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#21 Meet Again

僕が家に辿りつくと、携帯電話のメインディスプレイに映る時計は、もう間もなく十九時を指そうとしていた。

まるで僕が大事な話をしに帰って来たことを予見していたかのように、家からは橙色の明るい光が漏れていた。人がいる証拠に他ならない。あの人は今日も早く仕事を切り上げて、僕が家に帰ってくるのを待っているようだった。既に準備は整っていると言えた。もう後には退けない。そして、もう後には退けまい。僕は意を決して門扉を押し、開錠された家の扉を開けた。

玄関からリビングへ至るまでには、木製の薄いドアを一枚隔てている。細長いガラスの窓が二枚ついていたけれど、向こう側は曇っていて様子を窺うことはできない。しんと静まり返った家の中で、僕は一歩ずつ、踏みしめるように、前へ前へと進んでいく。他に明かりの灯っている部屋は無い。だからあのドアを開けてしまえば、僕は間違いなくあの人と対面することになるはずだ。

(僕は……何を言われるんだろうか。何をされるんだろうか)

どくん、どくん。心臓が高鳴っている。高鳴っている、なんて言葉じゃ生易しいと感じるくらいだ。時限爆弾を埋め込まれて、一秒また一秒と炸裂までの時を刻んでいるかのような心境だった。次に息を吐くべきか、それとも吸うべきなのか。それさえもあやふやになって、自然と呼吸が乱れ始める。僕は一度立ち止まって、強張る身体を叱咤しながら、大きく息を吸い込んだ。

あの人にとって、僕は最愛の人を奪った存在だ。仇と言っても決して過言ではない。今まで何度も考えて、そして考えるたびに恐怖した。僕は母を死なせてしまった、つまり、あの人から最愛の人を奪ってしまった。僕がいかに決意を固め、心を落ち着かせようとしても、この事実を前にすると、足が竦んで今にも止まってしまいそうになる。ほんの数メートルしかないリビングまでの距離が、終わりのない回廊のようにさえ思えてくる。

やはり、今までどおり家の中ですれ違い続けるべきではないのか。互いの存在を認知しながら、干渉することも対立することもなく、二重生活を続けていくのが僕とあの人のあるべき姿じゃないのか。左手には僕の部屋へ繋がる階段が見える。ここを上って自分の部屋へ篭ってしまえば、また今日と同じ明日が訪れるだろう。僕が本当に取るべき行動は、このまま前に進んで扉を開けることではなく、階段を上って闇に紛れてしまうことじゃないのか。

恐怖が僕の心臓をがしりと鷲掴みにする。お前は本当にこのまま前へ進むつもりなのか、お前は本当にあの人と正面から対峙するつもりなのか。押さえ込んでいた僕の臆病が力を盛り返して、一度は奮い立たせた心を再び押し倒そうとしたときだった。

僕の足元で、小さな影が動いた。

「カラカラ……?」

僕の臆病をカタチにしたような存在。僕の暗い影が浮き彫りになった存在。僕の弱いところが、現実に顕れたような存在。僕の心の弱い部分をかき集めて生まれたポケモンであるはずの、カラカラが。

強い眼差し、ぴんと伸びた背筋、しっかりと固く握られた骨の棍棒。その表情に険はなく、一分の翳りも見られない。確固たる覚悟に基づいた、堂々たる在り様。目深に被った頭蓋骨の向こうの瞳は、いつも僕に向けている怯懦に満たされた弱弱しいものとは明らかに一線を画していた。ただ真っ直ぐに前を向いて、これから先に待ち構える存在と逃げることなく向き合おうとしている。

こんなにも立派なカラカラの姿を見たのは、初めてだった。

僕の躰の震えが、知らず知らずのうちに止まっていた。高鳴っていた心臓が、平静さを取り戻していく。永遠に終わりがないようにさえ見えていた廊下が、見慣れた元の姿を見せるようになっていた。カラカラの姿を見て、僕は今一度心を奮い立たせることができた。

