に向けていた。下から僕を見上げる形になって、体勢的にも辛そうに見えていたけれど、チェリンボが僕から視線を外すことはなかった。

まるで……助けを求めているかのようだ。

「お昼ご飯も食べずに、こんなところでどうしたのさ」

「なんでもないよ、なんでもない。ただね、ちょっと『楽になりたい』って思っただけだよ」

「『楽になりたい』……?」

「今日が初めてじゃなくて、しょっちゅうそう思うの。そういう時はね、こういう高い場所に来るようにしてるんだよ。酷いときは、ほとんど毎日」

「それって……」

「そう。一歩足を踏み出せば、あっという間に全身の骨が粉々になって、内蔵が風船みたいに破裂して、間違いなく地獄行きになる――そんな高い場所に」

中原さんの言っていることを簡単に言い換えると、つまるところ――。

――自殺、それに他ならなかった。

それは今この瞬間が初めてなどではなく、過去に幾度と無く繰り返されてきたことだと、中原さんは口にした。

「一体何があったんだ。手首の包帯も、それと同じなのか」

僕の問いに対して、中原さんは背を向けたまま幾許かの間を置いて、訥々とした言葉で応え始めた。

「昨日ね、お父さんがいつもより早く帰ってきたんだよ。秀明くんも一緒にいたから、見てたよね? わたしのお父さんが、家の前でわたしが帰ってくるのを待ってたところ」

「それでね、一足早くお仕事から帰ってきてたお母さんが、今日は家族が三人全員揃ったから、みんなで一緒にご飯を食べようって言って、ごちそうを作ってくれたの」

「最近買ったばかりのダッチオーブンを使った鶏の香草焼き、タマゴをたくさん散らしたミモザサラダ、おじいちゃんの家から送ってもらったじゃがいものポタージュスープ……」

「わたしは好きなぶどうジュースを、お父さんとお母さんは開けたばかりの赤ワインを、グラスに注いで、注いでもらって」

「久々にみんな揃ったね、一緒にご飯が食べられてよかったねって笑いあって、みんなで乾杯してから、いただきますをしたよ」

「昨日から仕込みをして焼いておいたチョコレートケーキも出してくれて、お母さんとお父さんと私の三人で切り分けて食べたよ」

「三人で、三等分して」

「どれもすごくおいしかった。お父さんとお母さんもおいしそうに食べてて、たくさん笑って楽しそうにしてて、わたしもその中にいた」

「ご飯をお腹いっぱい食べて、少し休んでから、お父さんがみんなで遊ぼうって言ってくれて、三人でWiiで遊んだよ」

「わたしがね、スマブラやりたいってリクエストしたら、お母さんもお父さんももちろんいいよって言ってくれて」

「プレイヤー三人と、コンピュータを一人入れて、たくさん対戦したよ。お母さんが意外と強くてね、わたしがリンクでお母さんがマルスを使ってた時があったんだけど、同じ剣を使うキャラなのにね、全然追いつけなかったんだよ。お母さん、すごく早くて」

「お父さんもお母さんも、すごく楽しそうだった。わーわー言って、いっぱい騒いで、わたしも一緒になってはしゃいでた」

「たくさん遊んでくたくたになって、ゆっくりお風呂に入ってから、お母さんとお父さんに『ありがとう、楽しかったよ』ってお礼を言って、わたしは自分の部屋に戻った」

「一人きりの部屋で、静かに鍵を閉めて。わたしは、さっきまでのおいしいご飯と楽しい時間を思い返して――」

そこまで言い終えた中原さんが、僅かばかりの間を挟んで、左手首を軽く掲げてすっと翻す。

「――耐えられなくなって、もう堪えきれなくなって、机の中に隠してたカッターナイフを取り出して、刃をカチカチ出して……こうやって、左の手首に当てたの」

そこには確かに、真っ白な包帯が巻き付けられていた。

「おかしいよね。わたし、どうしてこんなところにいるんだろう?」

「どうしてわたしがいて、お母さんとお父さんに大事にしてもらえるんだろう?」

「わたしにそんな権利無いはずなのに、どうしてだろう? ホントにわかんない。どうして?」

手摺りをつかんだまま深く俯いて、中原さんが絞り出すような声で言う。

「気持ち悪い。本当に気持ち悪い。わたしって、本当に気持ち悪い」

俯かせていた体を急に跳ね上げたかと思うと、矢継ぎ早にまくし立て始めた。

「秀明くんなら付いてきてくれると自惚れてわざとらしく屋上まで行って、まともに目も見ずに背中向けたまま話して、思わせぶりな気色悪い台詞を吐いて、苦しんでますアピールのためにリストカット、あははっ、リストカットなんてしちゃう、どうしようもない痛い子なんだよ!!」

ガン、と手摺りに両方の拳を叩きつけたと同時に、中原さんは一気に脱力して肩を深く落とした。

「……今ので分かったよね、秀明くん。わたし、こんな子だよ。こんな気持ち悪い子なんだよ。生きてる価値もない、ただのクズゴミなんだよ」

そう言いながら、ゆらりと振り返った中原さんを――僕は。

「中原さんは、本当にそう思ってるの?」

「……! ひ……秀明、くん……」

「正直に答えてほしい。本当に、自分にこれっぽっちも価値が無いと思ってるの?」

逃げまい。ここから逃げるようなことはするまい。真正面から、立ち向かってやる。

中原さんの抱えている闇に、僕が切り込んでやる。

「どんな言葉でも構わない。中原さんが思ってることを、僕にぶつけてほしいんだ」

「あ……ぁ……! えっと、ごめんっ! 違うのっ、これは、その……!」

虚ろな目をしていた中原さんが急に我に返って、慌ててさっきの言葉を打ち消そうとしているのが見えた。

「ほら、あれだよ! あっ、あのね、わたし、ちょっと秀明くんの気を引いてみたくて、ほんの悪戯のつもりだったんだよ!」

「秀明くんに心配してもらえるんじゃないかなって、秀明くんこんなわたし見たらどんな反応するかなって、ホント、本気じゃないよ!」

「え、えっと、前に秀明くん言ってたじゃない! あの、あれ、中二病ってやつ! ちょっとカッコつけてみたくなったりするあれ、あれだよ! だからね、今のはただのおふざけ! ホントだよ!」