「……ありがとう、カラカラ。僕、もう迷わないよ」

そう言うと、カラカラは力強く頷いた。僕にも、カラカラにも、もう迷いはなかった。もうこれ以上、逃げるような真似はしない。

僕は真っ直ぐ前に進む。二階へ続く階段には目もくれず、前を横切ってドアの前に立つと、静かにドアノブに手を掛けた。

(……もし)

もし、僕があの人に殺されるようなことになっても、僕に悔いはない。それは、僕が過去から逃げずに立ち向かった結果であって、僕はその結果を受け入れるつもりでいる。あの人が僕を許さないと言う結論を出したなら、僕は喜んでそれに従おう。悔いを抱えたまま、過去に向き合わずに墓へ入るより、悔いなく死んだほうがいいに決まっている。今までずっと背を向け続けてきた僕の過去に、今こそ立ち向かうんだ。

ここで逃げたら、僕は中原さんに会わせる顔がない。

僕は手を掛けたドアノブにぐっと力を入れて、リビングに繋がる扉を開けた。

「…………」

僕の目に飛び込んできたのは――飛び込んできたことを疑うような、信じがたい光景だった。

椅子に腰掛けたあの人の姿。目線を落として見つめる先には、小さな冊子がある。その冊子には僕も見覚えがあった。薄く、ページ数も少なく、初めから終わりまでを苦も無く通して読んでしまえる小さな冊子。端が少し擦り切れていて、年月の経過を感じさせていた。

僕の写真を収めた、小さなフォトアルバムだった。

なぜ、どうして。僕が呆然と立ち尽くす。なぜ、あんなに穏やかな顔をしてアルバムを見ているのだろう。どうして、こんなに落ち着いた空気の中にいるのだろう。僕には何も分からなかった。はっきり存在しているのは、慈しむような手つきでアルバムのページをめくっている姿だけだった。

写真は僕の立っている位置からでもはっきり見えた。幼稚園の頃に撮った写真、旅行先で撮った写真。どの写真もいつ撮ったか、どんなシチュエーションで撮ったかをつぶさに思い出すことができた。一つとして記憶から欠落しているものはない。あの写真は風が強い中で撮った、あの写真はご飯を食べる前に撮った、あの写真は徒競走をしている姿を撮ってもらった――次々に記憶が紐解かれていく。

笑っている。僕が笑っている。写真の小さなフレームいっぱいに写る僕は、どれをとっても笑っていた。今の僕が浮かべるような、空虚で中身のない笑いとは徹底的に違う、心の底から幸せを感じている姿。写真に写ること、記憶が形を持って残されること、それを喜んでいる。なぜならその記憶は、楽しいと思えるものだったから。

それだけじゃない。決してそれだけじゃない。笑っているのは、僕だけじゃない。僕だけが、写真の中で笑っていたわけじゃない。

笑っているのは、僕だけじゃなかった。

手から力が抜けて、僕の指先からカバンが滑り落ちた。がたん、という音がして、僕がここにいることが伝わった。驚いたように顔を上げる。視線が交錯し合う。

目が合った瞬間、僕は――

 

「……父さん」

 

――僕は、そう呼び掛けていた。

「秀明……」

はっきりと見えていたはずの父さんの姿が、あっという間にぼやけて見えなくなった。視界を元に戻そうと指先で熱い涙を拭っても、その度に止め処なく涙が溢れ出てきて、止めようがなかった。

滲んだ視界の向こうで、父さんが立ち上がる。ゆっくり僕の元へ向かってくると、僕が最後に見たときの記憶と少しも変わらない大きな、大きな手で――僕を、強く抱きしめた。

「……お帰り、秀明」

「父さん……」

僕は父さんに身を任せて、胸の中に顔を埋めた。胸に熱いものがいっぱいにこみ上げてきて、溢れ出た思いが次々に涙として零れ落ちていく。ぐるりと回された父さんの手が、ぽん、ぽん、と優しく僕の背中を打った。