「えっと……だから、今のは、無かったことにして! うん、無かったことにしよう! うん、無し無し!」

中原さんの言葉は、さっきまでの出来事を懸命に否定しようとしている。いつもの朗らかさを装った表情をどうにか取り繕って、あれは冗談だ、悪戯だと主張している。

だけど、僕には分かっている。

「それは、できない」

「秀明、くん……」

それがこの場を収めようという思いから出た、偽りの言葉だってことが。

「隠さないで。チェリンボは違う、そうじゃないって言ってるよ」

「あっ……!!」

「だから、悪いけど、僕は無かったことになんかできない」

中原さんの足元にいるチェリンボが、普段は見せないような切羽詰まった表情をして、僕の目を片時も離さず見詰めていた。助けてほしい、救いの手を差し伸べてほしい――そうとしか読み取りようの無い顔つきをして、僕の瞳にその姿を写し出し続けていた。

「チェリンボ……」

痛ましげなチェリンボの姿を見た中原さんは、もはやこれ以上誤魔化そうとしても無為だと悟ったのだろう、声のトーンを落とした。ポケモンが自分自身の心の鏡像だということは、中原さんも認めるところだった。チェリンボはある意味、主である中原さんよりも正確に心の有り様を映し出していた。

僕は、僕の思っていることを、ありのまま率直に伝えることにした。

「過去に中原さんに何があったのかは分からない。だけど中原さん。中原さんの側にポケモンが、チェリンボがいるってことは、僕に出会うまでに何かあったに違いないって思うんだ」

「教えてほしい。チェリンボは中原さんにとって何なのか、チェリンボの形にはどんな意味があるのかを」

中原さんにとってチェリンボとは一体何なのか、チェリンボの不可思議なフォルムにはどんな意味があるのかを、僕は彼女に直接訊ねた。

それを聞き出すことは、ひいては中原さんの過去を聞き出すことに他ならなかった。

「……ダメだよ。わたし、そんなこと、秀明くんに言えないよ。言えるわけないよ……」

力なく首を振って、中原さんは僕の問いかけに拒絶の意を示した。

「チェリンボがわたしの側にいる意味を知ったら、秀明くんはきっとわたしに幻滅して、わたしのことを嫌いになっちゃうから」

「わたしが……取り返しの付かない酷いことをして、それでもまだこうやってのうのうと生きてる、最低な人間だって分かっちゃうから」

目を伏せて俯く。中原さんは、チェリンボの持つ意味を明かすことはできないと答えた。けれどその答え方から、チェリンボは確かに中原さんの過去に由来するポケモンで、それは中原さんにとって「取り返しの付かない酷いこと」に当たるのだと、僕は察した。

中原さんが目を伏せたまま歩き出して、屋上の扉の前に立つ。僕に背を向けながら、震える手でドアノブを掴んだ。

「わたしとチェリンボの関係を知ったら、秀明くんはきっと悲しむから」

「秀明くんの悲しむ顔なんて、わたしは見たくない。見たくなんかないよ」

「だから……このまま、チェリンボとカラカラくんが見えてたままの方がいい。ずっと、ずっとこのままがいい」

「わたし、今のままが一番いいよ。今更もう、一人ぼっちになんてなりたくない」

「秀明くんと二人で、ずっと同じものを見ていたいから」

ドアノブを下ろして自分の側へ引き、中原さんは屋上から立ち去った。チェリンボが彼女の側にいる意味を今ここで聞き出すことは叶わなかったか。僕は大きなため息をついた。

――けれど。

「行かないの? きっと心配するよ」

「……………………」

階段を駆け下りて、中原さんは教室へ戻ろうとしているところだろう。だけどまだここに、彼女の分身とでも言うべきチェリンボが残っている。僕の掛けた声に、チェリンボは反応して顔を上げた。

扉の前で立ち尽くしていたチェリンボを見た僕が扉を開けてやると、チェリンボはおずおずと歩き出した。あとは放っておいても彼女の元まで戻れるだろう。

チェリンボが扉を潜って、今にも階段を降りようとしたときだった。不意にチェリンボが僕の目を見詰めたかと思うと、くるりとその身を翻して僕に背中を向けた。

(……?!)

不意に見せたチェリンボの姿に、僕は言葉を失い、何を言うべきなのか皆目分からなくなった。

今までは立つ位置や頭に生やした葉っぱのような器官で巧妙に隠されていた部位。僕はこの瞬間初めて、チェリンボの「背中」を見ることになった。

(あれは……”顔”……?)

チェリンボの葉っぱからは、いつも見ている「本体」だけでなく――もう一つ、顔のある小さな「果実」がぶら下がっていた。微笑んでいるように見える、けれどどことなく「何かが欠けた」印象を拭い去れない、顔のついた小さな果実。その表情を何かに例えて言うなら、人形のような顔というのが一番しっくりきた。中原さんの面影が感じられる本体の顔とは、明らかに何かが違っていた。

僕が背中の小さな顔をしっかり見たことを察知したかのように、チェリンボは一目散に階段を駆け下りていった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。