「父さん……僕は、どうしてここにいていいの」

「どうして、僕は罰を受けなくていいの」

「僕は……どうして、父さんと一緒にいていいの」

掠れた声で、僕は父さんに問い掛けた。どうして僕はここにいていいの、どうして僕は罰を受けなくていいの、どうして父さんと一緒にいることが許されるの。背中に置かれた父さんの大きな手のぬくもりを確かに感じながら、僕はすべてがない交ぜになった感情をありのまま口にした。

僕の問い掛けを一つ聞く度に、父さんはこくりこくりと頷いてくれた。僕がどうして、ここにいることそのものが罪とでも言うような感情を抱いているのか、父さんにはもう、何もかも分かっているようだった。

「秀明。お前が、一体何の罰を受けなきゃいけないんだ」

「だって……僕が生まれてきたせいで、母さんが……」

「母さんのことか」

「それに……僕が、母さんを死なせたせいで、父さんだって……」

僕が生まれてきたために、母さんは死んでしまった。僕が母さんを死なせたために、父さんを不幸にしてしまった。僕が出生の折の出来事を知ってから、心の奥底に至るまで固く根を張り、僕の心を絶え間なく締め付け続けてきた思い。僕がいなければ、母さんは死なずに済んだし、父さんは不幸にならなかった。僕はずっとそう考え続けていた。

「それは違う、秀明」

がっしりと張り巡らされていた黒い根に、白く輝く刃が突き込まれる。

「父さんも、母さんも、秀明が生まれることを望んでいたんだ」

刃が黒い根を切り裂いて、心の束縛が外されていく。

「母さんは――今際の際に、こう言っていたんだぞ」

「『秀明を産んであげられて、幸せだった』」

僕が涙でくしゃくしゃになった顔を上げると、そこには間違いなく現実に、父さんの顔があった。夢や幻ではない、現実の風景の中で、僕は父さんと真正面から向き合っていた。

「それは、父さんも同じだ」

「今、秀明がここにいてくれることを、この世に生きていることを、何よりも嬉しく思っているんだ」

鉄鎖のように心を縛り続けていた感情。既に抱えることに慣れきっていたそれが、父さんの言葉ですっと消えていくのを感じた。押し隠していた、押し隠されていた感情が、堰を切って一気に溢れ出した。

「父さん! 父さん……!」

「秀明……」

「僕は……僕はっ……!」

泣いた。僕は泣いた。父さんの胸の中で、僕はありったけの涙を流して泣いた。中原さんの話を聞いてから外れかかっていた箍が完全に外されて、僕はただ泣き続けた。

最後にこんな風に泣いたのは――一体、何時ぶりだろう?

「秀明はずっと一人で戦っていたんだな。罪の意識を感じて、一人で悩んで……」

「父さん、ごめん……僕、ろくに話もしないで、顔も合わせずに、ずっと逃げてて……!」

涙が滲む視界の中で、父さんが首を横に振るのが見えた。

「違うぞ、秀明。お前は逃げていたんじゃない。時が来るのを待っていただけだ」

「今こうして、父さんにちゃんと気持ちを打ち明けてくれたじゃないか」

「一人で悩まなきゃいけなかったのは、辛かっただろう、苦しかっただろう」

「父さんに気持ちを打ち明けるのは……怖かっただろう」

「だけど、秀明は逃げずに立ち向かった。父さんと面と向かって話をしてくれた。だから秀明。お前は、強い子だ」

僕が目をきゅっと閉じると、瞼から大粒の涙が零れ落ちた。

「確かに、母さんが死んでしまったことは悲しい。父さんだって、それは変わらない」

「それに母さんだって、一緒に生きていた方が、もっと秀明を幸せにできたと思っているはずだ」

「だが、それでも、秀明がここにいてくれるということは、掛け替えのないことだ」

「生まれてきてくれてありがとう、秀明」

僕はもう一度、父さんの胸の中に顔を埋めた。

生まれてきてくれて、ありがとう。僕は父さんの言った言葉を、噛み締めるように心の中で幾度と無く反駁した。その度に、長年に渡って堆く積まれていたわだかまりの山が、丁寧に崩されていくのを実感した。複雑に絡まっていた糸が、ゆっくりと解かれていくビジョンが浮かんできた。

父さんは僕を嫌ってなんかいなかった。僕を憎んでなんかいなかった。僕がここにいることを、ありのままの形で受け入れてくれた。僕が生きていることを、咎め立てることなんか一切なく、すべてを受容してくれた。

何度もつながりを取り戻そうとしていたんだ。テーブルの上に置かれたお菓子のバスケットも、朝食として置いておいてくれた焼いたパンも、逃げてばかりの僕を懸命に呼び止めようとしたことも、みんなそうだ。これだけじゃない。僕の記憶の中に、父さんが手を差し伸べようとしてくれたことは、数え切れないほど思い当たった。

それを避けつづけていたのは、他ならぬ僕自身だった。僕は母さんを死なせてしまった、だから父さんは僕を疎んじている。言われたわけでもないのにそう思い込んで、関係を修復しようとする父さんの手を拒絶し続けていた。顔を合わせればきっと大きな罰を受ける。根拠もないのにそう信じ込んで、高く険しい壁を作って閉じこもっていた。

僕は高く険しく、けれど脆弱な心の壁の向こう側で、僕の抱えていた闇が晴れることを祈り続けていた。だけど、それはおかしなことだった。僕の抱えている闇を晴らすのは、結局僕自身にしかできないことだったからだ。僕が一歩前に歩み出て、自分を取り囲む壁を壊して、外に光を求めない限り、決して解決することはなかったんだ。

覚束ない手で壁を壊して、頼りない足取りで外へ出てくるのを――父さんは、ずっと待っていてくれたんだ。

ようやく涙が収まった僕が顔を上げる。そこには変わらず、かつてと変わらない父さんの顔があった。父さんが穏やかに微笑んで見せると、僕もつられて一緒に笑った。

「さあ、秀明。少し遅くなったが、夕飯にしようか。お腹も空いただろう」

「父さん、僕にも手伝わせてよ。足手まといにはならないよ」

「それは心強いな。じゃあ、一緒に作るのを手伝ってくれ」

僕と父さんが、連れ立ってキッチンへ向かう。

「長い間、二人で一人暮らしをしていたようなものだから、お互い家事は上達したな」

「そうだね。色々あったけど、それだけは良かったことかもね」

父さんの「二人で一人暮らし」という言葉に、僕はこれまでの父さんとの関係が壊れてしまっていたことを再認識すると同時に、今に至ってようやく元の形を取り戻せたということを改めて実感するのだった。

プレートに盛ったチキンステーキとサラダ、粉末の素をお湯で溶かして作ったポタージュスープ、父さんの炊くちょっと強い白ご飯。テーブルに配膳されたそれを、僕はぐるりと見回す。僕が野菜を切って洗って、父さんが鶏肉を焼いた。僕がやかんを火に掛けていた隣で、父さんが大きな手でお米を洗った。

これは、僕と父さんが二人で力を合わせて作った料理なんだ――ずっと躊躇っていた一歩を、僕は漸く踏み出すことができた。

久しぶりに二人で食卓を囲む。僕と父さんが、正面から向かい合う形になった。

「秀明。一つ、頼みごとがあるんだ」

「どうしたの、父さん」

「今度一緒に、母さんの墓参りへ行ってくれないか」

父さんが僕に持ちかけたのは、一緒に母さんのお墓参りをして欲しい、ということだった。そう言えば、もう随分長いこと行った記憶がない。僕が最後に墓地を訪れたのは、まだ僕が父さんと普通に接していた頃のことだ。もう四年以上も前のことだろうか。

「ずっとあんな調子だったんだ、母さんに『やっと仲直りができた』って報告しないとな」

その言葉を受けて、僕は迷わず頷く。なるほど、確かにその通りだ。母さんにはずっと心配の掛け通しだった。父さんと僕がちゃんと元の形に戻れたことを、きちんと言いに行かなきゃいけない。僕もその意見に賛成だった。

「それに……僕、母さんに言うよ」

そして、僕からも母さんに言いたいことがあった。

「――『僕を産んでくれて、ありがとう』、って」

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。